【シ】
【シ】 富多子
「ほらね。やっぱり来たでしょ。あなたは絶対ここに来ると思った」
「......はい」
あざみは優しく富多子の手を取り、顔を覗き込んだ。
富多子はこの前会った時よりも痩せこけ、目は落ちくぼみ、血色は悪く顔は土色とほぼ同じだった。テニス部ということが信じられない程の姿に変わっていた。
あれからさらにエスカレートしたいじめはとうとう富多子を追い詰めた。
「で、決めたの?」
「はい」
「分かった。それは誰?」
「宮前......タイラさんです」
その名前を聞いてあざみの動きが止まる。
「その名前には聞き覚えがあるわね」
顔を上げた富多子はあざみの顔をじっと見て、次の言葉を待った。
あざみは首を左右に振り、不気味に瞬きを早めた。
「知ってるんですか?」
「たぶん...知ってる。忘れちゃいけない人だと...思うから」
相変わらず何を言っているのか分からないと富多子は思ったが、深くは聞かないことにした。
その人は大学生で、富多子のバイト先の先輩だということだ。
宮前タイラ。
タイラを迎えにバイト先に来ていた彼氏と富多子が店先で楽しそうに話しているところをたまたま見てしまったタイラがやきもちをやき、嫌がらせをしてきたという。
高校にまで嘘でかためた話を持って来て、いろいろな人を巻き込んでの嫌がらせになったということだ。
「ぜんぜんそんなことないんです。ただの宮前さんの勘違いなんです。何回もそう言ったし、彼氏さんにも話をしてもらったのに、信じてくれないんです」
「そっか」
「彼氏さんはきっと宮前さんがそんなことするなんて思っていないと思うし、考えてもいないと思います。でも...」
わっと泣き出してその後は話にならなかった。
「すぐに楽にしてあげるから。私に任せて」
「......本当に楽になるんですね? この状況から抜け出せるんですね?」
「本当。私は嘘は言わない」
「でもどうやって?」
にこりと笑ったあざみはおもむろに視線を移した。
あざみが向いた方に顔を向けると、そこには墓地の案内の看板。
一度下を向いて目を閉じ、深呼吸をする。
見上げた先には『遊楽霊園』の看板。
どうして看板を見たのか、富多子には分からない。
そして、ベンチには富多子以外誰もいない。
あざみの姿は忽然と消え、暑苦しい空気だけがそこに残されていた。
軽快に階段を上ってくるハイヒールの音が聞こえる。
富多子は背筋を伸ばし、膝の上に乗せている鞄をぎゅっと掴む。緊張が体中を走る。ハイヒールの音はどんどん大きくなり、楽しむような音色を奏でる。
富多子の心の中は限界で、苦しい悲鳴を上げている。
頭が見えた。富多子は思わず立ち上がり、今からこっちへ来る人物を心の中では『来ないでくれ』と願う。
その願いは空しいものに変わるのを分かってはいるが、願う。
顔が見えた。
サングラスをしてはいるが、誰だか分かる。
宮前タイラだ。
真っ白いワンピースにグリーンのハイヒールは夏によく映える。
にっこりと笑いながら綺麗に巻いた髪の毛を揺らしながら富多子の所へと歩いてくる。ほんの少しの距離なんだけど、富多子にはそれがとてつも長い距離に思えてならない。
笑っている口元は輝いていた。サングラスで目は見えないが、意地悪に光っているのも手に取るように分かった。
「こんにちは」
宮前タイラは何事もなかったように、にこやかに挨拶した。
「......こんにち......は」
小さな声は周りの雑踏に揉み消された。
「はい? 何て言った? 聞こえない」
髪を耳にかけて耳を出し、意地悪な笑みを口元に浮かべている。
富多子はびくりとし、少しだけ大きな声でもう一度挨拶をした。
タイラは鼻で笑うとベンチに雑に腰をかけ、持っているポーチからタバコを取りだした。
「で、なんでこんなとこに呼び出すわけ? お金の用意が出来たってことなら何もこんなところでなくてもいいでしょう? この暑い中来たんだから、さっさとして」
横で立ちすくんでいる富多子に向けて煙をかける。
富多子は顔を少しだけしかめるが、そこから動かない。動けない。
「...もう、止めて下さい。私別に何もしていませんし、だから、学校の友達にもそういったことを言うのは......」
「友達なんていた?」
くすくすと肩を揺らして笑う。
「お願いしますタイラさん」
頭を下げた。
「私忙しいから、はい、用立てできたならさっさと出して」
タバコを足下に投げ捨て、ヒールでタバコを擦り潰した。
タバコの中身の茶色い葉っぱが灰色の地面にぶしゅりと撫でつけられた。
綺麗な白い手をぬっと富多子の方へ伸ばし、手のひらを富多子に見せて2、3度上下に揺らし、催促した。
「......お金は...ないです」
消え入りそうな声で訴える。
「じゃ、なんのために呼んだのよ!」
罵声を浴びせながら富多子の持っている鞄に手を伸ばした。
「こんにちは」
伸ばされた手を握ったのは、あざみだ。
宮前タイラに負けないくらい綺麗な顔で微笑んだ。
目の前にいるあざみを見て、宮前タイラは手を振りほどき、飛び退いた。
振りほどいた手は、自分の真っ白く綺麗なワンピースで拭く。
「やだ、ちょっとなにそれ。なんか変なものにでも触られた感じねそれ。あからさまに手を拭くなんて、失礼だよ」
笑いながら言うあざみに、顔がひきつる。
「久しぶりなんだから少し話をしない?」
あざみは自分が座っているベンチの横をとんとんと叩いた。
飛び退いたタイラの横には富多子がいるが、富多子は下を向いたまま目を合わせないし、何も言わない。
タイラは自分の体が動かなくなっていくのを感じた。
何も言えない宮前タイラは無言だが、足だけは彼女の気持ちとはうらはらにあざみの元へと近づいて行く。
富多子に助けて貰おうと彼女の方を見るが、富多子はやはり下を向いたまま動く気配は無い。
「さぁ。こっちへ来て」
真面目な顔をするあざみに、真っ白な顔になる宮前タイラはいつの間にかあざみのとなりに座るかたちとなった。
「久しぶりだねタイラちゃん、どう? 元気?」
「あんたどうしてここに? だって」
「ふふ。タイラちゃんを待ってたんだよ。いつかきっとここに来るって分かってたから」
真っ青に変わったタイラの唇は、先ほどまでグロスで輝いていた輝きは跡形もない。
「長かったなぁ。今日まで」
「嘘でしょ。やめてよ」
逃げようにも、あざみはしっかりとタイラの手を取っているので逃げることが出来ない。あざみの手の冷たさが、存在しない物だということを証明しているようだ。
「どういうのがいい?」
「なにが」声が震えている。
「うーん、そうだなぁ、一気に逝くのがいい? それとも......そうだな、苦しむ?」
「何言って...」
「半分になるってのもいいね。あ、頭だけ落とすってのもいいかも」
「止めてよだってあんた」
「そうかぁ、じゃぁ」
あざみはおもむろに立ち上がると伝言掲示板に目を向ける。
「快速が来るから」
くるりと振り返り、宮前タイラの顔を見てにっこりと笑う。
「よかったねタイラちゃん。一気に逝けるパターンみたい」
宮前タイラは富多子の方に顔を向けるが、
未だその場に立ちすくみ、鞄を抱えたまま下を向き続けている。
あざみの方に目を向けたとき、やはり彼女はそこにいなかった。
宮前タイラが見たものは......
線路、枕木の間に不自然に咲いた真っ青な紫陽花が一つ、風が吹いているのに揺れ動くことなく、そこにじっと咲き続けていた。
アナウンスが入る。
快速列車が通過しますのでご注意下さい。
宮前タイラはすっと立ち上がり、一歩一歩前へ歩く。
彼女は首を振り、嫌だ......嫌だ......と言葉を口に出そうとするが、口から声が出ることはなく、動かすことすらも出来ない。
叫びたいが無情にも声は出てこない。心の中、いや頭の中で叫んでいても決して外には聞えない。
力を込めて勝手に動く体を止めようとするが、足はどんどん黄色い線の方へと吸い寄せられていく。
富多子は下を向いたまま動かない。
遠くから電車がホームにせまる音が耳に入ってくる。
電車が目視で確認できるようになると、さらに恐怖に支配される。見える恐怖というのは見えない恐怖になんて比べようもないほどに恐ろしい。
_危ないですから、黄色い線の内側までお下がり下さい_
聞きなれている機械的なアナウンスが入るが、このホームには誰もいない。
足をするように、線路の方へと引き寄せられる。顔を左右に振る。涙が出る。手をばたつかせる。
綺麗に化粧した顔は歪み、マスカラは涙に濡れて、黒い涙が頬を伝う。
「やめて...」
足は一歩一歩線路の方へと近づいて行く。
力が入らない。
「おねがい...」
震える声は誰の耳にも届かない。
電車が入ってくる音がだんだん大きくなる。
「やだやだやだ」
体中に力を入れ抵抗するが、足は無情にも進み続ける。
ハイヒールが脱げて、地面に足がつく。しかし、その足の裏に感覚は無い。足の指に力をこめるが地面に擦られ皮が剥けた。
顔に生暖かい風が当たる。
電車に押された空気が無表情に顔を通過していく。
「やだ...おねがい...ごめん! ごめん! ごめん!」
『あやまるくらいなら さいしょから やらなければいいのに』
どこからかは分からない、声が聞こえる。
黄色い線がすぐそこまで迫る。
目の前には風になびかない真っ青な紫陽花。
看板の霊園の絵の中にも、同じような紫陽花が写っていた。
「いや......ぁぁ......」
声は自分自身にしか聞こえない。
黒い涙は白いワンピースに落ちて黒い水玉になる。
宮前タイラは後ろに倒れようとしたが、体はそれを阻止していた。
彼女の思考とはうらはらに体は前に進むことを望む。
黄色い線の真上に立った時、彼女の目が大きく見開かれた。息を飲み、顔面蒼白になる。
涙は止まり、全身に鳥肌が走り、無意識に両手の10本の爪を自分の顔に食い込ませていた。
恐怖だ。
黄色い線の外側に視線は固定され、その先、線路の間にあざみの笑う顔を見た。
肩を落として背中を丸めて立っているあざみの髪は、なびかない。 顔には綺麗な笑顔。
警笛が連続して鳴らされてうっとうしい。
機械的なアナウンスが入る。
すぐそこ、数メートルのところに、冷たくて重たい鉄の棺桶、もしくは巨大な焼却炉が迫ってきている。そんな電車よりも恐ろしいものが宮前タイラの目の前にある。
あざみが後ろで囁いた。
「つまんない。やっぱ快速じゃないほうがよかったかな」
その声が宮前タイラが聞くことになる最後の言葉となった。
彼女が最後に見たモノ、それは......
殺人鬼のような電車の顔、それと、十字を切る姿だった。
線路に引きずられるように落ち行く宮前タイラの白いワンピースは、経帷子に見えた。
『ぜんぜん違う。私が求めているのは......これじゃない』
あざみはタイラをひきつぶして数十メートル引きずり急停車した電車の下で、ぶつ切りになって動かなくなった宮前タイラの腹辺りの赤と白の混じったまだ温かみのある肉の塊を掴み、手の中で弄ぶ。
『......うん、違う。これじゃない。こんなんじゃない。私が求めているのはこうもっと違う、そう、違う誰かだ』
手の中で弄んでいた肉の塊を握り潰すと、真新しく温いべとつく脂をしたたらせた肉を、当然のように口の中に放り込み、人の脂でぎとついた手のひらを真っ赤な舌でべろりと舐めた。
真っ赤な鮮血を止めどなく溢れさせるその肉の塊は、黒い亡霊に喰いつくされ、流れ出た血は迷うこと無く真っ青な紫陽花の根元にたどり着いた。




