第三話:封じられた記憶
雨が静かに窓を打つ夜だった。
ヌンの部屋の蛍光灯は明滅を繰り返し、そこに座るポポの影を、淡くぼやかしていた。
「……ここ、前にも来た気がする」
彼女は言った。濡れた髪の先から、雫が畳にぽたぽたと落ちていた。
ヌンは何も返さず、クロにタオルをくわえさせて彼女に渡す。
黙って受け取ったポポは、胸元を隠すようにしてそれを肩に掛けた。
「名前、ポポで合ってるのかな。わたし、あんまりよく思い出せなくて」
ヌンは目を細めた。
(見た目も声も、あの頃と変わらない……けど)
ポポは自分が“死んだ”ことをどこかで知っているようだった。
それなのに、この空気のように自然な存在感。懐かしさが刺すように戻ってくる。
「お前、今までどこにいた」
低く、感情を抑えた声だった。
「……ごめん、覚えてないの。気がついたら、知らない部屋で寝てて。誰かが『行け』って、声をかけて……それで……気がついたら、ヌンくんが目の前にいたの」
クロが静かにしっぽを巻いた。その瞳が、ポポの手首のあたりに注がれている。
ヌンも気づいた。そこに、細く薄い“傷跡”があった。
火傷ではない。手術痕にも見えるそれは、何かを「埋め込まれた」ような痕跡だった。
「……医療痕か?」
ヌンの呟きに、ポポはきょとんとした。
「なに、それ?」
(知らない? いや、思い出せないんだ)
ヌンは立ち上がり、キッチンからカップを二つ取り出す。
インスタントのミルクティーを注ぎながら、未来視のスイッチを一瞬だけ入れた。
──5秒後、ポポはカップを受け取って、笑う。
その未来の通り、彼女は微笑んだ。
「ありがとう、ヌンくん……」
その笑顔は、確かに昔と同じだった。
けれどどこか、うすく膜がかかったような違和感があった。
「ポポ」
ヌンは言った。
「お前、本当に……ポポか?」
カップを持つ手が、わずかに震えた。
彼女は答えない。ただ、視線を落としたまま、口元だけで微笑む。
──そのとき、クロが唐突に言葉を発した。
「……この子の記憶、弄られてますニャ」
ポポが驚いて目を見開く。
「……今、喋った?」
「オレは普通の猫じゃないですニャ。あと、隠してたけど、ずっと見てたんです。ヌンとあんたを」
ヌンはクロの言葉に反応しない。彼にとっては、もう慣れた光景だった。
それよりも、クロの“診断”のほうが重要だった。
「弄られた……って?」
「記憶の層が剥がれてる。まるで他人の記憶を、上から被せたような……無理矢理にニャ」
ヌンはポポを見る。彼女は怯えるように身体を抱え、唇を噛んでいた。
「……わたし、本当に……ポポなのかな」
その声には、迷いと、悲しみと、何より“恐れ”が混じっていた。
「だったら……わたしがわたしじゃないなら、じゃあわたしは誰?」
ヌンは何も言わなかった。
ただ、心の中でゆっくりと呟いた。
(ポポ、お前は……誰なんだ)
それでも彼女は、ヌンをまっすぐに見つめていた。
自分が何者か分からなくても、ヌンのことだけは忘れていないように。
──その夜、ヌンの未来視がまた発動する。
窓の外。5秒後、男がこちらを見ている。
「……敵だ」
立ち上がり、ポポを背に隠す。
クロも牙をむき出しにして低く唸った。
「ヌンくん……」
ヌンは冷静に、しかし静かに拳を握りしめる。
「お前はここにいろ。俺が、片付ける」
チェックメイト──その言葉はまだ呑み込んだまま、ヌンは玄関へと向かった。
初めての小説難しいです頭がパンクしそうです。よろしければ評価などお願いしますー