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【イチ】

 【イチ】 新町 桜 



 肉が腐る時のあの独特の臭い。

 眉をしかめることになるが、本能はそれを欲する。

 腐りかけの肉が発する甘い香りが鼻に届くと、人間は皆、つばを飲む。


 それが一番のご馳走だと昔は言った。

 現在ではそれを食すことは禁じられている。

 腐りかけの汁を吸いこむあの感じは一度知ると二度と忘れることはできない。





  新町桜はK大学に通う大学1年生だ。

 1限目から講義がある時は満員電車に揺られて行かなければならない。


 彼女はこの満員電車が大嫌いだった。

 目と鼻の先に汗をかいたおやじがいるだけで、バイト代をはたいて買ったお気に入りの洋服に匂いが付きそうで、朝から不機嫌になる。


 梅雨も明け、これから本格的に暑い季節になる。あと半月大学に行けば2ヶ月という長い夏休みが待っている。

 その為に5月のゴールデンウィークから休み無しにレストランバーでのバイトをこなしてきた。


 お金も貯まったし、この夏は彼氏と、それから仲の良い友人とその彼氏とで泊まりがけで海に行こうという話になっている。



 行き先は伊豆だ。

 海水もエメラルドグリーンで海底まで見え、関東とは比べものにならないくらいに綺麗だとパンフレットで読んだ。


 新しい水着も買ったし、体重だって4キロも落とした。

 夏は短い。それに若い時なんて一瞬で終わるという。多少無理をしてでも遊ぶべきだ。いつまでもその若さが続くと思うな! 

 と、バイト先の店長が言っていたことを思い出した。



「桜、おはよう。今日で試験も終わるし、あとは待ちに待った夏休みだよ!」

「そうだねー! すっごい楽しみなんだけど」


 S321教室で楽しそうに話をしているのは、桜とその友人の宮前 タイラだ。

 伊豆の予定を話し合う彼女たちの心は既に伊豆に飛んでいる。

 桜の隣には彼氏の高津用賀が座っていて、楽しそうに話に加わっていた。


「なんかさ、残念だよね、だってほら、一緒に行くはずだったでしょう? でも......ねぇ?」

「……あぁ、えっと、そうだね...残念だったよね……でもさ、あれだし、ほら、楽しまなきゃ!」


 ね! っと桜は暗くなった彼氏の腕に絡みつき、肩に頭を乗せた。



 タイラにも話を変えさせようと目で合図をし、まずいことを言ったとばかりに舌をぺろっと出した。


「そうだよね。桜が言う通りいつまでも考えてちゃダメなんだよね。よーし! テストがんばる!」


 教授が入って来たのを合図に3人は席に戻り、バッグの中から必要なものだけを取りだした。


 桜は7月いっぱいはバイトを入れている。


 8月の最初に伊豆へ行く予定になっているため、もちろん今日もバイトに向かう。店長がまた気の利く人で、旅行に行く一週間前のお給料の半分を、最終バイト日に現金で払ってくれるということだ。


 それでも3万円ちょっとのお金になる。大学生にしてみたらいいお小遣いだ。

 大学生がしたいことを応援してくれる店長なので、従業員からの評価も高く、また信頼度も高い。



 22時の電車ともなると、仕事帰りに一杯やってきたサラリーマンで朝と同じくらい混み合っている。

 朝と違うところは、一日働いて体中に汗をかき、それが臭いにおいとして充満しているところか。

 桜は今までの疲れも伴ってか気分が悪くなり口元をタオルで覆う。下を向いて目を閉じ、次の駅まで気持ちの悪さをこらえた。幸いにして各駅停車なので一駅の間隔は短い。電車を降りると近くのベンチに座り、乱れている呼吸を整えた。外の空気を吸ったからか、気分はいくぶんよくなった。というより、むしろ何事もなかったようにけろりとしている。

 膝の上に置いたバッグの中からペットボトルの水を取りだして飲んで、汗を拭いて呼吸を深く取って気持ちを落ち着かせた。

「大丈夫?」

 不意に話しかけられて横を向くと、藤が丘あざみの姿が目に入った。

 彼女はS女子大学に通う桜と同じ高校だった時の友人で、中学生の頃から仲が良かった。

 あざみを見た桜は絶句し、顔に浮かぶ驚きを隠そうともしなかった。

 今飲んだ水が胃袋で温められ逆流してきそうになり、タオルで口元をおさえた。

「やだ、ちょっとそんなにびっくりしないでよ! 久しぶりすぎて友人の顔を忘れたなんて言うんじゃないでしょうね」

 くすりと笑いながら冗談を言い、かわいらしい笑顔で桜の顔を覗き込んだ。

「あざみ...どうして...ここに? だってあんた...」

「ちょっと...用事があったからここに座ってたんだけど、そしたら桜ちゃんが降りるのが見えたから来てみたの。具合悪いの? 顔色悪いよ。大丈夫?」

「...用事って...」

「うーん、なんだったかなぁ。とても大事なことなんだけど、それが不思議なことにね、あまり思い出せないの」

「大事な.........こと?」

「そう。たぶんきっとそのうち分かると思うけど? 今は分からなくてもいいんじゃないかな。そんなかんじ。ねえ、どう思う?」

「......何......それ」

「具合は? どう? 脂汗?」

  あざみの手を軽くふりほどき、ありがとう、もう大丈夫だからと言う桜の手元は震え、持っているペットボトルの水が揺れている。

「...外ももうだいぶ暑いからね、体にはまだまだ気を付けていてよ。じゃ、あたし、たぶん人を待たせてるから先に行くね」

 桜の背中をぽんと叩くと、立ち上がり、桜の目の前を横切った。

 人を待たせている?

 話と違うと思うが、言葉がでてこない。

 ペットボトルは地面落ち、急いで拾い上げて立ち上がり、あざみの通った方に目をやったが、そこには酔っ払ってふらついているサラリーマンの姿があるだけだった。

 既に階段を駆け下りて行ってしまったのか。あざみの姿はどこにも見当たらなかった。

 桜は身震いをしてバッグを胸の前でぎゅっと抱き締めた。

 震える体を落ち着かせるためにもう一度ベンチに座り直した。


 『墓地のご相談は遊楽霊園へ』という看板には見覚えがある。

 ここにはあいつが眠っている。

 思い出したくもないあいつの骨が、動くことなく静かに冷たくて暗い石の壁に囲まれて置いてあるはずだ。

 その先には優雅に流れる川が、あのときと変わりなくそこに流れている。

 生臭い川の臭いを運んできた冷たい風に、全身に鳥肌が立つ。

 体中の毛という毛が逆立った。

 心臓は早鐘を打ち、無意識に左手首にしている数珠に手を伸ばすと、触れた瞬間に数珠はばらばらになり、辺り一面に飛び散った。

 数珠を拾おうと、転がり続ける数珠の後を追うが、いくつかは線路に落ちてしまった。


 快速列車が通過します。


 機械的なアナウンスが耳に届き、遠くの方から電車が近づいてくる音が聞こえる。


 線路が脈打ち振動し、そこにこぼれた数珠が落ちてはねた。思い出したように一歩、二歩、後ずさって距離を保つ。

 警笛が鳴らされる音がうっとうしく耳にこびりつき、直視する看板に浮かぶ墓の絵を確認したすぐ後に、快速列車が豪快に通過して行った。


 ーーーーーあの時と同じように。

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