裂け目の呼び声
その場所には、風がなかった。
森の奥深く、草木は揺れず、空気さえも沈黙している。
一歩踏み込めば、足音すら飲み込まれるような、異様な空間だった。
「……ここだ」
ザイドが呟いた。
その声に、リーナの背筋がひやりとした。肌をかすめる冷気が、魔の気配を告げている。
木々の隙間から覗くそれは――裂け目。
空間の織り目が引き裂かれ、黒い闇が現世を覗き込んでいる。
「魔素が濃い。すぐにでも封印しないと」
リーナは杖を構え、詠唱を始めた。風が彼女の周囲に集まり、薄く輝きを放ち始める。
だがそのとき、黒い裂け目が、低く、嗤った。
「……聞こえたか?」
ザイドが剣を抜いた。彼の体からも、微かな殺気が漏れていた。
「声が……」
リーナは目を閉じた。風が囁いている。けれど、今の風は“誰かの声”を模していた。
「リーナ……リーナ……」
それは、過去に死んだはずの友の声だった。
「やめて……!」
リーナは詠唱を乱し、膝をついた。
裂け目の魔は、“心の影”に触れてくる。
後悔、罪、忘れたいもの。すべてを引きずり出し、肉体と精神を蝕む。
「リーナ、立て」
ザイドの声が鋭く響いた。
彼は彼女の手を掴み、無理やり立たせた。
その手は熱かった――あの沈んだ世界に触れたとき、唯一の現実の証のようだった。
「そんなに弱いなら、契約なんてするんじゃねぇ」
「……うるさい……わね」
リーナは涙をこらえ、再び詠唱に集中する。
彼の手を握りながら、風を集めた。
今度の風は静かだった。
けれど強い。恐れを超えた意志だけが、魔に対抗できる。
「風よ……契約の名のもとに、我を包め……!」
封印の光が走った。
裂け目は、ひととき悲鳴のような音を発したのち、ゆっくりと閉じられていった。
闇が、しずかに沈んだ。
その夜、二人は焚き火の前で黙って座っていた。
「……見たのか、誰かの幻」
ザイドが問いかけた。リーナは少しだけうなずいた。
「あなたは?」
「……俺は、声なんか聞こえなかった。ああいうのは、頭でっかちの魔導士が見るものだろ」
「……バカにしてるの?」
「いや」
ザイドは火を見つめたまま、言葉を続けた。
「お前が倒れたとき、何も考えずに手を伸ばしてた。それだけだ」
リーナはその言葉に、何も返せなかった。
ただ、火の粉が夜空に舞い上がるのを見つめていた。
ザイドの手は今も、指先に熱が残るように感じられた。
契約で結ばれた関係。
偽物の恋人同士。
それでも、あの時の手の熱は――偽りではなかった。
風が、また静かに吹いた。
けれど今度の風は、彼女にだけ、こんな言葉を運んでくれた気がした。
「まだ、終わっていない」