第十話 月の間作戦(3)
ムーンチェンバー作戦は、急造された作戦案だった上に、首都からの撤退という作戦の性質もあり、状況として未だ不明瞭な点は多い。
特に、レウスカ人民軍がなぜ作戦開始からしばらく経ってようやく攻撃を再開したという点については、戦時中も大きな謎として環太平洋条約機構が検証作業を続けていた。
結局、この謎は戦後に行われた国際軍事法廷で一部が明らかになっている。
当時、キングストンを包囲していた第2軍司令官レヴァンドフスキー大将の証言によって明らかとなった事実は、前線においてもラトキエヴィチ政権の影響力が大きかったことを示している。すなわち、ミハウ・ラトキエヴィチ議長による攻撃中止命令だ。
どのような経緯で攻撃中止命令が出されたのか定かではないが、とにかくムーンチェンバー作戦当時のレウスカ人民軍第2軍は、ブリタニア王国軍の反撃に対して攻撃を再開して良いのかどうか、司令部で意見が割れていたと言う。
その結果、レウスカ人民軍の対応は、無視できない損害を出しつつある敵攻撃機を“追い払う”、という中途半端なものとなった。
このことが、後々のブリタニア戦線にまで影響を及ぼす痛打を、レウスカ人民軍にもたらすのである。
『グラーフより各員。聞こえるか? 今回の任務はブリタニアの攻撃機を追い払うことだ』
中途半端な命令を皮肉るような口調が回線越しにも分かる。St-37の群れの一人となっているソーニャは微苦笑しながら応答した。
「言葉で言うと、ハエを追い払うみたいで簡単に思えるわね。もちろん、実際にはそんなことないのだけれど」
『“百合姫様”のおっしゃる通りだな』
即座にからかうような口調の男が通信に割り込んでくる。ソーニャも慣れたもので、それに関してはスルーを決め込んでいた。
ソーニャを含む、彼ら統一連邦空軍第71戦闘機連隊は占領されたばかりのイートン空軍基地から、今まさにキングストンへと出撃しようというところであった。
ブリタニア陸軍による突然の反撃が始まって三時間。レウスカ人民軍の第2軍司令部は未だ攻撃再開には踏み切れておらず、統一連邦からの増援に迎撃を一任する有様だ。グラーフことソーンツェ隊隊長のカザンツェフ中佐は、そういった対応の陰に見えるラトキエヴィチ政権の影響も皮肉ったのだろう。
統一連邦軍も党から派遣された政治将校の影響が全くないわけではないが、政治指導者の命令が前線の戦闘にまで影響を及ぼし、被害を出しているというのは理解し難いものがある。
統一連邦の宿敵であったナチス・ベルクが総統命令によって混乱し、有効な防戦態勢をとることができないままに敗れ去ったのと重なって見えるということもある。
とにかく、このような状況の中でソーンツェ隊が出撃する運びとなったのだ。
『イートン・コントロールよりA部隊。出撃せよ』
『了解』
管制塔の指示に従い、滑走路に進入する。先頭のカザンツェフ中佐が飛び立ち、ソーニャたちもそれに続いて次々に飛び立った。
『以降の誘導管制はヴァルトールナが担当する。貴殿らの幸運を祈る』
とても無機質な声の管制官が型通りの台詞を言って通信を切る。続いて、早期警戒管制機からの通信が入った。
『ヴァルトールナよりアンナ・カマーンド。これより誘導管制を担当する。私の指示に従ってくれ』
『了解した。まずは敵の情報がほしい』
カザンツェフ中佐の要望に対して、ヴァルトールナは通信で答えることなくデータリンクを行った。戦術ディスプレイに現在の戦況が表示される。攻撃が集中しているのは三か所であり、いずれの地点でも攻撃機が確認されているようだ。
『アンナ・カマーンドはドミトリー・カマーンドと協同して市街南部に展開している敵の攻撃機を叩け。ドミトリー・カマーンドとの分担に関しては、こちらの方で調整する』
『了解した』
統一連邦が運用しているAWACSの指揮管制能力は、東側諸国で運用されているAWACSに劣っており、十六機程度の管制が限界とされている。このため、作戦ごとに多くのAWACSが動員されており、その護衛のために割かれる戦力も大規模であったが、数を頼みとする統一連邦軍であればこそ、このような運用が可能となっていた。
今回は統一連邦空軍からレウスカ空軍に派遣された四つの戦闘機連隊全てが作戦に動員されており、四機のAWACSが南ブリタニア上空から誘導管制を行っている。
『前進観測員より報告。どうやら例のF-18Jが飛んでいるようだ』
「イーグル……」
ソーニャたちの前にしばしば現れる厄介な敵だ。機体の性能差はあまりなく、第71戦闘機連隊も少なくない犠牲を出している。ラピス戦線の際に散々撃ち減らしたはずだが、このブリタニア戦線において再び姿を見せている。飛び方からして、同じ敵だろうとソーニャは思っていた。
イートン基地を離陸して五分。すでにソーニャたちは戦闘空域に入っており、地上ではブリタニア陸軍の激しい攻撃にレウスカ人民軍が押されている。地上部隊への攻撃はソーニャたちの任務ではなかったが、この光景を見ていると、すぐに支援が必要なのではないかと考えてしまう。
カザンツェフ中佐も同じことを考えたようで、ヴァルトールナに聞いていた。
『グラーフよりヴァルトールナ。地上の支援はしなくていいのか? かなり押されているようだが』
『ニェット。その必要はない。レウスカからの依頼はあくまで攻撃機の排除だけだ』
「だけど――」
『――不要だ。自分の任務に集中したまえ』
不機嫌そうな管制官の声に思わず押し黙ってしまう。ヴァルトールナというコールサインの管制官は初めての担当だが、どうやら気難しい性格のようだ。
地上の苦境を横目に、ソーニャたちは南下を続ける。やがて、敵影が地平線の向こうから浮かび上がってきた。
『こちら、グラーフ。敵影確認』
『ヴァルトールナよりグラーフ。こちらでも確認した。交戦を許可する』
『了解。グラーフ、交戦』
カザンツェフ中佐に続いて他のパイロットたちも戦闘態勢に入る。ソーニャもヘッドマウントディスプレイを起動し、敵機をロックオンする。
『撃て!』
カザンツェフ中佐の命令と共に、十二機のSt-37がミサイルを一斉に放つ。同時にスロットルを開けて全速で敵機へと迫る。
敵はフレアを撒き散らしながらミサイルを回避している。その隙を突いて、一人が編隊から飛び出し、先頭を飛ぶ赤いF-18Jに襲いかかった。不用意な行動に、ソーニャは危機感を抱く。
『待て!』
カザンツェフ中佐の制止もむなしく、赤いF-18Jは攻撃を最小限の動きで躱す。ほとんど同じタイミングで機関砲が火を噴いた。主翼をもぎ取られた哀れなSt-37がきりもみしながら墜ちていく。キャノピーが飛び、パイロットが脱出するのを確認して、ソーニャはほっと一息ついた。
『脱出したか?』
『脱出確認。レウスカに救援を要請しましょう』
『こちら、ヴァルトールナ。すでに救援要請を発している。心配することはない』
即座にヴァルトールナが通信に割り込む。任務に集中しろ、という小言のおまけ付きだ。どうにも神経質な管制官のようだ。
少々やりにくさを感じながらも、ソーニャが周囲に目を向けると、僚機は赤いF-18Jを警戒して近づこうとしていない。それを良いことに、赤いF-18Jはこちらの編隊の間を自由自在に動き回ってかき回している。
『リーリヤ、あの赤い奴を殺れるか?』
「しょうがないわね。保障はできないけど、やってみる」
『俺も援護しよう』
編隊からヴィクトル・セレズネフ大尉のSt-37が飛び出してきた。ヴィクトルはソーニャの僚機であり、常に行動を共にしている。
「ヴァローナ、行くわよ!」
『了解!』
ソーニャとヴィクトルが編隊から外れると、それに合わせるように赤いF-18Jとその僚機が二人の上空を取ろうと上昇を始めた。それを防ごうとソーニャとヴィクトルが追随し、垂直方向のシザーズ機動に入る。
ただ、上昇性能はF-18Jの方が上だ。早々にシザーズ機動を離脱し、わざと後ろを見せた。
「さあ、来なさい」
ソーニャの誘いに敵は乗ってきた。敵機は機首を下げ、攻撃態勢に入ろうとしている。
その瞬間、ソーニャとヴィクトルは機首を引き上げて敵機の視界から消えた。失速寸前の難易度の高いマニューバだが、St-37の機動性能ならば可能な動きである。
F-18Jはこの機動について来られず、背面飛行状態のソーニャたちの頭上を通り過ぎていく。
『掛かった!』
ヴィクトルが思わず叫ぶ。そのままループしてF-18Jの後ろを取ろうとする。
だが、敵の動きはヴィクトルの予想を超えていた。二機の敵は切り込むような旋回で左右に散開してヴィクトルの攻撃を避けた。
「ブレイク! ブレイク!」
旋回した二機のうち、赤いF-18Jがソーニャの牽制を躱してヴィクトルの後ろに回りこんだ。ソーニャの警告も時すでに遅く、F-18Jの機関砲が火を噴いた。ヴィクトルのSt-37は右主翼を撃ち抜かれてバランスを失ってしまう。
「ヴァローナ! 大丈夫?」
『ちょっと不味いな……。コックピットが真っ赤になってやがる』
幸い、ソーニャのカバーが寸前で間に合ったためにトドメの一撃だけは免れているが、明らかに飛行に支障をきたしている。
「基地に戻って。後は私が何とかするわ」
『だが――』
『――戻りたまえ。その状態では部隊の足を引っ張るだけだ』
突然、ヴァルトールナが通信に割り込んだ。冷たい言葉ではあるが、ヴィクトルを心配しているとも取れる内容だ。
結局、ヴィクトルはソーニャとヴァルトールナに押し切られてイートン基地へと戻ることとなった。
一方、後を引き受ける形となったソーニャだが、二機――それも一方は相当な腕利きだ――を相手にするのは至難の業であった。ソーニャが僚機に手間取っている隙に、赤いF-18Jは激しい空戦のただ中へと突入していった。
突然の乱入者に、ソーンツェ隊のパイロットたちは翻弄され始める。まず餌食となったのは、動きの鈍った敵機を追いかけていた七番機のパイロットだった。後ろを取られたことに驚いた彼は、何とか追跡を振りほどこうと、右へ左へと機体を旋回させるが、赤いF-18Jのパイロットはその動きにピタリと食いついてみせる。
『何なんだよ、こいつは!』
『待て、焦るな!』
焦った七番機が無防備な横腹を見せた瞬間、機関砲の銃弾がエンジン部に突き刺さり、機体が爆散した。
さらに赤いF-18Jの攻撃は続く。爆散した七番機の向こう側にいた十二番機が、七番機を襲った攻撃の流れ弾を受けたのである。
『やられた!』
『ビリオーザ!』
ビリオーザと呼ばれた十二番機は垂直尾翼をもぎ取られてコントロールを失う。キャノピーが吹き飛び、パイロットが緊急脱出した。
流れ弾が当たったのは果たして偶然だったのか、あるいは計算通りだったのか。ソーニャの背筋を冷や汗が流れ落ちる。
『全機、赤い奴に警戒しろ! 後ろを取られそうになったら、すぐに援護を求めろ』
カザンツェフ中佐が異例のことながら隊員たちに警告する。各地の紛争で活躍してきたパイロットの多いソーンツェ隊をここまで翻弄する相手は戦争開始以来、初めてのことだ。
ソーニャ自身も、赤いF-18Jの僚機に翻弄されて本命を捉えることができていない。「白百合」と呼ばれ、自他共に認める腕利きであるソーニャは、初めて遭遇する難敵に困惑していたと言って良いだろう。
ソーンツェ隊の思わぬ苦戦は、地上部隊の混乱に拍車をかけていた。攻撃機を追い払うために出撃したはずの友軍機が次々に撃墜される姿を見て、動揺した兵士たちが雪崩を打って逃げ散っているのだ。
『グラーフ、何とかならないのか? 地上から攻撃機を何とかしてくれ、と通信が入っている。ひっきりなしに、だ』
冷静なヴァルトールナの声からも焦りのようなものが感じられる。地上から相当な突き上げを受けているようだ。
そんなことを考えている間にも、赤いF-18Jはソーンツェ隊の面々をかき回すように、編隊のまっただ中を縦横無尽に飛び回っている。統一連邦空軍でも一、二を争うはずの精鋭部隊が、まるで赤子のように翻弄されている。
『くっ……』
『一体何者だ、こいつは!』
『悪魔め!』
パイロットたちの動揺した様子が通信越しにも伝わってくる。思わずその通信に気を取られたソーニャは、赤いF-18Jを視界から外してしまった。
ソーニャが無防備な後ろを曝したことに気がついたカザンツェフ中佐が警告を飛ばす。
『リーリヤ、後ろだ!』
「え――」
しまった、と思う間もなく、ソーニャを激しい衝撃が襲った。