魔の夜に咲く花
その“花”は、静かに咲いていた。
夜闇の中で揺れるように、まるで誰かの心音に合わせて鼓動するかのように。
リーナは、丘の先にぽつりと咲くそれに目を奪われていた。
「……あれ、見える?」
「見える。魔の気配も、かなり強い」
ザイドは剣の柄に手を添えながら、警戒するように一歩踏み出す。
花は、光を持っていた。
だがそれは“優しい”光ではなかった。悲しみと未練、愛しさと苦しみが折り重なった色。
赤でも青でもない。まるで、心の奥にしか存在しない色だった。
「これは……裂け目じゃない。魔そのものが“形”を持って咲いてる」
「感情が、魔に変わるって言ってたな。これが、そうか?」
リーナは黙って頷いた。
「たぶん、私たちの感情のどこかが、この魔と共鳴してるのよ。だから、姿を変えて咲いた」
「まるで、俺たちの“心”が外に咲いたみたいだな」
その言葉に、リーナは目を細めた。
奇妙なことに、花の中心からは、かすかに二人の魔力の波長が感じ取れた。
「……ねぇ、ザイド。今、なにか思い出してる?」
「……ああ」
「なに?」
「……昔、剣を置いて、どこか遠くの山にでも隠れて生きようかと思ったことがある。誰にも会わずに、ひとりで静かに暮らして……」
「……それ、今もそう思う?」
「いや。今は……お前といると、騒がしくて、面倒で……でも、悪くない」
その瞬間、花の色が変わった。
咲き誇る中心が、ザイドの“本音”を受け取り、優しい金色に光った。
「……見て。共鳴してる。あなたの気持ちに」
リーナの声は、微かに震えていた。
彼の言葉が、想像以上に自分の心を揺さぶっていたのだ。
だがその美しさは、次の瞬間に凶器へと変わる。
「リーナ、下がれッ!」
ザイドの叫びと同時に、花の中心から茨のような魔力が四方へ伸びた。
それは“触れた感情”に吸い寄せられ、引き裂き、絡みつこうとしてくる。
リーナは杖を構え、即座に風の盾を展開した。
「こいつ……“感情を食う”つもりね!」
「感情を実体化させた魔物……そんなもん、聞いたことねぇ!」
「契約魔法が変質したせいよ。わたしたちの絆が強くなった分、魔がそれに“反応した”のよ!」
「つまり、強くなるほどヤバくなるってことか!」
「その通り!」
風が荒れ狂い、花の魔が暴れ出す。
だが、二人の魔力が合わさるたびに、茨は次第に焼け、崩れていった。
「ザイド、手を!」
「おう!」
ふたりの手が重なる。
瞬間、契約の光が咲いた。
それはもはや単なる魔法ではない。
二人の心から生まれた、温度のある力。
それが花の魔を包み、やがて消し去っていった。
――咲き乱れていた花は、一瞬の静寂を残して散った。
風に揺れ、そしてどこかへと流れていった。
「なによ……これ……」
リーナは膝をつき、少しだけ涙をこぼした。
「心のどこかにあった“言えない気持ち”が……形になってた。……怖かった」
「言えない気持ち?」
「……ほんとは、あなたと離れるのが、少しだけ怖くなってるのよ」
ザイドは黙って、彼女の横に座った。
「契約が終わったら、元通りだろ?」
「……たぶんね。でも、そうじゃない何かが――心の中に残る気がするの」
風がそっと吹いた。
静かで、優しく、どこか切ない風だった。
ザイドはリーナの肩にそっと外套をかけ、言った。
「……じゃあ、それを“終わらせない”方法を考えるか」
リーナは、その言葉に微かに笑った。
夜の空に、もう花は咲いていなかった。
けれど、ふたりの心の奥には、確かな温度が残っていた。
それはまだ、恋とは呼べない。
でも――間違いなく、絆だった。