前世では名前を付けて保存した恋心。今世ではさっさとゴミ箱に捨て去ります
よろしくお願いします
…なんでまたここにあるんだろう
確かに捨てたはずなのに
これはただの妄執
捨てなければいけないもの
…なのに
何度捨ててもいつの間にか心の奥に戻ってくる
とても厄介なもの
手に入らないとわかっていたはずなのに望んでしまった未来
最初から眼中にないと思い知らせてくれれば良かったのに
気まぐれに与えられた優しさに期待を持ってしまった弱さ
私の知らない過去に
他の娘と笑い合う現実に
心は傷付き
もう耐えられないと言わないはずの想いを告げて
突き放されたというのに
繋いだ手の温もりや
耳元で囁かれた声を
忘れる事が出来ず
それまでの全てを捨てるつもりで
想いの残る場所を離れたというのに
そうしてまでも
忘れられない私は
きっともう他の誰かを好きになるなんて出来ない
そう思っていた
◆◇◆
久しぶりの観劇の後
劇場のロビーで見かけたその人は
背が高いのに少し猫背の立ち姿
意思の強そうな眉
相反する少し垂れた目元
初めて会ったはずなのに
懐かしいような気がするのはなぜ?
同時に頭の中に渦巻く『この人はダメ』という警告と前世の記憶
見てるだけで良かったはずなのに、気まぐれな優しさに縋って想い続けて、苦しむだけだった恋
…確かに捨てたはずなのに、なぜ生まれ変わっても追いかけてくるのだろうか
思い出すにしてもこんな所じゃなくていいじゃない…
処理しきれない情報量に頭がクラクラとする
「大丈夫?」
左隣から心配気な声
「…人混みに酔ったみたい」
なら少し人が引いてから出ようかと
ロビーのソファに誘われる
お行儀は悪いけど背もたれと隣に座る夫に身体を預け眼を瞑る
…そう今世では出会う順番が違っていた
私より少しだけ高い背
ぽっちゃりとしたおなか
決して声を荒げない穏やかな人
苦しいだけの恋の想い出のその後で
隣に座る夫が前世の夫である事も思い出していたのだった
きっともう他の誰かを好きになるなんて出来ない
そう思っていたけれど
同じ場所に留まっていたら決して出会えなかった人と出会い
小さな言い争いや些細な問題はあっても
天に召されるまで
穏やかで幸せに暮らせたのは
あの人のおかげだったのかもしれない
前世では名前を付けて保存してしまったけれど
今世はさっさとゴミ箱に捨て去りましょう
ゆっくりと眼を開ければ
心配そうに覗き込む夫の顔
もう大丈夫と微笑みかければ
ホッとした笑顔
「さぁ、お手をどうぞ」
ねぇ、このまま手を繋いで歩きましょう?
繋いだ手の温もりも
耳元で囁く声も
全部貴方のものに置き換えて
今世の私も幸せに暮らしていく為に
数学や物理の公式は少しも覚えていないのに、『人』に関する事は忘れない難儀な記憶力のおかげで、時々胸が痛む私の終活です
来世は上書き保存できる人になりたい(泣)




