「第六話」
「第六話」
屯野琢磨はどういう訳か、自分の体が熱をもって、ほのかに熱くなっているのを感じていた。
(何だよ、今度は何なんだよ……?)
薄暗い路地の中で、屯野に襲いかかろうとしていた目の前の牛頭人身の怪物は屯野を警戒するように僅かに後ずさり身構えている。
屯野はその様子に困惑しながら、自分の体におそるおそる視線をやる。首は思い通りに動かない。それでもどうにか屯野は自分の身に起こったことが理解できた。――呼吸がしにくい。顔も熱い。最早、見るまでもないと考えた。
牛頭人身の怪物を目の前にした屯野琢磨は今、豚頭人身の『怪物』となって目の前の怪物と相対していたのだ。
屯野は、ふと体中の痛みが消えている事に気がついた。
人間のような骨格を持った屯野の腕や足からは傷一つ無く、代わりにそれらの皮膚は白い体毛が生えていた。
変身した際、豚の皮膚が屯野の体の中から生え、それらは屯野の傷を消していた。
「ブァ、ブグギィィ」
屯野が言葉を出そうとしても口から出るのは、悲鳴のような家畜の鳴き声だ。
変化した舌や頬も人間のものではないので、日本語を発声するのは不可能だった。
屯野は変化した上下の顎、計四十四本の歯を食いしばる。歯の位置や噛み合わせの感触が人のものではない。目の前の光景、自らの体、何もかもが現実離れしてる。
屯野は恐怖、怒り、焦り、あらゆる感情が屯野の中で一度にせめぎ合い、気が狂いそうになる。
(ふざけるなよ。俺もこの牛野郎と同じ、怪物だって言うのか)
受け入れきれない現実に怒り、屯野は目の前の怪物を見据え、悲鳴のような高音を叫ぶ。
「ブギァアアァアアアアァアアアア――――ッッ!!!」
激昂した屯野は豚の蹄と人の掌との中間のように変化した奇怪な拳を目の前に見える牛の頭に容赦なく叩き付けた。
「――――!?」
信じられない速さで放たれた屯野の拳に怪物は対応しきれず、その攻撃を顔全体で頂戴した。
その牛頭人身の二メートルの巨体が拳の勢いを首だけで受け、体ごと真横に吹き飛んだ。
肉とコンクリの壁がぶつかる鈍い音がし、牛の怪物は苦しそうに息をつきながら何度か呻く。それと同時に大きく咆哮する者がいた。豚頭人身の怪物、屯野琢磨だ。
屯野は倒れている怪物へと追撃を加えるべく猛然と迫る。
(み、認められるか、こんなモン。クソが)
屯野の人格は膨大な感情を抱え込んだせいか崩壊し、凶暴な人格が屯野の心を支配している。
屯野の頭の中のあらゆる倫理や常識は失せ、目の前の怪物に対する攻撃性しかなかった。
屯野は目の前の命を奪う事に対してなんら思うことは無く、既に崩れおれ、狼狽する牛の怪物に向かって拳を振り上げる。
再び、悲鳴のような声で屯野は咆哮し、硬く変形した拳を牛の顔面に叩きつける。
「ゥ……ブォォオ!!」
一転。牛の怪物は地面から腰を浮かし、咆哮し自らの顔面に屯野の振るった拳を受けながらも、蹄の生えた手で攻撃する。
互いの人ならざる拳が互いの人ならざる顔面を打ち、その瞬間、路地に一時の静寂が生まれた。
ボクシング漫画のワンシーンのように二人の放った拳は互いの顔面に直撃し、互いに動かなくなった。
両者が共に痛みに僅かに呻き、――先に行動を起こしたのは牛の怪物の方だった。
完全に立ち上がり身構え、立ったままよろめいた屯野の姿を素早く認めると僅かに助走をつけ、思い切り拳を振るう。
拳は屯野の下あごから真上にかけて振られ、屯野は自分の変化し、さらに重くなった体が牛の怪物のアッパーによって僅かに浮いたのを感じる。
(……ぐぉおっ、いってぇなっ……!!)
屯野は再び訪れた痛みに呻き、首の骨が折れていないのを確かめると素早く、その場で屈むように体を曲げる。
追撃の拳を屈んだ屯野は頭で耐える。激しく音を立てて、屯野の頭蓋骨を揺らすようなダメージが訪れる。同時に屯野は今が好機だと知った。
(ぐっそぉ……脳筋牛野郎が――ブタなめんじゃねえぞ、コラァ!!)
その瞬間、屯野は牛の怪物の開いている股の間に素早く豚の頭の先に付いた大きな鼻先を突き入れ、思い切り真上へしゃくりあげた。
「――?」
二メートルの巨体を屯野の首が軽々と股下から頭上にかけて持ち上げた瞬間、その巨体は高く宙を舞う。
牛の怪物は自分の状況が理解できず、驚きのあまりか、今度は声も挙げることすら無かった。
数秒後、牛の怪物は屯野から六メートルほど離れた地面の上で上昇を終え、硬いアスファルトの地面にその身を打ちつけた。
牛の怪物はその場から動けず、痛みで苦しむよりも呆然とし、力なく仰向けになったまま暗くなった空を見上げる。
屯野の出した力は牛の怪物にとって想定外の事だった。それ程までに豚の背筋とは類を共にする牛と同じく強靭なものだった。
一方でその力を放った屯野は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
自分の変わってしまった体をどのように使えばいいか、屯野は不思議とその方法が、変化した瞬間に把握できていたのだ。
(や、やべ……、お、俺あんな牛の化け物相手にしてるのにスゲー冷静……。……よし、ここはいっちょあの化け物を騙してみるか)
屯野は声を上げ、路地の蛍光灯の明かりの届かない暗がりの方へ身を翻し逃げる。
屯野のあげた悲鳴のような声が遠ざかるのを感じて、逃がすまいと牛の怪物は素早く起き上がると同時にその方向へと向かう。
「…………ゥ」
牛の怪物は懸命に呼吸を殺して、その場で足を止める。
辺りは暗く、牛の怪物の色覚の乏しい目では周囲のものの輪郭すらつかめない。
しかし、その手はもう通用しない、と身の内に溢れる狂喜を滲ませ、牛の怪物は長い舌をぬるりと歯に這わせる。
怪物の大きく血液で湿った鼻先は今しがた逃げた獲物の匂いをこの場所で既に捕らえていたのだ。
長い距離を逃げ、その豚のような巨体ゆえに疲れたのか、その獲物は蛍光灯の点いていない電柱に立ったまま寄りかかり、荒く息をついている。
牛の怪物の脳内では、暗い今の視界以上に鮮明に獲物の姿が見える。
牛の怪物の頭部の中には変化する前と同じ脳などの主要な神経系が詰まっていた。
牛の怪物は残った、人の脳で思考する。
――あの獲物は暗い路地の中で、牛の頭を持つ自分と同じように薄暗い中で視界を失い、更に気配すら殺せずに迷い、戸惑っている。荒く息をついている所を見れば恐らく俺の事も察せていない。無事に逃げおおせたと思っているのか? ……好機だ。初めの奴と同じで頭から食いちぎってやる……。いや待て――
牛の怪物は思い直し、じりじりと獲物に近づいていた足を止める。
――俺と『同じ』奴だ。油断はできない――
屯野は暗がりの中、屯野の持つ大きな鼻で牛の怪物が背後より数メートルほど後ろからゆっくりと迫ってきたのを察知した。
後ろにいる牛の怪物の呼吸が少ないのは怪物が屯野に気付かれないように気配を殺しているからだろう。屯野は豚の口でぜえぜえと息をつきながらもほくそ笑むのを堪えるので必死だった。
犬に匹敵するほどの嗅覚を持つ豚の嗅覚は例え暗所であっても周囲の状況を把握でき、その臭いに基づいた記憶力は高い。
――そしてそれは今この場で、その体と頭を持つ屯野だけが知る事であり、それらを持たない牛の怪物には解る筈のない事だった。
屯野はあの怪物は自分が接近している事が自分に気づかれて無いという確信があった。
(あの牛野郎は、真っ暗なここでうろうろしてる俺にどーせ余裕ブッコいて後ろから俺を襲ってくるだろ)
屯野は牛の怪物からただ逃げた訳ではなかった。
どの道、速さに劣る屯野は自分の肉体が持つ力では怪物から逃げる事は無理で、かつ強靭な筋力を持つ怪物と正面から長時間戦う事も自分の体が持たないだろう、と判断していた。
(奇襲なんかさせるか。俺が奇襲してやる。来いよ、牛野郎。お前の油断して開いた股ぐらしゃくりあげて、また空に飛ばしてやる)
だからこそ、屯野は相手からの反撃のリスクが無い、この逆奇襲作戦にでた。
しかし、この作戦は欠陥が多く、この時屯野はそれを理解していなかった。
「ブオォォォオオ!!!」
屯野の背後の牛の怪物が、突如咆哮し、路地の緊張した空気を震わせる。
これには屯野も驚き、もたれていた電柱から身を起こし、思わず背後を振り返る。
(――――な!? あ、あいつは俺に気付かれないよう、こっそり後ろから奇襲かけるから声を出せないはず――
「ガ――――?」
動揺し、その場を動けなかった屯野が驚きの声を上げる間もなく、屯野の肥大した腹には怪物の額から生えた一対の角が深々と突き刺さっていた。
ゆっくり近づいて来ると思っていた屯野は途端に牛の怪物は速度を上げ、結果、屯野は怪物への対応が遅れてしまい、既に致命傷を負っていた。――油断をしていたのは屯野の方だった。
怪物は屯野に嗅覚がある事を背後から襲う寸前に悟っていたのだ。
戦闘での激情に駆られるあまり、一度は見過ごしかけたが、冷静になる事で、怪物はその答えを得ていた。
豚の優れた嗅覚はヨーロッパ圏を中心に高級食材である松露を見つける際に利用される事で広く知られ、怪物にはその知識があった。
屯野の最大のミスは怪物にも知識がある事を考慮していなかったことだ。
だからこそ屯野は、自分が狼狽し、その背後から音を殺し迫る怪物は間違いなく油断し、奇襲をかけると思った。
そして、牛の怪物は屯野には暗闇で相手を察することのできる嗅覚があるのを知る筈が無い、と思っていた。
一介の高校生である屯野琢磨はその浅はかな慢心ゆえに、目の前の怪物に敗北を喫した。
屯野は味わった事のない腹部の激痛に、自分でも信じられない程の声量で悲鳴を上げ、轟音とも呼ぶべきそれは辺りの空気をビリビリと振るわせた。
これに牛頭人身の怪物は耐えられず、すぐさま悲鳴の音源から距離をおき、両耳を手で押さえる。
(クソ、クソ、クソ、どうなってる!? 何でこんなに腹が痛む!!? デカイ脂肪を抱えた豚の腹だと衝撃とか痛みとかは鈍くなりそうなもんだろぉ!!?)
高温に焼けついた棒で体の中をねじ繰り回されるような、感じたことの無い痛みに屯野は叫び、痛みをこらえようとするがほんの少しも痛みは和らぐ事は無かった。
――実は豚には厚い皮下脂肪があるが、だからと言って決して痛みや刺激に鈍感ではなく、それらの感覚にはむしろ敏感であった。
襲ってきた痛覚に耐え切れず、屯野は腹部から血がどくどくと溢れてだしているのもよそに、喚き続けた。
怪物は耳を押さえながら、それでも苦しそうに喚く屯野の血にぬれた二本の角を向け、慎重に狙いを定める。
足をバトンを受け取る前の走者のように体の前と後ろに開き、牛頭人身の怪物は目の前の屯野に向かって突進する姿勢をとる。
屯野はそんな怪物の様子にも気付く筈も無く痛みに喚く。出血と共に意識も朦朧としてくるのを感じた。屯野は自分の中で凄まじい痛みが次第に意識を殺す闇へと変わってくるのが解った。
(嘘だろ……? こんなところで死ぬ……のか……よ)
屯野の体から力が抜ける。
それに機を見た牛の怪物は、獲物と定めた屯野に向かって角を突きたてるべく、真っ直ぐに突進する。――しかし、その動きは不意に止まる。
『――私だ。鵠沼だ。……急いでその場から逃げろ。騒ぎを聞きつけた奴らがやって来たぞ』
それまで無かった出所不明の老人の声が屯野達のいる路地に不気味なほどはっきり響き、牛の怪物はその言葉を心得たようで既に地面に崩れ、気絶した屯野に一瞥をくれると、どこかへ走り去った。
二分後、動物の鳴き声を聞いたという住民の通報を受け、付近を車で巡回していた警官は無線でその旨を伝えられ、屯野のいた路地にたどり着いた。
その警官は薄暗いその場所を目の当たりにし思わず呆然となった。自分の担当区域である天見町でこのような惨事はついぞ見たことが無く、この光景が現実とは思えなかったからだ。
警官の鼻が悪臭を察知する。初めて嗅ぐ死臭に吐きそうになる。
しかし、自らを奮い立たせ、まだこの犯人がいるかもしれないと、反射的に腰の警杖型のマグライトを普段より強く握り締め、薄暗い周囲を素早く照らし、より確実な状況の確認に努める。
辺りには血まみれになった頭の無い一人の身元不明の男の死体と意識不明の衣服がボロボロになった名皇高校の制服を着た男子生徒がいた。
夕方のこの時間、人通りの殆ど無い裏路地という事もあって付近の発見者は望めそうになかったが、この惨状を素早く認めたその警官は急いで乗っていたパトカーへ戻り、中の無線で署に応援と救急車両数台とを要請した。
その頃、警官の乗ったパトカーの上空では数十匹ほどのスズメバチが群れになって、その様子を覗うようにじっと滞空していた。