空槽
1
その日は休日だった。季節はいつ頃だったか、朝からよく晴れていた。
これといった予定も熱中する趣味もなく、昼前にのそのそと起き、遅めの朝食をとる。寝るまでの残りの時間をどう過ごすかは、やっとそれから思案し始める。その男にとって休日とはそのような、仕事に行く必要がないというだけの暇日でしかなかった。
朝食のトーストをかじりながら、男はふと今日の午後はどこかへ外出でもしようかと思い立った。男は水族館へ行きたかった。特段理由があったわけではない。単に男の家から歩いて行けるほど近くにそれがあったことと、例にもれずその日も差し迫った予定などなかったというだけのことである。
男は目玉焼きにはソースをかけたかったが、あいにく醤油しかなかった。さして強いこだわりではなかったため、別にそれならそれで良いかと思ったが、サラダに入っているミニトマトは嫌いなのか、最後まで手を付けなかった。惰眠をむさぼる割に、朝食を欠かさないことは重んじる質なのだろうか。男はさらにスープを飲んだ後、食後のコーヒーまでおかわりしてから、出かける準備を始めた。
大きな窓から見える空の色は深い群青で、男は見慣れたその色が好きだった。ただ、そこを漂う雲の名前まではよく知らなかった。
巨大な一枚のガラスの板が空間を二つに隔てている。水族館の水槽を眺めるとき、男はいつだって圧倒された。魚などに深い造詣は持ち合わせていなかったが、男はガラスの向こう側の広大な空間とその中を飛び回るたくさんの生き物たちを美しいと思った。水中を泳ぐ魚の群れは、群青色の空に見つけた雲によく似ていた。中にはガラス板に近づいてくる好奇心旺盛な魚もいて、男がもっと間近で見てみたいと思い自身もガラス板に寄って観察すると、まるで互いに見つめ合っているようで少し可笑しくなった。
帰るころにはだいぶ暗くなっていた。柄にもなく、心なしか夜空の星々に見とれてしまった男は、まるでその輝きは月光を反射する魚群の鱗のようだと感じたが、詩的な表現を狙ったにしてはやや稚拙で大仰だと内心で自嘲していた。
男はその日もいつもと変わらず時間通りに就寝し、その退屈な休日を終えてしまったが、いつもの習慣に相反してベッドわきの窓のカーテンを開け放しておいたのは、まだ少し星を見ていたかったからであった。
2
その日は休日だった。季節はいつ頃だったか、朝からよく晴れていた。
男はトーストをかじりながら、午後にまた水族館に行くのも良いかもしれないと考えていた。先日そこで感じた魅力を忘れられなかった。男にも我ながら生産性のない過ごし方だという自負はあったが、もとより日々の労働に対して与えられた休暇であり、それに生産性を求めるほうが間違っているという持論で納得していた。
珍しく男は外出に意欲的であった。目玉焼きに醤油をかけようとしたら手元が狂ってテーブルクロスに染みをつくってしまったのは、はやる気持ちの表れだったのかもしれない。男はやはり本当はソースをかけたかったのだが、実際それがどこにあるのか彼にはわからなかった。サラダとスープと食後のコーヒーをたいらげて、男は出かける準備を始めた。
窓の外は相変わらず静かで、群青色の空を名前のわからない雲がまた流れていた。ミニトマトはお皿の上に残されたままだった。どうせ食べるつもりはないのだからもういらないのにと思ったが、それを誰に伝えるつもりなのか自分でもわからないことに気づき、それ以上は考えなかった。
水槽という空間はどれくらい広いのだろうか。巨大なガラス板の前で男はふと疑問に思った。自分の生きる世界が閉じた箱であり、一つの展示であることを、彼らは窮屈に感じないのだろうか。それとも、その窮屈な空間が自分の生きる世界のすべてであると信じて疑わないのだろうか。正面のガラス板に近づいてきた一匹の魚がこちらをじっと見つめていた。
男は一つの水槽に閉じ込められた彼らを少しかわいそうに感じた。彼らにも家の窓の向こうにあるような群青の空を見せてやりたかった。彼らに向けたこの憐みも、水槽のガラスを隔てた彼らには理解する由もないのだろう。男はしかしそう思いながら、どこか己の寛大さに陶酔したように美しい魚たちを眺めていた。
帰るころにはだいぶ暗くなっていた。男はその日も時間通りに就寝した。早寝は重要だった。休日が終われば仕事に行かなければならないのだから、当然である。そうして満足げに一日を終えた男はしかし、自分が休日以外の日に何をしているのかなどまったくわからなかったし、考えようとしたこともなかった。
3
その日は休日だった。季節はいつ頃だったか、朝からよく晴れていた。
男はトーストをかじりながら、午後は久しぶりに水族館に行こうかと考えていた。久しぶりといっても、前回訪れたのがいつなのか、彼の中で定かではなかった。
目玉焼きを食べ、サラダを食べ、スープを飲んだ。テーブルクロスはいつだって清潔だった。無論、男は掃除も洗濯もしたことはなかった。ミニトマトはもうお皿の上に残されてはいない。いつだったか気まぐれにミニトマトを残さなかった日から、テーブルの上の醤油はソースに置き換わっていた。男は大層喜んだが、ミニトマトを残せばまたそれは醤油に戻ってしまうことが分かった。それがなぜなのか、男にとってはさほど重要ではなかった。大事なのは、好き嫌いをしなければより自分好みの目玉焼きにありつけるという事実だけだった。コーヒーを飲んだ後、男はいつも通り出かける準備を始めた。
窓の外から見える空は深い群青で、まるで水族館の水槽を見上げているようだった。名前のわからない雲はまるで光をうけた魚群のように鈍く輝いていた。
男は魚たちを見ている。水槽の中の生き物を見ている。その果てしなく、どこまでも続くかのような深い深い水槽の青の中から、一匹の魚が同じように男を見ていた。男はいつものようにゆっくりとガラス板に近づいて行った。見られているように感じるだけだと思った。しかし奇妙なことに、ガラス板に触れるほど魚に近づいてもなお、その魚は確かに見つめ返してくるようだった。冷たい魚の目だった。好奇心旺盛で不気味に光る目だった。
男はなぜか恐ろしくなった。何かがおかしかった。その魚をできるだけ見ないように、男は一歩後退して水槽の別の領域を仰ぎ見た。そこでまた目が合った。別の魚だった。男は自分が何に動揺しているのかもよくわからなかったが、また顔をそらして、回遊する魚群を目で追おうとした。魚群の何百という目は、同じように男を見ていた。
男は気づいた、どこに目をそらしても無駄だった。水槽全体が、一人の男を見る冷たい目の群れであふれていた。
4
その日は休日だった。季節はいつ頃だったか、朝からよく晴れていた。
疲れのせいか、何か恐ろしいものを見た気がした。男は初めて、内側と外側を隔てるこのガラス板に強烈な安心感を抱いた。ただ、どちらが内側で、どちらが外側なのか、男にはもうわからなかった。
男は水族館からほど近くであるはずの自分の家へと帰るため、くるりと踵を返した。身を休めたいと思った。早く帰りたかった。
水槽から振り返れば、もうそこにある家に。




