「第七話」
「第七話」
名皇大学医学部付属病院。
今日、夜六時頃、この病院へ妙な急患が来た。
今しがた、その患者に対するコード99(最優先の症例が発生した際の緊急招集)を受け、その救急室の老練な担当医は白衣に袖を通しながら他の数名の医師と共に救急車両の入る一階の搬入口へ急いだ。
「……妙だと思いませんか?」
隣に歩く医師の一人が不安げに呟く。
「何がだ」
担当医は出来るだけ感情に出さぬよう、隣の声に答えるが、口に出したその声は僅かに自らの心の内の苛立ちを含んでいた。
「その、殺人現場に居た人間がうちへ回って来たんですよね?」
担当医は間を置いて、そうだと答える。
「でも、救急係(救急車内で患者への処置を担当する隊員)の報告によれば擦過傷一つ無くて、昏睡状態。脈拍も安定して、生命徴候有り……こんな眠っているような様子で殺人現場から人が運ばれてくる事って今まであったんでしょうか」
その医師は近づき、不安な面持ちで言葉を待つ。――胸につけられた名札には、古宮とあった。担当医の知った顔ではなかったが、医師になってまだ二、三年といったところか。
担当医は溜息をつく。これから仕事を共にする者がこんなに不安では困る。
「傷一つ無いのは妙だと言いたいんだろう? ……うちでどころか、恐らくこの神奈川十八区内の病院で初じゃないか? 前例が無いケースとは曲者だが、貧乏くじに当たったと考えればいい」
息子のような年齢の古宮に担当医はおどけて言ってみせるが、反応は返ってこない。
「今は、十九区ですよ」
代わりに傍にいたもう一人の医師が、無愛想な声で担当医の言を訂正する。
「ああ、最近、桜木の方に出来たとかいうやつか。――あぁ。まぁ、気に病むな古宮。私達、医療従事者がする事は患者の命を救う事だけだ。解らないような事件は警察に任せればいいんだ」
「そう……ですよね。すみません」
古宮の顔は明るくはならなかったが、自分のするべき事は理解しているようだ。その顔には使命を帯びたように真剣な表情だった。
そんな様子を見、一息ついた老練な担当医は、二人の医師を率い、搬入口へ急ぐ。
しかし、そんな彼らを塞ぐように、搬入口に立ちふさがる他の病院の医師らしい顔の知らない数人の人物がいた。
「…………?」
担当医の後ろにいた医師達がそろって困惑する。その中に意外な人物がいる事に気がついた。
「嘉田院長……?」
なんと、数人の医師に混じってこの病院の長である嘉田院長がいた。
院長は視線だけで階段から降りてきた担当医達を見る。
これには担当医自身も驚きを隠せなかった。
(何故、今日のこんな時に、しかもこの場に院長がいる?)
院長の傍にいた医師たちは担当医達に目配せをすると、次々と、搬入口の戸を開けて出て行ってしまった。
「どういう――」
担当医の言葉を遮るように、院長は担当医の前に手をかざし、口を開く。
「すまない。さっきの君達を呼んだ館内放送はこちらの手違いだった。大丈夫。彼らは君たちの代わりに私が通した。上手くやってくれるそうだ。彼らに手違いがあった場合、責任は私が取る……もう、それでいいだろう」
有無を言わさない院長の言葉の響きに、担当医はこれ以上の詮索を諦めた。
やがて、搬入口が開き、患者の乗ったストレッチャーが慎重に降ろされ、そこから出てきた医師によって院内へ運ばれる。
患者を乗せたストレッチャーがガラガラと音を立てながら院長や担当医達を横切る間、院長は何も言わなかった。
やがて、搬入口周辺は静寂に包まれ、彼らだけになった。
院長はその中、ゆっくりとストレッチャーの向かっていった方向、院内へ向かって歩いてゆく。
そして後ろに取り残された担当医含む三人へ背を向けながら、申し訳なさそうに頭を下げた。
「本当に……すまない」
四人のいた薄暗い館内に重たく響いたその声に担当医達は何も答えることが出来なかった。
院長の後姿が完全に消えた頃、担当医はその方向を見ながらようやく、後ろにいる一人の医師に言う。
「古宮。お前の気持ちがよく解った。私も気付くべきだったかもしれない。これは確かに妙だ」
屯野琢磨の意識は音も光もない闇の中でただじたばたと、もがいていた。
屯野の体は水の中に沈んでしまったように思ったように、重たく動かない。
闇の中、屯野が一歩を踏み出そうとしても普段のように足は動かず、鈍重な動作で太い足がのっそりと動く。
(くそっ、どういう事だよ!? これは……!! 何で思った通りに体が動かない……!? まるで体が……体が……!!)
屯野はその先を考えたくなかった。
その先は自分の頭で受け入れることが到底出来ない恐ろしい事だからだ。
しかし、暗い闇の中にかかわらず、屯野が意識から追い出したい筈のものはこれ異常なく鮮明に目の前に形として表れていた。
異常に膨らみ、たるんだ腹。
短い手足。そこに付いた四本の関節の無い短い指。
人間の頬がない。歯が多い。
全身は白い体毛が生えている。
目の前に大きく硬い鼻先が見える。
屯野琢磨は体以外は真っ暗な意識の中、二足歩行する総体重三百十キロの大きな豚となっていた。
(何で……こんな無様な……姿に……本当に、訳わかんねえ、わかんねえよ……!!)
その時、屯野は闇の先に、あるものが見えた。見まごう事なき巨躯を持った牛頭人身の怪物の姿だ。
それは剥製のように、命を持たずに動かずじっと屯野の方を見つめている。
屯野はそちらの方へ、ゆっくりと近づいてゆく。
(……なぁ、牛野郎。俺って、お前みたいな怪物と同じなのかな……?)
怪物は答えない。
(なぁ、答えてくれよ……)
怪物は何も言わなかった。
(……答えろって言ってんだろ!!)
「お早う。屯野君。目を覚ましたかい」
「え……?」
屯野の意識は突然、闇の中から出ており、目の前には白い服に身を包んだ見知らぬ男性の姿があった。
「あ、あれ……」
屯野は、混乱したままその場から身を起こし、辺りに目を走らせる。
今、屯野のいるここはとある病院の個室の一室らしく、その中で屯野は目の前の見知らぬ男と二人きりでその個室にいた。
近くの窓から見える景色は暗く、町明かりも殆ど無かったので時刻は恐らく深夜だろうと屯野は推測した。
屯野は今までベッドに横になっていて、男はそのベッドの近くに椅子を置いて座っていた。
男の年齢は四十から五十位だろうか。整髪料で塗り固めた光沢のある短く黒い髪に色黒で目元に怒っているような皺のある強面の顔が印象的だった。
首から名刺大の何かをさげている。
(嘉……田……?)
苗字の部分は読めなかったが恐らくはこの病院の医者だろう、と屯野は推測した。
辺りは照明を消して薄暗く、直ぐ傍の開かれたカーテンから差し込む月光が男と屯野達のいる部屋を照らしていた。
「あ……、あ」
屯野は次に自分の体を見る。
それは今朝、自分の家で起きた時に見たのと同じ、肥満で大柄の十五歳男子、屯野琢磨の百パーセント人間の体がそこにあった。
「いやぁ、君が起きてくれて何よりだ。命に大事は無かったのだが目が覚めなかったのでね。今いるここは名皇高校の近くにある大きな病院だ。……今すぐに思い出さなくともいいが、数時間前、君は路地裏でぼろぼろになって倒れているのを警察の方が見つけて、救急車でここに運び込まれたんだ」
「………!!」
屯野は路地裏で起こったことを全て思い出した。
首の無い人の無残な死体。牛と人が混ざったような怪物。その怪物に襲われた事。
そして自分が豚のような怪物に変身してしまった事。そして――――
屯野は全身が、あの時の恐怖に震えるのを感じた。
屯野は男の顔を見つめ、口を開こうとするが、その男は黙って首を横に振った。
「明日、君に警察の方達が話を聞きに来ると思う。その時に色々話をするといいだろう。今日はその点滴を受けて、明日の朝までゆっくり体を休めるといい。無論、君のご家族の方にも連絡をしてあるが、今はもう夜の十一時すぎで面会時間でもないしね」
屯野がおもむろに腕を見ると、ベッドから出た屯野の右腕には点滴が打たれていた。
「…………そうですか。解りました」
屯野は自分の状態を改めて認識し、男に言われるがまま頷いた。
「何かあったときは、後ろに看護師さんを呼ぶボタンがあるからね。とにかく、何も考えずに今はゆっくりと寝なさい」
男は微笑んで、椅子から立ち上がって部屋の出口の方へ歩いてゆく。
「あ、あの……先生?」
出口の戸に手をかけたところで屯野は声をかける。
「なんだい」
男は戸に手をかけたまま答える。
「頭は牛で体は人の姿をした怪物を見た、と言って……先生は信じますか?」
「君は僕が夢の無い大人だと思うかもしれないが……僕は信じないな」
「へ、へえ……人間の姿じゃそういうマシな事も言えるモンなんだな」
「?」
屯野は既にベッドから起き上がって、入院患者の着る簡易な薄い緑の患者服で男の後ろに立っていた。
「……答えろよ牛野郎。起きた時からお前だって解ってんだよ。お前のさせてるその臭いはあの路地で俺を襲った時と同じだ。気付かれないと思ったのか? 豚の嗅覚は記憶する力が高いんだよ。何でかは知らないが、今、俺には人間離れした嗅覚があるらしい――ほら見ろよ」
男のすぐ後ろまで迫っていた屯野は点滴の打ってあった右腕を真上に振り上げた。
戸の前にいた男は、ゆっくりと振り返って屯野の方を見る。
窓から差した月の光は屯野の輪郭を浮かび上がらせていたが、右腕の肘から先にかけての部分は最早人間のそれではなく、四本の指の生え、肥大した屯野の異形の右腕があった。
屯野の右肘から膨れ上がりながら生えたそれは大きなバルーンアートのように肥大した、蹄のついた豚の前肢のようになっていた。
屯野は恐怖に震えが止まらなかった。
路地裏で起こったこと、夢で見た事。それは紛れも無い現実だったのだ。
「どういう事だよ。……俺が思えば、腕は勝手に不気味な豚の足に変化しやがった。牛野郎、お前もそうなんだろ? 答えろよ、胸糞悪りい、俺の前で『俺と全く同じ臭い』させやがって!! ええ、おい!! 答えろって言ってんだろぉ!!!」
屯野は男の方へ接近し、変化させた右腕を容赦なく振りおろす。
「――――感情の侭にがなりおって。どいつもこいつも少しは冷静になれんのか」
「――――は」
屯野は振るった腕が男の前で止まっていると理解するまでに数秒を要した。
自分の身に起きている事以上に、目の前の状況が理解できない。
(……な、何だよ、これ? 腕が……全く動かない)
「……あー、まず、一言言っておくぞ。落ち着いて聞け」
屯野の肥大した腕はミリ単位で動かすことが出来ない。男の体から突如生えたあらゆる形の腕のような物が屯野の攻撃を受け止めたのだ。
それらは不思議な事に全て屯野の見覚えのある形だった。
牛、
豚、
鶏、
それら全ての生き物の脚が男の胸から何本も生え、それらはツタのように細く長く伸び複雑に屯野の腕に絡み合っていた。
(こいつ……一体何なんだよ)
「ワシはお前の敵のあの牛の男ではない。――聞いているか? ワシは今、お前を襲うつもりは無い」
「お、お前……自分の事を『ワシ』とか言って……何だよお前は!! 一体――」
「ワシは遺伝学者、鵠沼玄宗。お前が嗅いだのは感染した生物を変化させる作用のあるウィルス『Tファージ』。そして――」
屯野の腕の拘束を解き、男は後ずさり、屯野から身を引く。
「な……?」
瞬間、白衣を着た男は一瞬で全身を変化させた。
チンパンジーのような突き出た歯、後頭部に生えた白髪、こけた頬、顎に生えた無精髭。猫背の背格好。
さっきまで着ていた白衣はその老人の体には大きく、だぶついていた。
鵠沼と名乗ったその姿を変えた男は呆然とする屯野の目の前で微笑を浮かべる。
「ワシはそのTファージを開発し、本来ただの人間だった、お前やお前が戦ったあの怪物にTファージを、『別の生き物へ変化する技術』を与えたいわば元凶だ」
声や姿形を五十代の男性から年老いた老人へ一瞬に変えてしまった鵠沼に屯野は後ずさる。
「に、人間じゃないのか……お前。……! それに感染させたって」
動揺し、言葉の先を上手く言えない屯野に鵠沼は変わらず冷静に答える。
「もう解っているだろう。今のお前はTファージに感染しておるのだ。そして、あの牛の怪物もな。ワシはTファージの運び屋 (ベクター)として、この町の多くの人間をTファージに感染させておる。お前にも心当たりがあるんじゃないか? ワシは大量のミツバチやスズメバチにTファージを組み込んでこの町に放したからの」
屯野にはその心当たりが間違いなくあった。鵠沼の言う事は嫌なほどよく当たっていた。
それは昨日、屯野が部屋にいる時に首の後ろに感じた、刺すような痛みだ。
あの時、既に屯野は豚のDNAを組み込まれたTファージに感染していたのだ。
「か、感染って……そ、んな。どうして」
屯野は牛の怪物を見たときと同じ恐怖を目の前の老人――鵠沼に覚えた。
鵠沼は突き出た黄色い歯を露出させ、獣のような笑みを浮かべる。
「そんなモン、ワシが楽しいからに決まっとるだろうが。奇怪な姿をした化け物がこの世の裏を練り歩くのだ。楽しくないわけが無かろう。ひ、ひひ、ひひひひひ」
月の光を受けた鵠沼の顔は人の形をしていたが、不気味に笑うその姿はとても人間と思えない。
屯野は確信した。屯野を殺しに来たあの牛の怪物よりも、鵠沼という屯野の敵ではないといったこの男の方が何倍も恐ろしいと思いなおした。
何故なら、自分を豚の姿を取ることのできる化け物に変えた張本人の目の前で言葉を失って、足一歩動かすことすら出来なかったのだ。
鵠沼は笑うのを止め、屯野の方を改めて見て、口を開く。
「――お前にも色々、大事な事を話しておかんとな。ま、そのベッドにでも腰掛けろ。話をしてやる」
鵠沼がその言葉を言い終わると、いつの間にか屯野の後ろにいた何匹かのスズメバチが低い羽音を立て、屯野の頭の真横を通り抜けた。
「うわぁっ!!」
反射的に体を音の方から仰け反らせた屯野を無視して、その蜂達は鵠沼の袖の中へ戻っていった。
「言っておくが、人を呼ぼうとか余計な事は考えるな。ワシが合成したそのスズメバチはワシの意の侭に動く。お前も蜂の毒で死にたくはないだろう――ひとまずはお前のその腕を元に戻せ。やり方は簡単だ。意識すれば勝手に戻りおる。何せワシもお前と同じものに感染しておるからな」
その言葉はとても屯野の敵ではないといった人物の言葉とは到底思えなかった。