白刺繍、婚約破棄、捩られた手紙、祈りを込めて銀の針。
白の薄いコットン生地にひと針ひと針、白の刺繍糸で模様を刺していく。今作っているのは結婚式の折に手に持つ、真白のハンカチ。最後に縁にレースも編み飾らないといけない。手間暇かかる、一品。
社交界デビューが終えた時から、先の為に準備する物のひとつ。細やかであればある程、良いお品と言われる。ぐるりに百合と細かな草花のモチーフ。指先に気をつけなければ、赤いシミ等つけたら……、
穢れとなり最初からやり直し。慎重に進めているせいか、針の動きはとても遅い。いえ、遅くしているのは、わたくしの心が重く堕ちているからかもしれない。
ひと針、ふた針……、十も刺せば、手が止まってしまう。ぐるりと周囲をかがった時はこんな事になるとは思いもしなかったなかった。
ツイ……、糸を引く。重く深く、陰含むため息。気が乗らない。銀色をその位置に留め、止める。
しばらく刺すのを止めておこうと思う。行く末の幸せを願い気持ちを込める物に、今のわたくしは相応しく無い。
彼の心変わりを心底、疑っているのだから。
彼の悪所通いに、気がついているのだから。
悪い運命の手紙が来ている事を知ったから。
あの人と心通じている。それは、ただの思い込みに過ぎなかった。ほんの数ヶ月前迄は穏やかで、足が不自由なお義父様の事を庇い、領地の経営、様々な雑用を手伝う孝行息子。そしてわたくしにも優しくて。それこそ、絵に書いたような紳士そのものの振る舞いだった、婚約者。
それが今では、すっかり遊び人として悪名を轟かせている。
城を抜け出し遊び回る陛下。そしてそのお仲間達と、すっかり意気投合をしている。
あのお方も、あのお方も……、陛下の取り巻きと成り果て、家族を泣かせていると、漏れ聴いている由緒正しい家柄の人達。
そして、お辞めくださいましと、出逢う度に申し入れても知らぬ顔をされているわたくし。
うっとおしく手を振り払われる。陰鬱な婚約者を避けておられるのか、ここしばらく会う事もトンと減った。
お母様に教えてもらった。
女癖のお悪い陛下が、わたくしを差し出す様にとの手紙を、前々から密かに両家に対して送られていたと云うことを。
我が家は彼との正式なる婚約を楯に、辛うじて断り続けていると云うことを。
もしかして、わたくしを諦めないと何かしら罰が下されるとか……、悪い事を仄めかされておられる?両親は庇って下さっておりますのに……。
何処で歯車が狂ったのかしら、……。ふわりと、くしゃな山を形取るハンカチを籠に入れながら吐息をつく。胸詰まる思いで、白の刺繍糸の盛り上がりを見つめた。
あの人の声が耳に流れた。
熱くて痛い涙が頬に流れた。
彼の屋敷、花咲く庭で散策をしていた時、国政を放ったらかし、遊興に耽り国庫を食い潰す勢いの陛下の行いを嘆いていた彼。
話を聞いたわたくし。
どうしたら……、このままではこの国は潰れる。頭を抱えるあの人の手助けをしたいと、思いついたあれこれ浅はかな事をお話した事が、気に触られたのかしら。
口を挟むな!そういう事だったのかしら。だんだんにわたくしと距離を置き始めたあの人。そして外から聴こえる噂。
ミイラ取りがミイラになる。そんな事、本当にあったのね。そしてわたくしは売り飛ばされる子羊の気持ち。
婚約が無効になったら……、どうなるのかしら。
悲しくて、恐ろしくて、情けなくて、寂しくて。
怒りたくて、暴れたくて、文句を言いたくて。
鬱々とした物が、わたくしの中いっぱいに満ちている。ソレは、銅の鍋でグラグラ煮える、辛いスープの様。
デビュタントの白いドレス。それを身に着けてから間もないと言うのに。本当ならば来季の婚礼に向けて、一番甘く幸せな時をすごしている筈だったのに。
銀の先で指を突き、白を穢したくなる。
★
何故こんなに辛く哀しいの?どうして?陰鬱な心で白の刺繍を刺したから?不幸が訪れたのかしら。
あの日からずっと胸の痛みが止まらない。一瞥もくれず衆人環視の中、冷たく言い放たれた別れの言葉が、こびりついている心の臓。
カチカチに固めている。
ドクンドクンと脈打つ度に熱と痛みが深くなる。
わたくしは銀の針を操り、ただ時間を潰す為に、模様を刺している。
久しぶりに開かれた舞踏会。お招きに与ったわたくし。装いを凝らして出向けば……。
婚約破棄の宣言をされた。足が不自由な義父様が、いつもの席で悲しそうに眺めて居られた。何も仰って下さらない。公認ということ?せめて彼の義母様がご存命ならば、女同士で近しく訳を聞けるのに。
あの夜の事がグルグル巡る。わたくしに陛下の玩具になればと言われている様だった。憐れみの目を向けられた、残酷で綺羅びやかな夜。
ツッと刺す針先、布地が痛みに耐えるように動く。
クッ!硬く重なる刺繍糸。ひと針ひと針積み重ねる。
直ぐにでも沙汰が有ると身を硬くしていた。
その時は修道院へ逃げ出そうと構えていた。
「お嬢様、お茶をお運び致しました。今日のお菓子は、陛下自らお選びになられた、わざわざ城からここ迄運ばせた物でございます」
ノックの後、部屋に入ってくるメイドは、陛下が送り込んだ監視役。嘆き悲しみ、髪も肌もカサカサ、頬こけ目が落ち窪み、病んだ相貌に成り果てたわたくし。直ぐに呼び寄せようとした陛下は……、
みすぼらしい成りだと困るのか、しばらく屋敷で静養してからと、仰られたそう。そして日々贈られる品物の数々。
無駄な事をなさらないでほしいわ。迷惑な行為にうんざりしているわたくし。針刺す手を止めずに声をかける。
「悪いけれど勝手に運んで来ないで。飲みたくないの。甘い物は嫌い。下げてくださいませ。ここは貴方の裁量の自由が許されている、お城ではありません」
そう、ここはお父様のお屋敷。一瞬、引くつく顔をしたメイドは王から遣わされているとしても、身分はずっとわたくしより下。素気ない言葉を言い放つ。
失礼します……、人形の様な顔に戻り下った彼女。入れ替わりに、わたくしのメイドが、ワゴンに籠と茶道具を載せ入ってくる。
「お嬢様、マーガレット様から差し入れですわ、お嬢様のお好きな糖蜜のパイです。熱いお茶をお淹れしましょう」
「まあ、マーガレットから。ええ、丁度飲みたいと思っていたの」
準備してきた茶道具で、手早く支度を整える彼女。甘い物は本当は好物。陛下から贈られる品物は、どの様に贅を尽くしていても、手を付けたくない。後で何時ものように貧民街にでも運ばせておこうと思いつつ、針を留め置き籠の中に入れる。
木苺と青い矢車菊の模様の磁器の皿。糖蜜パイを切り分け皿の上にのせようとしていたメイドの手が止まる。辺りを伺う彼女は、出来たメイドと評判が高い。
「お嬢様。お手紙が隠されておりました」
そのまま何食わぬ顔をし、一切れ乗せるとわたくしに運んでくる。小声で囁く。
くるりと小さな筒に丸められた紙が、油紙に包まれコロンとパイに寄り添っている。何かしら……、ザワザワと耳鳴りがする。
そろりとソレを解き広げると。
『藤の蔓は絡まって』
マーガレットの手で一言。ソレをメイドに見せると、持ってきた籠の中を、目の前で丁重に探る彼女。すると編んだ籐に似せて細く折られた手紙が、紛れ込ませてあった。
「お嬢様、お便りでございます」
ぎゅうぎゅうに拗じられ、干からびた蔓の様なソレを差し出す彼女。受け取るわたくし。
そろりと破らぬ様に解いて開く。
懐かしい文字がそこにはあった。
☆☆
白の薄いコットン生地にひと針ひと針、白の刺繍糸で模様を刺していく。結婚式の折に手に持つ、真白のハンカチ。最後に縁にレースも編み飾らないといけない。手間暇かかる、一品。
ひと針ひと針、丁寧にゆるりと刺している。コレが出来上がったら……、陛下の元に出向く事になっているから。
祈りを込めて針を刺す。ツィと糸を切れぬ様引く。繰り返す。思い出すのは手紙に綴られていた、貴方の吐息。
『すまない。君は今辛い事だろう。まさか父や母と同じ運命になるとは思いもしなかった。この世に神はいるのだろうか。仲間と共に動く。彼らもまた、妻や母や恋人を、魂を奢侈に魅入られた獅子に喰われた。ソレに取り入り油断をつくる。失敗をしたら、君にも君のご両親にも害が行く。だから離れた。もし、獅子を討つことが出来たら』
短い手紙はそこまで。涙のシミがひとうつ、シワシワの紙に残っていた。
読み終え、直ぐに燃やしたソレ。
読み終え、別れのキスをした手紙。
貴方の香りが微かに残っていた。
ご武運を。
銀の針に祈りを込める。
白の刺繍。白の柔らな薄い生地に、幾つもの花が生まれる。この後縁をレースを編んで飾る。花嫁が手にするハンカチ。
バタバタとはしたなく走る音が、扉の向こうで聴こえる。
時が……。動いたらしい、危うさと騒がしさが混じり合って。
胸が痛いほど高まる。
緊張、心配、不安、恐怖、わたくしの中に産まれる。
震える針先を上に引き上げる。
真白の糸を殊更強く、ツィッ!と引いた。指に食い込み細く紅く跡が残る。
キュッと、締まる。糸は切れていない。
ホッとする。まるでいい目が出た占いの様。
大丈夫。愛する貴方はきっと生きている。
終。