1 夏の日
「はー、あついなー」
「本当、そうねえ」
俺はギラギラと照りつけてくる太陽に手をかざしながら、思わず声を漏らす。
そしてそれに反応してくれるのは、俺の隣で惜しげもなく肌を晒しているビキニ姿の女性だ。
俺は今高校二年生の夏休み真っ最中。
受験ガチ勢の俺は、勉強三昧の窮屈で忙しい日々を送っているのだが、たまには気分転換するのもいいだろうということで、彼女がこうして連れ出してくれたのだ。
「いやー、やっぱり海はいいなぁ」
陽の光を反射し輝く水面。
そんな視界いっぱいを覆う塩水には、俺たちの他にも沢山の遊泳者たちの姿が。
やはり暑い夏季シーズンとだけあって、レジャー目的で訪れる人は多いみたいだ。
「何言ってるのよ、テクちゃん。まだ泳いでもないでしょうに」
隣にいる彼女が微笑みながら茶々を入れてくる。
そんな笑顔がとても眩しいと思ってしまう。
自然の輝きが霞んでしまうくらいに。
「はは、そうだよね。よし、じゃあ早速およごっか!」
今日は彼女と二人きりでこの海水浴場に訪れたのだ。
俺は何日も前からこの日を非常に楽しみにしていた。
というのもそれは、だって……好きな人とこうして並んで遊べるって、それだけで、すごく胸が高鳴って、素敵なことだと思ってしまうから。
「そうね、私も気合を入れて泳がないとねぇ」
「はは、無理しなくてもいいよ。一緒に泳げるだけで十分楽しいと思うし」
「ふふっ、テクちゃんは随分大人になったわねぇ」
「そんなことないよ。さっ、着替えてることだし、浸かりにいこ、おばあちゃん!」
俺は実のおばあちゃん(84)と海水浴を満喫しにきていた。
「わぁ、冷たいね!」
「あら、本当ねぇ」
そう言いながらも本当に温度を感じているのか心配になってきてしまう俺。
彼女――おばあちゃんはもうかなり高齢だ。
腰もかなり悪くなってきていると聞いている。
それなのにたぶん俺の為だけを思って、こうして海に連れてきてくれている。
ちなみに俺の両親は共働きで、幼い頃から今まで殆どの時間をこのおばあちゃんと一緒に過ごしてきた。
おばあちゃんはそんな一人っ子の俺に色んな知識や、優しさ、愛情など、大切なことをたくさん教えてくれた。
泣いてる時は静かにあやしてくれたし、ちょっと思春期になって乱暴な言葉づかいになってしまった時も、怒らずニコニコと見守っていてくれた。
今の俺がいるのはおばあちゃんのおかげ。
そんなおばあちゃんを、俺は当然のように尊敬しているし、大好きだ。
だからこそ、僕はおばあちゃんを失いたくない。離れたくない。
ずっと一緒にいたい。
この思いは誰にも負けないつもりだ。
だから仮に、ビキニ姿から除くシワシワの肌がかなりキツめだったとしても、俺はおばあちゃんを遠ざけたりはしない。俺のおばあちゃんへの愛情は、そんなことでたやすく途切れたりはしないのだ。
「ほらっ、どう?」
「はは、冷たいよおばあちゃん」
おばあちゃんが俺にパシャリと水をかけてくる。
そんなちょっとしたイタズラ心もすごく嬉しかった。
でもそれと同時に、病的かと思うほどにか細い腕や、水を掛けに来ている割には随分と弱々しい水しぶきに思わず笑みが崩れそうになってしまったが、なんとか表に出さないように、俺も水を軽く掛け返すことで誤魔化した。
そうして俺はゆったりとした、夢のような楽しい時間を過ごした。
どのくらいの時が経っただろうか。
分からない。
けれど、陽の光が弱まり、海水浴場もその賑わいをにわかに落ち着かせてきたときだった。
その光景だけは、やけに覚えている。
そして――その時はやってきたのだ。
「ふぅ、そろそろ帰ろうか」
ちょこちょこ休憩も挟みながら、最後の水浴びを終えた俺は、おばあちゃんにそう提言してみた。
「そうねぇ、ちょっと、張り切りすぎちゃったかしら」
そう言うおばあちゃんはニコニコと笑みを絶やさずに合意の意を示してくれたが、明らかにその顔には疲れが見て取れた。
少し無茶をさせすぎてしまっただろうか。
俺もつい楽しすぎて時を忘れて遊んでしまっていたが、もうちょっとよく観察して早めに引き上げてしまった方が良かったのかもしれない。
帰ったらゆっくりと寝てもらって、マッサージでもしてあげよう。
おばあちゃんに喜んで貰いたくて、マッサージの腕はかなり極めたからな。腕の見せどころだ。
「にしてもすごく楽しかったな、もし機会があったらまたこんな風に……あれ?」
俺が違和感に気づいたのはその時だった。
俺がおばあちゃんを先導するように手を引いていたのだが、おばあちゃんの背後、少し離れた水面に黒い影のようなものが差しているような気がしたのだ。
最初は気のせいだと思った。
しかし、その影がだんだんとその色を濃くしているのを目の当たりにして、その淡い思いが確信へと変わっていく。
――何かが、いる。
俺が危険を察知し、早く砂浜に上がるべくおばあちゃんの腕を強く握ったのと、水面からそいつが勢いよく飛び出しきたのはほぼ同時だった。
そいつは、おびただしい数の牙を揃えたサメだった。
しかしただのサメではない。
おおよそ陸上にいる動物の比ではないような、それこそクジラか何かに例えられるような、そんな巨大な体躯の、化け物。
当然、そんな規模であるわけなので、人間の一人や二人なんて簡単に飲み込めてしまうような顎の大きさを誇っているわけで。
仮に目の前にいる一人の人間を、丸飲みしてしまったとしても、それは何も不思議ではない話だった。
――ばくり。
俺の目の前でおばあちゃんが食われた。
「…………え」
俺が上げれる声は、それが限界だった。
むしろそれだけでも発せられたことが、奇跡に近かったかもしれない。
いや、そんなことどうでもいい。
視界をどんと遮る黒い巨大な生物も、そいつを見て一目散に逃げていく人々も、肘から先が無くなった俺の右手も、本当に、本当にどうでもいい話だ。
――彼女がいなくなったことに比べれば。
「あ、ああ……」
俺は言葉にならない声を上げながら、その巨大生物によたよたと歩み寄る。
それしかできなかった。
それしか思い浮かばなかった。
その他に、一体全体どうしたらいいのか、わからなかったのだ。
「あ、ああ――あああああああああああああああああああああああああああtあlがnHががごあjhッ!」
俺は気づけば言葉にならない声を発していた。
泣きながら、巨大生物の口元へと腕を突き出す。
まだ、助かる。
食われただけだ。
死んでしまったわけではない。
まだ今なら、今なら助かる。
だから、出てきて、早く――出てきてッ!
泣きじゃくりながら巨大生物の歯を殴りつける俺の望みが届いたのだろうか。
それまでびくともしなかった巨大な口が、ゆっくりと開かれる。
そして俺は期待に満ちた思いでその口内を覗き――
――なにも、ない。
「…………え」
そうして、最後の言葉を発した俺は、次に閉じられたその大顎によって、まだ若い十六の年月を数えたその命を、散らした。