【ロク】
【ロク】 藤が丘 あざみ
『だから言っちゃダメだって言ったでしょう』
「ごめんなさい」
『そんなところもまたいいけど。でもいい? これで最後』
「ちょっと残念」
『癖になったら困るから』
「ならないですよ」
『それならいいけど? どこまで信用しようか』
「寂しくなりますね」
『忘れないでね』
「どんな意味で?」
『そういう意味で』
くすりと笑ったあざみはその場に富多子を残して一人で消えた。
富多子はホームに一人たたずみ、またすぐに戻って来るだろうと思っていたあざみを待った。
終電まで待ったが、結局彼女は戻ることはなく、富多子はそのまま最終電車に乗って、自宅のある駅へと帰って行った。
その電車を見送るのは、あざみ。
その顔に笑みは無く、無表情に電車の後ろ姿を追いながら、線路、枕木の間に咲いているたくさんの紫陽花の元へと歩く。
紫陽花を踏みつけるように歩き、いつもと同じ場所で足を止める。
踏まれた紫陽花は潰れることなく、花びら一枚無くすことなく、何事もなかったかのように、そこに、ただひたすらに咲く。
あざみは目だけでアノ場所を確認し、ひとつ頷く。
ホームの照明が徐々に消え、真っ暗闇の中に最低限のライトだけが光る。
膝を折ってやんわりと、咲き乱れている紫陽花の上に座り込み、そのままゆっくりと肘をつき体を横にして、線路を枕にするように頭を乗せた。
紫陽花の青く苦い匂いが鼻に届き、下敷きにされた紫陽花はその葉を横たわるあざみの体にきつく巻き付けた。
ぎしぎしと音を立てて締め上げる紫陽花は、横たわるあざみの体全体、そして首を絞める。
首を絞められながら笑うあざみは、静かに瞼を閉じた。
_記憶の泥沼_
「と、いうわけだからあんたには体で払って貰うよ」
「.........できないよそんな」
「だって盗ったのはあんたなんだから。そのくらいしてもらわないと。言ってること分かるよね?」
「私、盗って...ないし」
「は? 聞こえない」
ホームの端っこの方で一方的にお前が悪いと決めつけられているのは、あざみ。
薄笑いを浮かべて笑いながら詰め寄っているのは、桜だ。
その横で腕を組んで歪んだ笑みをみせて楽しんでいるのは、タイラ。
あざみは線路側に立たされている。
風が瑞々しい花の香りを乗せながらすがすがしく通り抜ける。
桜は高津用賀をあざみから奪うつもりだった。勿論、高津用賀は桜ではなくあざみの彼氏だ。
大学でも目立つ存在の高津用賀はファンも多くいた。桜もそんなファンの一部だったわけだが、自分を差し置いて友人の一人でもあるあざみと付き合い始めたことに腹立たしさと苛立ちを募らせていた。
少々おとなしい性格のあざみは、強く言い寄られたら答えに詰まってしまうような、そんな弱い一面を持っていた。
人がどう思うかを考えるとなかなか強く言うことが出来ないあざみとは反対に、桜は強い。自分の意見はびしばしと言う。そこに容赦はなかった。
自分が強く出ればあざみは簡単に引くと思っていたようだが、それは計算ミスだ。
あざみも用賀もお互いにお互いを本気で想っていたので、そんな簡単には話は進まなかった。
「だからほら、さっさと別れるって言いなよ。それで全部うまくいく」
「...言えないよ」
「そもそもが、用賀はあんたなんかとはつり合わない人だよ。分かってる?」
「そんなこと...」
「どっちかにしてもらえる? 私にボコられるか、自ら引くか。簡単でしょ?」
「その選択めっちゃウケルんですけど」
話に入って来たのはタイラ。桜の理不尽な選択肢に思わず笑って口をはさんだ。
「てかさ桜、そんな面倒くさいことしなくても、こいつさえいなくなれば話は早いんじゃね?」
タイラは桜に目配せして意味深に笑って、その真意を暗黙の了解で受け取らせた。
「あぁ...なるほど」
桜はにたつくと、伝言掲示板に目をやる。
「ふーん、快速か」
あざみはその言葉を聞いて伝言掲示板に目をやり、視線を目の前にいる桜に戻す。
そして自分は今線路を背にしていることを再確認した。
「ちょっと...待ってよ」
そんなことはありえないと思うが、多少、怖い。
1歩前に、桜の方、ホームの中程に戻ろうと足を踏み出したところで桜がそれを阻止した。
「桜ちゃん...」
何も言わずにあざみの腕を掴んで笑う桜の顔は意地悪に歪んでいて、人の不幸を心から楽しんでいるようにも見える。
「嘘でしょ」
「本気だったら?」
「ありえないってこれは。分かってよ。用賀と私はちゃんと付き合ってるし、本気なんだよ。それにだって桜ちゃん一回用賀に......ふ、ふられてるよね」
最後の方は語気を弱めた。
「うるさい!」
肩を押した。
あざみはせっかく1歩前に出した足を元の位置へ戻すはめになった。
「うっそ、桜ふられてたの? じゃ無理なんじゃね?」
くすりと笑うタイラをあえて無視してあざみと向き合った。
「さ、早く決断しないとそろそろ電車来るけど?」
「ほんとにやめて。これ冗談になってないよ」
いい加減にしてと、体を階段の方に向け勢いよく...
「ダメ」
それを制したのはタイラだ。髪を綺麗になびかせながらあざみの腕を取る。
「やめて!」
「あんたが早く決めればそれで話は済むの! 簡単でしょ? 別れるってそう決めれば終わることなんだから」
桜が携帯電話をあざみに渡し、電話をかけるように強く出る。
「ほら」
「こんなこと間違ってるって」
「どんなことが?」
意地悪に笑う二人には何を言っても無駄なように思われた。
なんでこんなことをするのか理解に苦しむが、深く考えている時間は無い。
_黄色い線の内側までお下がり下さい_
あざみは無意識に電車が入ってくる方に顔を向ける。
まだ来ていない。
「もうやだ、帰る!」
どいて! と目の前にいるタイラの間をすり抜けようとするが、タイラがそれを許さない。
「タイラちゃんお願いやめて! それにタイラちゃんは関係ないじゃん! なんでこんなことするの!」
ふりほどこうと腕に力を込めた。
その反動で持っていたバッグが線路の方に放り投げられた。
「「あ」」
同時に声が出て、3人の動きがぴたりと止まった。弧を描くようにバッグは綺麗に宙を泳ぎ、線路の真ん中に落ちた。
「うそ。どうしよう」
バッグは用賀と初めてデートした時にプレゼントしてくれた大切なものだ。
壊したくない。失いたくなかった。取りに降りたいけど、降りられない。怖い。
駅員さんを探したが、どこにも見当たらない。
電車はまだ入ってこない。降りて取りに行くか? 行けるのか? できるのか?
あざみ、桜、タイラが線路に落ちたバッグを無言で見つめ続け、誰一人ことばを発するものはいなかった。
「どうしよう、あのバッグ、用賀に貰った大事なものなのに......」
ぼそりと言った言葉はしっかりと桜の耳に届いた。
その言葉に苛立ちを感じた桜はあざみを睨み、落ちたバッグをも睨んだ。
「取りに行けばいいじゃん」
「...何言ってんの。できるわけないじゃん。電車来ちゃうもん」
「まだ電車来ないし、大丈夫じゃない?」
意地悪に言う桜の目は、本気だ。
さすがにタイラは何も言うことができない。
「ほら」
背中を軽く押す桜は、大事なものなら取りに行って来なよ。まだ電車だって来てないから。と優しく言う。
「バッグを取ったら、私たちが引き上げてあげるから」
そんな言葉をかけられるとは思っていなかったあざみはびっくりして振り返る。
「ね」
笑っている桜はバッグを指さした。
「ほら。バッグ、ぼろぼろになっちゃってもいいの? 用賀に貰った大事なものなんじゃないの?」
「でも...怖いよ」
あざみはもう一度線路に落ちたバッグに目をやった。
「このままじゃあのバッグ、ダメになっちゃうね。半分に裂かれて使えなくなっちゃうね」
桜が追い打ちをかけた。
線路に落ちているバッグを見て、電車がまだ来ないことを確認した。
「ほんとに? ほんとにバッグ取ったら上げてくれる?」
「こんな時に冗談が言える? てか置き去りにするとかそんなことできないでしょ、どう考えても」
あざみの背中を強めに押す。
「ほら」
黄色い線よりも足が1歩線路側に出た。
生暖かい風が頬を撫で、腕、腰、脚を舐めるように、あざみを見極めるように吹き抜ける。
浅い呼吸を一度すると、ホームに両手をつき、腰を下ろし、脚をホームの下に投げだした。
小さくジャンプして、線路に着地する。
じゃりっと砂を踏む音と感覚が足から伝わった。バッグの所まで急いで走り、しっかりとバッグを掴み、底についた土を払う。
「え? なに?」
バッグを持ち上げた時、バッグの下に何か青いものを見た。
紫陽花だ。
バッグの下に紫陽花が咲いている。こんなところに紫陽花? 前からあったっけ?
その紫陽花は真っ青で、とても魅力的な輝きを放っている。冷たく青く不気味に輝く紫陽花は、光りを浴びたことのないような、もしくは光りを全て吸収して、花びらの中に閉じ込めたように、自分の内側に全てをひきずり込もうとしているように妖しくあざみを誘惑した。
ホーム上で誰かが叫んでいるのが視界の片隅に入ってはいるが、その紫陽花に心奪われ、まるで音は聞こえない。
無音。
ホーム上から手を伸ばし、連れ戻そうとする人たちがいるのが分かるが、目が離せない。
『あざみ!』
用賀の声が聞こえ、意識を戻した。けたたましい警笛が耳に入り、それがうるさくて顔をしかめた。強風が髪を後ろになびかせる。
心臓が止まる思いがした。
既に電車がホームに入ってきていて、ブレーキをかける金属音とそのときに電車に押されて届く風、けたたましい警笛の雨があざみに降りかかる。
手を伸ばしている誰だかわからない人たちがホーム上から叫ぶ。
桜とタイラは後ろの方、ベンチの辺りまで下がり、口元に手を当てて目を恐怖に見開いていた。
助けてくれるって、引き上げてくれるって、言ったのに...
助けてくれるって言ったのに...、
「助けてくれくれるって...」
遠くにいる二人の姿を見て、怒りと悲しみが入り交じったなんともいえない気持ちになる。
心が鈍く痛む。うっとうしいくらいに警笛が鳴らされ、後ずさり、線路に靴が当たった。そこから電車が走る震動が伝わり脳天に駆け抜けた。
既に紫陽花は、無い。
左右を見回して探したが、花びらひとつ残っていない。
錯覚か。
ホームに向かって足を踏み出したところで動けなくなった。
息を飲んだ。1歩も動けない。
ホームに上がれない。
そこまで、たどり着けない。
目の前で警笛が長く連続的に鳴らされ、顔を向ける。
かばんを胸の前で力の限り、ぎゅっと抱きしめた。
電車が入って来たときに見たもの。
目の前に現れたものに恐怖し、腰が砕け、その場に座り込んだ。
体が動かない。立てない。震える。
無表情の電車がすぐそこにせまる振動が腰から伝わり、心臓をえぐり出すように血液が体中を回る。
ホーム下の待避所と書かれた字が目に入るり、そこまで這おうと震える体をなんとか四つん這いにさせた。
恐怖に耐えてがちがち鳴る歯、自分の意志とは真逆に大きく震える両腕、膝には力が入らない。
金属音が近づく。電車がせまる。風に煽られる。
ホーム上から悲鳴が聞こえた。
全身を針で刺されたような痛みを感じ、髪の毛が逆立つのを感じた。
待避所に行くことができない。
もう、動けない。
あざみの目の前には見たことのないような人の顔。
その顔は焦げているようにも見えて、腐っているようにも見えた。ところどころ骨が見え、半開きに開いた口からは長い舌が顎のところまで伸びている。
あざみを呼ぶように手を差し出したその手は半分腐り、虫が這っていた。
『だいじょうぶ』
耳元で何かを囁かれ、顔を向けるとそこには真っ青な顔をした男が一人あざみと同じような格好で寄り添っている。
涙をこぼすあざみはもうどうしたらいいのか分からない。
体は言うことを聞かず、その場に横倒しになるように倒れた。
これ以上開いたら目がこぼれ落ちるというところまで目を見開き、線路を枕にするように頭を乗せた。涙は止めどなく溢れる。
口元は力無く開かれて、よだれと泡がだらしなく流れる。
既に自分の意思とは真逆な行動を取る体を支配することはできなかった。その傍らには誰だかわからない真っ青な顔をした青い男がぴったりと寄り添っている。
バッグだけはしっかりと胸に抱き、体を小さく折り曲げた。
警笛を間近で聞いて、眉を寄せた。目の前には無表情の電車がせまる。
『だいじょうぶ。すぐにおわる』
べったりと寄り添う真っ青な男はあざみの体を後ろから覆う。
『僕が一緒だから怖くない。一緒にイコウ。さあ、目をミヒライテ。サイゴをよく目に焼き付けて』
電車の下の方には真っ赤な血のようなものがべっとりと張り付き、無数の手形がそこに見えた。
生臭い。
あざみが最後に嗅いだ臭いは、無数の人間の血の混じった臭い。
線路脇に、待避所の中には黒い人の影、亡霊がびっしりと詰まっていて、あざみの最期を見届けている。
電車が自分にぶつかる前に、いや、顔をひきつぶす前に、あざみは垂れ流す涙で視界をかすませながら、胸に抱えたバッグを力の限り更に強く抱きしめ、目をぎゅっと閉じた。
心の中で小さく用賀の名前を呼んだ。
口はまだ動くが、声は出なかった。
目を閉じた時に流れ出た一筋の涙が頬を伝いバッグに染み込むが、その時には既に恐怖心は失っていた。
脳みそが生きた体に最後に送り出す指令は、恐怖を緩和する薬だ。
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気が付いた時、あざみはホーム上に設置されているベンチに座っていた。
辺りは既に真っ暗で、なんの音も聞こえない。
風も無く、臭いも無い。あるのは、無だ。
どうしてここにいるのか分からない。
ただただそこに、じっと座っていた。