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八十万人の諭吉

 俺は雄清に「女はうるさい」と言ったが女、特に綿貫に対するその評価は訂正せざるを得なかった。


 綿貫は決してうるさい女などではなかった。もちろん陰気であった訳でもない。しとやかでただひたすらに礼儀正しいのである。つまり金持ちは性格が悪いという考えもこいつに関しては間違っていたのだ。


 そういう人間だったから、俺にとってこいつのいる山岳部の部室は相当に心地の良い場所となっていた。授業が終われば綿貫のいる部室に行くというのが俺の生活様式として定着しつつあった。


 あえて言うが、別に綿貫がいるから部室に行くというわけではない。

 綿貫から良いにおいがしてくるとか、かがんだ時に見える鎖骨にドキリとするだとか、彼女が足を組み替えた時に何か見えそうだとか、なんてことは一切考えていない。そもそも綿貫は足を組まない。健康的で非常によろしい。

 この深山太郎にハニートラップは通用しない。……多分。


 理由はただ一つ。放課後の学校という中において、平静の保たれた場所というのはとうといものなのだ。


 俺が本を読んでいれば綿貫はその隣で静かに勉強しているか、同様に本を読んでいるかしていた。


 ある日、俺は部室で文庫本を開いていた。綿貫もいる。俺は本の内容に熱中していたのだが、ふと視線をあげると綿貫が俺の事を見ていることに気がついた。


 ……。


 いくら朴念仁でもこう見つめられていたのでは気になる。綿貫は俺の事を見ているばかりで話しかけようとしない。

 ……気まずい。


 俺は観念して綿貫に話しかけた。

「何を見ている。俺の顔がそんなにおかしいか」

「いえっ、そんなことは。むしろ、その……いえっ何でもないです」

 綿貫はそういって目を伏せてしまう。俺は多少イライラしながら続けた。

「だったら何で見ている。気が散ってしょうがない」

「私たち山岳部ですよね」

 何、当たり前の事を。

「俺はそのつもりだが」

「なのにこうして手持ちぶさたに本を読んでいます」

 失敬な、手持ち無沙汰とは。

「俺は読みたくて読んでいるんだ」

 放課後の読書ほど、素晴らしい時間の過ごし方があろうか。

「すみません。その、つまりですね、もっと山岳部らしい活動をした方が良いと思うんです」

 いや、山岳部員として文学という一つの大きな山の上に立つことは……。そだねー山岳部らしくないねー。山岳小説を読むならまだしも。


 でもなあ、

「だが放課後に山を登るのは不可能だ。ここは濃尾平野だぞ」

 手近に山はないのである。行けども行けどもあるのは平地に広がる田ばかり。

「それは分かっています。ですけど私は山に明るくありません。深山さんもそうでしょう。ですので私は山の事について調べた方が良いのではと思ったのです」

 綿貫の言ったことを飲み込み少し考えてから

「高山植物について調べるとかか?」

 といった。

「それも良いですけど、まずは山に入る上での注意点や、必要な装備について学ぶのが先決かと思われます。ちょうど顧問の飯沼先生にこのような本を貸してもらっていたんです」


 そういって綿貫は「山の歩き方」という本を差し出した。そこには登山するときの心構えと装備一式についての説明が記述されていた。

「私はもう読み終わったので深山さんも読んでみてください。飯沼先生は部室に置いておいて良いとおっしゃったので読み終えたら部室に置いておいてください」

「わかった」

 俺は綿貫か受け取った本を鞄にしまい、文庫本の続きを読もうとする。


 だが、綿貫の話はまだ終わっていなかったようだ。

「ところで」

「何だ」

 ぶっきらぼうに答える。

「まだ登山靴は買われてないですよね。今度よかったら山本さんと一緒に三人でお買い物にいきませんか」

 俺はぱたんと本を閉じて綿貫のほうを見た。

 登山靴か。決して安いものではないだろう。一万円は下らないな。どうしても買わなくてはいけないものなのだろうか。

 そこで俺がスニーカーをはいて山に登るイメージが浮かんだ。次の瞬間、足を滑らせ奈落に落ちる絵も。……。

 仕方ないしばらく新刊は我慢しよう。

「わかった」

「では山本さんには私から伝えておきますね。休日にご予定はありますか」

「特にない」

「日程が決まり次第お知らせしますね」

 

 再び部室は静寂に包まれる。心地よい空間だ。

 だが俺はふとあることを思い出した。

 静かな世界は大好きだが、俺は別に人と話すのが苦痛でしょうがないというわけではない。むしろ気心の知れたやつとの会話ならば進んでする。だから綿貫に今しがた思い出したことについて話そうと思った。

「そういえば、綿貫は端末を持っているのか」

 綿貫は無口な俺から話しかけたのが、相当珍しかったようで、少し驚いた顔をしていたが、すぐに

「いえ、普通の携帯電話機も持っていないんです」

 とほほ笑んで答えた。……ちょっとかわいいと思っちゃったよ。


 こほん、げふん。

「そうなのか、俺もそうなんだが、昨日パソコンでSNSを見ていたのだが、うちの学校の生徒の投稿を見つけてな、それが」


 そんな折、雄清と同じく小学校から同じである佐藤留奈さとうるなが部室に飛び込んできた。

「いた!深山。ちょっと問題発生」

 佐藤は俺が山岳部に入ったことを知らなかったはずだ。だとすれば雄清が話したのだろう。

「俺のところに厄介ごとを持ち込むな」


 俺は冷たく突き放す。こいつを助けてやって俺が得したことは今まで一度もなかったからだ。やはり人を助けるのにはボランティア精神より、相互扶助の精神のほうが大事だな。人は社会的な生き物だ。人という字は人と人が支えあってできているのです。……片方(らく)しているけど。金八先生の嘘つき!

 俺は概して寄り掛かられるほうだな。正直者が馬鹿を見る、ここはそういう世界。かなしー。


 綿貫は佐藤が誰なのか気になるようだ。

「こちらはお友達ですか」

 と佐藤を見ている。

 友達か、そんな簡単なものであればよかったんだが、

「腐れ縁と言った方が適当だな。小、中と同じで高校にもついてきやがった、佐藤留奈だ。確かA組だったな」

 と説明した。なんとふさわしい紹介だろうか。

「別にあんたについてきた訳じゃないわよ。自惚れないでよね」

 さいですか。

 まあ、こいつが雄清のことしか見ていないのははたから見れば明らかなのだが。


 俺は佐藤に綿貫のことを紹介する。

「でこっちは綿貫さやか嬢だ」

 というと、

「ああ、あなたがさやかさんね。ゆうくんから聞いているわ。……なるほどねえ」

 と佐藤はじろじろと綿貫を見る。なめまわすように。


 雄清は何を言ったのだろうか。ろくなことでないのは確かだ。あいつもおしゃべりだな。佐藤に対してだけか? いっそもう結婚すればいいのに。

 佐藤の言葉に綿貫もきょとんとしている。


 だが今はそれより、

「でお前は何か用があったんだろう」

 といやいやながら話を戻した。


 こいつはすっぽんだ。こいつがやれと言ったら絶対俺がやるまで放してくれない。不本意だが話を聞くしかないだろう。

「ああそうだった。今日遠足費の集金日だったんだけど、私遠足係だったからお金集める必要があったのよ。えっ、出さない奴がいたのかって。いえ違うわ、みんなちゃんと出したわよ。そこまでは問題が無かったんだけど、無くしちゃいけないと思ってロッカーに入れて鍵をかけておいたの。そして職員室に持っていこうとして放課後ロッカーを開けたら遠足費が無くなっていたの」

「ふむ、いくらだ」

「八十万円」

「おぅ」


 とても一高校生がどうにかできる金額ではない。それを無くしてしまったのか。佐藤がすさまじい勢いで部室に飛び込んできた理由もわかる。


「どうしよう。もし見つからなかったら私みんなに会わす顔がないわ」

 佐藤は本当に困った様子でそういう。

 佐藤留奈という女はなかなか人前で弱音を吐くようなことをしない。俺という人間の前ではなおさらだ。


 佐藤にとって、俺のような人間は、怠惰たいだの権化で、ひたすらに忌むべき存在。関わることすら恥のように感じている。

 俺が幼馴染である、という事実を隠そうと躍起になるほどだ。

 彼女にって俺に弱みを晒すことは最も忌むべき行為なのだろう。

 そんな彼女が、俺に弱っている自分を見せているということは、本当に弱っているらしい。

 腐っても旧知の仲。俺は彼女を助けるべきというのが一般的見解だ。

 だがなあ。


 俺はこの問題に首を突っ込むべきなのか。

 もし金が見つからなかったとき、すみませんでした、では到底すまされないだろう。俺は首を突っ込む以上その行為に責任を持つべきだと考えている。そうでなければただの野次馬と大差ない。


 九年間同じ学舎まなびやにいたが、俺はこいつにさして情を抱いていない。助ける義理はない。今ここで逃げてしまえばいくら佐藤でも追ってこんだろう。そう考えていると、

「ちょっと深山聞いてんの」

 と佐藤は目を吊り上げた。

「腹が痛い、帰る」

 俺は捕まる前にそそくさと逃げようとする。すると腕を捕まれた。佐藤にではなく、綿貫にである。

「深山さん、助けてあげましょうよ。情けは人のためならずですよ」

 はあ、このお嬢様はどこまで聖人なんだよ。St.綿貫。五百年後ぐらいには新新新約聖書に名前が載っていて、世界中の一神教の信者の知るところとなっているかもしれない。


 その聖女様に向かって俺は口答えする。

 神よ落とせるなら落としてみよ。怒りの鉄槌てっついを。

「損得云々よりまず俺が役に立つとは思えんのだが。そもそもなんで佐藤は俺のところに来たんだ」

「僕が助言したんだよ」

 雄清だ。いつの間にか部室に来ていたらしい。

「何故に」

 俺は雑用係じゃないぞ。まったく。

「太郎はみんなが解決できないことを解決する。小学校の時からそうだったじゃないか」

 こいつは何か勘違いしていないか。たった一人の親友でさえ自分を理解していないとは。

 俺は少し残念に思いつつ、

「俺はませてただけだ。俺は魔術師じゃない。消えたものを取り戻すことはできない。そもそもこれは警察の問題だろう」

 といった。

「深山さん、そんなこと言わずに見るだけ見てみましょうよ」

 お嬢様。いくらあなたがお願しようと、お願しようと……。

 そんな目で見るなよ。

 雄清も佐藤も。

 ……


 三人の目が俺を捉えている。逃げ場なし、深山太郎。

「……わかったよ。見るだけだぞ」

 俺は溜息をきたい気分だった。


 四人で佐藤の教室に向かう。まったく珍妙な一行だ。

 部室棟から出て、本館に向かい階段を上がって、佐藤の教室に着いた。


 教室には誰もおらず、俺は教室の後ろにあったロッカーに目をやった。

「ロッカーというのは教室の後ろのやつか」

 佐藤に向かって尋ねる。

「ええ、三十五番よ」

 近づいて見てみる。

 見ると南京錠はついていない。

「錠はどうした」

「私が持ってる。ほら」


 俺は佐藤から南京錠を受けとり、調べてみた。特に変わったところのない普通の錠である。

「これの鍵はかけたあとずっと持っていたのか」

 俺は錠をくるくる回し、眺めながら佐藤に聞いた。

「ええ、肌身離さず」


 三五番のロッカーを開けてみる。広さはおよそ四〇センチメートル四方の立方体だ。手を下に置いて力を加えるとかたかたと音がなった。

 俺は少し思案するようにしてから、

「このロッカーには他に何もいれてなかったのか」

 と聞いた。

「お金だけよ」

「金をいれるのを見ていたやつは」

「まさか盗られると思ってなかったから特に注意を払ってなかったわよ」

 それは至極もっともだ。なにもしていないクラスメートを疑う方がおかしい。


 三五番の下の三六番のロッカーを開けてみる。物がごちゃごちゃと入り交じっている。手を突っ込んでみる。中にあるものを少し探ってみる。

 確認し終えると、俺はじっと考えた。

「さすがの太郎も降参かい」

 雄清の言葉を遮り、俺は訪ねた。

「下校時刻まで何分だ」

 雄清は腕時計を見て「あと二十分だ」と答えた。

 俺は教室を出て階段の踊り場で止まった。

「どうしたんだ。太郎」

「少し静かにしてくれ」

 俺は頭の中を整理していた。鍵のかかったロッカーから消えた八十万。クラス四〇人の衆人環視のもと、誰にも疑われずに金を動かす方法と、犯人像について。


 ああ、そうか。

 雄清が俺の表情を見て、言った。

「何かわかったんだね」

「まあな」

「それと、佐藤。聞きたいことがあるんだが」

「何」

「三六番のロッカーの使用者についてだ」

 そういった時、佐藤は少し驚いた顔をした。



 

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