あなたのために弾きたい
「テンポ崩れてるわよ!」
ピアノ以外何も置かれていない、真っ白で殺風景な部屋に甲高い声がこだまする。
「すみません。」
彼女は小鳥のさえずりのような、か細い声で返事をしてもう一度最初から弾き直す。
彼女の名は千本木雫。小学校1年生に親の勧めでピアノを始め、特に辞める理由もなくダラダラと弾き続けてかれこれ9年目になる。今は、来月にある半年に1回の定期演奏会に向けて練習中である。
「ありがとうございました。」
形式的な挨拶を済ませると雫はそそくさとピアノ教室を後にした。
「はぁ~、全然上手くいかないや。」
雫は夜の桜田通りをとぼとぼと歩く。時刻は22時を過ぎており、車通りも少なくなっている。左右にそびえ立つビル群は雫を冷酷に見下ろしている。魚藍坂下の交差点まで来た時に、交差点をサイレンを鳴らした救急車が通り過ぎて行った。今の雫にとってはそんな些細なことも心に悪い影響を及ぼしてくる。
しかし、そんな雫にはひそかな楽しみがこの帰り道にあった。件の交差点を少し過ぎた所。右に曲がった先にある坂道である。
「よかったぁ~。蓮人、今日も来てくれたんだ!」
雫は電灯の下に浮かび上がる彼の姿を認めると小走りで駆け寄る。
「ねぇ、聞いてよ!先生ったら一瞬テンポがずれただけで弾き直しって怒るのよ。まだこの曲弾き始めて一週間なのに。そりゃ、私も難しいと分かってこの曲を選んでるよ。でも、まだ本番は一か月も先よ。まずは通しで弾いて楽譜を指に覚えさせるのが先だと思わない?」
「そうだね。でも、先生も雫がもっとできる子だって信じてるから、ついきつく当たっちゃうんじゃない?」
「も~、蓮人は昔からずっとそう。大人な対応するから蓮人と話してると、こっちがいつまでも子供みたいで嫌になっちゃう。」
「あははは、ごめん、ごめん。それよりもこっちの暮らしにはもう慣れた?」
「そうだね、もう6か月もたったし、ほとんど慣れちゃったかな。でも、いまだに言葉の端々に違和感を感じちゃうな。」
「そっか、親父さんの方はどうだい?変わりないか?」
「うん。こっちに来て、良いお医者さんとも出会えたし、多分大丈夫だよ。」
「良かった。いや~、雫の親父さんにはいっぱい怒られたなぁ~。」
「それは、蓮人がお父さんのゴルフグラブをふざけて振り回して曲げたりするからでしょ。」
「はっはっ、そんなこともあったな。俺が一番覚えてるのは、一緒にキャンプに行った時に釣りをしてる親父を川に突き落としたことかな。」
「あったね、そんなことも。あれは流石に酷すぎたよ。」
「いや~、親父さん、みんなが川に入ってる中、意地張って『俺は入らない!』とか言って。ほんとは入りたくて仕方がない様子だったからつい。」
「確かに、ちょっと楽しそうだったけど。」
「そうだろ。せっかく、親父さんのためを思ってやったのに、罰として河原での正座1時間は、さすがにきつかったなぁ。」
「あれは見ているこっちまで脛が痛くなってきたもんね。」
「2、3日は脛のデコボコがとれなかったもんなぁ。おっと、もうこんな時間。遅くなるとまた怒られるぞ。」
「そうね、じゃあまた!」
「おう!」
そして、2人はそれぞれ別の方向へ歩を進めた。何気ない会話。しかし、雫にとっては一番の楽しみであり、幾度となく訪れて欲しいかけがえのない瞬間だった。
定期演奏会前日。教室内には先生の叱咤がいつもにも増して響いている。
「今の所もっと滑らかに!」
「それじゃあ機械が弾いているのと同じです。もっと気持ちを込めて!」
「もう練習できるのは今日だけですよ。もっと集中して!」
先生の気迫と熱量に圧倒され、また上手く出来ない自分に腹が立って雫は半泣きになりながら必死に鍵盤に食らいついていた。あともう少しの辛抱。あと少し頑張れば解放される。あと少しで蓮人に、、、。
地獄の最終レッスンは、いつもより30分遅れで終わった。雫はそそくさと帰り支度を済ませると、形式的な挨拶だけ済ませ、足早に教室を去った。
いつも以上に静まり返る国道1号線。無我夢中で走る少女の荒い息遣いだけが無味乾燥なビル群に反響する。
「はぁ、はぁ、蓮人、、。」
思わず彼の名が口からこぼれる。今の雫には彼が必要だった。
果たして、例の坂にたどり着くと彼はいつものようにそこにいた。思わず雫の目からは涙がこぼれる。
「良かった。はぁはぁ、待っててくれたんだ。」
「うん。その、、明日なんだろ、大事な演奏会。」
「うん。でも、上手くいくかちょっと不安。今日も先生にいっぱい怒られちゃったし。」
「そっか、、、まぁ、雫なら大丈夫だろ。」
「なにそれ、無責任。」
気まずい沈黙が流れる。夜空では星々が精一杯に自己を主張している。微かに感じられる風は季節の移ろいを一緒に運んでくる。
「、、、、あの、、、明日さぁ、、」
「ん?明日?」
「その、明日、見に来てくれないかな?演奏会。」
「、、、そうだな。良いよ。楽しみにしてる。」
「ありがとう。それと、、、明日の演奏会が終わったらさ、私、ピアノ、辞めようと思ってるんだ。」
「そっか、辞めるのか、、、、」
再び静寂が空間を支配する。しかし、今度は居心地の悪さは感じない。むしろ2人とも沈黙を楽しんでいた。言葉のような余計なものは要らない。確かに2人は通じ合っている。
どれぐらいそうしていただろうか。坂の上を通る車の排気音が2人を現実に引き戻す。
「すっかり遅くなっちゃったね。もう帰るね。」
「ああ、今日は話せてよかった。明日、頑張れよ。絶対見に行くからな。」
「うん、頑張る。じゃあね。」
「ああ、おやすみ。」
「うん、おやすみ。」
そう言って雫は家路へと歩を進めた。次第に彼の気配が遠のいていくのを背後で感じる。もう一度だけ彼の姿を見て、その容姿を目に焼け付けたい。しかし、ここで振り返ってはいけないという直感が雫にはあった。振り返ってしまったら彼を、蓮人を失ってしまう気がした。なのに、なのに、、、、。
「蓮人ーーー!」
思わず振り返って彼の名を叫ぶ。しかし、そこにはもう、彼の姿は無かった。
「続いては橋本ピアノ教室所属、高校1年生、緑川遥さんの演奏です。演目は、、、」
雫の前の出番の子が呼ばれた。すでに心臓は早鐘を打っている。ここまで緊張するのはいつぶりだろうか。
不意に彼の姿を見たくなって、ステージサイドの暗幕からこっそりと客席を見渡す。しかし、いくら探しても彼の姿見当たらない。
「そっかぁ、来てくれてないかぁ、、、」
雫は俯いたままボソッと呟いた。目頭からは熱いものが今にも零れ落ちそうだった。
しかし、その瞬間、脳裏に昨日の彼との会話がフラッシュバックした。
「雫なら大丈夫だろ、、、、楽しみにしてる、、、、絶対見に行くからな、、、、」
そうだ、きっとどこかで見てくれているはずだ。少しでも彼のことを疑ってしまった自分が恥ずかしい。今は、自分の演奏に集中するべきだ!
雫は頭を左右に2度、3度振り、頭から弱虫を振り払った。そして、真っすぐ向き直した。
ちょうどその時、パチパチと拍手が聞こえ前奏者の演奏終了を告げた。
「続いては北川ピアノ教室所属、高校1年生、千本木雫さんの演奏です。演目は、ショパンで『幻想即興曲』です。」
紹介された雫はゆっくりとステージ中央のピアノへと歩を進めた。そして、椅子の手前まで来ると客席の方を向きお辞儀をする。温かい拍手に出迎えられ、雫は椅子に腰かけ、鍵盤にそっと指を置いた。
小3の頃、家で遊んでいる時にラジオから流れてきたこの曲。蓮人はふと「この曲、なんか好き。」と言った。蓮人自身は何気なく言ったつもりかもしれないが、雫の心にずっと残っていた。
「いつか、この曲を蓮人のために弾きたい。」
だからこそ、最後の演奏会ではこの曲を弾くとずっと前から決めていたのだ。
演奏中は自分でも驚くほど冷静だった。観客一人ひとりの視線が、息遣いがありありと分かる。手は意識とは切り離されて、ひとりでに鍵盤の上を踊っている。ただただ、蓮人のことを想い、蓮人に捧げる5分間。それは、雫にとって長くて短い、待ち焦がれていた瞬間だった。
最後の一音を奏で終わると同時に、客席からは惜しみない拍手が送られた。しかし、雫の心はもはやここに在らずだった。お辞儀をすると、そそくさとステージを降りた。
「良くやったわ、雫ちゃん。素晴らしかったわ。先生、思わず涙が出ちゃった。」
ピアノの先生はそう言って、ハグで雫を迎え入れようとしていた。
しかし、雫には今すぐ行かなくてはいけない場所がある。
「ありがとうございます、先生。」
そう軽く返事をすると、雫は一目散に駆けだした。
「はぁ、はぁ、蓮人、、。」
雫は無我夢中で走った。両翼にそびえ立つビル群はまるで異界のような怪しさを放っている。先ほどまで世界中が雫の味方であったが今は違う。全てが雫から奪い取ろうとしている。
「蓮人ーーーーー!!!」
いつもの場所に着いた雫は大声で叫んだ。しかし、雫の微かな希望も虚しく、ただ音が無人の坂を駆け上がっていくのみだった。
「そうだよね、、、そうだよね、、、」
雫の弱々しい声が空へと消えていく。雫は分かっていた。全て自分の幻想だという事が。だけど、認めたく無かった。認めてしまったら自分の全てを奪われると確信していたから。雫は思わず座り込み膝に顔を埋めた。
不意に小鳥の鳴き声が聞こえてきた。雫が顔を上げて見つめると、その鳥はさえずりながら大空へと羽ばたいていった。
「蓮人、ありがとう。見に来てくれてたんだね。」
雫はそう呟くとまた前へ一歩踏み出していった。
ーーー幽霊坂ーーー
完