むかし
「エレナ、そっちは危ないって父上が言ってたぞ」
「大丈夫よ!私たち立派な武器だって持ってるんだから!」
森に行く途中で拾った長い棒を高々掲げて、少女はにんまりと笑った。
少年は自分の手にもある同じような棒を握りしめ、大冒険への憧れをその顔に浮かべて見せる。
もしかしたら、古の秘宝が見つかるかもしれない。もしかしたら、大きな大きな妖精の王様が出てきて、勇者様に選ばれるかもしれない。
そんな宛ての無い昂揚感に頬を緩ませた少年は、先を行く少女に置いていかれまいと足を早めたのだった。
「ねえレオン、少し休憩しましょう」
「わかった。母上が持たせてくれたお菓子があるから、ここで食べよう」
「わあ、そのバスケット、中身はお菓子だったのね」
開けた草地に腰を下ろし、二人はバスケットを覗き込む。
目を輝かせた少女は一度考えるように目をパチパチと瞬きさせ、少年とバスケットの中身を交互に見、そして自分の手前にあったマフィンでは無くマドレーヌの方を手に取った。
「エレナ、マフィン好きだろう?」
「うん。でも奥様のマフィンは、わたしよりレオンの方がずっと好きだわ」
マドレーヌを口元に当てがったままニコリと微笑んだ少女に、少年の胸が高鳴った。心臓から駆け上がりずんずんと登ってくる熱に紅くなる頬を隠すように、マフィンのその甘い香りをいっぱいに詰め込んだのだった。
「うん?」
「どうしたの?」
「何か、音がする」
風に吹かれてそよぐ木々の柔らかな葉音に紛れ、時折不協和な音が聴こえるような気がする。
キョロキョロ辺りを見渡しているうちにいつのまにか風は止み、森はシンと静まりかえった。
どくん、どくん、と自分たちの心音だけが拍をとる中、それは急に姿を現したのだった。
「きゃあ!」
「エレナ!」
茂った藪から体を弾のようにして飛び出してきた毛の塊は、少女の背中に音をたててぶつかった。
それはドシャリと地を擦り、それから少女の錯乱したような泣き声と毛玉の凶暴そうな鳴き声が森に響く。
少年はしばらく動けなかった。少女が噛みつかれている、ひっかかれて切り裂かれている。
しかし、足元に転がってきた食べかけのマドレーヌを見てハッと我に返った少年は、泣きそうになりながらも武器と称したその棒を構え、震える足を無理やり立たせると、その目に捉えた狼に掴みかかった。
「やめろ!やめろ、やめろ!」
彼には意地しかなかった。自分より一回りも二回りも大きい狼相手に、勇気も何も無かった。
ただ、自分の大切な女の子を助けなくてはと、それだけだった。
体を叩かれた事に反応した狼が、ゆらりと少年の方に首をもたげると、少年はもちろん怖くてたまらない。
しかし不幸中の幸いと言ったところか、口を大きく開けた狼に目を瞑ったまま棒を振り下ろすと、たまたま当たりどころが悪かったのか、狼は「ひゃん」と力の抜けた犬のような声を出し、逃げるようにまた草をかき分け去って行ったのだった。
「エレナ、」
「ぅ、う、痛い、痛いよう…」
少女はボロボロだった。身体中傷だらけで、服は裂け、腹からは血が滲み出ていた。
棒を投げ捨てた少年は、早急にこの場を離れることを選んだ。しかし、抱き上げようにもそのような力は少年に無く、踏ん張っても少女が地面から少し離れる程度にしかならない。
「ぼくは、なにもできない…」
涙が溢れそうだった。助けてあげたいのに、持ち上げることすらできないなんて。
しかし彼は諦めなかった。おぶることすら出来なかったけれど、彼女を背に凭れさせ、引きずって少しずつ森の出口へと向かった。
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「大丈夫、ちょっといっぱい怪我しちゃって、気を失ってるだけよ」
彼が少女を連れ帰ると、屋敷は大騒ぎに。すぐに少女の両親が呼ばれ、手当が済んだ後少年は質問責めにあった。勿論こっぴどく叱られたが、それだけではなかった。自分の両親も、少女の両親も、嬉しそうに彼を抱きしめた。
「無事でよかった」
「レオン、怖かっただろう。」
「頑張ったのね。ありがとう」
優しい言葉と抱擁に、少年はまた泣きそうになったけれど、今度も涙を堪えた。
それからエレナは自分が見ていると言って聞かない少年に、親達は仕方が無いと微笑み部屋を後にしたのだった。
「エレナ…」
少女は返事をしない。返ってくるのは呼吸の音だけだ。
彼は絡まったままベッドに沈んでいる彼女の金色の髪の毛を指で梳いてあげ、そっと手に手を添えた。
エレナ、ぼくは君が大好きだ。
でも、ぼくは今日、君を守れなかった。
それに、抱き上げることも、おんぶすることすらできなかった。
少年はポツリポツリと、返事をしない少女に語りかける。
「ねえエレナ。ぼくはいつか、もっともっと強くなるよ。だからその時は、」
その時は、今度こそ君を守らせて。
そう呟いた彼は、ついにその瞳から涙を零したのだった。




