山岳一家
名古屋駅周辺を歩くのは初めてだ。今まで駅から百メートル以上離れたことがなかった。十分も歩けば高いビルは少なくなっていく。市民をして魅力無しと言わしめるのも頷ける。遊ぶようなところは少ない。
まあ、工業によって発展した街に遊びを求めるのが無理のあることなのかもしれない。
国策で新型の超高速列車を建設する計画があるが、それが敷設されれば俗に言う名古屋飛ばしは加速するかもしれない。
博多、広島、大阪、東京、仙台、札幌とどれも個性的で魅力を感じる都市であるのに名古屋だけはどこかの真似をしているという感が否めない。
名古屋人の実直さを個性ととらえるのもひとつの見方ではあるが。
しばらく歩くと、武家屋敷が立ち並ぶ通りに出た。
「古いな」
俺が町並みの事をいっているのだと分かったようで、
「そうですね、この辺りは運良く空襲を免れたので古い建物が残っているのです」
と綿貫は言った。
どれも立派な家だ。すると、前方にひときわ荘厳な建て構えの屋敷が見えてきた。
「あそこはすごいな。大名でもすんでいるのか」
綿貫は何も言わず顔を真っ赤にしている。
「どうした。熱でもあるのか」
「あの~、私の家です。あそこが」
「えっ」
……ちとでかすぎやしないか。
「綿貫庭園、観覧料小人二百円、大人五百円」
屋敷の前に来るとそう書かれた立て札があった。
「なんだこれは」
「うちの庭を公開しているのです。市の重要文化財に指定されていますから」
家の庭が文化財? なぜ医者の家が文化財になるのだろうか。俺はそこで日和見荘の店主が言っていたことを思い出した。
「華族というのは爵位を受けた家の事を言っていたのか。お前の家は公家か何かか」
「もともと武家でした」
「まさか大名じゃないよな」
「はい。ただの武家でした。ですので本当は士族になるはずでしたが、富国強兵に大きく貢献したということで爵位を授けられたのです。現行の憲法では華族は廃止されていますので今となっては一介の一般家庭ですよ」
一般家庭と言うには無理がある。この家の広さは恐らくドーム何個分とか言うレベルだ。この都会のど真ん中にである。
そこからは歴史の授業だった。こんな美人が教師だったら、いろいろ捗るだろうに。
いや、凡俗な男子諸君は、胸やら足やらに気を取られて勉強どころではないか。涎で教科書がベタベタになる可能性すらある。
この深山太郎は、美人の女教師の色香などに屈するわけがないが。女性に相手にされなさ過ぎて、もはや淡い希望など抱かないのだ。……理由が悲しい。
「私の家は江戸期に入って武士としての仕事がなくなったので、本家から離れた人が繊維業を始めたことに起源があります。綿貫という名字はその頃から使うようになりました。儲けの多くは養蚕によるところが多かったのですけれど。
ご存知のように日本は養蚕で莫大な利益を得ました。えっ日本史は得意じゃない? すみません。えっーと、とにかく儲けたんです。
そのうちに本家よりも家が大きくなっていってこの地に戻ってきたのです。
しかし太平洋戦争を迎え世は養蚕どころではなくなりました。戦後持ち直したこともあるのですが、今では化学繊維が台頭して、天然繊維の生産業は斜陽産業となっています。
それにしたがい私の家も没落するはずでした。ですが先々代、私の曾祖父ですが、先々代が新たな事業に着手したのです」
「それが病院経営か」
「はい、養蚕家の息子が医者になることに周囲は当初反対したようですが、繊維産業が傾きかけていたことは周知のことであったので最終的には許されたそうです。
私の家はもともと分家で、ただでさえ本家の人に蔑視されやすかったので、そのことをはねつけようと勤勉な人が多かったのも特徴です。
ですので武家であり養蚕家でもあった家の人間が医科学を極めようとするのにも理解を示したんだと思います。
病院でも経営の苦しいところはあるようですが私の家ではなんとかやりくりしてこうして先祖代々の土地と伝統を守っているのです」
俺はここまで聞いて、少しばかりこの綿貫さやかに同情する気持ちを覚えた。
なぜと思うかもしれない。金持ちの名家に生まれ何不自由なく生活する人間が同情に値するなど。
しかし俺はこの娘が背負っているものの大きさを見ると羨ましいとは思えなかったのである。
名家の伝統、それを守ることを余儀なくされていることの重圧やいかに。自分の家の事を他人行儀に淡々と説明する綿貫の様子はそんなことを俺に思わせた。
雄清は俺の考えを偏見というだろうか。言わないような気がした。金持ちが幸せであると言うことの方が偏見ではないか。
ボーッと突っ立っていた俺に綿貫は声をかけた。
「では行きましょうか。ようこそ我が家へ。庭を見ていかれますか」
「任せた」
思えば女子の家にあがるのは初めてのことだ。男の家でさえ入ったのは遠い過去の話である。よもや自室にはあげまいと思ったし、実際そうだったのだが、どうして緊張する。これでは逆に来なかったほうがよかったのではと思うが、いまさら遅い。
さらに悪いことに綿貫が食事の準備をしている間、綿貫の父親にお目にかかることになった。
綿貫の父親は、いかにも名家の主といった感じで威厳を持ち合わせてはいたが、どこか気さくな感じのする、初老の紳士といった人であった。
「いやぁ、さやかが家に男性を連れてくることになるとは、私も年を取るはずです」
この親父のっけからとんでもないことを言ってくれる。
「いえ、僕はそういうのではなくてですね、ただの部活仲間ですよ」
「ああ、これは失礼。あんなお転婆を押し付けられたんじゃたまったもんじゃないですな」
「いえ、そんなことはないですが」
親バカでないのは感心するが、反応に困るような事を言うのはやめてほしい。
「とすると君も山岳部員ですか。私は山はようやりませんがあの子の家族は皆山好きです」
この人は綿貫の父親じゃないのか?
「あのう、さやかさんとのご関係は?」
「おっと、失礼。自己紹介がまだでしたな。さやかは私の兄の子です。私は叔父の綿貫賢二と言います」
「さやかさんと一緒にすんでいるのですか」
それを聞くと、賢二さんは少し神妙な面持ちになった。
「……さやかは何も話していないのですね。まあ、あまり人にする話ではありません。君を家に連れてきたということは、それなりに君に対して好意を持っているのでしょう。私から話をしてもさやかは怒らないでしょうから、話しますね」
賢二さんが始めたのは、綿貫さやかの家族に関する、悲しい悲しい過去の話だった。
「あの子の父親は生粋の山男でした。山を愛していました。
同時に登山が危険であることもよく知っていました。兄はさやかが生まれてくる前に最後、北アルプスを登って危険なことは止めることを決めたのです。
その山は剣岳でした。標高二九九九メートル。なんとも中途半端な数字です。日本にも三千を越える山はいくつかありますが、兄はそこに決めたのです。
なぜかって?そこは難所だからですよ。日本で一番死者を出している山です。
こともあろうか兄は冬季単独登攀に臨みました。はっきりいって自殺行為ですよ。子供のいる人間のすることではありません。兄は帰ってきませんでした。今もです。さやかは父親の顔を知りません
さやかの母親は心労で亡くなりました。
私は彼らの二人の子供を引き取りました。さやかの兄の隆一とさやかです。私達夫婦には子供ができませんでした。だからというわけではないのですが、私は二人の子を実の子のように可愛がり育てました。
ですが隆一は医学科に進学し医師免許を取得した後、父親を捜しに山に行ったきり戻ってきませんでした。これは昨年の夏のことです。ただ隆一が家に帰ってくることを願うばかりです」
俺は言葉を失った。綿貫さやかは十五才にして三人の肉親を亡くしている。その悲痛は決して想像できるものではない。あいつはそんな悲しみをひた隠しにしていつも生活してきたのだろうか。俺は言葉を継ぐことができなかった。
綿貫が部屋へとやってきた。
「ご飯ができましたよ」
「ありがとうさやか」
綿貫はお盆の上に食事を載せて運んで来ていた。
あまりに衝撃的な話を聞いた後だったので、綿貫が作った南欧風の料理はうまかったのかもしれないが、俺は味をよく覚えていない。
賢二さんは綿貫とは今まで通り普通に接してほしいといった。なぜ俺に話したのかと聞くと、綿貫と関わる人間ならば知っておくべきだからといった。
だが俺はこういう事情を知っておくべきほど綿貫と親密な仲だとは思っていない。
やはり俺は家になど行くべきではなかったのだ。
綿貫は俺が帰るのを見送りに門の外までついてきた。
「昼飯ありがとな。……旨かったよ」
本当は味わえていないのだが、これくらいの嘘はついてもバチは当たらないだろう。
「喜んでもらえてよかったです」
「そうか」
綿貫が続けた。
「あの、深山さん。父が何か話したのですか」
心配そうな顔をしている。
「どうしてだ」
「食事中ずっと浮かない顔をしていらしたので」
「ちょっと考え事をしていたんだ」
「そうでしたか、きっと難しいことなんでしょうね」
確かに。
「あまり俺を買い被るな。身の丈以上の評価はストレスだ」
「ごめんなさい。でも深山さんは非凡な人だと思いますよ」
俺は何も言わなかった。
「またいらしてくださいね。父も喜びますから」
「それはわからんな」
「いいじゃないですか」
「出歩くのは好かんのだ」
「私が引っ張り出してあげますよ」
「それは大変だぞ」
「がんばります」
しばし沈黙する。綿貫は少し微笑んで
「ではまた学校で」
といった。
「ん」
俺は手をひらひらとさせて、綿貫邸を後にした。
その日は何も手がつかなかった。
年を同じくして肉親を三人も失っている人間がこの世にどれくらいいるだろうか。そんな考えが俺の頭から離れなかった。
俺がどれだけ考えても綿貫の気持ちは分からないだろう。俺でなくてもそうだ。もし分かるなんて奴がいたら、それは、おこがましさ以外の何物でもない。
そう思うと綿貫の叔父が、このことを話したのはやはり無意味だったのでは、と思えてくる。
月曜、例のごとく俺は部室で本を読んでいた。すると雄清がやって来た。
「やあ太郎どうだった」
開口一番なんだそれは。要領の得ん奴だ。俺は雄清の方を見た。
「何の話だ」
「デートだよ、デート、綿貫さんとのデート」
やはりこいつは謀をしていたのだ。
「仕組んだな、雄清。この好き者が」
「愛のキューピッドと呼んでくれよ。で、どうだったの」
「お前がキューピッドなら俺はゼウスだ。別に何にもなかった」
「太郎、ゼウスはギリシャ神話だろう」
俺の返事よりそっちが気になるらしい。ていうか、突っ込むところそこじゃないだろう。まあいい、話をそらすのにはちょうどいい。
「呼び方の問題だ。ゼウスもユピテルも中身は一緒さ」
「でも他の人が聞いたら太郎は間違えていると思うだろうよ。損じゃないかい」
「他人がどうみようと関係ない、だろう」
かつて雄清が言った言葉を、俺は返した。
「はは、違いないや」
綿貫がやってきた。
「こんにちは」
「やあ」
「おう」
「留奈さんの買い物はうまくいきましたか」
綿貫は雄清の方を見て尋ねる。
「まーね。綿貫さんはどうだったの」
俺は冷たい汗が背中をツーと流れるのを感じた。綿貫は話してしまうだろうか、昨日何があったのかを。
綿貫にしてみれば隠す必要のないことなのかもしれない。同等の生物だと思っていない俺と買い物をしたことに、どうして特別な意味があるのか、と。
どうか話さないでくれと念じていると、さらに悪いことに佐藤も部室にやってきた。
「やっほー。あー珍しいみんな揃っているじゃん」
俺はこいつも雄清の計画に十中八九噛んでいると見ている。だとしたらその馬鹿げた計画がどうなったのか気になるはずだ。
「で、こっちゃん、買い物どうだった。深山に変なことされなかった」
おい。
「そんなこと……。深山さんは優しく買い物に付き添ってくれましたよ」
「ふーん」
佐藤はつまらなそうにそういった。
結局、綿貫は俺が綿貫の家にあがったことを言わなかった。
帰り道、日曜に何もアクションを起こさなかった俺について(猿じゃないんだからそれが当たり前のはずだが)雄清曰はく、
「あまり期待していなかったけどほんとに何もないとはね」
と。佐藤曰はく、
「まあ、深山がへたれっていうのは良く分かったわ」
と。
随分な言われようだ。
「お前らなあ。俺がいつあんなことしろって頼んだ。俺はあいつのこと何とも思ってないんだぞ」
腹立たしげに声を上げる。
「ふんっ意地っ張り。あんたはへたれなだけよ」
「なんだお前、へたれとはなんだ。へたれとは。恩人に向かってへたれはひどいだろう」
俺はこの前こいつの八十万円騒動の件で手伝ってやったのだ。感謝されどもへたれといわれる筋合いはない。
「だから恩を返そうとしたんじゃない。人の気も知らないで」
「恩を仇で返すの間違いだろ。節介やきの井戸端女が」
「なによっ」
佐藤は分かりやすく憤慨する。
「まあまあ二人とも落ち着いて。悪かったよ太郎、もうやんないから」
「そうしていただけるとありがたいね」
ため息をつきながら思うのだった。なぜ人はこうも色事が好きなのだろうか。わからん。
こいつらは俺が昨日背負わされたものを知らない。暢気なものだ。
俺たち三人はしばらく歩き、雄清が再び口を開いた。
「ああ明日から考査期間かあ。まいっちゃうな」
「ほんと、範囲が広すぎるのよね。やっぱり高校は違うな」
んっ? 今なんと。
「何の範囲だ」
「考査範囲に決まってるでしょ」
こーさはんい?
「まさか、テストの事か」
佐藤はあきれ顔で、
「なにとぼけてんの」
雄清が続けて、
「太郎、今日のホームルームでも言ってたじゃないか。明日からテスト週間だって」
「あー」
言ってたかも。本を読んでいて上の空だった。
「人の話は聞かなきゃ駄目だよ」
「以後気を付ける」
「大丈夫だと思うけど、部活も禁止だからね」
「そうなのか」
「中学の時もそうだったじゃないか!」
さも驚いたかのように雄清はのたまふが、生憎こちとら、帰宅部であった。テストがあろうとなかろうと帰宅時間は変動しなかった。雄清もわかってるだろうに、嫌な奴だ。
すかさず佐藤が援護射撃をする。もちろん俺のではない。援護射撃と言うより追撃の方が正しいか。
「あんたってホント間抜けよね」
ぐぬぬ。
「まあ、なんやかんや言って太郎が一番できるんだろうけどね」
雄清の言葉にさらりと俺は返す。
「さあな、お前が俺より勉強したら、いい成績が取れる。それだけの事さ」
佐藤が口をはさむ。
「なんかむかつくんですけど」
お前に言ったわけじゃないのに。眼を飛ばしてくれるなよ。
それにしても、綿貫の家のこと、これから迎えるテストのこと、ああ高校生活はなんと楽しいことだらけなのだろう。
ほぅと俺は深くため息をつく。