1話
いまどこにいるかと訊かれたら、夏のど真ん中だと答える。
それくらいに暑い日だった。
「夏は最高だな。女の子の肌をたくさん拝める」
凪日遊が教室の外の景色にみとれて言った。正確に言うと、女子高生の小麦色の肌にみとれて。
「君はいつも、よこしまなことばかりだ」
「おまえは違うっていうのかよ」
「ちがうよ」
しかし、全くちがうと言ったら嘘になる。
僕は灼熱のグラウンドを蹴って走る女の子の細い足を追いかけた。夏の太陽の足もとには褐色の肌がよく映える。
「うわすっげ! あれみろよ! あれ!」
日遊は僕の首に腕を回すと、力任せにぐっと引き寄せた。されるがままに僕の視界はぐわんと揺れる。こんな彼の強引なところに、僕はすっかり慣れてしまっていた。
日遊はプールの方角を指さす。僕はその指の先を追った。
「どれ?」
「あれ。プールサイドの奥」
秘め事をうち明かすみたいに、耳元でささやかれる。
一目みて分かった。あの子のことだ。水泳部だろうか。プールの傍らに座り、足だけを水に浸している。空を、遠くをぼおっと眺める綺麗な横顔。女の子というには、完成されすぎている女性の体。抱きしめたら柔らかそうな、その全部。
「な! すごいだろ?」
「たしかに、すごいかも……!」
「ふぅー! お・と・こ・の・こー!」
日遊は僕の頭をつかんで、がしかしと揺らした。楽しそうにはしゃいでいる姿がうざったい。同意なんてするもんじゃなかった。
「もう、ふたりったら……」
後ろから声がする。猫がコロコロ笑うような特徴的な声。机に肘をついて、椅子の上に座る女の子。海野牡丹が眉をしかめて、右頬を膨らませている。
「へんたいっ!」
小さな顔が傾いて、内巻きのセミロングの髪が揺れる。
なに言ってんだ、おまえは。と日遊は呆れたと言わんばかりに首を左右にふった。そうだそうだ。と僕は同意する。
「あたりまえのこと言うな。男はみんな変態だ」
「ちがう。そうじゃない」
「ハチは変態で嘘つきだ」
「おい!」
僕は日遊を仰ぎみる。そうしないと背の高い日遊の顔をみれない。焼けた肌。ワックスでツンツンに立たせた短髪。整った顔。爽やかでいてかっこいい。なんで僕みたいな冴えないのとつるんでいるんだろうといつも不思議に思う。
その理由は、たぶん日遊の過去にある。けれど僕は彼の過去に興味ないふりをする。他人の過去を暴こうとすれば、自分の過去を守る盾を失う。きっと牡丹も同じ理由で互いの過去については言及しない。
歪な調和を前提に、僕らの絆はつくられている。
「ふーん。てことはそう言う目で私も見てんだ。あーやらし!」
「おまえの貧相な身体じゃあな……」
「うろさいぞ日遊!」
牡丹は立ち上がって日遊を睨んだ。僕よりも小柄な牡丹だと彼を見上げるだけでも首が疲れそうだ。
「おまえもそう思うだろ? ハチ」
「そんなことないよね? ハチ?」
ふたりにつめよられて、僕は目の前の華奢な身体を見つめる。牡丹は授業以外でスポーツを一回もやったことがないと前に言っていたけれど、その言葉を裏付ける線の細さをしている。
「変な目で見たりはしないけど、でもかわいらしいと僕は思うよ」
「ふーん……」牡丹の口元がゆっくりと時間をかけて綻んだ。「だよねえ。惚れるなよー?」
そう言って牡丹は僕の肩を叩いた。調子に乗るその姿に、言うんじゃなかったと僕は後悔する。
「ハチは優しいな」
「君にデリカシーがないだけだよ」
僕と日遊が一言ずつ交わすと「どういう意味かなー?」と牡丹が間に入った。
「別に」
僕と日遊は声を重ねた。日遊だけが悪戯な笑みを隠しきれていない。僕は我慢したのに。
「なによ。そういうことね。いいよーだ。どうせ私には女の魅力なんかないんだから。知ってるし、そんなの」
牡丹は机に座り直して不機嫌な顔で携帯を弄りだした。
「あーあ。拗ねちったよ。おまえがいじめるから」
「いじめたのは日遊でしょ? 機嫌戻してあげないと」
「ったく、しょうがねえなあ」
日遊は牡丹の前の席の椅子に跨いで座った。
「おまえがこのまえ駅前にできたって言ってた喫茶店、今から行こうぜ? 行きたかったんだろ?」
牡丹は表情をすんとも変えずに携帯を弄り続ける。
「分かったよ…。ケーキひとつ奢ってやる……!」
牡丹の眉がピクリと反応する。携帯に触れる親指は動かしているけれど、ほとんど操作しているふりにしか見えない。もうひと押しだと僕は確信した。
「ふたつ」
僕が言った。そしたらすぐさまに
「行こう!」
と黄色く色づいた声が返ってきた。
牡丹は茶色い瞳をキラキラとさせて、口はニンマリと笑っている。仮面を脱ぎ捨てたかのような表情の変わりようだった。
そんな彼女を見て、日遊が黙っているわけがない。
「おまえ……! 態度変わりすぎだ! さてはさっきまで不機嫌だったのは演技だろ!」
「なにそれ。心外なんだけど。あんまりひどいこと言うとまた拗ねるわよ? 面倒くさいわよー? 私が本気で拗ねたら」
「なんだよその斬新な脅しはよ!」
ふたりのやりとりを聞いて、僕は思わず笑ってしまった。笑う僕を見て、ふたりも微笑みをこぼす。
「行こうぜ」
日遊が言った。僕は肯く。牡丹も。
夏の太陽が僕らを照らしつけ、黒板に、机の天板に日溜まりを落とす。
ふたりが僕を見つけださなかったら僕はここにいなかった。この夏に僕がこの場所にいるのはそれだけで奇跡なんだ。
だからあとは、穏やかにこの日々が過ぎていけばいい。それだけで僕は満ち足りている。
『ねえねえ。お兄さん。お姉さん』
どこからか声がする。聞き馴染みのない声。その声の主は僕の真下にいた。
小さな男の子だった。いつのまにそこにいたのだろうか。教室に入ってくるのに全く気づかなかった。そしてそれよりも、その格好に驚く。
僅かにくすんだ白い小袖に紫陽色の袴。まるで巫女のような装束を身につけている。髪の毛は息を呑むほど鮮やかに白い。そして極めつけは頭の上の二本の角。紺色のその角は耳の上から弧を描いて天井に向いている。
男の子は僕を見上げている。穢れをなにも知らないような無垢な瞳で。
『ここはどこ?』
いまどこにいるかと訊かれたら、フィクションの中だと答える。
それくらいになにが起きているのか、僕には分からなかった。