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本当の幸せ

「ねぇ、あそこって何の部屋なの?」

 ある朝、いつもの散歩から帰ってきた私は、真理にそう問い掛けた。

「ああ、突き当りの部屋の事?」

「うん。あそこだけ入った事ないから」

「そうだっけ」

 彼女はちょっとだけ口元に笑みを浮かべた。何か、特別な部屋なんだろうか。

「じゃ、入ってみて」

「入ったら、何の部屋か分かるの?」

「ええ」

 何故、先に何の部屋か教えてくれないんだろう。不審に思いながらも、廊下の端まで歩く。後ろから彼女が付いてくる。

 カチャリと扉を開けた。

「あ!」

 中はさほど広くなく、至って普通の部屋だった。だが、その真ん中にあった物が、私を驚かせた。

 そこには、立派なグランドピアノが、横向きになって居座っていた。

 私は言葉を失って、ただただぽかんとそれを見つめていた。

「ピアノが趣味なの、私」

 彼女は楽し気にそう言った。

「だけど、最近は弾いてなくてね。そんな訳でここは、ピアノ部屋なんだけど」

「私も好き」

「え?」

「ピアノ、私も好きなの。半分赤ちゃんみたいな時から、ピアノ弾いてて」

「あら、そうだったの」

 彼女は少し驚いた様だった。まさか、こんな所に私と彼女との共通点があったなんて。

「そっか、さっちゃんって育ち良さそうだもんね」

「あー、まあね」

「否定しないんだ」

「あはは。だってそのせいで、子供の時はやんちゃ出来なかったから」

 もの静かで、人と距離を置いて、誰とも仲良く出来なかった私。

 だから私は、いじめられた。

「ふーん……。ピアノ、弾く?」

「え、いや、いいよ。私が弾いたらその、お耳汚しになっちゃうから」

「またまたー」

「真理こそ、弾いたらいいじゃん」

 彼女は少しの間だけ、困った様な、迷っている様な表情をしてから、いつもの微笑を見せた。

「私の方がお耳汚し。じゃ、私見たいテレビあるから。弾きたい時は弾いていいよ、それ」

「あ、うん」

 彼女はくるりと背を向けて、部屋を出ていった。

 ピアノの方に視線を移してみる。上品な曲線と光沢、どこか可愛らしい佇まい。

 彼女にそっくりなピアノだと思った。そして、何故かそのピアノに触れる事が躊躇われた。

 しばらくそのピアノを眺めてから、部屋を出た。




 ピアノの柔らかな音色で、目を覚ました。

 視界に入ったのは、暗闇。まだ夜だ。

 そっと体を起こす。隣で寝ていた筈の真理がいなかった。

 ピアノの音が、微かに、だがはっきりと聞こえてくる。この曲はトロイメライだ。

 今日の朝方の事が頭にちらついた。あのピアノ部屋で、真理が演奏しているのだろうか。それにしても、何でこんな夜中に?

 気になって、私は立ち上がった。

 真理に気付かれない様に、ちょっとだけ部屋を覗いてみよう。どんな風に演奏しているか、どんな表情をしているか、見てみよう。

 そんな好奇心で、長い廊下を歩き出す。

 あの部屋に近付く程、ピアノの音はより大きく響いた。やはり、そこで彼女が演奏しているのだ。

 それにしても、良い演奏だ。トロイメライなんていうのは、感情の込め方が中々に難しい曲なのに。

 そういえば私も昔、お母さんにこの曲を習ったっけ。懐かしい。

 扉の前に到達した。早く彼女の姿を見てみたい。

 どきどきする気持ちを押さえて、音を立てない様に、そっと扉を開いた。


 ――彼女は、泣いていた。

 窓から差し込む月光に照らされ、神々しく輝きながら。滑らかに動く自らの指先を、目で追いながら。

 涙が、彼女の頬を次々と伝っていく。それでも、本当に穏やかな表情で、彼女はピアノを弾き続ける。

 ああ、と思った。

 彼女が何故泣いているのかは分からない。でも、今彼女の姿を見て分かる事が1つ。

 彼女は、弱い。

 とても弱いのに、それをひた隠しにして、今まで私と暮らしていた。

 何でも完璧に出来る、ちょっと天然なお姉さんみたいな振りをして。そんな彼女が、とても愛らしく思う。

 気付けば、私も泣いていた。ドアノブに両手を重ね、その上に額を乗せて、漏れ出そうになる声を必死で抑えながら。

 なんで今まで気付かなかったんだろう。ううん、本当は気付いていたのかも。

 私は、彼女の事が好きなんだって。春樹の事を想うのと同じ位、もしくはそれ以上に。

 彼女の事が好きだったから、彼女と過ごした日々は、とても楽しくて、そして――

 ――失いたくない位の、本当の幸せが詰まっていた。

 泣きながら、私はちょっとだけ笑った。

 真理。私の病気、治ったよ。もう、帰らなきゃいけないのかな。

 やがて、真理の演奏が終わりを迎えた。私はふっと顔を上げた。彼女はピアノから手を離し、じっとピアノを見つめていた。

 その悲し気な横顔に、私はもう我慢出来なくなった。

 扉を思いっきり押し開けて、彼女に駆け寄った。

 彼女は私の方を見て、驚いた様に目を見開く。


 彼女の唇に、自分の唇を重ねた。


 怖くて目を開けられないでいると、尚更怖くなってしまった。もう後戻りは出来ない。

 彼女の柔らかい唇は、春樹の硬いそれとは全く違って、でも、温かさはどちらも同じなのだった。

 幸せだ。でも、怖くない。本当の幸せは、怖くないんだ。それを知る事が出来たのは、彼女のおかげだ。

 数秒経ってから、私は彼女から離れた。

「……真理」

「ごめん」

 彼女は怯えた様な表情をして、謝った。

 何故、と思うより早く、私が春樹とのキスの後に言ったのと同じ台詞だ、と思う。

「もう、帰って」

 とても掠れた声だった。彼女の目は虚空を見つめていた。その赤く腫れた目が、白い肌にとても痛々しく映えた。

「……え」

「あなたの傷も、充分癒えただろうし。おうちの方とか、お友達が心配してるだろうから」

 彼女は立ち上がって、涙を手の甲で拭った。視線は外したままだ。

「あなたの捜索届、とっくに出てるの。ニュースで見た。隠れてるのももう限界だと思う」

「なんで?」

 私は問い掛けた。でも、疑問詞の後に続く言葉が見つからない。

「……ね、帰ってよ。彼氏さんも、心配していらっしゃるだろうし」

 それが彼女の答えらしかった。私は信じられない様な気持ちで、ただ涙を流していた。

 彼女は鍵盤蓋を閉め、私の横を通り過ぎて、扉に手を掛けた。




 彼女が車を持っている事は、最初の日から知っていた。

 あの日、畑にトマトを植えた日。家の全体像を確認した時に、玄関扉の横にシャッターが下りているのを見つけた。

『あのシャッターって、もしかして車庫ですか』

『うん。私車の免許持ってるからね』

『え、凄い。まだ18なのにですか』

『こんなとこ住んでたら、車位運転したくもなるのよ』

 そんな会話を、した様なしなかった様な。

 移りゆく窓の外の景色を眺めながら、意識を過去へ飛ばす。そんな事したって、今は変わらないのに。

 ちらりと隣を盗み見た。真っすぐに前を見つめる彼女の横顔には表情が無く、何を考えているのか読み取れない。

「……ねぇ」

 突然、彼女が口を開く。

「な……何?」

 彼女は躊躇う様に間を置いた後、こう続けた。

「私、あなたと昔会った様な気がしてた」

「……え?」

「本当のところ、どうか分からないんだけど。私は昔、あなたにとても酷い事をした様な気がする」

 頭がほんの僅かに痛んだ。彼女の栗色の髪が、記憶を呼び覚ます。

 小学校の校舎。人気の無い廊下の片隅で、上級生が輪になって私をいじめている。

 その上級生グループの中の、1人の女の子。その子はとても可愛くて、周りとは違ったオーラがあって。

 そして、髪は綺麗な栗色だった。

「そんな事、無かったと思う。私達が出会ったのは、一週間位前が最初だと思う」

「……そう」

 納得していない様な声だった。でも、私は本当に、そんな訳無いと思っている。確かめ合えば、本当にそうじゃないのかどうか分かる。

 だけど、怖くてそんな事出来ない。

「……あ。私、ここから道分かる」

「あ、うん」

「終電、まだまだだから大丈夫」

「うん」

 私は鞄を持って、車のドアを開けた。胸のリボンが揺れる。

 このリボンが付いた服は、真理の物だ。『これ、あなたの服にしてくれていいから』と言われ、譲り受けた。これでもう、絶対に彼女の事は忘れられないだろう。

 車を降りてから、中を覗いた。彼女は少し俯いていた。

 何か、言わなきゃ。

「……送ってくれて、ありがと」

「この位、平気だよ」

「そっか。……いままで、色々、ありがと」

「うん。こちらこそ」

「あ、えっと……」

 沈黙が流れる。気まずかった。でも逃げちゃ駄目だ。まだ、言いたい事がある。

「あのさ」

「何?」

「……私との生活って、どうだった?」

「幸せだった」

 間髪を入れずに、彼女はそう言った。

「今までで一番、幸せだった」

 涙が込み上げてきて、慌ててそれを飲み込む。こんな事言うなんて、ずるい。

「ありがと。……それじゃあ、さよなら」

「さよなら」

 ドアをバタン、と閉める。明るい月の下を歩き始めた。

 もう振り返らない。私は元いた場所に帰るのだ。


 車はいつまで経っても、エンジン音を鳴らさなかった。




~~~




 ピーピー鳴く鳥の声がうるさくて、目を覚ました。

 うんざりする程眩しい日の光りが、視界を奪う。カーテンを閉めているというのに。

 立ち上がって、ベランダのカーテンを開けた。視界の先に、畑が見える。

 春頃に植えた夏野菜達は、もう皆見事に育っていた。そろそろ収穫の時期だ。

 ふと、畑の隅の方に植えられたトマトに目が行く。

 大玉トマトと、可愛らしいミニトマト。あの子と一緒に植えたそれも、もう赤く熟れてきた。

 あの子の事を思い出した途端、胸が苦しくなった。

 ――ううん、もう、あの子と私は関係無い。

 そう思おうとした。でも、それはそれでやっぱり切ない。

 私は、さっちゃん――幸穂の事が、好きだったんだから。

 でも、私は覚えていた。昔、私がさっちゃんにどれだけ酷い事をしたか。だから、絶対に想いを伝える事なんて出来なかった。

 そうじゃなくても、とても異常な恋だったし、何よりさっちゃんには彼氏がいるらしくて。

 例えそれが溢れ出しそうな位の『好き』であったとしても、言葉にする理由なんて1つも無かった。

 ああ、こんな事早く忘れてしまった方が良い。私は首を振って、寝室を出た。

 とほぼ同時に、固定電話の着信メロディが流れてきた。私はリビングへ急いだ。

 電話の小さなディスプレイには、『説得会 田中さん』と表示されていた。私が所属している『自殺者を説得する会』の幹部だ。何かの連絡だろうと思い、受話器を取る。

『あ、もしもし、宮本さん?』

「はい、お久し振りです。何かご連絡ですか?」

『ええ。実は、学生部の新入会者がいましてね』

 やはり、と思う。自殺者を説得する会は、年齢によって5つの部に分かれている。幼年部、学生部、若年部、中年部、老年部である。私は学生部の部長を務めていた。

 そしてここ最近、学生部の入会者はやたらと多いのだ。仲間が増えるのは喜ばしい事ではあるが、部員の管理などは正直面倒になる。

 溜め息をすんでのところで堪えて、会話を進める。

「了解です。お名前は?」

『ええっと……んん? 何だこりゃ』

「どうなさいました?」

『いやね、名前記入の欄に匿名希望って書いてるんです』

「ふふっ、変な方ですね」

『本当ですよ、困ったもんだ。まあ兎に角、その方が今日、宮本さんのお宅へ挨拶に来ると思うんで、宜しくお願いしますね』

「はい、分かりました」

『ありがとうございます、では』

 ツー、と電話が切れた。

「……はー」

 大きな溜め息を吐き出す。とりあえず、服を着替えよう。


『ピンポーン』


「え、もう?」

 思わずそう呟いてしまった。いくら起きるのが遅かったとはいえ、まだ8時だ。何故こんなにも早い時間帯に来る必要があるのだろう。

 不信感を抱きつつも、渋々とリビングを出た。寝室に置いてあった上着を1枚羽織って、玄関扉を開ける。


 ――晴れやかな青空と共に、美しい少女が視界に映った。


「……こんにちは」

 その少女は。

 長くて艶のある黒髪を、赤いリボンで2つ括りにしている。

 目鼻立ちがはっきりとしていて、ちょっと冷酷に見える位美人だけど、その顔に浮かぶ笑顔はとても偽物とは思えない。

 その少女は。

「……幸穂」

「はい、三栗幸穂と申します」

 少しおどけた口調で、彼女はそう言った。

 私達の間を、風がさあっと吹き渡った。木々のざわめく音。鳥がバタバタとどこかへ飛んでいく音。

 そして静まり返った山に訪れる、静寂。

「…………」

 戻ってきてくれたんだ、とようやく理解出来た。

 昔酷い目に遭わせてしまって、数年振りに楽しい時を過ごしたと思えば、一方的に拒絶した。

 そうやって、私が散々な思いをさせてきた彼女が、また戻ってきてくれた。自らの意志で、ここに来る事を選んだ。

「へへ。宮本真理さん、宜しくお願いします」

 彼女はちょっとだけ、頭を下げる振りをした。はにかんだ、可愛らしい動作だった。

 ああ、なんでこの人は。どうして。本当にもったいない人。

「もう真理ったら、泣くの早すぎるよ」

「――っ!」


 私は、彼女に抱き着いた。


 涙で彼女の服を濡らしてしまった。それでもいいか、と甘えてしまう。

 ああ。やっぱり私は、この人が好きなんだな。

 彼女の顎が、私の頭の上に乗っかった。私は子供みたいに、彼女に抱かれながら泣きじゃくった。

 私は本当に、幸せだ。

これで最終話となります。

最後までお読み下さりありがとうございます。


追記

ブックマークありがとうございます。

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