第三話 国境の戦い(1)
結果から言えばレオンハルトたちはレウスカ空軍の爆撃機を防ぐことができなかった。二人は四機を撃墜したものの、残る三機が国境線を突破し、レウスカ地上軍の攻勢に備えていたオーヴィアス陸軍が大打撃を受けたのである。
レウスカ地上軍はこれに乗じて三ヶ所から国境線を超え、オーヴィアス領内へと侵入し、国境の戦いと呼ばれることとなる戦闘が各地で群発した。
国境から50キロほどしか離れていないサリスベリー基地も当然のことながらこの戦いの戦場の一つとなっており、レオンハルトたちも任務を制空権掌握に切り替え、レウスカ空軍との死闘に身を投じることとなった。
一方、セントオルバンズに拠点を移していた楼州連合軍最高司令部は、領内深くへの侵入があり得るとしてウェルズリーへの帰還を決定。SHAPoLの迷走は、オーヴィアス国民や前線将兵の不信を招く有様であった。
書類を抱えた職員たちが廊下を走り回っている。前線近くへ進出したかと思えば、攻め込まれた途端に首都へと舞い戻ったSHAPoLは大混乱といっていい慌ただしさに包まれていた。
職員たちの中には、このような醜態を晒した首脳陣、特にウェルズリーへの帰還を強く主張した作戦部長、東ベルク陸軍所属のハーゼンバイン大将に対する不満を抱いている者がいる。
さて。そんな喧噪から取り残されたフィッシャー大将とその部下二人は、執務室で書類整理に勤しんでいた。
「閣下、こちらのファイル整理が終わりましたのでご確認ください」
「わかりました。そこに置いておいてください」
ラングリッジ中尉がうなずき、十冊ほどのファイルを机に置く。それをちらりと横目で見ながら、ウォーターフィールド大佐は自身の書類整理を続けていた。
彼らが整理しているのは、過去に司令部で扱われた雑多な書類の数々だ。戦闘記録ですらないそれらの整理はどう考えてもSHAPoLでナンバー2に位置するフィッシャー大将の仕事ではなく、ウォーターフィールド大佐は雑務しか扱えない現状に内心不満を抱いていた。
「大佐、そちらの整理が終わったら、ニールセン人事部長のところから過去二十年分の職員名簿をもらってきてください」
「はっ」
また書類が増えるのか、と声に出さず愚痴る。今度は職員名簿だ。自分がやっている作業の意義が見いだせないというのは思ったより辛い。
ウォーターフィールド大佐は手元の書類をすぐに片付けると、人事部長の執務室へと向かった。
ラングリッジ中尉は書類を整理しながら横目で見つつ、ウォーターフィールド大佐の気配が消えたのを見計らって、フィッシャー大将に問いかけた。
「閣下、大佐にお教えしなくてよろしいのですか?」
ウォーターフィールド大佐は明らかにこの仕事に不満を抱いている。ラングリッジ中尉としては、フィッシャー大将がこの仕事の真意――SHAPoL上層部にいるというスパイの調査――を教えないことに疑問を感じていたのだ。
フィッシャー大将は薄く笑いながら答える。
「良いのですよ。スパイ疑惑の調査をしていると知らない彼には妙な先入観がない。その方が良い結果を招くと思いますからね」
「はあ……。そんなものでしょうか?」
ラングリッジ大尉は納得のいかない表情をしていたが、フィッシャー大将は笑顔のまま書類の確認に戻ってしまった。
フィッシャー大将にしても、これといった根拠があるわけではない。
ただ、このような閑職にあって、不満は持っても腐ることなく真面目に仕事を続けてきた彼ならば、気の遠くなるような書類の山から何かを見つけるのではないか――
フィッシャー大将はそんな期待をウォーターフィールド大佐に抱いていた。
「職員名簿を受け取ってきました。ここに置いておきます」
書類の山を持ったウォーターフィールド大佐が帰ってきた。フィッシャー大将が席に着いたままにこやかに迎える。
「ご苦労様です。ラングリッジ大尉と手分けして、整理をお願いします」
管理者が適当だったのだろうか、年度すらバラバラな書類の山の前でウォーターフィールド大佐が肩を落とす。ラングリッジ大尉はその様子を見ながら、こんな調子で本当にスパイ疑惑の調査が進むのだろうか、と不安に駆られた。
しかし、この二週間後。フィッシャー大将の期待通りにウォーターフィールド大佐がスパイ疑惑解明の糸口を発見するのである。
一方その頃、国境線では奇襲攻撃を受けたオーヴィアス楼州軍が戦線の再構築を終えて、レウスカ地上軍を領内に引き込みつつ、包囲殲滅するという作戦に出ていた。
戦線正面を支えるのはオーヴィアス陸軍の第1歩兵師団を始め、自由ラピス陸軍第1軍団麾下の三個旅団であり、レウスカ人民軍が領内に侵入した頃合いを見計らって後方を遮断するのはオーヴィアス陸軍の精鋭、第1機甲師団だ。
作戦としてはオーソドックスであり、それだけに成功の可能性も高いと思われていたが、これを統括する上級司令部が存在せず、その役割を代行するはずだったSHAPoLは前線から離れたウェルズリーへと舞い戻ってしまったため、作戦が上手く進行していない。
このため第1機甲師団が後方遮断のタイミングを掴めないまま、戦線正面がずるずると後退しており、辛うじて環太平洋条約機構空軍の支援によって持ちこたえていたのである。
制空権掌握を任務としていたレオンハルトたちは、攻撃機による対地支援を途切れさせることのないよう、レウスカ空軍の戦闘機部隊と激戦を繰り広げていた。
『敵の数が多い。こちらに支援を回してくれ』
『ネガティブ。どこも手一杯だ』
レオンハルトのすぐ近くで敵に取り囲まれた部隊の交信が混線している。このような通信は戦場のどこでも交わされていた。
開戦以来、彼ら空軍は常に量的劣勢に立たされている。この戦場でもそれは変わりなかったが、以前は時に絶望的なほどの戦力差がついていた。それが、今は機体やパイロットの質で何とかカバーできるほどになっている。
「ふむ。敵の物量にも限界が出てきたか?」
『そうかも知れません。私たちだけでも相当な数は撃墜しているはずですし』
そもそも、国力で言えば複数国家の連合体であるPATOの方がレウスカよりも格段に上だ。
ここまで押し込まれたのは、レウスカが戦争に国家の全てを傾けることができるのに対して、東側諸国は長年の平和――冷戦という危うい平和だが――に慣れていた国が多く、また、冷戦の終わりを予兆させる統一連邦の改革もあって、有り体に言えば油断していたからだと言える。
そんなことをつらつらと考えていると、管制官から通信が入った。
『こちら、早期警戒管制機。ミスタ血塗れの鷲、聞こえますか?』
皇海上空の戦い以来、ところどころで聞こえるようになった「血塗れの鷲」という異名だが、レオンハルトが直接呼びかけられるのは初めてのことだ。思わず苦笑する。
しかも、その声には聞き覚えがあった。
「こちら、アイギス1。感度良好。久しぶりだな、ルナール6」
通信相手は、ラピス戦線で何度も世話になった女性の管制官だった。彼女たちAWACSの管制官は、ラピス降伏後もジャリー中将率いる自由ラピス軍の一員として、PATO空軍における戦闘管制業務に従事していたのである。
『アイギス1、前方から敵機が接近しています』
AWACSとデータリンクした戦域情報システムの情報が更新される。広域に展開しているレオンハルトたちアイギス隊に対して、同様に散らばった敵編隊が迫っていた。
「了解。各機、聞こえたな? 全兵装使用許可。各自はそれぞれの判断で迎撃しろ」
『了解』
散らばったアイギス隊の各員が応答し、次々に戦闘へ参加する。レオンハルトとカエデも手近な敵機を正面から迎え撃った。
「アイギス1、交戦」
交戦宣言をしつつ、スロットルを開けて加速する。彼我の距離がぐんぐん縮まっていく。すれ違うその瞬間、両者の機関砲が火を噴いた。
「スプラッシュ1」
勝ったのはレオンハルトだ。敵の戦闘機は炎をあげて墜落していく。キャノピーが吹き飛び、パイロットが脱出した。
『アイギス1、ナイスキル。続けて3時方向より敵編隊接近。警戒してください』
息つく間もなく次の敵だ。いつものこととはいえ、徒労感は否めない。
右方向へ旋回し、敵を正面で迎え撃とうとする。その時、前方に位置する友軍機から緊急通信が入った。
『メイデイ! メイデイ! メイデイ! “百合”のマークにやられた! 気をつけ――』
ザザッという雑音と共に通信が途絶える。その直前、彼は“百合”のマークの出現を告げていた。レオンハルトたちに緊張が走る。
『……アイギス1、聞こえましたね。敵はエース部隊です』
「ああ。……私たちの獲物だ」
低い声でつぶやいたレオンハルトは翼を振ってカエデに合図すると、WAIS上に示された“百合”のもとへと一直線に飛んでいく。巡航速度のF-18Jならば広い空域もあっという間だ。すぐにSt-37の特徴的な細いシルエットが見えてくる。
純白色に見えるあの機体、そして何よりも目立つ機体側面に描かれた百合の意匠は、まさしく何度も砲火を交えた宿敵だ。
「突っ込むぞ!」
レオンハルトとカエデは、今まさに友軍機へと襲いかからんとしていた“百合”と“鴉”を、真横から叩きつけるように突入していった。
寸前で気づいた“百合”と“鴉”は攻撃を中止し、とっさに左右へ散開する。レオンハルトたちはその間を分断するように通り抜けていった。
「ぐっ……!」
急減速からの急旋回に、さすがの耐Gスーツも強烈なGを緩和しきれず、レオンハルトの視界が暗くなっていく。ブラックアウト寸前の意識が何とか持ちこたえたその時、目の前には“百合”の無防備な後ろ姿があった。
「もらった!」
“百合”の姿をその視界に捉えるとほぼ同時にトリガーを引く。だが、機銃弾はわずかに主翼の先端を掠っただけで、“百合”はサイドスリップでレオンハルトの攻撃を躱していた。
舌打ちして、追尾を始めようとする。その瞬間、“百合”が視界から消え去り、コックピットにアラームが鳴り響いた。
「何!」
『アイギス1、ブレイク!』
ルナール6の言葉に、反射的にチャフとフレアを撒き散らしながら、右斜め下方向へと切り込むように機体を旋回させる。スロットル全開で地面スレスレまで降下したレオンハルトは、機首を思い切り引き上げた。
追尾していたミサイルは、その機動について行くことができずに地面へ激突。地上で大きな爆発が起きた。冷や汗が頬を伝う。
『隊長! 大丈夫ですか?』
「ああ。何とか、な。君も大丈夫か?」
『大丈夫です。それよりも隊長、後ろに“百合”がいます。気をつけてください!』
WAISを見ると、確かに後方に敵の姿がある。先ほどの回避行動の隙にレオンハルトの後ろを取ったのだろう。レオンハルトが撃墜を確信した攻撃を避けるだけでなく、冷や汗をかかせるほどの巧みな攻撃を繰り出し、撃墜できずとも後ろを取る。
「厄介な敵だ……」
レオンハルトはコックピットで独りごちた。
「厄介な敵ね……」
奇遇にも同じ頃、St-37のコックピットに収まるソーニャも、レオンハルトと同じ台詞をつぶやいていた。
先ほど断続的に繰り返された“悪魔”の攻撃は、ソーニャにとっては冷や汗どころの話ではなかった。文字通り、心臓を鷲掴みにされるような恐怖と隣り合わせだったのである。
『リーリヤ、気を引き締めていこう。分かっていたこととはいえ、気を抜けばやられる』
「もちろん。絶対にここで墜とす……!」
ソーニャたちの隊長であるカザンツェフ中佐を始めとする、第71戦闘機連隊のパイロットたちの多くは、未だ療養中で戦線復帰できずにいる。
そして、“悪魔”たちの前に散った戦友たち――。彼らの仇を討つべく、ソーニャはこれまでになく闘志に溢れていた。
ソーニャは“悪魔”の後ろを取っている。だが、これがあまりアドバンテージにならないこともまた理解していた。“悪魔”はしばしば絶望的な状況から甦り、こちらに痛打を加えている。油断するわけにはいかなかった。
「ヴァローナ、そっちは頼んだ」
『任せろ。こいつは俺の獲物でもあるからな』
“悪魔”と共に飛んでいるF-18Jは、飛び方の癖から見て、いつも“悪魔”の僚機としてくっついている敵だろう。“悪魔”ほどではないものの、同様に厄介な敵である。
ソーニャはヴィクトルの機体を横目で見送りつつ、正面の“悪魔”へと意識を向けた。右へ左へ旋回する敵を捕捉するのは至難の業だ。じっくりとタイミングを待つ。
そして、敵の動きが少しだけ単調になったその瞬間、ソーニャはトリガーを引こうとした。
「……いや、ここじゃない!」
トリガーを引こうとした指を止め、機体を少しだけ左へ向ける。ソーニャの直感は正しかった。“悪魔”はソーニャの目の前へとサイドスリップしてきたのである。
今度こそ、撃墜を確信したソーニャ。そして、St-37の機関砲が火を噴いた。