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【ハチ】

【ハチ】  さがしもの



 赤い水で髪を洗う。

 シャワーから流れる水は赤黒い塊の混じった水だ。

 降ってきたどろりとした黒い塊が肩や腕や胸元ではねる。

 手に落ちてきた赤黒い塊を潰して、顔を覆うように全体的に塗り、オレンジ色の脂で全身をべっとりと覆う。べたべたの脂まみれになった体は、獣の臭いがするが嫌じゃない。


 これで何日目だろうか。

 桜は毎晩のように同じ夢を見て、同じところで目を覚ます。

「まじ、ほんとに勘弁してよ」

 汗でぐっしょりと濡れている首元に気持ち悪く髪の毛が絡み、手で拭うように後ろにまとめる。

 激しく跳ね回る心臓を抑え、枕元に用意してある水を飲み、エアコンを入れて無音の室内に機械音を入れた。

 ほんの数秒で涼しい風が桜の体を駆け抜け、汗をかいた体にエアコンの風が当たり、冷たくなる。

 そのまま横になってみたが、もう、寝られるような気持ちではなかった。

 時計を見ると、4時08分。いつもこの時間にこうなる。

 目を閉じてエアコンの風を感じ、時間が過ぎ去るのを待つしかない。それ以外に方法はないから。

 コトリと音を立てて何かが倒れた音がして飛び起き、音の主を目で捜し、びくりと跳ねた心臓を抑えた。

 テレビの後ろに何かが落ちたらしい。

 恐る恐るベッドから出てテレビを横に少しずらすと、赤いハート形の小物入れが一つ、蓋が半分開いた状態で見つかった。

「これってあのときのやつ...だよね」

 手に取り、中身を見て昔のことがスライドショーのように頭に入ってきた。

 体から力が脱力した。

「......これだ。これのことだったんだ」

 蓋をしっかり閉じると両手でぎゅっと潰すが、びくともしない。

「そんなに返してほしけりゃ返しに行ってやるわよ」

 腹立たしさと気持ち悪さが体中を覆う。

 音を立ててテーブルの上にその小物入れを叩きつけ、睨みつけた。

 赤い皮でできている小物入れには埃が白い被っていた。



 雨が降りそうだ。

 空はグレー一色、遠くの方の空は既に黒くなっていて、うっすらと雷の鳴る音も聞こえていた。

 駅には相変わらず誰も居ない。

 音を立てて階段を上がり、ホームに立つ。

 ポーチ一つでここに来た。用事は一つだけだ。

 その中には昨日部屋でみつけた赤いハート形の小物入れ一つ。

「こんなもん」

 右手にその小物入れを握りしめ、ポーチは力任せに足下に投げつけた。

 ホームの一番先にあるベンチまで歩く。

 人一人いないホームは、不気味だ。姿の見えない虫が切なげに鳴く音と、車が通りすぎるタイヤ音しか今のところ聞こえない。

 無風。

 雨が降りそうだというのに、風はぴたりと止んでいる。

 ベンチにどかっと座って脚を組み、ポケットからタバコを出して、火を付けた。

 肺にゆっくりと煙を入れ、時間をかけて吐き出した。

「タバコは体に悪いよ」

 後ろから聞こえた声に反応するが、白々しく無視し、タバコを吸い続けた。

「桜さん」

 桜の横まで来て声をかけ、馴れ馴れしく肩に手をおいた。

「その手、邪魔」

「すいません、つい」

 引っ込めた手を胸の前で組んで頭を下げたのは、富多子だ。

「あんたに用事は無いよ」

 タバコをホームに投げ、サンダルのつま先部分でじゅっと消す。

「あの......帰った方がいいです」

「帰らない」

「でも...」

「あんたはなんでここにいるわけ?」

「.........それは、その」

「来るように言われたんじゃないの?」

「.........」

「あの女に言われたんでしょう? ほら、あいつに」

 桜が指さした先には、あざみの姿。

 ホームの一番端っこに表情無く立ってこっちを眺めている藤が丘あざみがそこにいた。

「あざみ」

 名前を呼ぶとベンチから立ち上がり、あざみの方を向く。

 誰にも気付かれないように口元に笑みを作り、富多子は1歩下がって下を向く。

「これ、返しに来た」

 右手に握りしめた小物入れを目の前に差し出した。

「あんたが探してるもの」

 蓋を開けて、中身を取りだす。

「ほら」

 親指と人指し指でそれを掴み、あざみの方へ向けた。


 いない。


 ホームの先にいたはずのあざみがどこにもいなくなっている。

 恐怖よりも怒りが勝っていた。腹の奥がぐっと熱くなる。


「本当だ。ここにあった」

 突然耳元から声が聞こえ、咄嗟に体を反対側に避ける。右側、自分の右側にべったりとあざみがはりついていて、気味の悪い笑みを浮かべながら桜の耳元を見続けていた。

 気持ちが悪い。桜の全身に鳥肌が立つ。

「桜ちゃんが持ってたんだぁ、それ」

 返して。と、あざみは細くて白い手をぬるりと伸ばした。

「まだ返せない」

「......どうして? それは私のものでしょう。返してくれるんじゃないの?」

「約束して」

「約束?」

「これを返したら、二度と私には近づかないって」

「よく分からない。どういうこと?」

「あんたが私にまとわりついてるってのは分かってるの」

「......そんなことしてないよ」

「嘘。毎晩毎晩気持ちが悪いのよ」

「ひどい」

 吐き捨てるように言った言葉はあざみに届いたのかは分からない。あざみは淡々と話し、なんの気持ちもこめられていないからだ。

「あんたはもうこの世にはいないんだよ。だから早くそれを、わかって」

「...」

「これを返したらさっさと自分のいるべき所に戻って!」

「...」

「分かった?」

 桜は目の前にいるあざみの目をじっと見て、強気に出た。

「桜ちゃんは変わらないね。私をいじめている時もそんな感じだった」

「いじめてなんていない。そう思ってるのはあんただけ」

「そうかな? そうだとしても・・・、最期ってね、けっこう辛いよ」

「知らないそんなの」

「・・・自分のやったことには責任を持って」

「何よそれ」

「まとわりつく? 近づかないで? 何を言ってるの? 私はずっとココニイルノニ」

 あざみは視線を桜の足下に固定し、体を左右に揺らし始めた。

 厚めの前髪が顔にばっさりとかかり、顔半分が影になり、表情は読み取れなくなった。

 空が暗くなり、一粒の雨がホームに落ちて、そこに黒い水玉を一つ作り、消えた。また一つ作っては消え、作っては消えて行く。

 雨の臭いが風に乗り、落ちた雨粒は周りにその臭いを撒き散らし、主張する。

 そんな風は、あざみの髪の毛だけを揺らした。


「私が探してるのはそんなものじゃないよ」

「これを返して欲しかったんじゃないの?」

「違う」

「じゃ、何よ」

「それは...」

 顔を上げたあざみの顔は、子供のようにあどけない笑顔。

 歯を見せて笑い続けるあざみの髪の毛は徐々に逆立ち始める。

 桜の元にまた風が届き始めた。その風に顔を歪め、反らす。

「何これ」

 富多子の方に目をやると、興味深そうに大きく目を見開き桜をじっと凝視していた。

 寒気。

 風が強くなり、髪は後ろに流された。鼻につく臭いも強烈なものになる。

「なにこの臭い」

 桜は手で鼻と口を覆い、反らした目をあざみに戻したとき、持っていた赤い小物入れを落とした。

 2、3歩後ろに下がり、動けなくなる。

 目の前にいるのは、いる? いや違う。真っ赤な血みどろの中にぶつ切りになった胴体や腕や脚や髪の毛、細かい肉が沈んでいた。

 髪の毛がかかってよくは見えないが、頭部もあるのが分かる。

 腐っている。

 虫が動き回り、小さい水しぶきを上げていた。

 臭いはそこから来ている。

 甘い死臭は鼻腔に届くと懐かしい気持ちにさせる。

「桜ちゃん」

 後ろから呼ばれて振り返ると、そこにはあざみが不思議そうにしながら立っていた。

「うそ。だって今」

 もう一度振り返り、ぶつ切りになった死体のあった場所を見たが、そこには何もない。

「だって今ここに」

「どうしたの? まるで何か変なモノでも見たって感じ。何かあった? あったなら、相談にもるよ......さ、その前に返して」

 手を差し出されて桜は戸惑ったが、出された手のひらの中に小物入れを乗せた。

「やっと戻って来た。ずーっと探してたんだこれ」

 あざみは小物入れの中からはみ出ている金色に輝くネックレスを取りだして、一通り確認すると、にこりと笑う。

「きれい」

 自分の首にネックレスをつけ、リボンの形のヘッドを手でなぞる。

 残された小物入れは、もう用が済んだとばかりに勢いよく線路に投げ捨てた。

 投げ捨てられた小物入れを目で追い、線路に視線をやる。

「あんたそれ大事なものって」

 桜は途中で言うのをやめた。

 線路に、枕木の間に、不思議なものをみつけたからだ。


 真っ青な紫陽花がひとつ。


 どうしてここに? そんな季節じゃない。

 惹きつけられるほどに綺麗な紫陽花は、桜を魅了する。

 あざみは真っ白い目で桜を見る。唇は無い。歯も無いし舌も無い。真っ赤な穴が顔の下半分に開いている。

 腕は一本削げ落ち、右半分の顔の肉は地面に落ちた。

 黄金色に輝くネックレスは血で錆び付き、鉛色に変色していた。

「桜ちゃん」

 桜は線路上に落ちた小物入れとその隣にさく紫陽花から目が離せない。

「サクラチャン」

 遠くから呼ばれる声が聞こえ、何? と振り返るとそこにはさきほどと変わらない、笑顔のあざみ。

「なに?」

「取ってきてよ」

「何を?」

「ほら、あのケース、落としちゃったから取ってきて」

「何言ってんの? 自分で投げたくせに」

「約束する」

「......何を?」

「あのケースを取ってきてくれたら、もう桜ちゃんの前から消える。二度と会わない」

「......」

「約束する」

「...納得させられることのほうが難しいけど、ほんとに?」

「うん」

「忘れる?」

「うん」

「...」

 桜はもう一度線路を見た。

 引き寄せられるような紫陽花がそこにある。

「わかった」

 桜が紫陽花を見ている間にあざみの姿はどんどん変わっていく。

 髪の毛が抜け落ち、頭蓋骨が見え始めた。

 首が後ろにかくんと折れ、首の骨が喉から突き出た。

 まだ電車は来ない。

 雨がだんだん激しく降り始め、線路に水玉模様を作り始めた。

 ホーム上から見える川は茶色く濁り、水かさを増す。

 墓の絵の看板は依然としてそこにあって、紫陽花の絵もその看板の中に、変わらずそこにある。

 枕木の間に咲く紫陽花。

 呼ばれるようにホームのぎりぎりのところまで歩く。

「こっち」

 紫陽花の横にあざみがいて、無表情で手招きをする。

 けっこう高い。

 あの時、桜がしたように、ホームに腰掛けた。

「ここ」

 あざみが紫陽花のところを指で示す。

 高さを確認して、足下を見た。


「やめたほうがいいです」

 桜が線路に飛び降りる直前、富多子が唐突に声をかけた。

 そうだ。この子、まだいたんだ。

 そう気付いた桜は線路の下に下ろした足をホームに戻す。

「殺されますよ」

「何言ってんの?」

「ほら、もうあの人に憑かれてる」

「何言って......」

「線路に降りて何するんですか?」

「線路に降りてって......」

 桜の顔面から血の気が引いた。

 何、やってんの?

 ほんと、何、やってんの? 私。

 全身が震えた。

 線路を見たが、まだそこに紫陽花はある。

 でも、あざみはどこにもいない。


『桜ちゃんが苦しむのはあんたのせいだからね』


 富多子の耳にあざみの声が届く。


『これ以上邪魔をしたらあんたも、どうなっても知らない』


 富多子は下を向き、目を泳がせた。



「私」

 桜は自分を落ちすかせるように、胸を何回か叩くことを繰り返すが体の震えは収まらない。

 アナウンスが入る。


 _電車が通過します_


「桜ちゃん」

 声のした方、線路に目を向けると、あざみが笑って立っているが目は笑っていない。

「こっち」

 両手を差し出すあざみに恐怖を覚え、首を振った。

「来て」

 あざみの顔から笑みが消え、伸ばした両手の肉がずるりと剥け落ち、白い骨が見え始めた。

「やめて」

 震える声で言いながら顔を振るが、視線はそこから外れない。

「...ほら」

 崩れ落ちる顔の肉、肩から腕がすっぽりと抜け、落ちた腕は線路上に転がり左右に揺れている。

 死臭が漂う。気持ちが悪く、体が強ばり力が入る。足は震え、脂汗が舐めるように全身をつたう。

 あざみの足下には未だに消えることなく紫陽花が咲いている。

 桜の体は自由を失ったように意志とはうらはらなことを繰り返す。

 雨が強くなってきた。

 冷たい風がホームを上下左右に踊りながら吹き抜ける。

 意志とは真逆な行動を起こし始めた。

「桜ちゃん」

 桜の真横には、笑っているあざみが立っていた。

「だってあんたさっきそこで」

 もう何がどうなっているのかすら分からない。

 脳は思考をストップさせ、線路に向かって勝手に歩く足はもはや止めようがない。

 無理だ。


「快速。よかったね」

「やめてお願い」

「タイラちゃんもそんなこと言ってた」

「......あんたが......タイラも殺したの?」

「やだ、違うよ」

 くすくす笑うあざみの手には指がなく、赤黒く腫れ上がっている。

「なんで笑えるの? あんた、最低」

「......」

「ねぇ、この時間って、桜ちゃんならなんだか分かるよね?」

「この時間って...まさかあんたが用賀も...」

 桜の体から怒りが沸き上がった。

 用賀が飛び込んだ時間だ。

「違うよ桜ちゃん」

「違う?」

「ぜんぜん違うよ」

 桜の目の前に立ち、かわいい顔にあどけない笑顔を貼りつけた。

「用賀君も......じゃない」

「どういうことよ」

「............用賀君が一番最初ってこと。だって寂しかったんだもん」

 言い終わると同時にあざみは線路の上に立っていた。

 指を下に指し示す。

「ここ」

 言い終わると同時にあざみは線路の上に立っていた。

 指を下に指し示す。

「ここ」

「ここで用賀君が死んだ。私と同じように横になって顔からかれた」

 ぞくりと恐怖が走る。

「ここ」

 少し先の方にあざみがいて、同じように指を指す。

「ここでタイラちゃんが死んだ。体はぶっつり半分に切れた」

 桜の足はまた前方へと動き出した。

「あんた......ちょっと」

「ここで...」

 腰を落とし、愛おしそうに眺め、優しく愛すように線路を撫でた。


 何度も。


 ......何度も。


 ...............何度も。



「私が死んだ」



 桜の方を向いたあざみの目の部分には、真っ黒い穴があいていた。


「ここにするといい。ここで最期にするべき。ほら、私と同じところで」

「何言って...」

「みんなここにいるよ」

「何言って......」

「ほら、用賀君もタイラちゃんもみーんなここにいる。見えるでしょう?」

 あざみが指差した方に顔を向けると、そこには息を飲む光景が広がっていた。 

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