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宝石戦争(旧版・更新停止)  作者: 東条カオル
第三章 敵艦、見ユ
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第五話 スパイ・エルンスト

 帝都から見て東に位置する東山の西麓には、歴史ある寺社が軒を連ねている。その中にあって、洋風建築ながら古めかしい外観によって周囲と奇妙な調和を見せる建物が、四条通の突き当たりに建っている。

 八雲神社境内のすぐそばに立地するこの建物は、国防省管轄下にある帝都軍事病院だ。


 皇海上空での航空戦が終わった直後から、戦場に一番近かったこの軍事病院には、撃沈されたフリゲートの生存者や至近弾を受けた長門の乗組員、撃墜されて脱出した戦闘機のパイロットなどが多数運び込まれている。

 レオンハルトが獅子奮迅の活躍を見せるきっかけとなったカエデも、海軍の救難ヘリで救助された後、直接この病院へ運び込まれていた。脱出の際の衝撃で右腕を捻挫し、さらに極寒の海を短くない時間、漂流していたことで若干衰弱していたものの、点滴を受けてから二時間ほどで元気を取り戻している。


 戦闘から一夜明けたこの日、父親のクシロ中将が密かに手配した一人用の病室で、カエデは女性担当医のメディカルチェックを受けていた。


「――うん。もう大丈夫ですね。明日にでも退院できますよ」


 カエデより少し年上、二十代後半から三十代前半くらいと思われる女性医師が医療用携帯端末を見ながらそう言うと、カエデは胸をなで下ろした。いつレウスカが再度の攻撃を仕掛けてくるか分からない現状、一刻も早く現場に復帰したかったのだ。


 自身の詳しい容態について説明を受けていると、突然ドアがノックされた。にこやかに来客を迎えようとした女性医師が、ドアを開けた途端に表情を凍り付かせる。

 立ちすくんだ彼女を押しのけて病室へ入ってきたのは、帝国憲兵隊の将校と帝国公安局(IDPS)の制服を着た男だった。二人はカエデに対して一礼すると、身分証を示した。


「帝都憲兵隊副隊長の大内です」

「IDPSの佐藤だ」


 オオウチと名乗った憲兵の方は中佐の肩章をつけている。明らかに彼の方が目上であるにも関わらず、彼の態度は極めて礼儀正しい。それに比べて、サトウと名乗ったIDPSの男は所属部署すら明かしていない。態度は非常に横柄であり、そもそも「サトウ」が本名かどうかすら定かではない。

 一体どうして憲兵と公安がやって来たのか。カエデの警戒心が呼び起こされた。


「空軍中尉の玖代(クシロ)です。何のご用でしょうか」

「君は第231飛行隊の隊員だったね? 実は君の部隊の隊長であるエルンスト少佐がスパイ容疑で逮捕されたのだ」


 オオウチ中佐の言葉に思わず絶句する。まさか、と思いつつも、遂にこの時が、という思いもある。“エルンスト”という謎のスパイの存在。公安当局が逮捕に踏み切るほどの何かがあったのだろうか。


「ついては、部下である玖代中尉にも事情聴取をしたい。すぐに準備するように」

「ちょ、ちょっと待ってください! 彼女は当病院の患者ですよ!」


 呆然と目の前で進む会話を眺めていた女性医師が、ようやく会話に割り込んでくる。だが、サトウと名乗った男は表情一つ変えることなく女性医師をあしらった。


「明日にも退院できるのだろう? ならば今日退院しても問題ない。こちらは我が国だけでなく、環太平洋条約機構(PATO)加盟国全体の問題となっているのだ。いかに彼女が玖代中将の娘と言っても、たかが一人の軍人如きの体調と比べられるものではない」

「佐藤さん、言葉が過ぎますよ」


 オオウチ中佐がたしなめると、サトウと名乗る男は鼻を鳴らして黙った。オオウチ中佐が持参していたジュラルミンケースから書類を取り出す。


「失礼した。一応、本件に関しては令状を取っている。取り調べに関しては、君に拒否権はない」

「そう、ですか」

「あくまで、スパイ疑惑があるエルンスト少佐について詳しく調べるために、周囲の人物からも聴取をするだけだ。退院は明日だったね? 明日、改めてこちらに来るので詳細はその時に」


 そう言うと、オオウチ中佐は立ち上がる。一方、IDPSの男は不服そうに口を開いた。


「大内中佐、勝手なことを言ってもらっては困る。本件の調査はIDPSの管轄だぞ」

「軍人の取り調べは帝国憲兵隊の管轄ですよ。現にエルンスト少佐の取り調べも我々が担当しているじゃないですか」

「……ならば好きにするが良い。このことは上に報告させてもらうぞ」


 サトウと名乗る男は捨て台詞を残して部屋を出て行った。オオウチ中佐は肩をすくめると、カエデと女性医師に一礼して部屋を後にした。


「玖代さん、どうします? 退院を引き延ばすことも可能ですけど」

「いえ。これ以上、こちらにご迷惑をかける訳にもいきませんから」


 女性医師の申し出をにこやかに断りつつ、カエデはレオンハルトのスパイ疑惑について考えていた。

 レオンハルトがスパイだったとして、そこから漏れる情報はどれだけのものになるだろうか。果たして、PATO全体を揺るがすほどの問題となるのか。それに、いくら華族出身とは言え、ただのパイロットに過ぎない自分のところまで情報が降りてくるような大物スパイだ。危険な前線を飛ぶ戦闘機パイロットがその大物スパイとは思えない。


 もう一つ。あのIDPSの職員が口にしていたことで引っかかることがある。

 彼はカエデの父親について言及していたが、むしろそちらの方が本題なのではないか、と感じたのだ。

 IDPSは公安省の下部組織だが、その公安省は国防省に対して強いライバル意識を持った組織である。それに加え、“政”の久河(クガ)・“財”の久遠(クオン)・“軍”の久方という、いわゆる御三家支配体制を嫌う複数の華族が、公安省を牙城としている。

 ヒサカタ家の傍流であるクシロ家の長女。その上官がスパイ疑惑で逮捕され、カエデ自身も取り調べを受ける。これだけでは御三家体制を揺るがすことはできないものの、塵も積もれば山となる。


 貴族である以上、軍人であっても政治とは縁を切れるものではない。幼少期から磨き上げられてきたカエデの政治的な嗅覚が、陰謀の匂いをかぎ取っていた。


 女性医師が病室を出た後、カエデは病室備え付けの電話を取る。隊長はスパイではない――。その思いに突き動かされるように、カエデは電話がつながった瞬間、畳み掛けるように口を開いた。


「もしもし。楓です。お父様は今どちらに?」


 レオンハルトの逮捕劇は、いつの間にか華族の政治闘争へとその様相を変えつつあったのである。




「レオンハルト・エルンスト。西ベルクのアイクスフェルト県出身で、1986年に西ベルク空軍に入隊。翌年、ヴァイスブルクの壁を越え、東ベルクを経由して日本へ亡命、か」


 小窓が一つついているだけの小さな部屋に、神経質そうな男の声が響く。

 ここは帝都右京区を流れる淡谷川の畔に位置する、帝都憲兵隊右京拘置所の取調室だ。昨日、憲兵と公安に逮捕されたレオンハルトは、この拘置所に連行されて取り調べを受けていた。

 連行されて丸一日が経ち、取り調べも十回を超えているのだが、取調官は毎回替わっている。今回、レオンハルトの取り調べを行っているのは、逮捕の際に連行する車の中で待機していた憲兵少佐だ。分隊長、と呼ばれていたところから察するに、それなりの責任者なのだろう。彼が出てくるということは、遂に取り調べに本腰を入れてきたのかも知れない。

 カワハラと名乗った憲兵少佐はレオンハルトの経歴を見ながら質問をぶつける。


「軍に入って一年で亡命かね。その一年間は何をしていたのだ?」

「主に機体習熟のための訓練です。この国の空軍でもそれは一緒だと思いますが」

「ふむ。なるほどね。訓練は一日中あったのかな? 共産国の軍事訓練は厳しそうだが」

「いえ。基本的には朝から夕方までで、夜間訓練は別にありました。一週間に一日は必ず休養日もあったので、余暇を楽しむ余裕は十分でしたよ」


 カワハラ少佐はもっともらしく頷きながら質問を続ける。


「と言うことは、だ。空軍パイロットとしての訓練以外にも、他の訓練を行う余裕はあった訳だな。例えば…… そう、工作員としての訓練とか」

「空軍パイロットにスパイ教育を施してどうするんです。人材の無駄遣いでしょう」

「かも知れんな。だが、この経歴は君の自己申告に基づくものだ。全てが真実とは限るまい?」


 実に嫌らしい取調官だ。怒鳴るばかりだったこれまでの取調官とは全く異なるタイプだが、レオンハルトとしては一番やりにくいタイプでもある。


「まあ、経歴の話はこの辺で良いだろう。君の証言の真偽がどちらであれ、証明する手立てがないのは君も私も同じだからな」


 カワハラ少佐はそう言うと、椅子の脇に置いたジュラルミンケースから書類を取り出した。


「さて。そろそろ、スパイ疑惑をかけられた理由を知りたくはないかね?」

「知りたい、と言って教えてもらえるんですかね」

「教えるとも。まあ、聞きたまえ」


 カワハラ少佐は書類をめくり、逮捕の経緯を説明し始めた。


 そもそも、このスパイ疑惑の根本には、日本の国家情報局(NIA)が東側諸国に潜入したスパイの情報を察知したことに始まる。当初は大して重視されていなかったものの、宝石戦争開戦以来の劣勢には情報漏洩が関わっているのではないか、という意見が出てから急に情報整理と調査が始まった。

 そこで分かったのは、該当のスパイが西ベルクの情報機関(シュタージ)に所属するエージェントで、東ベルクを経由して日本へ入国した、ということだった。それ以降の足取りは不明であるものの、そのスパイが“エルンスト”という男であることだけが調査で判明している。

 エルンスト――。本名ともコードネームとも判別のつかない名前だが、エルンストという姓の、同じ経歴を持つ男が日本空軍に在籍していたことで、IDPSは一挙に要員を投入して追加調査に移った。

 これが、レオンハルト・エルンストがスパイ疑惑で逮捕されるに至った経緯である。


 そこまで説明し終わったカワハラ少佐は、書類の中から一枚の写真を取り出した。それは、レオンハルトにも見覚えがある写真であった。


「先日、君はこの男と歌舞伎町で会っていたね。東見調査事務所、だったか。この男は一体何者だ?」

「……大した調査力だが、その調査力をその事務所に向けるという考えはなかったのか?」


 動揺したのか、レオンハルトの口調が丁寧なものから普段の口調へと変わってしまっている。それに気づかぬ様子でカワハラ少佐はニヤリと笑った。


「もちろん、令状を取ってIDPSが捜査官を派遣したのだがね。事務所はもぬけの殻だったそうだ。だから君に聞いているんだよ」

「……その男には依頼をしていただけだ。それ以外の関係はない」

「依頼、かね? どんな依頼だったか言ってみたまえ」


 カワハラ少佐は携帯端末を取り出すと、そこからケーブルを引き出して自分の首の後ろに突き刺した。思考によってコンピュータを操作する想念技術。それを実現する手段として、開発された神経接続口(ニューロポート)を通じて、脳と携帯端末を接続したのだ。

 レオンハルトの証言や、それに対するカワハラ少佐の所感が即座に携帯端末にデータとして蓄積され、これがネットワークを通じて、この案件に関わる全ての捜査員に共有されるのだ。今頃、IDPSではレオンハルトの証言を分析する準備に取りかかっているだろう。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、カワハラ少佐はレオンハルトの証言を待った。


「……妹を、探している。彼に依頼したのは妹の行方だ」

「妹だと?」


 今まで調べ上げられたレオンハルトの経歴の中で、家族構成は両親の存在しか明らかになっていない。携帯端末には、偽りの証言か、というカワハラ少佐の所感が付け加えられた。


「私は妹と一緒に壁を越えようとした。だが、その直前に国境警備隊に見つかって追われていたんだ」


 レオンハルトの回想は続く。


「私たちは二手に分かれ、私が警備隊を引きつけた。妹が壁を越えたのを見届けた後、私は別の場所から壁を越えた。だが、落ち合うはずだった場所に妹はいなかった」

「ほう……」

「一ヶ月ほど東ベルクで探していたが、妹に似た女性が日本に向かう便に乗った、という話を聞いた。だから私は日本に来たんだ。私はありとあらゆる手段で妹を探しているが――」

「――見つかっていない、という訳だな」


 カワハラ少佐が台詞を引き取る。レオンハルトは意気消沈した様子で頷いた。


 もっともらしい話であり、レオンハルトの落ち込んだ姿も演技とは思えないほどだったが、カワハラ少佐には別の所感があった。


「本当に君の妹は壁を越えたのかな? 壁を越える前に捕まり、君をスパイとして働かせるための人質になっているのではないかね?」

「くどいぞ。私はスパイなどではない。妹が捕まったかどうかは分からないが、少なくとも人質になっているということも私は知らない。それに何度も言うようだが、スパイが最前線を飛ぶパイロットになりすますメリットがどこにあるんだ?」

「それを聞いているのだ。なぜシュタージは君を前線部隊へ送り込んだのかを、な」


 話は平行線を辿っている。レオンハルトがスパイを否定すればするほど、カワハラ少佐はレオンハルトがスパイだ、という前提で質問を投げかけた。


 そして、何度も繰り返す内にレオンハルトもようやく気づいた。彼らはレオンハルトをすでにスパイと決めつけており、その前提で捜査を行っているのだ、ということを。


 レオンハルトは、それに気づくとそれまでの態度を一変し、質問に対して沈黙を貫くようになった。

 カワハラ少佐はそれを意に介さず、質問を続けていたのだが、それも突然ドアが開いたことで中断する。入ってきた部下と思われる憲兵がカワハラ少佐に耳打ちすると、それまで微笑を貼り付けていた表情が初めて曇った。

 レオンハルトが興味深くその様子を見ていると、カワハラ少佐は苦々しそうな表情でこう語った。


「国防大臣から君を釈放するように命令が下った」

「国防大臣が?」


 レオンハルトが首を傾げると、カワハラ少佐の表情はますます渋くなる。


「うむ。レウスカ太平洋艦隊が日本近海に接近しつつある。帝国海軍はこれを迎撃するために艦隊を動かすのだが、敵の空中戦艦を警戒するために空軍にも大規模な支援を要請したのだ」


 そして、その支援に当たる部隊として、昨日の戦いで大活躍を見せたアイギス隊に白羽の矢が立ったのである。


 アイギス隊は現在、レオンハルトとカエデが不在の状態であり、ジグムントが代理隊長として部隊を率いている。そして、ジグムントが代理隊長を務めることとなった一連の経緯を聞いた、第1艦隊司令長官のクシロ中将が、レオンハルトの臨時釈放と前線投入を主張した、というのである。

 当然ながら、この一件にはカエデが関わっている。だが、そんなことを知る由もないレオンハルトは、目の前で進む事態に呆然とするばかりであった。


「国防大臣はクシロ中将の主張を認め、総理もこれを追認した。よって、君は特別に釈放される」

「そうですか……」

「だが、容疑が晴れた訳ではない。君には監視をつけるし、第6航空団にはIDPSへの協力者もいる。君が逃亡しようとすれば、即座に撃墜するように命令が下っている」


 細々とレオンハルトの監視体制について説明した後、カワハラ少佐はレオンハルトを促して玄関まで同行する。玄関には見るからに高級そうな黒塗りのセダンが止まっており、その脇には見慣れた女性が立っていた。


「隊長、ご無事で何よりです。酷い目に遭いませんでしたか?」

「クシロ……。そうか、君がこれを」


 レオンハルトの言葉を遮るように、カエデは人差し指を立てて自分の口元に当てた。


「とにかく、急いで出撃準備をしましょう。ジグムントたちはもう出撃しています」

「分かった。……カワハラ少佐、世話になったな」

「ふん。先ほども言ったが、君は未だスパイの第一容疑者だ。監視もついている。逃げようと思うなよ」


 捨て台詞のように吐き捨てると、カワハラ少佐はきびすを返して建物の中へと戻っていった。レオンハルトとカエデは顔を見合わせて苦笑する。

 何はともあれ、これでアイギス隊を引っ張る二人が戦場へと復帰することになったのである。


 そして、ちょうどその頃。戦艦大和を旗艦とする連合艦隊が、迫り来るレウスカ太平洋艦隊をまさに視界に収めんとしていた。

 時に1992年1月9日。第二次大戦以来の大規模海戦となる、第二次皇海海戦の幕が開いたのである。

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