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夏休みは来るけれども

 神宮かみのみや高校にも夏休みが訪れる。酷暑こくしょとも言える暑さの中、全校生徒を集め、体育館で終業式が執り行われた。

 終業式、終了後、「熱中症注意喚起」の会が開かれた。その会の最中に、複数人体調を崩したのを見るに、注意事項に猛暑での全校集会禁止の項目を付け加えるべきだと思う。

 何はともあれ、一学期は終了したわけなのだが、悲しいかな、授業が終わることにはならない。終業式が終わった日の午後から補習という名の授業が行われるのだから、先の集会はもはやハラスメントとしか言えない。

 まあ、三年間の授業カリキュラムで中高一貫校と渡り合うためには仕方ないことなのかもしれないが。


 授業終了後、俺は山岳部の部室へと向かった。

 俺はしばらく部室でボーッとしていた。おそらく今日は雄清も佐藤も来ないだろう。雄清は委員会があるし、まだ体調も本調子ではないはずだ(実際、集会中、途中退場している)。佐藤は昨日の山行で疲れがたまっているといって、来ないだろう。綿貫は昨日の様子から見るにしばらくはまともに歩くこともできなさそうだ。

「今日は一人か」

 一人だと、エンジンがかかるのに時間がかかる。猛暑の中でランニングをするという愚行に好んで臨むほど俺はマゾではない。

 いっそのこと、帰ってしまおうか、そんな考えが頭をよぎった頃、がらりと戸が開いた。

「こんにちは、深山さん」

 綿貫である。足には包帯が巻いてある。部活はできそうもないのになぜ四階まで上がってくるのか。綿貫とはつくづく分からない女である。

「おう。足はどうだった」

「捻挫みたいです。骨に異状はありません。でもしばらく運動はお休みですね。

 叔父が感激しておりました。深山さんが私をおぶってくださったこと。

 私からも重ねてお礼申し上げます。本当にありがとうございました」

 綿貫は深々と頭を下げた。俺は照れくさくなって、

「もう礼はいい。こっちにその気はないのに、恩着せがましくしているみたいだ」

「でも、私の感謝の念はこれくらいでは表現しきれないですよ。また今度、家にいらして、お食事でもどうですか?」

「気が向いたらな」

「はい」

 綿貫はにっこりと笑う。

 不思議だ。さっきまでだるくてなにもする気が起きなかったのに、今では走ろうかという気持ちになっている。

 元来一人でいることが多かったが、人間は社会的動物だという文句に漏れることなく、俺も人との交流を心底で欲しているのかもしれない。

「ところで深山さん」

「なんだ」

「二週間後の土日って空いていますか?」

 俺はスケジュールを思い浮かべた。平日は授業でつまっているが(夏休みなのに!)土日は特に予定はない。

「空いてるが」

「よかった。一緒に北岳にいきませんか?」

「はい?」

「ですから、北岳に」

「……あのな、捻挫した足でどうやって山に登るって言うんだよ」

「父は三日もすれば大分よくなるといっていましたし、二週間もあれば完治すると思います。今も包帯は巻いていますけど、歩く分には問題ないです」

 昨日は立つことすらままならなかった、少女の自己治癒力には呆れさえした。

 俺はため息をついて、尋ねる。

「で、それは部活なのか?」

「いえ、私的な小旅行です。北岳に行くと言っても、ほとんど登山はしません。例の石碑を見に行くだけですから」

「無理だ。何人も知らん人間がいるなかでの旅行なんて息苦しくてたまったもんじゃない」

「あのー、私と深山さんの二人だけで行こうと思っているんですけど」

「えっ」

 俺は自分の耳がおかしくなったと思った。だが幻聴ではなさそうだ。

「だったらなおさら駄目だろう」

「どうしてですか?」

 綿貫はキョトンとした顔をする。こいつには常識がないのか。恋人同士ですらない、いやそもそも高校生の男女が二人きりで旅行なんて道徳的によろしくない。周りに不純異性交遊と叫ばれること必至である。もちろん俺はそんな真似はゆめゆめしないが。

「あのな、お前の叔父さんが許すわけないだろ」

「えっと、その叔父が深山さんと一緒でなきゃ行ってはいけないと言うんです。あいにくその日は家のものが皆忙しくて、私に付き合える者がいないんです。でも私一人で行くのは駄目だと言うんですよ」

 なんて保護者だ。確かに女子高生一人を旅行に行かせたくない気持ちは分かるが、よりによって付き人に男子高校生を選ぶとは。場合によっては、というか、ほとんどの場合、より危険だろう。

 俺が何も言わないのを、承諾の印と受け取ったのか、綿貫は話を続けた。

「今日、このあと時間ありますか?家に来てほしいんです。旅行の件で叔父から話があるそうなので」

 当初の約束はすっかり頓挫してしまっている。俺はあくまで調査の極一部に手を貸すだけで、実際の調査は綿貫が行うはずだったのに。

 そう言って断ることもできるが、綿貫はたいそう悲しそうな顔をするだろう。それはなんか気が進まないな。

 全く俺はつくづくこいつに甘い。

 まああれだ、女の恨みは買うもんじゃないということだ。

「わかったよ」

「ありがとうございます」

 そうしてまた破顔はがんする。違うぞ、俺はこの顔が見たいから綿貫を手伝うんじゃない。

 だったらなんのためだ?という問いが頭に浮かんだが、答えは出なかった。

 

 昨日に続き、今日も綿貫邸を訪れることになるとは。そんな境遇を思って苦笑する。

 綿貫は、家の者が車で迎えに来るといったが、俺は歩く方がいいといった。学校の前で、お嬢様の家の車に俺が乗り込んだら、周りの奴にどう思われるか。

 それにしても、人生とは不可思議なものである。つい数ヵ月前までは、女子とは日常会話さえ、まともにしていなかったのに、今はこうして美少女といって差し支えない、綿貫さやかの隣を歩いている。

 人生塞翁が馬とはよくいったものだ。

 これが吉か凶かどちらなのかは判断しかねるが。

 しばらくぼーっと歩いていたのだが、気づくと、汗がつーと流れる綿貫のうなじを凝視していた。

 いかんと思い、視線をそらす。どうやら暑さで思考回路が馬鹿になっているらしい。綿貫の項を眺めたところで何かが起きるということはないのに。

 電車で名駅まで行き、上田の町を目指す。


 昨日と同じく、綿貫邸へは裏口より入った。見ると庭に立つ若いご婦人が庭木を眺めている。俺たちと同年代のように見える。

「綿貫、あの人は?」

 指を指したら失礼だと思ったので、顎で示した。

「あれは私の従姉いとこです。ひとつ年上で、神宮かみのみや高校の二年生ですよ。大阪出身なんですけど、綿貫家の習わしで、高校は神宮に通うことになっているんです」

 俺の知らない世界だな。名家のお子さまは大変でいらっしゃる。

 だが、大病院の御令嬢なんだから、お嬢様学校にいけばよいのに、わざわざ公立高校に通うっていうのは謎だ。それは綿貫さやかもそうなんだが。

 ぼーっと、していた俺に綿貫が声をかける。

「行きましょう。外は暑いですから」

「ああ」

 

 家の中に入ると、綿貫の叔父である賢二さんが、出迎えてくれた。今日は和装をしている。

「暑い中、呼び出してすまなかった。車を出すくらいなんともなかったのに」

「いえいえ、山を歩くのに比べたらこれくらい」

「そうかね。まあ、あがってくれ。着流しで出迎えてすまないが」

「お気になさらず。今日は暑いですから。……さやかさんも和装はされるのですか?」

「うむ。興味があるかね?」

「あっいえ、興味というほどでは」

「さやか、振り袖を着て、深山くんに見せてやりなさい」

「はい」

 綿貫はそういって、奥の方へと向かった。暑いのに悪いことをした。

 賢二さんと俺は応接間のような所に入った。すぐに家政婦さんがやって来て、お茶を置いてくれる。

 俺ははじめて見る家政婦さんに気をとられていたが、賢二さんが咳払いをして、話を始めた。

「昨日はさやかが本当に世話になった。暑いのに重いものを背負わせてしまってすまない」

「そんな。さやかさんはずいぶん軽かったですよ」

 まさか、はい、重かったですとなんて言えるわけがない。

「そうかね、さすがは男の子だな。して、深山くん。今日呼びつけたのはさやかの旅行のお供をしてもらうということだったけど、返事は可ということで良かったかな」

「……はい」

「ありがとう。本来ならば、私の家の中で処理しなければならないことなんだが、君に迷惑をかけて本当に申し訳ない。重ねて礼を言う。旅費はすべて私が持つよ」

「恐縮です」

「それで、昨日のこととあわせて何かお礼がしたいんだが何か欲しいものはないかね」

「お礼だなんて、ただで旅行させてもらうだけで十分ですよ」

「いやいや、侍と呼ばれた時代からもう百年以上経つが、義理もたてられなくなったんじゃ、先祖に顔向けができない。二週間後でいいから何か考えておいてくれ。何でも用意する」

「はあ、わかりました」

 何でもか、さやかさんをくれといったらくれるのだろうか。……別段欲しくもないが。

「聞いてもいいですか?」

「なんだね」

「どうして僕を信用してくださるのですか。お嬢さんのお供にするほど」

「それはさやかが君を信頼しているからだ。さやかは、こういう家柄で育ったことも影響していると思うが、あれでいて引っ込み思案でなかなか人を信頼しないんだ。そんなさやかが山岳部や君の事を楽しそうに話す。だから信頼できると思ったんだ。それにこう見えても私は医者でね、人を見る目はあるつもりだよ。君は誠実そうだ」

「なるほど。でももし……いえ、何でもありません」

 俺が誠実な人間であるかどうか、自分で判断する材料は持たないが、俺が変な気を起こさないであろうことは確かに断言できることだ。起きもしないことについてごちゃごちゃ、考えるのはやめよう。綿貫の保護者が俺を信用するというのだから、それでいいではないか。


「失礼します」

 綿貫が着付けを済ませ、部屋にやって来たようだ。俺は着物姿の綿貫を見るかと思うと幾分か緊張した。

 着ているものが違っているだけで、中身は俺の知る綿貫さやかであるのに。

 戸が静かに開かれ、正座をしている綿貫のお目見えとなった。

 綿貫は時代劇の登場人物や、あるいは旅館の仲居さんがするように音をたてずに、部屋の中へと入り、また静かに戸を閉める。俺はその洗練され、優雅な身のこなしにはっとした。

 髪を結い、赤を基調とする晴れ着に身を包んだ、綿貫を見て、端から見れば、さぞかし俺は間抜けな顔をしていたことだろう。幼馴染みをして朴念仁と言わしめる俺ではあるが、別に情趣を解さない訳ではない。美しいものは素直に美しいと感じる心は持っている。

 俺のこの目に写る、綿貫の着物姿は、俺が今まで見てきたどんなものよりも、美しいものであった。俺はそのときはじめて、見惚れるという言葉の意味を理解したのだ。

 あまりに俺が間抜けな顔をしていたのか、綿貫は俺の顔を見たとき、ふっと口元を緩めた。

 

 旅行の細かい日程は、後々に知らせるということであったので、俺は賢二さんに暇乞いをし、綿貫邸を去る。

 門まで、賢二さんに言いつけられた綿貫が俺を見送りに来た。

「いいんですか?夕食を召し上がっていかれなくて?」

「うん、また今度にする」

 綿貫は振り袖姿のままである。

 俺が軟派な男であれば、綿貫の着物姿を、「かわいいよ」とか、「似合っている」とかいって、誉めたであろうが、そんな気障な真似は、この深山太郎のするところのものではない。

「今回のことも、昨日のことも……」

「礼はいいっていったろ」

 綿貫が話し出そうとするのを遮り、俺はそう言った。

「そうでしたね、ではお気を付けてお帰りください」

 俺は返事をする代わりに、手をひらひらとさせて、名古屋駅の方へと向かった。


 夏の補習は、全員強制参加で、普段の授業と何ら変わりはない。授業がいつも通りならば、部活も然り。……だと思っていたんだが。


「文化祭です!」

 俺が部室で本を読んでいたところ、綿貫が部屋に入るなり、少し興奮したような声で言った。

 文化祭。うちの高校で九月の終わりに行われる、学校祭のことだとは予想がついたが、一応尋ねる。

「なんだいきなり。文化祭がどうした」

「神宮高校文化祭ですよ。私たちも山岳部として参加することになりました」

 ……俺たちは確か、運動部だったはずなんだが。綿貫はそんなことなど、意に介していないようである。

「知らなかった。登山というのは文化的行為だったのか。俺はてっきり、運動に近いと思っていたのだが」運動部に近いというより、むしろ、どんな運動部よりも体力的にはきついことをやっているとさえ思える。

 この皮肉が綿貫に通じるとは思わなかったが、言わずにはいられなかった。

 すると、一緒にいた雄清が代わりに答える。

「太郎の言いたいことはわかるよ。運動部が文化祭に出るのはおかしいって言いたいんだろう」

 言い方からすると、どうやら、雄清は事情を知っているようだ。

「おかしいじゃないか」

「まあ、そうかもしれないけど。先生に言われたんだよね、綿貫さん?」

「はい、そうなんです」

 俺にはこいつらが何をいっているのかさっぱりわからなかった。少し、イライラしながら、聞く。

「だから、俺たち山岳部が、文化祭で何をやるって言うんだよ」

「売るんです。文集を」

「そんなものどこにある」

 雄清が、やれやれと言いたげな顔で言った。

「今から書くに決まっているじゃないか」

 俺は説明を聞いてもなお、まだ訳がわからなかった。


 何度も、確認をし、ようやく理解したところでは、どうやら我々山岳部は、伝統的に文集を製作し、神宮高校文化祭に出品してきたらしい。顧問の飯沼先生が、その事を綿貫に伝え、綿貫はそれを承諾したわけだ。

 聞くところによると、文化祭という名を冠していても、参加団体は文化部に限られず、運動部も積極的に参加し、模擬店などを開くらしい。

 そこでわざわざ、文集製作を志すとは、大昔の山岳部には変人が多かったようだ。今もそうなのかもしれないが。

「面倒だな。断ればよかったのに」

「太郎も、伝統に逆らうことがより労力を要することだとわかるだろ」

 潰れかけの部活だったくせに、伝統だけは守りたいのか。飯沼先生も頑固である。

「分かってるよ。そのぐらいは。それで何を書くんだ」

「山についてです!」

 そこは山岳部らしくいくわけだな。

「山っていっても、なにかテーマがいるだろう。俺たちみたいな素人が書いた紀行文をのせるわけにもいくまいし」

「それは……」

 綿貫は言いよどむ。なにか具体的な案を持ち合わせていたわけではないらしい。まあ、綿貫一人で考えるべきことでもないんだが。

 俺も山岳部員の一人として、何かよい案はないかと、考えを巡らせていたところ、雄清が、思い付いたように言った。

「山岳信仰に絡めてやるのはどうかな?文化的だろう」

「山岳信仰?山をご神体として崇める、あれか?」

「そんな感じ」

 なんか、見るからに面倒くさそうだ。しかし、綿貫は言い考えだと思ったようである。

「それはよいですね!是非そうしましょう。それならば、伊吹山のこともかけますし、宗教的側面にあわせて、地理的なことも付け加えればよいものができそうです」

「そうだね。あと、今思い付いたんだけど、神様と言ったら、もうひとつ外せないことがあるよ」

「なんです」

 俺も雄清が何を言い出すのか分からなかった。

「うちの高校の名前についてさ」

 もはや、山はどこかへと消え去ってしまっている。それでも、綿貫は良いと思ったようだ。

「それは、いい考えですね。そのことについても書きましょう。山本さんがその部分を担当しますか?」

「いや、僕は別にアイデアがあるからね。これは太郎に譲るよ。どうせテーマ考えるのも億劫なんだろう」

 俺は雄清の言に、少々むっとしたが、自分でテーマを設定するのが面倒だというのは、当たっているので、その提案を承諾することにした。


 帰り道、途中まで綿貫と一緒だった。

「お前は何について書くんだ?部誌の記事」

「私は伊吹山の神様について書こうと思っています」

 俺はしまったなと思った。

「お前もか。うーん俺もそうしようかなと思っていたんだが、お前が書くなら別の山にする」

「ああ、そうでしたか。すみません」

 綿貫は大変申し訳なさそうに言った。

「いや、気にするな」

 別段こだわりがあるわけではないのだ。しいて魅力を挙げるとすれば、一度登っている山だから、勝手がわかっているということぐらいである。しかし綿貫はこんな提案をした。

「……あの、もしよろしかったら、一緒に書きませんか?」

「二人が同じ山について書いていたら、見栄えがしないだろう」

「では、二人で二つの山を一緒に書きましょうよ」

 全く訳の分からないことをいう。二度手間じゃないか。二つの山について調べるなんて。当然記事を書く以上、その山には登らないといけないのだから。

「いいよ。一人で書いたほうが絶対楽だ」

「えっ、でも」

「いいから。適当な山なんていくらでもあるだろ」

「……分かりました」

 ……なんで、そんな悲しそうな顔をするんだ。まるで俺が悪いみたいじゃないか。


 綿貫はそれから黙ってしまった。明らかに機嫌が悪い。怒っているのではなく、しょげていると言ったら適当だろう。

 綿貫は概して、淑やかなお嬢様でいた。基本的にはむきになることはないし、いつでも他人のことを考えていて、自分のことは後回しにしてしまうような女である。

 それがいいことかは判断しかねるが、人にわがままを言うような人間ではないことは、俺をはじめ、周りの人間の認めるところだろう。その綿貫が自分の提案を拒絶されて、不機嫌になっているのだ。

 しかし、俺はそのことに対して、不愉快には思わなかった。そう思っている自分に気が付いた。

 なぜなら、逆に言えば、今までの人生で、ずっと我慢し続けてきたであろう彼女がこの時になって、赤の他人である俺に、素の表情を見せているのである。逆説的かもしれないが、彼女がわがままに、言ってしまえば、子供っぽくふるまうようになったのは、彼女にとっては成長なのだ。

 こいつは言ったのだ。気の置けない友人が今までいたことはないと。おそらく喧嘩もしたことがないのだろう。少々骨が折れるが、友人である俺としては喧嘩の相手ぐらいしてやってもいいだろう。

「お前さ、何怒ってんだよ」

 綿貫に向かってそういった。

「別に……怒ってませんよ!」

 おお、思ったよりも感情的になっている。前言撤回だ。しょげているのではなく完全に怒っている。俺は綿貫が怒っているという事実そのものに単純に驚きを覚えた。

「怒っているじゃないか。拗ねてないで、言いたいことがあるのならばはっきり言えよ」

 そう言ったら、きっと睨まれた。どうやら俺と口を利きたくないらしい。

 というかそもそも、なんで綿貫は怒っているのだろうか。よく考えてみれば自分の提案が却下されたぐらいで、機嫌を悪くするのもおかしな話だ。普段の綿貫であればあり得ない話である。彼女は俺や雄清や佐藤との関係が密になったことで、友人にわがままを言えるくらいにまで成長したのだと俺は考えた。そのことはいいことだと思う。だが理由もなしに怒るというのはどうも腑に落ちない。要はなんで綿貫はそこまでこれにこだわるのかということだ。

 これはあれか、ちまたで聞く、女の扱いは難しいという例のあれか。理由もなしに彼女が不機嫌になっているのだとしたら、俺には打つ手がないじゃないか。

 ……

 …… 

 まったくもう。

「なあ、綿貫」

「なんですか!」

 うっ、なんだ、そのつっけんどんな態度は。

「やっぱり二人でやろうか、文集の記事書くの。一人で登るのは危ないからな。雄清達にもそうしてもらおう」

 よくよく考えれば、綿貫は部長なのだから、部長命令で、そういう風にすればいいのだが、いくら親しくなったとはいっても無理強いしないのが綿貫さやかという女なのだ。……怒りはするみたいだが。

 俺がそういったところ、綿貫は何も言わなかった。それどころか、すたすたと歩いて行ってしまった。

「おい、綿貫」

 いくら何でも無視はひどかろう。

 綿貫がくるりと踵を返す。

 満面の笑みだ。そしてまた、すたすたと歩いて行ってしまった。

 拗ねたり、おこったり、笑ったり、いろいろと忙しい女である。

  

 その日の晩、綿貫から電話がかかってきて、日中の無礼を詫びられた。

 狐につままれた気分になったが、笑って許すことにした。たぶん狐狸こりに化かされていたのは綿貫の方だったんだろう。 

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