第八話 月の間作戦(1)
キングストン新市街、国防省オフィス地下二階の統合作戦司令室は、多くの人員がいるにも関わらず、不気味なほどに静まりかえっていた。
12月23日の未明にキングストン外周への撤退を決断してから三時間、レウスカ人民軍は攻撃を中断しているが、これがいつ再開されるかは分からない。残された道は少なかった。血路を切り開いてでも北方への退却を図るか、あるいは降伏するか。
しかし、北方にはごくわずかな部隊が残留しているに過ぎず、南北を分断するウィンダミア山脈での防衛戦を行おうにも、キングストンで包囲されている部隊がなければ、防衛戦自体が成立しない。ならば、残るは一つ。降伏するだけだ。
誰もそのことを言い出せずにいる中、陸軍地上部隊司令官のセシル=フィッツモーリス大将は重い口を開いた。
「降伏、しかない」
参謀やオペレータがうなだれる。半年前までは想像もしなかった現実が目の前にある。
「首相に陸軍としての見解を申し上げ、陛下に上奏する。私は責任を取るつもりだ」
「閣下……」
「異論はあるか?」
誰も声を上げることはない。セシル=フィッツモーリス大将が司令席から立ち上がろうとしたその時、一人の参謀が前に進み出てきた。
「お待ちください」
「ハーマン中将?」
回廊要塞の元司令官であるハーマン中将だった。ブリタニア戦線開始以来の心労からか、髪には白いものが見え始めており、顔色は青白く、頬もこけている。だが、その瞳だけは爛々と輝いており、異様な雰囲気を醸し出している。
セシル=フィッツモーリス大将は、ハーマン中将の様子に圧倒されて司令席に腰を下ろした。
「撤退しなければ、我が国は敗北してしまう。そうなれば、陛下の御身もどうなるか分かりません」
「それはそうだが……」
「撤退しましょう。撤退あるのみです」
参謀たちは白い目でハーマン中将を見ている。それが不可能だからこそ、降伏しかないという結論に至ったのだ。
「撤退とは言っても、あの包囲を突破すれば大きな犠牲を出すだろう。結局は敗北に繋がるぞ」
「包囲を突破する必要などありません」
ハーマン中将の言葉に周囲が困惑する。
「海は包囲されていません。ここから撤退しましょう!」
ハーマン中将の言う通り、レウスカ海軍はヘルフォルト海峡を守るブリタニア海軍を突破できず、キングストンが面するキングス湾は安全に航行が可能だった。
だが、それも船があれば、の話である。海軍は前述のヘルフォルト海峡防衛に手一杯であり、兵員を輸送できるような客船もキングストンの港内には停泊していないのだ。
「船はどうするのだ? キングストンの港内には船がないぞ」
「確かに軍艦や客船はありません。ですが、漁船やヨット、救命艇、遊覧船、他にも船はあります。これを総動員して、ブロムフォードまで撤退するのです」
ブロムフォードはキングス湾に面した街で、キングストンの北西に位置している。また、キングストンとブロムフォードの間にはリール川が流れており、レウスカ人民軍の進撃を一時的にせよ、遅滞させることができるだろう。
「しかし、船の数が足りないぞ。全員を脱出させるならば、往復する必要がある上にレウスカが見逃すはずがない」
「囮部隊を出しましょう。指揮は私が執ります」
ハーマン中将は決して引くことなく、撤退作戦を主張する。この作戦が成功するかどうかは不透明だが、彼の熱意に司令室にいた誰もが圧倒されていた。
セシル=フィッツモーリス大将は、熟考の末に決断する。
「……分かった。ハーマン中将を指揮官とする囮部隊を編成。残存する陸軍部隊のキングストン脱出を図る」
「ありがとうございます!」
「まずは船の確保を急げ。港にある船は全て徴用しろ。個人の邸宅にボートがあれば、それも接収するのだ」
「はっ」
セシル=フィッツモーリス大将が決断を下すやいなや、参謀たちが慌てて司令室から飛び出していく。オペレータも各機関へ連絡を取り始めた。
「ハーマン中将、作戦の詳細について詰めるぞ」
「はい」
セシル=フィッツモーリス大将は、ハーマン中将や残っていた数人の参謀と共に作戦の立案に取りかかる。主に脱出する順序や支援体制、そして囮となる部隊の選定が中心だ。
「囮部隊はどこが良いと思うかね」
「ドラゴンガーズ連隊が適任かと。戦車は船で運べませんし、ウィンダミアの山岳地帯ではあまり有効活用できないでしょう」
「なるほど……。ならば、ドラゴンガーズ連隊と残存する戦車部隊を併せて、ハーマン特別集成部隊とする。指揮官はもちろんハーマン中将だ。頼んだぞ」
ハーマン中将が頷く。参謀たちは撤退のために司令室の整理に取りかかった。それを手伝おうとしたハーマン中将をセシル=フィッツモーリス大将が止める。
「君にはハリファックス宮殿に同行してもらう」
「と、言いますと?」
「陛下と首相閣下に作戦の概要を説明するのだ。お二方にもキングストンから脱出してもらわねばならんからな」
セシル=フィッツモーリス大将の言葉に、ハーマン中将は目を見開いて絶句した。
ハリファックス宮殿は、元々ハリファックス公の邸宅だったものを、18世紀半ばに時の国王ジョージ4世が買い取り、19世紀半ばには王室公式の宮殿となった経緯がある。第1近衛歩兵連隊を始めとする五つの近衛歩兵隊がこのハリファックス宮殿での衛兵交代式を行っており、観光客も多く訪れる重要なイベントとなっていた。
戦時である現在は、グレナディアガーズの実戦部隊であるグレナディア第1大隊が宮殿警備に就いており、装甲車や対空砲が軒を連ねる物々しい雰囲気となっている。
もうすぐ日が昇ろうという時刻。その厳重な警備体制の中を、一台のリムジンが正面玄関へと進んでいく。玄関の前で止まったリムジンの扉を近衛兵が開けると、車内から出てきたのはセシル=フィッツモーリス大将とハーマン中将だった。
王族の遠縁であり、ベリオール侯の爵位を持っているためにハリファックス宮殿での晩餐会などに招待されることも多いセシル=フィッツモーリス大将とは違って、ハーマン中将はナイトに叙任された際に一度訪れたきりである。
そのため、ハーマン中将は緊張しきっており、リムジンから出てくる際にも頭をぶつけたほどであった。
笑うどころか息一つ漏らさなかった近衛兵に見送られ、宮殿の中に入る。家令が二人に軽く一礼した後、案内として先導し始めた。階段を上がった二階のとある一室の前まで来ると、家令が立ち止まり、ノックをした。
「ベリオール侯爵ヘンリー・ウィリアム・セシル=フィッツモーリス陸軍大将閣下、サー・ピーター・ベンジャミン・ハーマン陸軍中将閣下をお連れいたしました」
扉が開かれ、二人は中へ入る。室内にいたのは、ブリタニア王国首相ロード・ジェームズ・ベケットと王室家政長官アーリントン子爵ハーバート・ロビンソン、そして第13代ブリタニア連合王国国王であるエドワード8世であった。
「国王陛下におかれましてはご機嫌麗しく――」
「――不要だ。早速で悪いが、本題に入ってくれ」
セシル=フィッツモーリス大将の挨拶をエドワード8世が遮る。二人はロビンソン家政長官に勧められて椅子に座った。堂々としていながらも決して礼を欠いていない態度のセシル=フィッツモーリス大将に対して、ハーマン中将は落ち着かない様子で目を泳がせている。
「サー・ピーター、落ち着きたまえ。私は君が自身の職務を全うすることのみを望んでいる」
「は、はい」
ハーマン中将は深呼吸をすると、持っていたジュラルミンケースの中から資料を取りだし、ロビンソン家政長官とベケット首相に手渡した。ロビンソン家政長官は受け取った資料をうやうやしくエドワード8世の前に置く。
それを見て、ハーマン中将は資料を手に作戦概要の説明を始めた。
「本作戦はキングストン市内に残る陸軍部隊の、ブロムフォードへの撤退を主目的とします。現在、キングストンはレウスカ人民軍第2軍による包囲下におかれていますが、キングス湾は我が軍の制海権が維持されており、船を使っての撤退が可能です」
説明を始めた途端、ハーマン中将の瞳に輝きが宿った。それまでの落ち着かない様子から打って変わった饒舌ぶりに、ベケット首相は目を見開き、エドワード8世は興味深そうな眼差しを向けた。
ハーマン中将は、二人の様子に気づくことなく説明を続ける。
「海軍はヘルフォルト海峡防衛のために出払っておりますが、キングストンの港内には多数の民間船舶があります。本作戦ではこれを徴用し、空軍の支援の下でブロムフォードへ向かいます」
「撤退を援護するために囮を出すのか」
資料を見ていたエドワード8世が苦々しい顔をしながら言った。犠牲を強いるような作戦が納得できなかったのだろう。
「どのみち戦車は運べません。撤退後はウィンダミア山脈での防衛戦となりますが、ここでも戦車は使いづらいでしょう。ならば、思い切って囮とした方が良い」
「それはそうだが……」
どうしても納得のいかないエドワード8世に対して、ハーマン中将は身を乗り出して説得を始めた。
「陛下、囮部隊がなければ撤退作戦は成功しません。それは我が国の敗戦に直結するでしょう。いずれ、PATOは反撃に移るでしょうが、我が国は他国によって解放された国となります」
それこそが、ハーマン中将を動かす熱意の元でもあった。ブリタニア国民として、この国に誇りを持っている彼にしてみれば、他国のおかげで救われるということが我慢できなかったのである。
犠牲を顧みない傲慢な感情とも取れるが、この場にいる貴族たちには感銘を与えたようだった。
「陛下、僭越ながら申し上げますと、私もハーマン中将と同意見でございます」
ベケット首相は姿勢を正しながら、エドワード8世を説得する。
「第二次大戦以降、我が国の威信は衰えるばかり。ここで屈せば、国民は自分の国に対する誇りと自信を失ってしまいます。私は政府代表として、ハーマン中将の撤退作戦を支持いたします」
エドワード8世は頭を振り、深いため息をついた。
「……ジェームズ、政府代表の君にそう言われてしまっては、私はどうすることもできないではないか。分かった。分かったとも。サー・ピーター、君の作戦に我が国の全てを賭けよう。必ず成功させたまえ」
「御意」
ハーマン中将が深々と頭を下げる。エドワード8世はそれを見て頷くと、ふと何かに気づいたような表情をした。
「そうだ。作戦の名称をまだ聞いていなかったな」
「は……?あ、いえ、本作戦は急いで立案したものですので、まだ名称はありませんが」
セシル=フィッツモーリス大将が目を瞬かせながら言うと、エドワード8世はしばらく考え込んだ末にこう言った。
「ふむ……。ならば、月の間作戦というのはどうだ? この部屋の名前から取ったのだが」
「それで宜しいかと」
こうして、後にキングストンの奇跡とも呼ばれることとなるムーンチェンバー作戦が、その名称と共に承認されたのである。
キングストンの空の玄関口であるバークロー空港には、イートン空軍基地を追われて撤退してきたブリタニア空軍や援軍である第6航空団が駐留している。
イートン基地から撤退して半日。レウスカ人民軍の攻撃再開を警戒して多くの飛行隊が臨戦態勢にある中、国防省オフィスから陸軍地上部隊司令部の高級参謀がやって来た。高級参謀は空軍打撃軍団司令官のアヴァロン大将に、ムーンチェンバー作戦の概要を説明し、陸軍撤退への協力を求めた。
アヴァロン大将は、空軍がすり潰されかねない作戦内容に難色を示したものの、最終的には同意。この結果、ブリタニア空軍もムーンチェンバー作戦に動員されることとなったのである。
さて、ここで問題となるのは援軍である第6航空団の扱いだ。
彼らはブリタニア戦線支援のために日本から派遣された部隊であり、作戦機の消耗が予測されるムーンチェンバー作戦への動員は避けた方が良い。だが、第6航空団は散々に撃ち減らされたブリタニア空軍とは違い、戦力を維持している。上層部としては、何としてでも第6航空団の手を借りたいというのが本音だった。
その辺りの空気を読んだのか否か、第6航空団司令のヒサカタ准将はアヴァロン大将に対して、ムーンチェンバー作戦への協力を申し入れ、アヴァロン大将はこの申し出を喜んで受け入れた。
そして、作戦の資料を受け取ったヒサカタ准将は、余計なことをしてくれた、と言わんばかりのパイロットたちの前で、臆面もなくこう言った。
「君たちパイロットの多くは亡命者、すなわち我が国が特別の庇護を与えている者だ。君たちには我が国に貢献する義務がある。日本とブリタニアの友好のため、存分に役立ってくれたまえ」
笑顔で言い切ったヒサカタ准将に対し、パイロットたちは毒気を抜かれたように、反論する気力を失った。笑い出す者もいる始末である。
結果、第6航空団は総力を挙げてムーンチェンバー作戦に協力することとなり、当然ながらレオンハルトもこの一員として働くこととなったのである。
私たちは働かされ過ぎだ。作戦説明終了後、カエデたちを前にこう言ったレオンハルトに対して、イオニアスが珍しく感情もあらわに頷いていた。
何はともあれ、ムーンチェンバー作戦の準備は進んでいる。はばかることなく文句を言い続けていたジグムントも大人しくパイロットスーツを着て、出撃準備を整えていた。
そして、1991年12月23日午前10時ちょうど。ブリタニア放送協会のラジオ放送で、エドワード8世の演説が流されると同時に、ムーンチェンバー作戦が始まった。