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極秘任務

 お盆の一週間前。学校の物理の授業にて。

「いいですか。これはΦファイと読むんです。分かりましたか山本君?」

「ふぁーい」

 しばしの沈黙の後、忍び笑いが聞こえる。物理教師は「さすが分かってらっしゃる」と嬉しそうに言っている。

 雄清は時たま、無駄なところで教師と完璧な連携を見せる。仕込んでいるのではないかと疑うほどに。

 友人である俺としては、勉学そのものに力を入れてほしいのだが。


 世の高校生は夏休みを謳歌おうかしているだろうか。物理の授業を受けながら、教室の隅で俺はそんなことを考えていた。

 夏休みの前期補習はお盆の一週間前まで続き、神宮かみのみや高校の生徒が、真なる意味で、休みを迎えるのは、終業式のずっとあとだった。つまり今日やっとだ。

 最後の授業が終わり、俺は早急さっきゅうに家に帰った。綿貫との小旅行の出発日は今日だ。着替えてから、あらかじめ詰めておいた、鞄をもって家を出た。

 綿貫とは名古屋駅で合流する。


 在来線のホームから降りて、一番奥にある新幹線乗り場へと向かう。

 

 新幹線の改札口の前に、衆目を引く美少女がいるかと思えば、その女、綿貫さやかだ。

 綿貫は白と黄緑色のワンピースに麦わらという、季節感あふれる格好をしていた。

「深山さん、こんにちは」

「おう。迷わなかったみたいだな」

 俺はこの間、高橋家に行くのに、苦労していた綿貫を思い出し、言った。

「もう、馬鹿にしすぎですよ」

 むー、と綿貫は頬を膨らましたが、言葉とは裏腹に怒っているようには見えない。


 それから二人して、新幹線のホームへと向かう。

 

 高校生が、それも男女二人が一泊二日の旅行。尋常ではない。なぜか知らぬが、この女、綿貫さやかは俺のことを心底、信頼していて、保護者であるこいつの叔父も、是非にと頼むので仕方なく同行する次第である。このようなスキャンダラスな行為は軟派とはかけ離れた存在であるところの俺が、本来であれば、決してするところのものではない。綿貫が主人であり、俺が従者なのだと考えなければ、まともではいられなかった。

 さすがに、というか、当たり前ではあるが、泊まる部屋は別である。そうでなかったら俺は廊下ででも寝ただろう。親しくないとは言わないが、家族ではない女と一緒の部屋に寝るなど、死んでもできない。

 誰かに、会うんじゃないかと、びくびくしている俺であったが、電車の席で隣に座る綿貫は至極楽しそうである。

「お前、楽しそうだな」

「はい。旅行って楽しくないですか?」

 うーむ。これは楽しみにいくような旅行じゃないはずなんだがな。俺が微妙な顔をしている横で綿貫ははしゃいでいる。

「深山さん!見てください。牧場に牛さんがいっぱいいますよ」

 牛さんて……。

「そうだな」

 と適当に相槌を打っておく。以前の俺であれば、牧場に牛がいるのは当たり前だろうと皮肉を言っただろうが、俺とて、成長しているのである。はしゃぐ部活仲間をそっとしておくぐらいには。

 

 四時間ほど、電車を乗り継いでは、揺られに揺られ、いい加減くたびれる頃になって、最終の駅に着いた。

 それからバスに乗り、北岳の麓の旅館に向かう。

 受付での手続きは綿貫が済ませてくれた。


 綿貫から鍵を受け取り、荷物をもって部屋へと向かう。綿貫は隣の部屋だ。

 綿貫が戸を叩き、

「深山さん、ごはんまでまだ時間があるので先にお風呂に入りましょう」

 と言った。

 どうせ、浴場は別なのだから、一緒に行く必要もないのだが、綿貫の言うままに、風呂へと向かう。

「ところで、お風呂ってどちらにあるのでしょうか?」

 俺が知るわけがない。

「フロントで聞こう」

 そうですねと綿貫は返す。

 二人で受付まで歩いて行った。

「すみません、お風呂場ってどちらにありますか?」

 と綿貫が尋ねたところ、

「館内にあるお風呂と、露天風呂とがあります。露天風呂は男女共用となっております。今日はお客様が少ないのでどちらもごゆっくりと、ご入浴していただけると思います」

 と受付の人は答えた。

「ですって、深山さん。どうします?」

 どうします、ではない。

「あのな、綿貫。お前には貞操観念ていそうかんねんってもんがないのか?」

 俺は半ば呆れるような様子で綿貫に行った。

「どういうことですか」

 もちろん言葉の意味は知っているのだろうが、綿貫は俺の意図することがわからないというのである。

「俺とお前とで、混浴なんぞに行くべきじゃないって言っているんだよ」

「そうなんでしょうか?」

「そうなんです」

 お嬢様はちと、常識に欠ける節がある。なるほど一人じゃ旅に出せないわけだ。

「分かりました。……館内のお風呂にします。どちらですか?」


 仲居に教えてもらい、大浴場へと向かった。

「ではまたあとで。……四十分後でいいですか?」

「ん」

 風呂は結構広かった。言っていたとおり客は少なく、足を思いっきり延ばして湯船につかることが出来た。さすがに、坊ちゃんよろしく泳ぐような真似はしなかったが。 


 俺は少し早めに出たが、綿貫はきっかり四十分で出てきた。俺と同じく備え付けの浴衣を着ている。

 綿貫の湿った髪の毛と、上気した肌を見てなんだかなまめかしさを感じる。決してガードの堅いわけではない浴衣の、首元が目に入り、慌てて目をそらす。

「お待たせしました。行きましょうか」

 綿貫は俺のそんな様子などつゆ知らず。

 

 部屋へと戻る途中に、土産物屋のようなところがあることに気が付いた。来るときは風呂につくことで一所懸命になっていて気が付かなかったのだ。

「ここ売店ですね。いろいろなものが売ってあります」

 綿貫が言うように、土産だけではなく飲み物や酒のつまみなど、滞在中の客のための品物も置いてあった。

「深山さん、これなんですか?」

 綿貫の指差す先には、「高麗人参、マカ、ムイラプアマ」というポップ広告が付いた、栄養ドリンクが陳列してあった。商品名は「タイタン」。巨人神族の名を冠するとはさぞかし効き目があるのだろう。ムイラプアマっていうのはよくわからないが、マカと高麗人参とにどういう効果があるのかは何となく知っている。

「深山さん、聞いていますか?」

 何も言わない俺に対し、綿貫は言った。

 綿貫は本当に何も分かっていないのだろうか?

 栄養ドリンクの一種で、飲むと元気になる、と言って、適当にごまかしておいた。別に間違ったことは言っていないだろう。

 綿貫は「そうなんですか。こういうものもあるんですね」と妙に感心したようだった。

 

 部屋の前に来て、別れようとしたところ、綿貫が思い出したように、

「お料理は私の部屋に運んでもらうことになっているので、部屋に来てください」

 と言った。

「分かった荷物を置いたら行くよ」


 その後、綿貫の部屋へと入って、しばらく話をした。

「あと十分くらいですね」

「そうか」

「ここはいいところですね」

「そうだな」

「深山さんは旅行したりするんですか」

「あんまり」

「私もです。私の家は皆忙しいので、なかなか旅行をするのは難しいですね。今日はこういう機会があって本当に良かったです」

 何が目的か忘れていないか、このお嬢様は。綿貫は続ける。

「旅というものはいいものですね。特に親しい人とするのは格別です」

 まあ、あまり親しくない人間と旅をするというのもおかしな話ではあるが。

 ……綿貫が俺のことを親しい人間だとみなしているのは、少し照れ臭かった。

 そうこうしているうちに、仲居が料理を運んできた。  

 なかなか豪勢な料理だ。旦那様は何かお礼がしたいと言ってはいたが、このような良い旅館に泊めさせてくれた上で、ご馳走までいただくのだから、付き添いの対価としては十分すぎるように思えた。

 仲居がさがって、俺たちは料理を食べ始めた。

「うーん、美味」

「おいしいですね」

 主菜のすき焼きはさらなり、白米も普段食べているものとは全く違うもののように思えた。


 食事がひと段落したところで、綿貫がふとした感じで言った。

「なんだか、新婚旅行をしているみたいですね」

 俺は思わず飲んでいた水を吹き出すところだった。

「馬鹿言ってんじゃない。むせたじゃないか」

 俺は口をぬぐいながら責めるように言った。

「すみません」

 まったく、この令嬢ときたら。


 食事に舌鼓を打った後、俺は部屋へと戻り、手持ち無沙汰にテレビをつけた。

 普段面白いと思わないテレビ番組に、旅先だからと言って、心動かされるわけもなく、つまらないのですぐに消した。まだ八時前だ。寝るには少し早い。本でも読もうかと、考えていたところ、綿貫が来て、「深山さん、入ってもいいですか?」

 と戸を叩いてから言った。承諾し、綿貫が部屋へと入ってくる。

「失礼します」

「何か用か?」

「何かしません?少し退屈です」

 綿貫も俺と同じ状態だったようだ。だが、

「二人で何かするといってもなあ」

 トランプもなければ、当然ゲーム機も持ち合わせていない。その上、口下手な俺である、慰みに面白い話をすることもできない。

「お散歩しましょうよ」

 そう来るか……。

 まあいいか、どうせ暇だ。外は涼しいし。

「分かった」

 財布だけ袖に入れて、部屋を出た。


 真夏であるのに、北岳から降りてくる冷気によって外は少し寒いくらいにひんやりしていた。

「こっちは涼しいんですね」

 綿貫も同じことを思ったらしくそう言った。

「まあ、標高も高いしな」 

 無言でしばらく歩いてゆく。今日は新月なのだろうか。晴れてはいるがあたりは真っ暗だ。

 番頭さんに散歩に行くといったら、提灯型のライトを貸してくれたので、その明かりを頼りに歩いている。

 唐突に綿貫が口を開いた。

「深山さんって、将来の夢とかありますか?」

「今のところはないな」

「そうですか」

 俺から話を振らないと悪い気がしたので、

「お前は医者か?」

 と言った。

「……そうですね。たぶんそうなるだろうと思います」

 言い切るところがまたすごいな。まあ、綿貫はこれで学年でもトップレベルの成績らしいから、おそらく医学部にも行けるんだろうが。

 だが、本当に驚いたのは次の発言だった。

「もし、そうでなかったら、私が医師と結婚する限り何をやっても良いと言われていますが」 

「あの叔父さんが?」

「いえ、祖父です」

 言葉に詰まる。これが俺と綿貫との差だ。生きている世界が違うのだ。彼女のことをかわいそうと思うのも俺はしてはいけない気がした。そんな、ありふれた、単純な言葉で片付けてしまうことを、傲慢なことと思った。

 俺と綿貫とでは住む世界が違って、本来であれば俺など綿貫から見れば取るに足らない存在なのだ。かわいそう、などと彼女のことを同等に、いや下に見るような発言を俺がしていいはずがない。

 俺は彼ら一家の事情を何も知らないわけで、綿貫さやかという人間が背負っている重みを理解していない。そんな外野が彼女の家のことについて、意見を持つことは無礼千万である。出過ぎた行為である。

「深山さんどう思います?」

「どうって、ただ俺には想像できない世界だ」

 俺は思った通りのことを口にした。

「……私は、それが当たり前だと思って生きてきました。今もそうです。私は家のために生きなければなりません。私の終着点はそこなんです。

 だからこそ、私が生きる今の日々は、私にとってとても大事なものなんです。深山さんや瑠奈さんや山本さん、皆さんと楽しく送る高校生活の思い出は私にとってかけがえのない宝物です。私は今とても幸せですよ」

 綿貫はいずれ手放さなければならない今の生活をかみしめている。医師になること、結婚相手を制限されること。それは綿貫が心の底から望んでいることなのだろうか。 

 いや、違う。本当はもっと自由に生きたいと思っているはずなんだ。だから、俺にこんな話をするんだ。真意をおくびにも出さず、表面では何でもないように装ってはいるが、心底ではもがき、苦しんでいる。綿貫はそんな自分の気持ちに気づいてさえいないのかもしれない。

 俺には綿貫の気持ちがわかった。分かったからこそ、彼女に対し何を言っていいか分からなかった。下手な慰めをかけることが出来なかった。

 俺が黙っていたからか、

「すみません深山さん。こんな話つまらないですよね」

 と綿貫は言った。

「構わん。俺にできるのは、話し相手ぐらいだからな」

 綿貫が普段言いたくても言えないことをここでぶちまけるのは、いいことだ。曲がりなりにも俺が彼女の友人であるならば、喜んで彼女の吐き出すものを受け止めよう。


 しばらく、聞こえてきたのは、闇夜に響く俺たちの足音と、虫の音だけだったが、綿貫が再び口を開いて、

「いい考えが思いつきました」

 と言った。

「なんだ」

 と話を促すと、

「深山さんがお医者さんになって、私をもらってください」

 という。

 いい加減、こいつの冗談にも慣れてきた。

「笑える」

 二、三秒間が開いたが、綿貫はこう返した。

「よろこんでもらえてよかったです」

 あるいは、本気で言っているのかもしれなかった。だがそれは、こいつが俺のことを好いているからではない。綿貫が迫りくる隷属れいぞくの日々からの逃避手段として俺を利用するだけであって、別に俺でなければならない理由も必然性も存在しない。つまり、気心が知れたやつならば誰でも構わないのだ。

 従者はやる。話し相手にはなる。謎解きの手伝いはする。

 しかし、こいつの奴隷になる気は俺には毛頭ない。


 旅館に戻ってからは、眠気もやってきて、自分の部屋に入って、すぐに眠りに落ちてしまった。


 自然と目が覚めた。六時である。朝食は旅館の食事処でとることになっているが、少し早いだろう。荷物の整理をして、時間を潰すことにした。

 それでも時間が余ったので、本を読んでいた。朝から読書、まるで高等遊民である。 

 七時前、そろそろいい時分だ。綿貫を呼びに行く。

 俺は綿貫の部屋の前に立って、「綿貫、朝だぞ、起きているか?」と戸を叩きながら言ったが、反応がなかった。お嬢様は案外朝寝坊なのかもしれない。

 普段俺は、誰かに何かを強制するような人間ではないし、まして、女子に対して、何かを強いることなんてしない。だが、二人で行動している以上、時間は守ってもらわないと困る。迷ったが無理矢理起こすことにした。

 鍵がかかっているだろうと思ったが、ノブが回った。

 不用心だなと思いながら、そっと、中の様子をうかがうと、ふすまが閉じている。やはりまだ寝ているのだろう。

「綿貫、朝だ……」ガチャリと音がした。「ぞ……」

 横の洗面所に通じる扉から、綿貫が出てきたのである。浴衣は来ておらず、薄いパジャマのようなものを着ている。キャミソールにショートパンツ、というのか?俺はその露出の多さにどぎまぎする。

「あ、深山さんおはようございます。もしかして私のこと呼んでいましたか?すみません、シャワーを浴びていたので気が付きませんでした」

 綿貫はまったく怒る様子もなければ、恥じる様子もない。平然としている。だが俺はその肌が多く見えている服装をした綿貫を前にしてとても、平常ではいられなかった。

「それより、早く上に何か着ろよ」

「どうしてですか?」

 ……こいつはもしかすると俺のことを男だと思っていないんじゃないのだろうか。

「他人に見せるような格好じゃないだろ」

「深山さんは他人じゃないですよ。旅の連れです。確かに人前に出られる格好ではないですが、旅の連れに見せられないというほどでもないですよね」

「いいから、早く着ろよ。俺が目のやり場に困るんだ」

「わかりましたよ、もう」

 

 綿貫さやかは危ない女。

 連れが、硬派であるこの俺でなければ、確実に毒牙にかかっていただろう。その点では、こいつの叔父の判断は正しかったといえる。選ばれた俺としては甚だ迷惑な話であるが。


 朝食を取ったのち、この旅の最重要事項である、高橋雅英の慰霊碑へと向かう。

 石碑は登山道から歩いて三十分ほどのやや開けたところにあるらしい。事故現場から、大分離れたところにあるように思えるが、高山での作業はなかなか難しいものがあるから、そういう都合があるのだろう。綿貫は昨日の軽装とは取って代わって、しっかりとした、登山用の服装をしていた。

 熊よけの鈴の音を聞いて、三十分。石碑のある場所までやってきた。

『慰霊碑 

 平成〇年北岳遭難事故被害者に寄せて 

 すべての岳人の哀悼の意と、二度とこのような事件が起きないよう徹頭徹尾努力する気概とをここに示す。故人の魂に安寧のあらんことを』

「綿貫……」

 綿貫は黙祷もくとうしていた。俺もならう。

 高橋雅英は死の直前どのような景色を見ていたのだろうか?俺と同い年の人間が自らザイルを切って死んだ。そんな最大の自己犠牲が果たして俺にできるだろうか。十六歳、夢も希望もあったはずだ。友は救えたとしても、さぞ無念だったに違いない。

  

 近くにトイレがあったので、綿貫は用を足しに行った。

 綿貫を待つ間、大きなザックを背負った若い男が通った。知らなくても挨拶をするのが山のルールである。その人は俺に声をかけてきた。

「大学生ですか?」

 彼は大柄で、服の上からでもわかるくらいに屈強な体つきをしていた。それでいて、かなりの美男子である。

 俺はまた一つ、嘘を知った。 

 誰だ、神は二物を与えない、とか言ったのは。

「いえ高校生です」

 諸々の思いを殺して答えた。

「だったら僕のほうが年上だな」その人はポツリと小さな声でつぶやく。それから、「随分軽装だけど、ピークに行くつもりかい?トレラン?」

 と俺の格好を見ながら言った。慰霊碑を見ることが目的であったので、俺は必要最低限の用具しか持ってきていなかった。

「いえ、今日はあの石碑を見に来ただけですから」

 と俺は答えた。

「……ふーん。物好きがいたもんだねえ……」

「かもしれませんね。あなたはテント泊ですか?すごい荷物ですけど」

「ああこれ。これね、上のロッジに運ぶ品だよ。バイトさ。小遣い稼ぎと登山が一度にできてええやろ」

 それはまた随分と健脚である。それから

「僕も久々に来たから、彼に挨拶でもしておこうかな。花はないけれども」

 と言って、石碑の前で手を合わせた。

 しばらくして、「じゃあ僕は行くよ」と彼は言った。

「お気をつけて」

「君もね。単独行はいろいろ危険だからね。まあ、僕もなんだけど。お互い新聞には載らないことを祈るよ。慰霊碑は一つで十分だ。気を付けてかえりゃーよ」

 何となく西日本出身者の話し方をしていることには気が付いていたが、どうやら、尾張出身の人らしい。

「そうですね」

 連れがいることは、まあ、いうことでもないだろう。


 その後、特に問題が起こることもなく、旅館に戻った。

 今日宿泊し、明日、帰りの電車を途中下車して、鳳来寺山に行くことになっている(例の部誌のための調査登山だ)。俺は一泊だけして、今日の午後にでも行こうと思っていたのだが、綿貫の叔父さんが一日で二つも山に登るのは危ないと言って、スケジュールに余裕を持たせるように諭したのだ。娘を思いやるのと同然の気持ちなので、俺は素直に従うことにした。

 

 今後の日程の確認のため、俺は綿貫の部屋に行った。

 荷物を置いて立ち尽くしている綿貫。様子がおかしい。

「おい、大丈夫か」

 と声をかける。

「少し、頭痛がします」

 綿貫は左手で頭を押さえている。

 見ると、彼女の顔は赤くなっていた。日に焼けた感じではない。熱があるんじゃないかと、話しかけようとしたところ、綿貫は倒れた。

「おい、大丈夫か」

 さっきと同じ台詞だが、こんどはもっと切羽詰まった感じで言った。

 そっとかかえ起こす。体がとても熱い。それなのに発汗が見られない。

「くそっ、熱中症だ。ちょっと待ってろ」

 俺は走って、旅館の売店へと向かった。

 水を数本と、スポーツドリンクを買った。すぐに部屋に戻り、スポーツドリンクを綿貫に飲ませる。だがそれだけでは不十分だ。体の熱を効率よく逃がすためには、綿貫が来ている服を脱がせなければならない。きっちりとした登山の格好をしていることが仇となった。

 気絶している女の服を脱がせることなど、俺の信条に反する行為だ。だが俺がこいつの叔父に頼まれたのはこいつのお守りだ。そして何より、ためらうと命が危ない。俺の信条や綿貫の羞恥心よりまず、綿貫の命を守ることが先決である。 

 覚悟を決めてからの行動は早かった。

 綿貫のティーシャツとズボンを脱がせ、脇下に水を挟んだ。それから熱がうまく逃げるようにうちわで煽ってやった。綿貫がポシェットに消毒用のエタノールを入れていたことを思い出し、鞄の横に置いてあった、彼女のポシェットからエタノールを取り出して、タオルに染み込ませて、彼女の体を拭った。

 煽いでは、エタノールで拭く、というのを何回も何回も繰り返した。


「……深山さん」

 綿貫が目を覚ました。ずっとうちわで煽いでいたので、俺は手が痛くなっている。

「よかった。目が覚めたか」

「私、どうして寝ているんですか?」

「熱中症で倒れたんだ。旅館の人に頼んで、医者を呼んで診てもらったから、大丈夫だ。安静にしてろってさ。これ飲め」

 そういって、俺はスポーツドリンクを飲ませた。

 綿貫はスポーツドリンクを口に含んでから尋ねた。

「この格好……、私が無意識に脱いだというわけではありませんよね。お医者さんが?」

「いや、すまん、俺が脱がせた。決して気絶しているのをいいことに……」

 と言ったところで、綿貫が遮るように、

「わかっています。熱を逃がすのに、これよりいい方法はないと思います。それに、深山さんは私にいたずらをするような人ではないことは知っていますから」

 と言った。綿貫が話の分かるやつでよかった。そう、俺は女にいたずらしない。

「もう大丈夫か?」

「頭が少しガンガンします」

 そう言って、頭を手で押さえている。

「そうか。まだ寝といたほうがよさそうだな」

「あの……深山さん」

「なんだ」

「お医者さんというのはどういう方でしたか?」

 ああ。綿貫は自分の下着姿を見られたことを気にしているのだ。

「安心しろ、女の人だったよ」

 そういうと綿貫はほっとした様子だった。いくら医者とはいえ男に下着を見られるのは気が進まないのだろう。現在進行形で俺は綿貫の下着を見てしまっているわけだが。やっぱりこいつは俺のことを男扱いしてないようだと思いながら、

「俺がお前にやった処置を見て、褒めてくれたよ」

 と付け加えた。

「そうですか」

「学校の講習に出といてよかったな」

 俺は夏休み前に、部活動総会で熱中症対策の講習のことを思い出しながら言った。

「服着たらどうだ」

 綿貫が気絶しているときはそれほど気にならなかったが、さすがに、いつまでも下着姿でいられると、意識してしまう。

「いえ、まだ火照っているので、しばらくこのままでいます。今更服を着ても、深山さんにはばっちり見られてしまっているわけだし」

 と俺のほうを見て、少し笑い、はにかみながら言う。

 別にまじまじ見てはいないんだが。

「じゃあ、俺はあっち行くから。何かあったら、呼べよ。内線使えるから」

 そういって、立ち上がりかけたところ、

「まってください」

 足首をつかまれた。

「もう少し、そばにいてくれませんか」

「煽いでろってか?」

 そういうと、こくんと頷いた。

「しょうがないな。お前のわがままに付き合うのも今日だけだぞ」

「深山さんいつも付き合ってくれるじゃないですか」

「そんだけしゃべられるなら、もう大丈夫だな。お大事に。バイバイ」

「待ってください! 冗談です。嘘です。行かないでください」

 余計なことを言わなければいいのに。


 今日分かったことがある。俺か綿貫には(多分綿貫に)疫病神やくびょうがみがついているらしいこと。

 


 

  



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