妻がなろう作家になろうとして恋をする話
「――まいった。なんて書けばいいか、さっぱり分かんないや」
目の前のノートPCをじっと見つめながらポツリと呟く。
呟いたところで何が解決するわけでもないのは分かっていたけど、思わず呟かずにはいられなかった。
「あー、私に文才があればなー!」
行き場のない怒りを向けるかのように自分の髪を掻き毟る。
ろくに手入れのされていない髪が、さらにボサボサになったけど気にしない。
いくら休日の自宅でのこととはいえ、度のきついメガネと着古したジャージを身にまとい、おまけに化粧もしていない私だ。
今さら髪がどうこうと気にしても仕方ない。
それに私には、気にしなくていい理由があるのだ。
「大丈夫? 相談に乗ろうか?」
テーブルの向かい側に座っている男が声をかけてくる。
うん、まあ男というか私の旦那なんだけど。
そう、これがこのだらしない格好を気にしなくていい理由。
こう見えて私は結婚しているのだ。
だからもう“女”であることを意識する必要なんてないのだ。
え? いくら旦那相手だからって、ものには限度があるだろうって?
残念、うちの旦那は、家の中ならどんな格好をしててもいいと言ってくれる、素晴らしい旦那なのだ。
「んー、まだ大丈夫。もうちょい頑張ってみる」
旦那にそう伝えると、私は再び目の前のノートパソコンの画面を見据えた。
ちなみに、私が今何をやっているのかというと、実は小説を書いているのだ。
しかも男同士の濃厚なラブロマンスのやつ。
といっても、私は別に小説家でもなんでもない。
今ネット上には、小説の無料投稿サイトというものが存在する。
そこに私の作品を投稿すべく、人生初となる執筆活動に挑戦しているところなのだ。
しかし、当然ながら素人がいきなりスラスラと書けるはずもない。
目の前の画面は、執筆を初めて既に30分は経とうかというのに、見事なまでに真っ白だった。
(甘く見てたなー。まさか、一文字足りとも書けないとは思いもしなかったわ)
『わりと小説は読む方だし、同じように書けばいいだけでしょ、楽勝じゃん?』――なんて思っていた30分前までの自分を殴ってやりたい。
執筆活動なめんなよ!
そんな簡単に書けたら苦労しないんだよ、バーカ、バーカ!
……とまぁ、自分への罵倒を終えたところでメガネを外し、目頭を軽く揉む。
目薬が欲しいところだけど、丁度切らしていたことを思い出した。
(あー、昨日買い物帰りに薬局寄ろうと思ってたのに、すっかり忘れてた……)
歳のせいだろうか。
最近特に物忘れが激しくなった気がする。
まだ三十代なのになぁ……。
旦那に貸してもらおうかとも思ったけども、ただでさえ低い私の株が、さらに下がりそうなので止めておくことした。
そんなこと気にする前にその格好を気にしろって?
ごもっともですね、はい。
でも、長年続いてきた生活スタイルって、そう簡単には変えられないの、分かって?
旦那が“普通”の男性であったなら、きっとこんなだらしない格好は許してくれなかっただろうし、休日の昼間から男同士の濃厚なラブロマンス小説なんて書けなかったと思う。
この旦那に巡りあえて本当に良かった――そんなことをしみじみと思う私であった。
ちなみに、私が今小説なんてものを書こうとしているのは旦那の影響だ。
旦那も私と同じくオタク趣味の持ち主で、私と結婚する前からずっと小説を書いてはネットに公開していたらしい。
旦那が書いているのは、いわゆるファンタジー小説というもので、ある日“聖痕”と呼ばれる不思議な力を手に入れた主人公が、何人ものヒロインたちと戦乱の時代を駆け抜ける――という内容だ。
特筆すべきはその膨大なボリュームで、現時点で既に500話を越えているのに、旦那曰く『ようやく折り返し地点に入った』とのこと。
1000話までには終わらせたいと旦那は言ってるけど、それはいったいいつのことになるのやら……。
とまあ、そんな旦那を持った私は、最初こそ小説なんて書くの面倒そうと敬遠していたものの、あまりにも小説を書いている旦那が楽しそうだったので、ついに今日人生初めての小説を書くまでに至ったのだ。
と言っても、結果はご覧のありさまなんだけど。
「――大丈夫?」
「うおぅっ!?」
突然旦那に声をかけられ、思わず私は驚きの声をあげてしまう。
いや、別に声をかけられただけだとここまで驚かないんだけど、気付くと旦那は私のすぐ隣にまで来ていたのだ。
「ゴメン、驚かせるつもりはなかったんだけど、声かけても反応ないし、身動き一つしてなかったから大丈夫かなって……」
「あ、うん……こっちこそゴメン。ちょっと考えごとをしてた……」
失敗した。
いくら驚いたとはいえ『うおぅっ!?』はないだろ私……。
もう少し女らしく『きゃっ!?』とかそんな感じの悲鳴をあげられなかったものか……。
こんなところも不出来な嫁で、なんだか旦那に対し申し訳ない気持ちになってしまった。
「……あんまり進んでないみたいだね」
旦那が私のノートPCを見て、ポツリと呟く。
私に気を遣ってか、『あんまり』とマイルドな表現を使っていたが、実際のところはあんまりどころか、まったく進んでいなかった。
「あはは……なんて書けばいいか分かんなくて……」
ぎこちない笑みで返答する。
「言ってくれれば相談に乗ったのに」
「んー、なんかそっちの邪魔するのも悪かったしさ」
私の言葉を聞いて『そんなこと気にしなくていいのに』と少し寂しそうな顔を見せた。
そんな旦那を見て、私はさらに申し訳ない気持ちになる。
……ダメだ、最近どうも上手くいかない。
結婚してすぐの頃はそんなことはなかったのだけど、最近はどうも旦那の前だとなんだかギクシャクしてしまう。
これが噂に聞く“倦怠期”というやつなのだろうか。
まだ結婚してから半年しか経っていないのに?
それとも私たちが普通の恋愛結婚じゃなくて、婚活サイトを通じてのお見合い結婚だから、こんな感じになってしまっているんだろうか。
……いや、多分どれも違うと思う。
きっと問題は私の方にあるのだ。
私の人生において、過去一度も“彼氏”なる存在ができた試しはない。
今の旦那だって、婚活サイトで知り合い結婚を前提にお付き合いをしたのだから、私は“彼氏”をすっ飛ばして旦那を得たようなものだ。
そんな恋愛経験ゼロの女が、彼氏どころか、いきなり旦那を持ってしまったらどうなるか?
新婚の頃はまだ浮かれ気分で旦那と接することが出来た。
けど、時が経つにつれ、だんだんと旦那との接し方が分からなくなってしまっているのだ。
だって、うちの旦那ってば、私なんかには勿体無いくらい良い人なんだもの。
残念ながら旦那は、私好みの色白で線が細く、儚げで高身長の美青年じゃなかったけど、きっとそれは向こうもお互い様だろう。
私は格好はこんなだし、顔もそんなに良い方じゃない。
スタイルも少しぽっちゃりめで、その代わり胸はある方だけど……。
ともかく、最近なんだか旦那と一緒にいると『こんな私でゴメンね』と申し訳ない気持ちになることが多々あった。
「ま、焦る必要はないよ。別に納期なんてものはないんだから、ゆっくり自分のペースで書けばいいさ」
私が気落ちしているように見えたのか、旦那は優しい声で慰めてくれる。
そして私はまた申し訳ない気持ちになった。
「書きたい内容が決まってるなら、それを箇条書きにしてみるだけでも結構形になったりするよ」
「箇条書きって……そんなの小説じゃないじゃん」
「まあ、プロットを書くというか、要は清書の前の下書きみたいなものだね」
プロット……その言葉はどこかで聞いた覚えがある。
でも、私が欲しいアドバイスはそんなものじゃないのだ。
「あの……そういうのじゃなくて、上手な文章を書くにはどうしたらいいのかな……?」
突拍子のない私の質問に、旦那は困惑した表情を見せる。
当然だ、そんな方法があるはずないのだから。
「……ゴメン、そんなの書き続けるしかないっていうのは分かってる。でも、私は下手くそな文章を公開して笑われたくない……」
旦那は、私のどうしようもない我が儘に呆れたのか、暫くの間口をつぐんでしまう。
しかし――
「――笑わない。少なくとも僕は笑わないよ。それじゃダメかな?」
再度口を開いた旦那から出た言葉は、まったくの予想外なものだった。
「小説を書くのって、もの凄いエネルギーが必要で大変なことなんだって僕は知ってるからね。たとえそれが短編であれ一話であれ、文章や内容がどうだと蔑むようなことは絶対にしない。みんな一つの作品を立派に書き上げた、尊敬すべき作家先生たちだからね」
『まあ、作品を面白いと思うかどうかは別だけど』と律儀に旦那は付け加える。
「でも、そんなの上辺だけで、心の中じゃ何思ってるか分からないし……」
ああ、自分でも面倒くさい女だと思う。
旦那が優しい言葉をかけてくれているのだから『ありがとう! 私がんばる!』で済む話なのに、なぜそこで反論なんてしてしまうのか……。
「――これは仮の話だけど、僕たちの間に赤ちゃんが産まれたとしよう。君は赤ちゃんがハイハイで進む姿を無様だと笑うかい? たどたどしく言葉を話す様を滑稽だと笑うのかい?」
「いや、それは笑わないけど……」
「だろ? それと一緒だよ。人が懸命に前に進もうとする姿には力があって、僕はそれを愛おしいとすら思う。下手でもなんでもいい、書きたいものがあるのならまずは書いてみてよ。僕だけはそれがどんなに拙くとも絶対に笑ったりしないからさ」
その言葉は、私の胸にストンと落ちた。
思えば旦那は、こんなだらしない格好の私でも許容してくれる人だったのだ。
うちの旦那は、見かけで人を判断しない。
小説だってそうだ。
どんな文章が拙くとも笑わないし許容してくれるに違いない。
今ならはっきりとそう思えた。
ああ、そうか。
今ようやく理解した。
なぜ私が上手い文章を書くことに拘っていたのか。
それは、旦那に良いところを見せたかったのだ。
旦那に、私だってこんな文章が書けるんだぞ、凄いだろ、と伝えたかったのだ。
ただただ褒めて欲しかっただけなのだ。
やっぱり恋愛経験ゼロの女はダメだ。
こんな大事なことに今ようやく気付くなんて。
私と旦那は婚活サイトで知り合って、ろくに恋愛もせずに結婚した。
この結婚は打算と妥協の産物で、私たちの間に恋なんてものは産まれないと思っていた。
それでも共通の趣味を通じて、仲良くやっていければそれでいいと思っていたのだけど……。
そんな私たちの関係ももうおしまい。
だって、今はっきりと自覚してしまったのだ。
そう、私は旦那に恋をしていた。