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カレー小説 臆病者、カレーを食べる

カミ様の書くとおり ~臆病者、カレーを食べる~

作者: 侍 崗

恋文って書いたことはありますか?

ただでさえ手紙を書くことが少ない現代社会。思いを便箋に綴って、さらにそれを相手に渡すというのは、本当に労を要することです。しかし形に残るものですから、声に出すよりも、もっと思いが伝わるのかもしれません。案外苦労が実を結ぶかもしれませんし、その時は失敗しても「なんだかあんなの書いたっけ」といい思い出になるかもしれません。

私ですか? ありますよ。書いたこと。

誤字の部分を添削されて返ってきました。

「――チェンジ」


「は? え?」


 小島聡子は男の言葉に眉をひそめた。

 少なくとも初対面の人間に対し、最初に使う言葉ではないと思った。

 何にしても人というのは、第一印象で相手の印象を決めてしまう。非常に間抜けな顔をして立っている彼女、小島聡子もそれは変わらない。

 八階建の階段を恐る恐る上ってきた彼女の体から噴き出した汗はシャツを肌に張り付かせ、空気に触れながら温度を下げている。蒸し暑さを東側から吹く風がその冷却を加速させた。

 聡子はドアを間にして向かい合っている男の一言に、戸惑い、嫌悪した。

 このような状況になったのを説明するには、少し前に遡る。


 ある日の昼休み。聡子はクラスメイトの由梨から「どんな恋も必ず成就させる神様」の話を聞いた。由梨がいうには「同じクラスの有賀の親友の彼氏の友達の彼女のお姉ちゃんが今の彼氏とくっついたのは、九龍城に住む神様のおかげ。その神様って、かなりやばい奴らしいんだけど、ちゃんと願いをかなえてくれる」だそうだ。


九龍城(くーろんじょう)


 それは聡子の通う高校から電車で二十五分の場所にあるアパートだ。不気味さから聡子達……いや、その場所を知る者の間では皆、そう呼んでいた。

 不気味な外観に加え、九龍城というあだ名が故に、誰が言い出したのか分からない三文話よろしく、薄気味悪い噂が学生達の間で尾を付けヒレを替えながら語られていた。

 郷里を追われたゴロツキの巣窟というものだけではなく、戦時中にその場で命を落とした霊が今も彷徨う呪われた場所というオカルトめいた話。建物の中では日本の法律など通じないという話や、薬物や人身を売買し、非合法な賭博も夜な夜な行われているといった噂まである。

 普段こそオカルトには興味が微塵もわかず、由梨の話を半分以上聞き流していた由梨だったが、この話題だけは違った。

 これでも世間様的には蝶よ花よと可愛がられる一方、滅せよ枯れよとやっかみをうける十代の女子である。噂話は気になるし、人知れず夢見て、よくわからないまじないや美容研究、ダイエットだってする。ただそれらを表に出すのは非常に恥ずかしいものだと思う彼女は、幼い頃からの親友である由梨にさえ、ひねくれた態度をとってしまうのだった。

 その場でこそ興味のない素振りをしたものの、その日の放課後から聡子は単身、図書館で九龍場周辺の地域の歴史を調べ、噂話に耳を立て、なにげない素振りを装って友人、知人に聞いて回り、家に帰れば部屋に籠り、一晩中ネットを駆使して情報を集めた。しかし、一介の女子高生がたどり着けるのは、何度も耳にした噂話程度で、とても真実にたどり着けるものではなかった。

 それを見かねた彼女の後輩である藍那が、姉から貰ったメモを誰もいない準備室で聡子に手渡した。

 メモには『恋の神様』と可愛らしい小さな文字が蛍光ピンクのペンで書かれており、そのすぐ下には紫のペンで住所と『809』という三桁の数字があった


「これって……」


 聡子はドアを背に立つ藍那に聞いた。


「うちのお姉ちゃんに聞いたら、神様ってそこにいるそうです。先輩ご自身が行くのか分かりませんけど、注意しろって……なんかその――」


「その、なによ?」


「その神様って言われる人……なんか、その……凄くやばい人らしいので」


「やばい? そういえば由梨も……けどまぁ、あんな嫌な噂が絶えないトコに住んでる人だから、やばいって思うのは当たり前だけど、どうやばいって?」


「そこまでは……あ、では私の用はこれで終わりです。そのメモ、あまり人に見せないでってお姉ちゃんから言われてるんで、大事にしてください。あと、無理矢理スミマセンでした。失礼します」


 そういうと彼女はおじぎをして聡子を残し部屋を出て行った。

 聡子の手の中で、メモ帳が小さく折れながら、微かに音を立てた。


 ここまでが数日前からつい1時間と半分程前の回想。


 メモを手に入れた聡子は、早速書かれた住所へと赴いた。

 やや幅の広い通りから左へ折れたその時、遠くの空から「夕焼け小焼け」の物悲しいメロディが流れてきた。聡子はそのメロディが発せられているであろう方角を一瞥すると、一旦止めた歩みを前へと押し出した。あれが流れてくるという事は、午後五時を迎えたという事だ。

 九月も半ばを過ぎれば、日の傾きは一気にその速度を増す。その速度と運動は、誰の都合も待ってくれない。つい先程までこの時間は正午と変わらぬ明るさだったが、今この地域に射す光の色は秋の装いだった。

「だった」のだが、日差しが優しいわけでもなかった。

 今日は近年稀にみる暑さ。そのため太陽がこの秋口の風流をいくら演出しようとも、残った熱は聡子を含め道行く人の身体から汗をあぶり出していた。汗は彼女のシャツをその背中に吸い寄せ、身につけていた下着と肌の色を浮かび上がらせた。そのべっとりとした感触を気にせず、五分ほど歩いた所で再び彼女は足を止めた。

 閑静な住宅街から少し離れたこの場所は、高度経済成長期に建設されたビルディングや集合住宅が至る所に残されている。それらは忘れ去られるのを食い止めようとしている訳でも、遺跡や寺院の様に手厚く保護されている訳でもなかった。

 道幅の狭い車道を挟み、年季の入ったコンクリートの建物には、小さな雑貨屋、新聞の配送所があり、更にその並びには、何かの部品を作っている工場が機械の駆動音を外へ響かせ、また更に向こうからは、惣菜屋が油のいい匂いをさせている。

 界隈に集合住宅はあるが、それらの中でも異様な雰囲気を放ちながら佇む建屋がある。彼女はその前に立っているのだ。

 見上げれば途方もなく高く感じるそれは、確かに集合住宅である筈なのだが、聡子にはそう思うことができなかった。同年代に建設されたであろう他の鉄筋コンクリート製の建物と比べると、劣化によるひび割れが酷く、苔があちこちに生している。染み付いている雨水の通り道は、汚れた壁面を更に不気味な色へと塗り替えていた。

 建屋の一階は柱により三分割されており、中央の「晋江中華苑」と描かれた恐らく中華料理店であろう店舗を除き、シャッターが下りている。その唯一存在が確認できる中央の店も入り口に真っ赤なフィルムが大きく張られており、営業しているのかどうか、聡子には分からなかった。

 その上階は卓球場があるらしい。二階通路の手摺の一部を覆う様に「日本卓球同志会」という、緑の地に白抜きの赤い文字で書かれた看板が掲げられている。

 その更に上。三階からはようやく居住区画らしい。

 薄汚れた白い壁に等間隔でドアが並んでいる。しかし聡子がその場で見上げた限り、三階に人の気配は感じられなかった。小さくも活気のあるこの通りで、この建屋だけがひっそりと何かを狙っている獣の様に息を潜めている。


「九龍城……」


 聡子は口元で小さく呟いた。

 噂には聞いていたが、実際こうして建物の前に立つと、その威圧感で身体が後方へ押される。暑さによるものとは違う汗が、溶かしたハンダの様に首筋から背中に落ちるのを感じた。

 恐れることなどない。

 そう意気込んでやってきた聡子だったが、まだ明るい時間帯でも、眼前の九龍城は異様な雰囲気で彼女を包み込んだ。遠くで聞こえるカラスの鳴き声が手伝い、一層彼女を映画や小説といった空想の世界に引き込もうとしている。周囲が暗く、真後ろを車や人が通っていなければ、確実にホラー映画の主人公だ。

 口に溜まった唾を飲み込み、再び意を決した彼女はメモを取り出した。

 書かれた数字は『809』。

 普通に考えると、恐らく8階の9番目の部屋だ。とすれば、どこかに上る階段か、さもなくばエレベーターなどがある筈。彼女はビルの右へ左へウロウロと移動しながら上への道を探した。

 結果、エレベーターは見つからなかったものの、階段は見つかった。建物向かって右端のアルミの扉で塞がれたコンクリート製の階段だ。その壁面も階段もカビや煤汚れなどで不気味な彩りを纏い、扉を開いた場所にある小さなひび割れは、この建物の年季を物語っている。

 壁の扉に近い部分には日本語で書かれた入居者へあてた貼紙と、恐らく内容が同じであろう漢字のみで書かれた貼紙が、いくつか貼り付けられていた。貼ったら貼りっ放しらしく、中には「昭和××年 自治会規約」というものまで見受けられた。

 たてつけの悪い扉をくぐり、聡子は階段を上り始めた。彼女の上っていく一歩一歩が壁に反響し、寂しく彼女に付き従う。踊り場は日陰になっている為、足元がぼんやりとしか分からない、蛍光灯は壁についているが、まだ点く時間ではないのか、それとも故障してしまって点かないのか分からない。二階にたどり着く頃、左程歩いていないにも関わらず、聡子は疲労が背中から覆いかぶさる感覚を覚えた。二階の通路へ出る踊り場から向こうを見ると、電灯の点いていない卓球場が見えた。じっと暗い窓を見ていると、突然何かがそこに張り付いてきそうだという想像をしてしまい、恐怖した聡子は顔をそらすと、上階を目指した。

 コンクリートの階段は四階で終わっていた。

 四階の通路は、人の気配が今まで以上に感じられなかった。並ぶドアは五つ。しかし、そこには誰も立ち入っていない様子だった。階段に一番近いドアの上に埃を被った蜘蛛の巣を見つけ、彼女は小さく震えた。

 この無機質な空間に小さく恐怖した後、上へのルートがないか慌てて見回す。

 引き返すという選択肢もあった。しかし、ここまでこの雰囲気に耐えて上ってきた聡子としてはその選択肢は自分の意気地を否定する気がした為、頭の中から消し去ろうとしていた。

 上への階段を見つけるまでは。

 階段はコンクリートの踊り場から通路に出て右の奥にあった。しかし今までと同じコンクリートの階段ではなく、薄い鉄板を溶接した円周の大きな螺旋階段だった。側面に壁などなく、三十センチおきに薄い鉄のステップを支える細い鉄柱……基、鉄棒が並んでいるだけ。

 鉄棒の向こうには夕方の町が見えた。眼下には今まで上ってきた高さと、薄暗い茂みが彼女を見上げている。鉄板は赤く錆びていた。補強のためにわざと錆をつけさせていると何処かで読んだ事のある聡子は、先程以上に高鳴る心臓をその知識で無理矢理抑え、左足を一歩、鉄板に乗せた。小さく鉄板がきしむ音が硬い足音と共に彼女の意志を挫こうとしていたが、聡子は次の一歩、そしてまた次の一歩と踏み出していった。

 ステップの間には遮るものがない。下の様子がよく見える。それは見ているうちにこの階段を上ろうとするものに食いつこうとしている様で、聡子は視線を上へ上へと向けた。汗はいつの間にか彼女の体から退いており、若干の不快さだけが背中にまとわりついた。

 六階を過ぎた頃、鉄板は補強の錆ではない腐食のそれを強め、ついには崩れ落ちでもしたのか無理矢理設置した真新しい鉄板のステップまで現れた。目を閉じる訳にも行かない聡子は考えるのを止め、ひたすら自分が八階に到着できることだけを祈り、脚を進めた。

 六階から上は、聡子の嗅いだ事のない匂いで満ちていた。ナッツを焦がしたような、黒酢をひっくり返した上に酒と家にある調味料を全部をこぼしたような、そこに古い油をぶちまけた様な顔をしかめたくなる匂い。彼女はいつかテレビで観たことのある海外の屋台街を見ていた。しかしそこにテレビの向こうにあった華やかな灯りや楽しそうな光景はなく、辺りは静まり返っている。ドアには赤い地の四角に「福」が逆さまに書かれた派手な飾りが下がっており、通路ごとに手入れされているのかわからない鉢植えや日用品が壁に立てかけられていた。

 しかしそれでも人の気配などは感じられず、響くのは彼女の歩く足音と、はち切れそうな心臓の鼓動だけだった。

 そしてその心臓は七階を越えようとした時、破裂寸前へと一気に針を振った。

 七階の通路へ繋がる踊り場に、人が居たのだ。髭面で伸ばし放題の髪はそのままで、身につけているTシャツとズボンは、泥か何かで汚れている。酒に酔っているのか、その人物の顔は赤く、周囲にはアルコールとすえた匂いが漂っている。彼はただでさえ狭い螺旋階段の細い鉄棒にもたれかかった体勢で座り込み、いびきをかいていた。

 彼の袂には、白いビニールの様なものが置かれている。中身は聡子のいる位置からは見えなかったものの、この異様な雰囲気に普段より耳にしていた他愛もない筈の噂話が彼女の心を揺さぶり始めていた。聡子は彼を一瞥すると、尚その上へと続く階段を見上げた。

 聡子がここから先へ上るには、彼を起こすか、跨いでいくしかない。

 起こして何をされるか分からない。かといって、跨いでいる途中に起こしてしまい、何かされると思った彼女は、一度七階の通路に出て様子を伺った。

 上り始めてから時間は結構経ったらしく、太陽は更に西へと傾いていた。

 上りきって、渡されたメモが何の意味もなかったらどうしよう。それに上っても今度は暗くなったら下りる時に余計恐いのではないか。

 そう考えた彼女はついに先程頭の中でけしかけた「引き返す」という言葉を持ち上げかけた。が、またしても「折角ここまで来たから」という元来の諦めの悪さが彼女の中で勝ち、彼女は起こさないように眠る男を跨いでいくことにした。


「お、起きるな……こっち見んな……見たら殺……しますから」


 聡子は息を殺し、膝丈より少し短いスカートの裾を両手で押さえながら、男の伸ばした脚を踏まないように、もう一段上のステップに右足を乗せた。男が目を覚まさないのを見ると、一気に左足を持ち上げ、更に上のステップへと乗せた。鋭く乾いた音が響いたが、男が起きる様子はなかった。胸を撫で下ろした聡子は男が起きない様に上を目指した。

 段数でいえば多くもない螺旋階段を彼女が上りきる頃には、後ろに広がる街並は既にオレンジ色へ飲まれかけていた。鞄から携帯電話とメモを取り出し、時間を確認した。実に八階まで上がってくるのに一時間と少し要していた。彼女は落胆と安堵の意味を溜息に込めて吐き出すと、灯り始めた通路の蛍光灯の光をメモ用紙に当てた。

 八階は今までのフロアよりも更に異世界だった。

 今まで各階五つずつあったドアは倍に増えており、茶色のペンキで塗り直されている。そのドアには先程の階でもあったように、飾りが下がっているもの、色鮮やかな宗教画が張られているものもある。ドアの横には小窓があり、いくつかの部屋からは小さく灯りが漏れていた。他の階より明らかに幅の広い通路の中央には、赤く太い線がレッドカーペットの様に端から端まで引かれていた。

 ドアと反対方向は、手すりが申し訳程度についており、それを支えている鉄棒のいくつかは錆びて朽ちていた。手すりの根元には、下階から張られているのであろう電話線と光ケーブルが、小さな金具で幾重にも留められている。ケーブルはその手すりと天井の蛍光灯用の配管に蔓の様に絡み、それぞれの部屋へねじり込む様に入っていた。夕焼けの赤は建屋の影と共に中途半端に塗りなおされた青白い壁に当たり、不気味なコントラストを作り出していた。

 彼女は階段に近い部屋から、ドアに掲げられた部屋番号を確認していった。

 階段から四番目のドアには804の表記がなく、その次のドアには805の札が掲げられていた。聡子は続けて確認していく。

 809と書かれた部屋は階段から順当に並んだドアの突き当たりの手前にある部屋だった。ドアの下半分は蹴られたのか、いくつもの靴跡がつけられており、ドアにつけられた郵便受けからは封筒やチラシが溢れ出ている。他の部屋とは違い、飾りや絵等はなかった。

 ここで合っているのか。

 神様とはいえ、こんな不気味な場所に住むものだろうか。

 どんな人だろうか。

 実は噂はあくまで噂で、このドアの向こうには恐い人たちが沢山いて、それでもって酷い目にあったらどうしよう……。

 そんな不安が聡子の中から一気に噴出した。それを彼女は頭を振り消し去ると、再びドアに向き直った。

 表札には何もかかれていない。しかし、電気のメーターはかなりの速度で廻っている。それを目にした聡子は、中に何者かが存在していると確信し、大きく深呼吸をするとドアの右に設置されている音符マークのあしらわれたボタンを一回押し込んだ。

 部屋の向こうでインターホンの鳴る音が小さくした後、奥から襖を開ける音と共に粗暴な足音がドアに近付いてきた。そしてノブが向こうから回され、ドアが聡子の方に少しだけ押し開かれた。

 聡子から見えたのは、男の姿だった。

 寝癖なのか伸びきった天然パーマか分からない髪は脂ぎっており、汚れで曇った眼鏡の向こうに見える瞳は輝きを失い疲れきっている。口周りには無精髭がだらしなく生え、そこから吐き出される息は酒の匂いがした。

 男の上下は彼の体に合わない、ブカブカでグレーのスウェットでまとめられ、そのスウェットには水汚れなのか、微かに濃い色が点々とついていた。


「あ、あの――」


 一瞬その男の様相にひるんだ聡子だったが、精一杯の声を絞り出した。男は眼鏡の位置を左手で直すと、聡子を頭からつま先まで舐めるように見た後、低く無気力な声を発した。


「――チェンジ」


「は? え?」


 聡子は眉をひそめた。


「いや、だからぁ。チェンジ、ね?」


 男はそういうとドアを閉じようとした。聡子は慌ててドアの縁を掴み、右足の爪先をドアに挟んだ。


「いや何それ。ちょっと、チェンジってあの――」


「だから、チェンジだっつってんだろ。こっちの要望と全然ちげーじゃん! あんまりしつこいと店に電話すんぞ! 早く連絡して次呼んで来いよ!」


「店? 何言ってるんですか、意味が分かりま――」


「俺が頼んだのは『お姉さん系巨乳黒ギャルJK風』であって、お前みたいなちんちくりんな偽JSみたいなのを頼んだつもりはない! 帰れ、似非ロリ!」


 男の言葉は聡子の頭は、今まで溜め込んでいた不安を憤りのエネルギーに変え、彼女の口から一気に放出した。


「ひ、人の気にしてる……体型は関係ないでしょ?! っていうかさっきから何なん? 私何かした?」


「何かだって? 俺の楽しみにしてる心をファーストサイトで踏みにじった上に、客のチェンジという要望も無視して居座るお前に、反吐が出るほど苛ついてるんだこっちは。いいから早く店に電話して代わりよこせ、ちんちくりん!」


「ま、また言ったな? ホント、サイテー!」


「サイテーで結構。そのままを言ったまでだ何が悪い。大体だな、こっちはいつもより多めの六十分二八〇〇〇円って大金払ってんだ。文句があるなら――」


 男が言いかけたとき、先程聡子が上ってきた階段の方、あの表札も部屋番号もなかったドアが開き、そこから女が一人出てきた。金色に染めた髪をこれでもかと頭上で盛り上げ、白豹柄のジャケットにピンクのタンクトップ、ゴテゴテとアクセサリのついた黒のショートパンツに、厚底のミュールという出で立ち。その左手には、聡子もよく知る高級ブランドの鞄が提げられている。

 正直言って女の姿は、聡子の趣味と真逆のものだった。

 女は辺りを確認すると、聡子達の方へミュールの底をカツカツを鳴らし、歩いてきた。そして、ドアの前の聡子と男を交互に見る。


「あのぉ、お取り込み中ですかぁ?」


 女は甘ったるい声で男に言った。


「ん?」


 男は首をかしげるとドアを大きく開き、聡子と女を何度も確認した。


「あれ? あの、君は――」


「お電話いただいたの、809号ですよねぇ?」


 女が男に言う。男はすぐにそれを察すると、今まで澱み切っていた目を輝かせ、不機嫌な表情は一気に明るくなった。男にとってその笑顔は最高のものだった筈だが、聡子には大変気持ちの悪いしたり顔にしか見えなかった。


「あ……ああ、あああ。君ね、もうね待ってた! いや待ってたというか今来たところっつーかノーチェンジ! あ、じゃあ上がって上がって」


 男の促すままに女は部屋へと脚を踏み入れ、女の体が全て入るのを確認した後、男はドアを閉めようとした。しかし、体勢を変えていなかった聡子の爪先が邪魔をしてドアは閉まらず、大きな音を立てると盛大に開いた。

 聡子の履いている靴は、決して先端に鉄板等が入った安全靴ではない。ごく一般的な学生が、学校の言われるままに購入を強制される通学用の革靴である。丈夫さはある程度で、決して堅くなく、爪先を守るものではない。

 直接伝わった衝撃に聡子はうめき声を短く上げて脚を引くと、爪先を抱えその場にうずくまった。その隙に男がドアを閉めようとしたが、聡子は執念で立ち上がり、寸でのところでノブを掴んで阻止した。


「なん……だからお前は何なんだよ!」


「あの、ここって神様がいるんですよね! 友達に聞いてきて、その……ここの番号に行ったら願いを叶えられる神様がいるって」


 そこまで聡子がドアの向こうに言ったその時、隣のドアが開き、男が一人こちらの様子をドア越しに覗いた。長細い男の顔は、どう見ても日本人ではなかった。アジア系というところまではわかるものの、具体的な国籍を聡子は思いつかなかった。


「デンサン、何? チワゲンカ?」


 ドア越しのアジア人はカタコトの日本語で男に向かって言った。


「うるせぇよチャヌ。見てんじゃねぇ!」


「ナラ、多分ソノ人。オ客カ、フーゾクナ?」


 チャンと呼ばれたアジア人の言葉で、一瞬男のドアノブを掴む力が緩んだ。


「客ぅ?」


「コンナ可愛イメイメイ、ナイガシロスルト損スルヨー」


 チャンは聡子を指差しそう言うと、ニヤニヤと黄色い歯を見せて笑った。聡子はその表情を見るや、反射的に体を引いた。男は一瞬頭を垂れると、聡子を再び舐め回すように見、ずり下がった眼鏡を元の位置に直した。


「ああ、でも無理」


 その言葉は更に聡子の腸を煮えたぎらせた。


「いやいや、そーじゃないでしょ」


「何が?」


「何がじゃないし。人の足を挟んどいて何それ。無理じゃないでしょ? 謝んなさいよ」


「そっちが勝手に爪先を挟んだんだろ。俺は悪くない。あやまって帰るなら、幾らでも謝ってやる。はい、ごめーんね」


 男は胸の前で両手を合わせ、軽く頭を下げると再びドアノブにてを戻した。


「ほらもういいだろ。こっちは六十分二八〇〇〇円コースが待ってるんだ! これ以上、謝れだなんだとうだうだ言うなら通報するぞ。ちんちくりんの似非ロリ!」


「ちょっと。あんたじゃなくて神様、いないの?」


「さっきから神様カミサマうるせーな……だから今は無理だっつってんだろ」


「いるんじゃん! 神様に会わせてよ!」


「俺が神様だよ!」


 男の言葉に聡子は面食らった。このみすぼらしく気味も性格も悪いこの男が恋愛の神様というだから無理もない。

 ふと聡子の手の力が緩んだところ、男は勢いよくドアを閉じた。通路全体に重たい音が響きすぐに静寂が戻ると、聡子だけがそこに取り残された。隣の部屋から覗いていたアジア人のチャンと呼ばれていた男もドアの奥に引っ込んだ様子だった。

 ここまで心細い思いをして来た部屋が変な男の住むところで、散々ののしられた後に爪先を痛めるだけだった。

 落胆する聡子が来た路を戻ろうとしたその時、再び809のドアが開き、男が顔を出した。


「おい……おい」


 聡子は男の気だるい声に振り向いた。


「これ……」


 男はドアの隙間から左手を伸ばした。手にはメモ用紙がつままれている。


「……もういいです」


 聡子は再び男に背を向ける。


「……その程度か」


「……」


「お前のここまで来た覚悟は、それで気が済む程度だったのか。いやまぁ……さっきは言いすぎた。悪かったよ」


「で、なんですかそれ」


「今日は無理だ。だが特別に話だけは聞いてやる」


 ほれと男は腕をめいっぱい伸ばして促し、聡子にメモを差し出す。

 聡子はわざとらしく溜息をひとつ吐くとドアの近くへ戻り、メモをひったくるように受け取ると、中身を開いた。


「指定した通りに来れれば聞く。あ、あと来るときゃ一人な。誰かに言うのもなしだ。そういう無駄な連帯感を持っている奴には関わりたくないから」


 それだけ言うと男は左腕を引っ込め、同時に鉄の扉の閉まる重たい音が通路に響いた。

 聡子は完全に閉じた茶色のドアを眺めながら上着の右ポケットにメモを突っ込むと、蛍光灯が薄くついた不気味な帰路を歩く決心をし、未だ鈍い痛みの残る右足を気にしながら階段へ向かった。


   *


 三日後の金曜日は、非常に穏やかな気温と青空だった。

 小島聡子は先日、あの九龍城から無事に脱出を果たし、この日を静かに――と、本人だけ思っているが、周囲から見れば浮き足立っていた――待っていた。

 あの日男から貰ったメモにはこう書き殴られていた。


『次の金曜日 午前十一時三十分

 駿河台下交差点 立ち食い太郎の前

 現金三千円沿えて

 遅刻厳禁 制服厳禁 共連れ厳禁』


 聡子の身につけている腕時計は、午前十一時二十九分を指したばかり。

 時間まであと一分もないが、先日目にした不潔で下品でこういう事でもなければ関わりたくもない男の姿は見当たらなかった。

 聡子は再び時計に目を落とす。秒針は半分を過ぎ、残り十秒をきっていた。


「そんなに時計を気にするとは、なごり雪かね」


 背後から聞こえた声に聡子は体を一度震わせ、後ろを振り返った。

 そこには男が立っていた。声は確かに先日の男と同じものだったが、その容姿は別人だった。涼し気な色のスーツに、趣味のいい色のシャツとネクタイ。細面の顔は髭も見当たらず引き締まり、手入れのされた髪は綺麗なシルエットを描いていた。汚れた眼鏡はかけておらず、見た目の年齢も、先日より若く見えた。


「あ、あの――」


「時間前に来て待つとは、なかなか感心な子だ」


 聡子は「なんでしょうか」と言いかけたが、その男の発する脱力感のある声の前に言葉を飲み込んだ。


「じゃあ早速だが、行こうか」


 男は戸惑う聡子をよそに、坂を上り始めた。

 聡子は慌てて男に続いた。


 交差点から坂を上ってすぐ。

 入り口の狭い店の更に狭い階段を昇ったところに、同じ店舗の別の入り口はあった。店はカレー専門店らしい。木造で統一された喫茶店風の店内に充満する独特な香辛料の香りが、聡子の鼻と胃を刺激した。

 二階に入ると、すぐさま男が「じゃあ三千円」と聡子に手を出したものだから、彼女は言われるがまま、持ってきた現金の入っている封筒を彼に渡してた。男はそこから札を取り出すと自販機に流し込み、慣れた手つきでボタンを押す。音もなく自販機下部から小さな食券が1枚吐き出され、その後思い出したかの様に小銭が落ちる音がした。

 男は自販機から戻ってきた小銭を拾うと、聡子に「チキン、お勧め」と言い、聡子をその場に残して傍にある小さな二人掛けのテーブルに座った。

 聡子は言われるがままに手にした紙幣と小銭を自販機に入れ、チキンと書かれたボタンを押す。男の時と同様、食券が取り出し口にふわりと落ちた。

 それを拾い上げると、彼女は男の前に空いている椅子に腰をかけた。

 まだ開店したばかりだからか、奥のテーブル2つにカップルと家族連れが一組ずついるだけで、混みあってはいない。聡子が席に着いたタイミングでエプロン姿の店員が水を二つ持ち、食券を引き取りに来た。男は食券を手渡しながら「五十倍」と呟くように言った。


「お客様は……?」


 店員が聡子に聞いた。


「え?」


「カレーの辛さだ。零倍から七十倍まで指定できる」


「え、いきなり言われても困る……あの、じゃあ」


 聡子は「普通で」と呟く様に店員に伝えた。


「なんだ、辛いのは駄目かね」


 男は水を一口飲むと、聡子に言った。


「いえあの……っていうか、なんでカレー屋、なんです?」


「嫌いかね、カレー」


「嫌いじゃないですけど……いやそうじゃなくて」


 これならあのメモ書きの三千円の前に「カレー屋に行くから」と位付け加えてくれても良さそうなものなのにと、聡子は頭の中でぼやいた。

「打ち合わせする時に腹が減ってていては、お互い話しづらい時もあるもんさ。それに今日は、ここのカレーライスを食べたい気分だったからな」


「それにしたって、人のお金で――」


 聡子が言いかけた時、二人の前に小さなジャガイモとバターの欠片が入った小皿が運ばれてきた。


「――人の金で食べる飯だからうまいんだよ。ああ、ここのジャガイモはお代わりができるんだ。遠慮することはない」


 男はそう言いながら、ジャガイモにかぶりついた。


「あの、今日は私、あなたとカレーを食べに来たわけじゃないんですけど!」


 聡子が小さく声を荒げるも、男は意に介さずジャガイモに集中していた。


「そだよー。カレー屋は『手段』だ。そして『目的』は君の話を聞いて、私が手を貸すかどうかを判断すること。あ、すみません。こっち、ジャガイモお代わり」


 男は一つめのジャガイモを食べ終わると共に手を挙げ、店員を呼び止めた。


「一応確認しますけど、あなた、本当に噂の神様なんですか?」


「ああ勿論私ぁ神様って呼ばれてるけどね。信じるか信じないか……君の信じているものこそが神様だ。もっとも――」


 男は追加のジャガイモの小皿を受け取ると小さな塊にかじりついた。


「――世間一般でいうところの神様ってさ、信じたところで人間の願いなんかこれっぽっちも叶えちゃくれない、ケチな存在だ。だが私は違う。私が神様だとしたら、引き受けた願いはちゃーんと叶える。そういう点で見れば、この世界に存在する数少ない『良心的な』神様だと自負している」


 男はジャガイモを小皿に置くと、その手で懐を探り、聡子の前に名刺を一枚差し出した。聡子はそれを受け取る。男がジャガイモを食べたそのままの手で触っていたその名刺は端にジャガイモの粉が付着していた。聡子はそれに嫌悪感を覚え、ポケットからハンカチを取り出すとジャガイモの粉を拭き取った。

 名刺には「よろず代筆承り 文多傳蔵」とだけある。電話番号や住所といった類の記載は一切なかった。


「ぶんた……はくぞう?」


 聡子は首をかしげ、当てずっぽうに名前を読んだ。


「フミタデンゾウだ。人の名前を間違えるとは、君も失礼な奴だな」


「はぁ……ペンネームか、何かですか?」


「まぁそんなもんだ。私は普段様々な文章の代行をしていてね。行政書士の発行できる書類、ゴーストライター、冠婚葬祭のスピーチから企業の謝罪文、あと古文書や遺言書の偽……写しなんてものもやっている」


 水を飲みほした傳蔵と名乗る男は、テーブルに置かれたポットから新たに水を注いだ。


「それで君……えっと、名前何だっけ」


「聡子です」


「ああ、聡子ちゃんね。君の願いっていうのは、大方恋愛成就の依頼ってとこか。恋文というのは、ある日冗談のつもりでやり始めたものだが、それだけが若いヤングの間で噂となってね。一人歩きしている。それで、いつの間にか私も神様なんて持ち上げられているというわけだ」


「恋文……ラブレターですか」


「そう、ラブレター。意中の相手のハートをがっちりキャッチする、しかも効果が持続。今まで来た客の八割は成功している」


「八割……二割は失敗するんですね」


「誤解するなよ。私の失敗ではない。いいかね君、仮にも私は神様だ。どんな願いも成就させている。ただし、依頼してきた者にもそれなりの責があるんだ」


「失敗したものは依頼者のせいですか? そんないい加減な」


「信用ならないならそれでいい、依頼を断るのもいいさ。その後後悔するも、満足するも気味の自由だ。それに」


 そこまで傳蔵が言ったところで、傳蔵の後ろの席にいたカップル、その女の方が声を荒げた。カップルは何れも聡と同じかそれより年上に見える。

 傳蔵の話を聞いていたため、細かな内容こそわからないが、どうやら痴話喧嘩のようだ。

 男の方が女をなだめようとしているが、女は冷静さを欠き、その声はたちまち、涙と鼻をすする音と混ざり合った。

「もういい、別れる。もういつもそんな感じでマウントとって楽しい? 帰る。もう顔も見たくないから!」


 女の方はそれだけ言うと立ち上がり、聡子たちの横を通り過ぎると、店を出て行ってしまった。呆然と女の背中を見ていた聡子は我に返ると、傳蔵の方を向き直った。


「丁度いい。サービスで見せてやる」


「何をです?」


「あの痴話げんかのカップルを五分以内で仲良しに戻してやると言っている。そうすれば、君の私に対する嫌疑も晴れるだろう」


「仲裁に入るんですか? あの赤の他人の二人の間に?」


 怪しまれて終わりですよ? 聡子はそう言いかけたが、口をつぐんだ。


「あんなつまらん痴話喧嘩で、食事の雰囲気を台無しにされたくないからな」


 傳蔵はスーツの胸ポケットから万年筆を取り出し、テーブルにあった紙ナプキンを取り出すと、万年筆を走らせた。


 聡子は驚愕した。


 その筆先が白い紙ナプキンに文字を書いていく、いや、生み出しているというのが正しいのかもしれない。それはあり得ない早さだった。正確に並んでいく文字たちは、その一文字があの速さで書いているとは思えない程美麗だ。


「おっと、マジマジ見るな。これは()()()()じゃあないのだからな」


 紙から目を離さずに傳蔵は言う。その一言に畏怖を覚えた聡子は、紙に向かう彼から、彼の背後で落ち込んでいる男へと視線を逸らした。

 それと同時に、傳蔵が顔を上げる。紙ナプキンは文字の列でその白さを半分以上、黒で埋め尽くしていた。時間にして一分、いや、数十秒ほど。そんな時間では書ききれない筈の文字の群体だった。傳蔵は即座にそれを二つ折りにし、続いて体を曲げて床から何かを拾い上げた。それは小さな装飾のされたピアスだった。恐らく、先ほどの女が落としたのだろう。


「まぁ、きっかけは必要だな……」


 そういうと傳蔵はピアスを折りたたんだ紙ナプキンに挟み、振り返った。


「お兄さん。そう、君。彼女の忘れ物だ。今ならまだ間に合う。ああいう時、男は追いかけるものだ。ピアスの様だが……ああ、中身は彼女に確認してもらうといい」


 男は訝し気な表情をしたものの、その手は自然と傳蔵の伸ばす手に近づき、折りたたまれた紙を受け取り、店を出て行った。


「さっきの男がいた席、窓際だろ。そこから見える筈だ。探してみろ」


 傳蔵が聡子に促す。確かに彼らの座っていた席は窓際で、そこからは目の前の通りが見下ろせる。坂の下、その先には交差点となっており、先ほどの女が信号を持っている。そこへ男が駆け寄っていく。さすがにさっきの今で、女が相手をするはずもなく、男は四苦八苦している。ようやく女が男の方を向き、傳蔵が渡した紙を渡したようだった。

 女はその場で紙を広げ、ピアスを確認している。と次の瞬間、女が、顔を覆った。うろたえている男。それも束の間、顔を覆っていた女が男に抱きついた。

 窓越し、しかも遠くにいる聡子からは二人が何を母しているか分からない。しかし先ほどまで喧嘩していたようには見えない。むしろ、あの様子を遠目から見ている聡子が赤面する位に熱々だ。

 共に横断歩道を渡っていく二人を見送った後、聡子は元居た席に腰かけた。


「あれ、何ですか? 仕込みですか?」


「やはり君は失礼な奴だ。言ったろう、私の手紙が二人の仲を修復したのだ」


「けれど、あんなに長い文章をあの短時間で読める筈はないし、やっぱり男の人が誠意をもって……」


「『手段』と『目的』さ。私の手紙は少し特殊なんだ」


 そこまで話したところで二人の前に縁の青い、円形のカレー皿が運ばれてくる。

 それは目の前に現れた途端、強烈に辛い匂いが聡子を顔面から包み込む。

 聡子と傳蔵は同じチキンカレーを頼んでいた筈だった。しかし、そのカレーの色は明らかに違っていた。聡子の皿に比べ、傳蔵の皿に注がれているカレーは、明らかに色が濃い。先ほどから彼女の鼻をつく辛い匂いは、傳蔵の皿からのものだった。


「おっと、カレーが来たよ」


 傳蔵は嬉しそうのスプーンを手に取り、聡子のカレーより明らかに辛そうな色をした自分のカレーに手をつけた。


「特殊な手紙? でも、あんなに長々書いていたのは……」


「人間に限らず、この世界で生きているものには、波の様なものを発したり、それを受信したりがある。同じ波なら、共存したり、好意を持ったりできる。逆ならば、拒絶したり、攻撃的にもなる。ズレているだけの波の場合、何かのきっかけで重なる瞬間もある。私はそのズレを修復しただけなのさ」


「言ってることがいまいちわかりません。じゃあ何故、あんなにびっしりと文章を?」


「雰囲気だ」


「雰囲気、それだけ?」


「それだけだ。普通のラブレター代行はそうだな……乱暴な言い方をすれば、全て読んで、相手の心を揺さぶることに重点を置いている。私の場合は、どこかで引っかかりさえすればいい。文章だけでなく、単語でもいい。極端に言えば、一文字で相手を骨抜きにだってできる。何しろ、自分の出す波に,、相手の波を合わせる事が出来さえすればいいのだから」


 傳蔵はスプーンを器用に使い、カレーの中に沈んだ鶏肉を切り分けて口に運ぶ。


「ここに入ってきた時、痴話げんかの内容、双方の話し方、それに残ってるカレーの量が目に留まった。そこから女が出ていくまでに話していた内容からそれまでの関係性を割り出してだな……いやそれより、食わないのか? 冷めるぞ」


 傳蔵の言葉に聡子は自分の皿を見た。

 そこには手つかずのカレーが彼女を見ている。

 カレーは傳蔵の皿の黒さより、オレンジとブラウンに近い色合い。やや汁気の多いルーの中には、鶏肉が切れと鮮やかな緑のピーマンが、その身を半分ばかり浮かべ、彼女を見ていた。皿の半分は、白いライスが占めている。その盛り付けは決してやさしくなく、密度が高い。しかし、決して団子飯のそれでなく、一つひとつが艶やかだった。

 目の前の他人が食べているものより攻撃的でないその匂いは、決して弱弱しいものでなく、早くスプーンをさせとばかりに挑発的だ。

 少なくとも、聡子がこれまで食べてきたカレーライスの匂いではなく、それでいて、嫌うようなものではない。

 普通の辛さ……零倍とはいえ、七十倍という辛さを出す店だ。彼女はおそるおそるスプーンをライスとカレーの間に差し込み、カレーのみを掬って口に入れた。口の中に広がる風味は、その見た目同様、聡子の経験したことのないもので多少の抵抗があったものの、その抵抗はすぐに遠のき、喉を通り越した時には鼻に抜けるカレーの香辛料を詰め込んだ匂いが残った。

 辛さは思ったよりも感じなかった。あくまでそれは聡子のイメージした、地獄の辛さよりもという意味で。普通の中辛カレーより少し辛い。普段家では甘口カレーを食べ慣れている聡子には少々刺激的なものだった。その刺激の海に浮かぶピーマンは渋みこそあれ、カレーの邪魔をせず、寧ろその香辛料の僕と化し、聡子の胃へと消えて行った。

 ふと聡子は向かいに座る傳蔵の抱えている皿に、視線を向けた。

 頼んだのは確かに五十倍と言った。目の前の皿が結構辛く感じているのに、その何十倍もの辛さを有するカレー。こちらに届く匂いだけでもむせそうになっている聡子は、それをうまそうにガツガツとかきこむ男を、とてもまともだと思えなかった。

 次に聡子は、ライスをスプーンに掬うと、カレーに一度浸して口にした。

 米の甘味がカレーの辛さで引き立つ。重めの白い米はカレーのややざらついた舌触りも強調し、その中に様々なものが溶け込んでいるのだと、彼女に教えた。カレーは一層に香りを強め、聡子の口の中を蹂躙していく。そして飲み込むたびに辛さを引き連れ、食道から胃へとなだれ込んでいった。

 聡子は自分のこめかみから、汗が一筋滴るのを見つけた。慌ててハンカチを取り出し、水滴の流れた後を押える。気が付けば、汗はこめかみだけではなかった。首筋から背中、毛穴という毛穴が熱を帯び、彼女の体中の水分を排出せんと何者かが試みていた。

 聡子自身、辛い物が得意ではない。店内の空調が故障しているわけでもない。左程辛くない筈のこの零倍カレーのせいとしか考えられないと、彼女は疑った。


「そんなに辛いのが苦手だったのか。零倍だろ? はたまた君は、汗っかきなのか」


 傳蔵がデリカシーのない言葉を聡子に投げる。


「ところで、君。先ほどの光景を見て、どうするね。私にかかれば、どんな相手でもイチコロだ。あとは君が頷いてくれればいいだけだ。私は書こうが書くまいが、どちらでも構わないがね」


 そこで聡子はようやくスプーンを、皿の上に置いた。皿とスプーンの接点が小さくキンと鳴った。


「ほんとに、どんな人でも?」


「ああ、どんな人でも。君が知っている、()()()()()()()()()()ならばね。だから見知らぬ国の石油王や、直接的な接触のないアイドルなんかは無理だ」


「それ、どんな人でもとは言いませんよね」


「嫌ならやめて構わんよ。今も言ったが、私は別にどちらでも構わない。好きにしろ」


 聡子は少しだけ俯き、すぐに頭を上げた。

 しかし、口を開き次の言葉を発するまでに、少しばかりの間を要した。

 彼女は話した。所属する文芸部の部室から臨むグラウンドで走る、一学年上の先輩にあたる男の話。最初に見かけた日の事、友人たちと談笑している彼の前を通り過ぎるのさえ、赤面したり、胸の奥をギュッとつかまれる気分になること。一度だけ、道を聞かれたこと。窓から見下ろせば、ついその姿を真っ先に探してしまう事。

 それは長くもなく、味気なく思うような短かさではなかった。

 ただ、聡子は先日あったばかりの、素性もわからぬ男にこんなにも話してしまうのか、不思議でならなかったが、言葉はあふれ出す湧き水の様に彼女から流れた。それは先ほどまで聡子の口の中で感じていた辛さも、流れた汗の道程も忘れさせる程だった。

 ひとしきり彼女が話したところで、黙って聞いていた傳蔵は口を開いた。


「分かった。君の気持……いや、情熱と言った方が良いだろう。素晴らしい熱量だ。最近はなんとなくの子も多いというのに、素晴らしいよ、全く。この依頼、受けるよ」


「ほんとですか?」


 話疲れた喉を落ち着けるために水を飲み干した彼女は、コップを置きながら傳蔵に聞いた。


「言ったろう。私は救ってあげる方の神様さ」


 そう言いながら傳蔵は、ペンを指していた駄上着のポケットから白い便箋を取り出し、食べ終わったカレーの皿を端へ追いやると、それを置いた。そして、再び万年筆を手にすると、先と同様の驚くべきスピードで書き始めた。


「おい、見るな。カレーの残りでも食べてろ」


 聡子は自分の皿を見た。量が多いと思っていたカレーも三分の一も残っていなかった。

 沈んでいた鶏肉が姿を現し、その存在感を聡子は感じていた。決して柔らかすぎないそれは、自らの繊維に沿って割れ、聡子の食べられそうな大きさになったあとは、口にされるのを厭らしく待ちわびている様だった。彼女がそれをカレー、そしてライスと共に口へ運べば、大威張りで通り過ぎていく。米の艶やかさ、そしてカレーの荒々しさとは違う、文字通りの肉感だった。

 気が付けば聡子の皿の中身もなくなり、皿底にはこの店の名前が皿の縁と同じ色であしらわれていた。程なくその皿は、店員によって下げられた。


「できたぞ」


 傳蔵が聡子に便箋を突き出した。まだ新しい匂いの残る白い便箋は一枚でなく、数枚が重なり合い、二つ折にされている。彼女はそれを両手で受け取った。


「あ、ありがとう……ございます」


「ただし、これから私のいう事は、必ず守ってもらう」


 傳蔵が続けようとしたところで、二人の前にそれぞれ、ガラスの器に入れられたアイスクリームが運ばれてきた。


「おっと。大事な話は、デザートを食べてからにしようか」


「え、いやちょっと……私依頼者だよ? なのに、雑じゃない? というか、アイスと私の話、どっちが大事――」


「アイス」


 彼は聡子の言葉を遮ると、無邪気にアイスクリームを食べ始めた。


   *


 数日後、聡子にチャンスが来た。

 正確にはチャンスを()()()()()()()

 落ち着かない聡子にすべてを白状させた、由梨は件の先輩のいる教室へ乗り込み、聡子と彼が二人で話せるようにと話をつけたのだ。


「ホント、あんたって世話が焼けるよね……ほら、行ってきな」


 背中を押されて飛び出した角の向こうでは、落ち着かない様子の男が、檻に入ったクマの様にウロウロしている。その姿を十メートル先に捉え、聡子の心臓は鼓動を異常に早めた。

 深呼吸をして、ポケットから取り出したのは、あの日受け取った便せん数枚。聡子はあの日、傳蔵が言った言葉を思い出していた。


 一、直接、手紙を依頼した本人が相手に渡す

 一、渡すときには封筒に入れたり、華美な装飾はしない

 一、中身は相手以外に見せない。自分も見ない

 一、如何なる者にも、代筆であることを喋らない

 一、文多傳蔵の名は公表しない。


「あ、あの……こ、こ、こん……」


 声がうわずり、うまく出てこない。というより、自分が何を離そうとしているのか、当の聡子もわかっていなかった。


「こん?」


 男が首をかしげながら、聡子に聞いた。


「こんに……ちわ。本日は、お日柄もよくてよろしゅうございます」


「はぁ……」


「あの、それででですね。あの……なんだっけ……ああ、あ」


「渡すもんがあるんだろっ」


 影から見ていた由梨が聡子に言う。聡子は、手にした便箋をようやく思い出し、男に差し出した。手のひらは汗をかいていた。聡子は便箋に自分の汗が付いていないかと、余計な気を回していた。


「あの、つまらないもの……じゃないですが、これ読――」


 その時だった。強い風が吹き、聡子の身体は煽られた。同時に、手にしていた数枚の紙が、一斉に手を離れた。それらは風に流され、男を通り越し、その後方へと飛んで行った。

 そのまま便箋はその行方を消すのかと思われたが、通りがかった一人に偶然にも拾われた。

 それは後輩の藍那だった。


「……? えっ、なにこれ」


 藍那は便箋を眺める。聡子は焦った。万一中身を見られでもして、傳蔵の言う通り、効力がなくなってしまっては、あの恐怖した出来事も、平日学校をさぼって態々辛いカレーを食べたのも、全て水泡に帰してしまう。

 聡子は絡まりそうなるのをこらえ、藍那の方へ駆け出した。


「あ、藍那……ダメ、それは!」


「何か書いてある……あれ、先輩。これ、先輩のですか?」


 藍那は中身を開きながら、聡子に見せた。

 ……終わった。

 聡子はそう思った。しかし脚は止めず、藍那の下へ駆け寄り、便箋をひったくるように回収した。


「藍那……みた? 中身……」


 藍那は小さく頷いた。

 聡子は慌てて手にした便箋い目を落とす。

 先ほどまで文字で埋まっていた筈の便箋は、インクの染みひとつない白紙だった。


「あれ、これ……間違えた? あ、あのね藍那……。これは事情があってね」


 そういうが早いか、聡子の胴は、優しい圧迫感で包まれた。それは、由梨でも、本来渡すべき相手だった男でもなく、手紙を拾った藍那だった。


「先輩、私も前から同じ気持ちでした。分かります、先輩も寂しかったんですね。でも、大丈夫です。私、ずっと先輩といます。いることに決めました」


「ちょっ……え、っと……ええ?」


「だって、私たち、相思相愛ですもの!」


 聡子は混乱していた。手紙の中身が消えただけではなく、後輩が抱きついてきたかと思えば、いきなり告白され、そもそも手紙を渡す相手に見られてて……。

 その混乱の渦の中、聡子は傳蔵の言葉を、あのカレー屋での出来事を思い出していた。

『この世界で生きているものには、波の様なものを発したり、それを受信したりがある。同じ波なら、共存したり、好意を持ったりできる。逆ならば、拒絶したり、攻撃的にもなる。ズレているだけの波の場合、何かのきっかけで重なる瞬間もある。私はそのズレを修復しただけなのさ』


『極端に言えば、一文字で相手を骨抜きにだってできる』


「あ、あああ……!」


 聡子は理解した。便箋は間違ってはいない。今自分を抱きしめている彼女の、藍那の眼に触れてしまったのだ。


「冗談じゃない!」


 聡子は藍那の腕を振りほどいて振り返ると、男の前へ駆け寄った。


「あの、先輩……今のは違うんですっ。私は先輩が好きなんです! ですから! 私と、付き合ってください!」


 そうそれは、聡子自身が驚くほどの、校舎裏でこっそり実行される意味をかき消す程、おおきな告白だった。

 それから一呼吸分、沈黙が生まれた。


「いやあの。よく判らないけど、ごめん。俺この前、彼女できたばかりなんだ……」


 男は申し訳なさそうに頭をかいた。

 聡子は赤面した。それは恥ずかしさからなのか、涙をこらえているからか、はたまた久しぶりに全力で走ったからかは分からない。ただ彼女の頭の中は情報過多で、今にも爆散しそうだった。


「もう……もう無理いいいいい! なんだこれえええ!」


 聡子は叫びながら駆け出した。

 訳も分からず彼女を振った男を、影で見ていた親友を、大声を聞いてぞろぞろ集まってきた生徒の間を駆け抜け、後ろから求愛の言葉をのたまいながら追ってくる年下の女子を振り切りながら、彼女は走った。

 その行く先は、誰にもわからず、残された者たちは、ただ茫然と、彼女の消えた方向を一様に眺める他なかった。

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