契約の温度
契約が変わりはじめたのは、気づかぬほど小さな瞬間だった。
それは手が触れたとき。
それは目が合ったとき。
そして、言葉の奥にある沈黙を、お互いが聞き取れるようになったときだった。
「……風の動きが、少し変よ」
リーナがそう呟いたのは、裂け目の封印地へ向かう途中の、なだらかな丘陵地帯。
「風なんていつも気まぐれじゃねぇのか」
「そうじゃなくて……私の魔力が、契約と別の動きをしてる感じがするの。まるで……」
「まるで?」
「まるで、私の感情に反応して魔力が動いてるみたい」
ザイドはその場で足を止め、リーナの顔をじっと見つめた。
「つまり……俺のせいか?」
「ち、違うわけじゃないけど、そう言われると腹立つわね」
ふたりの視線がぶつかる。
けれど、以前のような殺気はなかった。
代わりにそこにあったのは、照れくささとも戸惑いともつかない、妙な間だった。
その夜、風は熱を帯びていた。
焚き火の近くに座っていたリーナは、自分の魔力の流れに意識を集中していた。
契約の糸――それは透明な魔力の筋となって、ザイドとの間を結んでいる。
だが、今はそれが脈動している。
まるで“呼吸”しているように、感情を吸い、吐き出しているのだ。
(これ……共鳴じゃない。ただの魔法の反応でもない……)
リーナの中に、静かな気づきが落ちた。
これは、絆だ。魔法よりも、人としての“理解”が生んだもの。
「リーナ」
ザイドの声が響いた。
火越しに、彼が何かを差し出していた。
それは、小さな布袋だった。
「薬草? ……いつの間に?」
「昨日、川のそばで見つけた。お前、あの時足くじいてたろ」
リーナは無言で受け取った。
手のひらに、柔らかい温度が残る。
「……ねぇ、ザイド」
「ん?」
「私たち、本当に“偽物”なのかな」
その言葉に、ザイドは目を細めた。
いつものようにふざけて受け流すのかと思いきや――彼は、真剣な声で答えた。
「偽物で通すつもりだった。でも……お前の声が、頭に残るようになった」
「……それ、どういう意味?」
「わかんねぇ。けど、“契約”じゃ説明できねぇ感情が、増えてきた」
風が、そっと二人の間を吹き抜けた。
焚き火の火の粉が、舞い上がる。
リーナは、自分の鼓動が早くなっているのを感じた。
そしてそれと同時に、魔力の糸がいっそう熱を帯び、二人の間に柔らかい光を生んだ。
「……今の、見えた?」
「おう。なんだ、これ」
「わたしの“本音”が、あなたに伝わったから。……契約が、形を変えたのよ」
ザイドは不思議そうに自分の胸元を見て、そっと呟いた。
「本音ね……なら、俺も少しは……話さねぇとな」
その言葉に、リーナは小さく笑った。
風が笑うように、やわらかく、そっと吹いた。
その夜、二人はいつもより近い場所で眠った。
焚き火の温度ではなく、心の熱が、寒さを追い払っていた。
契約の魔法は、もうただの道具ではなかった。
それは、二人が築いた“関係そのもの”になり始めていた。
そしてリーナは心の奥で、ふとこんな疑問に触れる。
――「もし、この契約が終わったら、私たちはどうなるんだろう?」
それはまだ、口にするには早すぎる問いだった。
けれどその問いが、彼女の中に生まれた時点で、すでにすべては変わり始めていた。