エルマ
曇っていた天気も晴れた午後。
結局その後も一時間ほど勉強させられた孤児院の子供たちは、それぞれがそれぞれの与えられている仕事をこなすために聖堂の教室を出て行った。
一番早く出ていったエルマは、外を歩いている大人たちの誰にも目をくれることはなく、目線を地面の小石や土にやったまま、白髪をぽりぽりと掻いた。
エルマは薪を取るための道具を背負ったまま、ポリスから出るための一番の近道を通り、ポリスの外れまで歩いて行ったが、その速度はまるで競歩選手といったところであろうか。
「ああ、だるいなあ……この世はまるで、憂鬱の塊がたくさん詰められた壺のようだ」
そんなことをぼやくのはいつもの定番だった。
てくてく、てくてくと歩く。
やがてポリスの一番外れまでやってくると、布服のポケットから改変術式の込められたキューブ型の機械を取り出し、手のひらに乗せた。
すると、改変術式が起動し、キューブがパズルのように回転しはじめて内部を剥き出しにする。
その内部にはコアがあり、そのコアが真っ青に発光していた。
「我を通せ。何者をも拒む門よ」
エルマはそんなことを言ったが、実際にはそんな言葉をいう必要は一切ない。
ふふん、と少し得意気にゴリラのように鼻を鳴らしてから、エルマはその何者をも拒むポリスを守るための結界を、通り抜けた。
本来ならば、通ろうとする者を消滅させる強力な結界であるが、エルマの持っている改変術式の込められたキューブであれば、問題なく外へと出ることができる。
ポリスの外を、バカ鳥が飛んでいる。
のどかな草原を歩いていく。
エルマはポリス内を歩いていた時とは対照的に、青空を見上げて歩き続けた。そして時折、動物や鳥や虫に似た形の、変わった雲を見つけては心の中で喜んだ。
「雨が降らなくて、しかもこんなに晴れてて、私は嬉しいよ」
そんな独り言をいいながら、彼女はやがて草原を抜けた。
そして小さな山をいつもどおり登り、息を切らしながら歩いていると、一匹の狼が遠目に見えた。人を襲う危険な種類の狼であったが、彼女は慌てることなく布服のポケットから先ほどとは別のキューブを取り出した。
同様に手のひらに乗せると、改変術式は起動しコアが真っ青に発光する。
「我を隠せ。何者をも寄せ付けぬ隠密の業よ」
無意味な呪文を唱える度に、彼女の心は躍る。
エルマにこんな一面があることを、ポリスの人々は知らないだろう。彼女もこういうことをしていることは、ほとんど、誰にもばれないようにしている。ほとんど、ではある。
狼にばれることのない透明な姿になった彼女は、相変わらず面白い雲を探しながら、しかし驚く程の速度で山を下った。
山を下る途中で、目的のコヨーケの森がようやく眺望できた。
全長が草原よりも大きい、巨大な森林地帯である。
ここで取れる木材は、簡単に切ることができる上に、燃えやすく薪になりやすい。
ポリスでも重宝されているその木材は、すぐに生えてくれる上に軽いから簡単に収集できる上に枯渇することもない。コヨーケの森の木材を入手することは、子供でも簡単にできるのだ。
山を下りきったエルマは、コヨーケの森に続く草原を歩いた。
その途中で、珍しい雲を発見する。
ダニの形をした、雲だ。
「ダニかぁ。……ダニは、はじめての収穫だな。今日は、いいことがあるってことかも」
心底から喜んだ彼女は、草原を歩く間中、ずっとダニの雲を観察し続けた。まるでそのダ二の本物を眺めているかのように仔細を、眺め続けた。
やがて彼女はコヨーケの森にたどり着き、ダニ雲が見えなくなってしまったことで急激に気分を落としてはしまったが、無言で仕事に取り掛かった。
手頃な枝を見つけては、背中の道具、背負子に次々に乗せていく。
こんな作業をはじめて、三年が経過している。
元々あまり好きな仕事ではなかったが、ポリスから出られることは彼女にとっては息抜きではあった。特に道中の短い旅は、晴れた日であれば退屈しない。
「こんなもんかな……。今日の仕事はこれで終わり。あとは、帰るだけ……」
緑色の両眼を瞑り、立ち止まって、しばらく帰ることを躊躇する。
頭を降ることで、白髪のショートカットが揺れる。
たくさんの枝を背負い、彼女はコヨーケの森を抜けて、草原を再び歩いた。
まだダニ雲はあるかな、と思ってから、もう時間がだいぶ経ってしまったから雲は飛んでいってしまっただろうなと思い直す。
草原から空を見上げると、先程とは違って、雲一つない晴天の青空であった。人によれば喜ぶ晴れやかな天気ではあったが、彼女の気分は落ち込んだ。
小さくため息をついて、青空を見ることはなく、ポリスでしていたのと同じように地面の小石や草を眺めながら歩くことにした。
「ダニでも、いないかな……人の目でも見えるほど大きな、ダニ……」
そんなものはこんな草原にいるはずもなかった。
行きと同様に通り道の小さな山を登り、一応途中で狼に襲われることはないように、隠密の改変術式を起動する。
狼に遭遇することもなく恐ろしいほどの速度で山を越え、降りる。
ポリスまではもうすぐ。
エルマにとってはいつものことではあったが、ポリスに近づくにつれて彼女の気分は落ち込んだ。彼女に友達がいないわけではなかったから孤独ではなかったが、彼女はそのポリスが嫌いであった。嫌いな人がいて、嫌いな生活があるからだ。
それでもあのポリスには帰らなくてはならない。他に行くところもないのだ。
「ダニ、ダニ、ダニ……」
一見気が狂ったかのようにダニを連呼しながら、彼女は地面を見ながらしばらく草原を歩いていたが、その途中で、彼女は突然視界に入ったもののせいで、つまずく。
そして、まるで芸人がするかのように大きくすっ転ぶ。
背中に背負っていた枝がすべて散らばってしまい、草原に落ちてしまう。
「いてて……人?」
起き上がったエルマがつまずいたのは、倒れている人間であった。彼女の住んでいるポリスの人間ではないように思えた。服装が違うし、見たことのない人間だったからだ。
「あの……大丈夫ですか……」
エルマの尋ねにその倒れている人間、性別は男、はピクリと身体を震わせて反応した。
生きているのだ。死んでいる訳ではないようだ。
よかった、と一安心してエルマは一息つく。
「どっか傷があるのですか。それとも、何か病気かなにかですか」
エルマの質問に、かすれた声で男が答える。エルマはよほど重大な病気か怪我かと想像して、だいぶ男のことを心配したが、彼は予想外のことを喋る。
「腹が、減りすぎて……」
腹の音が低く響く。腹が減りすぎて倒れるなど、彼女は聞いたことがなかった。
あまりにおかしくて、エルマは笑った。
「あははっ。ポリスまで行けば、ご飯くらい食べさせてもらえますよ。……お金があれば、ですけど」
「金なら……あるさ……」
「それなら、大丈夫ですね。あっちに見えるポリスまでの応急処置として、これを食べてください」
エルマは持っていた巾着から固形食を取り出して、男の口にそれを押し込んだ。
ぐがっ……・もぐ、もぐ……
男はすぐにそれを飲み込んでから、
「ありがとう。まずいね、これ」
と満面の笑みで挨拶した。失礼な人だな、とエルマは思った。