序章
荒廃と化した大地のあちらこちらから、ゆらゆらと黒煙が立ちのぼっている。風に巻き上げられた黒煙は、やがてぶ厚い鉛色の雲になり、焦げた大地に黒い雨を降らせた。
嫉妬に怒り狂う女神ヘラが放った光は、緑豊かな山脈を、一瞬で燃えカスが転がる黒い平野へと変えてしまった。そこで暮らしていた人々は、無惨にも原型をとどめぬ焼け焦げた肉塊となり、かろうじて生き延びた者たちも、呻き声をあげて迫り来る死に怯えるしかなかった。そして、同様に被害を受けた美しき女神メティスにも、終わりのときが訪れようとしていた。
なにかに覆いかぶさるような体勢で気を失っていたメティスは、耳に響くくぐもった赤ん坊の泣き声で目を覚ました。
ううっ、と呻き声を上げたメティスは、目も当てられないほどに酷く焼けただれた背中をゆっくりと上げ、地面に倒れて泣きじゃくる赤ん坊に目をやった。
まだ、生まれてほんの数日と経ってないメティスの娘は、少々のかすり傷は負っているものの、どうやら無事なようだった。その様子を見て、メティスは血がしたたる口元をかすかに上げ、かすれた声でつぶやいた。
「よかった・・・無事・・・だったのね・・・。」
メティスは、血まみれの手で我が子をそっと抱き上げ、優しく胸に抱いた。すると、次第にメティスの顔から笑みが消え、とたんに顔を悲しみに歪めた。
メティスは、自分が残りわずかの命だと悟っていた。せっかく赤ん坊の命は助かったが、いまここで自分が息絶えてしまっては、やがて赤ん坊も死んでしまうだろう。そうでなくても、きっとすぐに女神ヘラの手下に見つかり殺されてしまう。どちらにせよ、この赤ん坊が生きのこる道は無かった。メティスは、それが何より悔しかった。奥歯を強く噛み締め、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
「・・・せめて、あなたにだけは、幸せになって欲しかったのに・・・」
肩を震わせて、メティスは泣き続けた。彼女のこれまでの人生は、常に不幸と隣り合わせだった。オリュンポス神国最大規模の勢力と権力を持つオケアニデス一族の一人として生まれたメティスは、幼少の頃から三十人の腹違いの姉妹と、最高神ゼウスの正妻の座を競い続けてきた。交差する様々な謀略や企みをくぐり抜け、遂に正妻の座を掴んだメティスだったが、根拠の無い噂や身に覚えのない罪を被せられ、メティスはゼウスとの子を身篭ったまま追放されてしまった。しかし、他の姉妹と比べても群を抜いて美しかったメティスの事を忘れられなかったゼウスは、彼女以外が正妻になることを認めなかった。そして、メティスを最も敵視し、メティス追放の首謀者であった第二正妻のヘラは、メティスの抹殺を企てた。そして、メティスが身を隠していたこの山脈を、他の人々諸共焼き払ったのだった。
メティスは、逃げ場のない絶望に呑まれたようだった。
「ごめんね・・・ごめんね・・・あなたに、名前もつけてあげられなかった・・・ごめんね・・・」
もはや自分には、この子と共に死を迎える道しか残されていない。
――せめて・・・私の手でこの子を
メティスは覚悟を決めた。
辺りには、雨が大地を叩く音と赤ん坊の泣き声が、いつまでも響きつづけた。すると
「・・・!」
メティスは弾かれたように顔をあげた。たった今まで壊れたように泣いていた赤ん坊が、突然ピタリと泣き止んだのだ。メティスがおそるおそる赤ん坊の顔を覗くと、赤ん坊は呆けたような顔で、メティスの顔よりも少し上を見つめていた。メティスは、こわばらせた顔でサッと振りかえった。
――まさか、もう追っ手が・・・!
だが、赤ん坊が見ていたものを目にして、メティスは目を見開いて驚いた。
遠くの空の割れ目から、ぼんやり陽の光が差し込んでいたのだ。
「・・・なんてこと・・・まさか、彼女の呪縛から抜け出してきたの?」
メティスが呆然と日差しを見つめていると、突然赤ん坊が、まるではしゃぐような、喜ぶような笑い声を出し始めた。
赤ん坊は無邪気に笑って日差しに手を伸ばしていた。それを見つめていたメティスは、とたんに顔を歪ませ、またも溢れんばかりの涙をこぼした。
「そうよね・・・まだ諦めちゃいけないわよね・・・希望はまだ、潰えていないものね・・・」
メティスは、日差しを見上げてつぶやいた。
「どうか・・・どうかこの子を頼みます・・・」
それから、メティスは左の人差し指につけていた指輪を外すと、赤ん坊の額にあてて何かをつぶやき始めた。すると、指輪の宝石が一瞬だけ赤く煌めいた。
「これはお守りよ。あなたが彼女に見つからないよう、あなたの力の一部を、この指輪に移しました。いつか、必ずあなたの元に戻ってきますから。」
そう言うと、メティスは再び赤ん坊を強く抱きしめた。
「・・・たとえ・・・たとえどんなに辛く苦しい事があっても・・・決して負けない、人々の希望になるような、強い心を持った女神になりますように・・・」
そして、赤ん坊を日差しに向けて高々と掲げた。
「さあ、行っておいで!」
暖かい日差しに包まれた赤ん坊は、無数の小さな光になって、少しずつ日差しに溶け始めた。これで赤ん坊は、生き長らえることが出来る。それに対する喜びの反面、我が子との永遠の別れへの寂しさと悲しさがこみ上げてきて、メティスは口元を手で覆い、最後の涙を流した。
「・・・さようなら。」
やがて、手から赤ん坊の温もりが完全に消え、暖かい日差しは、再びぶ厚い雲の向こうに消えた。
一人きりになったメティスは、指輪を握った手を胸に当てて、祈るようにうつむいた。
「・・・あの子に、永久の希望を・・・私の最愛の子・・・そう、希望をもたらす子・・・アテナ。」