最後の裂け目と、最後じゃない言葉
最後の裂け目は、静寂の谷に口を開けていた。
山の影に沈むように、黒く、重く、世界から音を奪うほどに。
まるでそこだけが、**“この世に属していない”**ような異質さだった。
リーナは杖を握りしめ、ザイドの横に立った。
「今度の裂け目は……ひときわ強い。ここまでの封印魔力も、全部ここに集まってる」
「つまり、ボスってことか」
「軽く言わないで。こっちも命かけるのよ」
ザイドは無言で頷いた。
でもその横顔には、いつもと違う緊張があった。
それが、リーナにはすぐに分かった。
(彼も、これが“終わり”だと分かってる……)
封印の詠唱が始まると同時に、裂け目は脈打った。
そこから溢れ出した魔は――これまでとは違う、人の形をしていた。
リーナの姿をした“魔”。
ザイドの姿をした“魔”。
それは、彼ら自身の“感情”が魔に映された、鏡のような存在だった。
「リーナ、あれ……」
「私たちの“心の影”。契約で強く繋がった感情が、そのまま姿を持ったのよ」
「なら、倒すには……」
「向き合うしかない」
リーナは自身の“影”と対峙する。
それは言った。
「あなたは恐れてる。契約が終わった後、彼に必要とされなくなることを」
「……うるさい」
「優しい言葉も、温かい仕草も、全部“契約だから”と自分に言い聞かせてきた。本当は、信じたかったくせに」
「黙れって言ってるのよ!!」
リーナは叫び、風をぶつけた。
ザイドもまた、自身の影と剣を交えていた。
「お前は知っている。守ると言いながら、本当はまた誰かを失うのが怖いだけだって」
「違う。……もう失いたくない。それだけだ!」
魔が吠え、感情がぶつかる。
それはまるで、ふたりの心そのものの戦いだった。
だが――
手が触れた瞬間、すべてが静まった。
ザイドがリーナの手を取り、そっと言った。
「もう、言葉はいらねぇな」
「……ええ」
ふたりの魔力が完全に同調した。
契約の核が光を放ち、心の影を、裂け目ごと飲み込んでゆく。
風と剣が交差し、そして光が、すべてを包んだ。
……裂け目は、静かに、完全に消えた。
静寂が戻った谷で、ふたりは肩を並べて座っていた。
空は高く、まるで“仕事が終わった空”だった。
「……これで、終わりね」
「……ああ」
長い沈黙。
でも、それは苦しいものではなかった。
むしろ、惜しむような、温かな沈黙だった。
リーナが、そっと口を開いた。
「ねぇ、ザイド。契約、解除する?」
彼は少しだけ考えて、言った。
「解除しよう。……でも、それで“終わり”にするつもりはねぇ」
「……そう言うと思った」
「魔法の契約じゃない。次は……俺とお前で、口約束しようぜ」
リーナは小さく笑いながら、頷いた。
「破ったら?」
「腹パンしてくれていい」
「甘いわね。杖で殴るわよ、全力で」
風が吹いた。
やわらかく、今度こそ完全に“平和な風”だった。
ふたりは立ち上がり、もう魔物も裂け目もない、何の変哲もない道を、並んで歩き出した。
それは、たったふたりの――本当の始まりの旅路だった。
✧ エピローグ ✧
数ヶ月後。街の市場。
リーナは花を選びながら、隣の男に視線を向けた。
「ねぇザイド、あんたあの時言ってたでしょ。“信じさせてやる”って」
「言ったな」
「……わたし、もう信じてるわよ」
「そっか」
「でも、これからも“付き合ってやる”から。そっちがバカなこと言ったら、いつでも殴るわよ?」
「それは契約に入ってたか?」
「これは契約じゃない。愛情表現よ」
ザイドは口元だけで笑った。
リーナは横目でその顔を見ながら、少しだけ頬を染めた。
――偽りから始まったふたりの関係は、
もう“契約”なんかじゃ、測れない。
そして今日も、風はそっと吹いている。
終わり。そして、始まり。