「第五話」
「第五話」
薄暗い路地。その中、牛頭人身の怪物が呆然と棒立ちになっていた屯野に向かって吼え、死体を踏み越え、屯野の懐へ真っ直ぐに向かってきた。
その太い腕ごとブン、と空気を裂く音すら響かせ怪物は上体をねじり、屯野の前で拳を振りかぶる。
屯野は反射的に攻撃を防ぐべく自分の顔の前を腕で覆っていた。
怪物の振りかぶった拳がまた空気を裂きながら前に振るわれ、屯野の覆っている腕の間に容赦なく叩きつけられる。その瞬間、屯野は両腕に感じた強い衝撃と共に全身が僅かに浮くのを感じた。
「う、そ――」
体重百キロを越す屯野の大きな体――屯野の身長は百八十センチ程で二メートルある目の前の怪物ほど大きくないが――は車にぶつけられたように、怪物の拳の力によって跳ね飛ばされていた。
屯野の体は三メートルほど飛び、やがて屯野の体は硬いアスファルトの地面に叩きつけられた。
屯野の肺の中の空気が押し出され、屯野は咳き込みながら呼吸を整えようとする。
屯野は怪物の力に屯野は驚き、恐怖していた。姿形だけではなく、その内の力さえもとても人間のものではなかったのだ。
「痛……!」
仰向けになりながら、起き上がろうとした屯野の肘から先にかけての部分が麻痺し痺れたように動かない。
「何なんだよ……」
怪物の攻撃を防いだ両腕を見ると、何かの跡が半分づつ腕についていて、それらを合わせると上下逆さまになった「U」の文字の形をしていた。
「嘘だろ……!? 『蹄』で殴られたのか、俺は?」
腕の痺れるような痛みと、そのくっきりと残った跡が屯野に起こった出来事が嘘ではないと証明しているが、屯野は今の状況が冗談のように思えた。
「ブォオォ! ブオォォォオ!!」
怪物は再び吼えるが、屯野の方へは向かってくる気配は無い。
「…………?」
屯野は自由な両足で建物のある壁の方へ地面を這いながら体を寄せ、そこへ体を凭れさせながらどうにか立ち上がる。
怪物は右へ左へその側面についた一対の丸い目をきょろきょろと首ごと動かすが、暗がりにいる屯野の方を見ても反応を示さない。
(あいつ、建物の陰にいる俺が見えてないのか……?)
そう目の前の怪物に対して考える内に屯野はある事を思い出した。
動物には犬のように視界の中の色が白黒にしか見えないものがいるという事で、屯野はもしかすると目の前の牛の頭を持つその怪物もそうではないかと考えていた。屯野は恐怖に身を包まれている中で震える口元を僅かに笑顔に歪めた。
――この考えには自信があった。思い返してみれば屯野が襲われたのは死体のあった蛍光灯に照らされた場所で、今、光の殆ど届かないこの路地の中でも影の濃い場所にいる屯野をあの怪物は見つけ出せずにいる。
そして、事実、牛の色覚が白黒のみだという屯野の推測は正しい。牛の視界は犬と同じで視界の景色はモノクロテレビのように白黒に映る。(よく闘牛士が赤い布で牛を興奮させ牛を誘っているのがあるが、あれは実際には牛は色には反応しておらず、むしろ牛はその布のはためく動きに興奮している)
――――だが、この時屯野は誤解していた。牛と犬との共通点は視界に映る色だけではなかったのだ。
「…………ゥ、ゥ」
途端、屯野を探すべく、あちこちへと目を向けていた怪物の鳴き声は止み、動きがおとなしくなった。
(諦めたのか……?)
しかし、当然の事ながら牛の頭を持つ怪物は決して屯野の事を諦めた訳ではではなかった。
その怪物はふぐふぐ、と鼻で音を立てながら呼吸を繰り返していた。
屯野は暫くその怪しげな行動をしている怪物の方を見ながら、注意深く歩き、路地から出ようとしていた。
しかし、数秒して屯野はその怪物が何をしているかを察し、同時に怪物の目が真っ直ぐ屯野の方へ向けられた。牛の頭を持つその怪物は視覚を捨て、嗅覚で屯野の位置を把握したのだ。
屯野は全速力で路地から出る道へ駆け出した。
「クソ、俺はそんなに臭うって言うのかよ!!?」
走る時にとっさに痛さで痺れていた腕を振り上げ、再び襲ってきた痛みに屯野は思わず顔をしかめながら毒づいた。
力の限り走る屯野の後ろからは猛然と迫ってくる怪物の足音が聞こえる。
言うまでも無いが、運動不足で肥満体系の屯野の足の速さはクラスの中でもワースト一、二位を争うものでましてや、人間離れした筋力、脚力を誇る怪物とは比べるべくも無かった。
「ブォォォォオオ!!!」
屯野のすぐ後ろまで迫った怪物は角を前に突き立てながら屯野へ突進している。獣の如く咆哮するその姿はまさに闘牛そのものだ。
そして、怪物の頭は膨大な力を持って近くに迫った屯野の背中へと接触するべく歩を僅かに緩めた。その瞬間、屯野は僅かな抵抗を試みるべく正面の何も無いアスファルトの地面に向かって勢いよくヘッドスライディングをかます。
前の地面に向かって跳躍した屯野の巨体は放たれた砲弾のような、自分にこんな力があったのかと信じられない勢いで進行方向へと加速する。
「嘘――――ォォォォオ!!?」
自らの火事場の馬鹿力に驚きを抱くと同時に屯野の体は地面に接触し、制服の生地を越え、皮膚をも削りながら、ギザギザのアスファルトの地面を何メートルも転がりながら突き進んだ。
屯野は呻き声を上げ、地面にうずくまり、思わず目に涙を浮かべた。足の傷は屯野が思った以上に酷く屯野の眼が眩んだ。絶望が心を支配するのは一瞬だ。じきに声も出なくなるだろう。
後ろから怪物の呼吸する音がする。獲物を追い詰め、もう急ぐ必要はないとでも言うように、近づいて来るその足音はゆっくりだった。しかし死の淵に立たされた屯野にはそれが異常に早く聞こえた。
「くそ……くそぉっ!!」
屯野は気絶しそうなほどの全身の痛みよりも、死への恐怖の方が何よりも辛く、恐ろしかった。
怪物の足音が近づく。屯野は目をぎゅっと閉じた。目を開けていたら余計に恐ろしいと考えたからだ。
しかし、目を瞑っても屯野の恐怖は和らがず、むしろ心の中で自分があの怪物に喰われる様を想像してしまう。既に喰われた男の死体を見てしまった分、想像は容易かつ鮮明に心から沸きあがってくる。
(死にたく、ない)
その時、屯野の直ぐ傍で何かが震える音がした。それは屯野のポケットにあった携帯電話の振動音だった。
倒れた拍子に携帯電話がポケットから落ちてしまっていたのだ。
屯野は暗い中、光を放つ携帯のディスプレイ画面を倒れながらも闇の中を這う。表示された文字を理解した瞬間、屯野の体はピクリと動いた。
「メール……烏城さんから……」
しかし、屯野はその携帯を取る事はできなかった。屯野の体は怪物との戦いで傷つき過ぎていた。
(烏城さん……? 何で俺のアドレスを……?)
屯野は混乱していた。何故、二組のAランク美女と名高い烏城麗那が屯野の携帯にメールをしたのか。数秒して屯野は、学校が終わって帰りの電車に乗った時の事をはっきりと思い出した。
(――そうだ。あんだけ『良い事』があった後で何、ただ死ぬのを待ってんだよ俺は……!)
激痛で殆ど動けるはずの無かった屯野の体が、少しずつ回復してゆくかのように感覚が次第に戻ってくるのを屯野は感じた。
そして変化はそれだけではなかった。
(……ん? な、何だ!?)
自らの体の中で信じられないことが起こっているのに、屯野は驚きを抑えることができなかった。
屯野の体が風船を膨らませるようにぶくぶくと膨れてゆく。
屯野は体の内側から質量を持った泡が煮え立つマグマのように次々と噴出すような不気味な感覚を体中で味わっていた。
状況に理解が追いつかないまま、屯野の体は信じられない速度で膨張してゆき、それは屯野の顔にまで表れた。
これには屯野の直ぐ傍まできていた怪物も驚き、表情の無い顔のまま、僅かにたじろいだ。
屯野の手足をのぞいた顔や体は目に見えるほど体積を増やし、屯野の着ていた制服を内側から破りながらも尚、どんどんその形を変えてゆき、腕や足からは傷が消え、紙に絵の具が滲む様に皮膚の色も急速に変わってゆく。
数十秒後、その体は変化を終える。
その姿はかつての屯野琢磨とはかけ離れていた。やがて、それは牛頭人身の怪物の前でゆっくりと身を起こし、口を開き、その怪物に向かって力の限り咆哮する。
空気を震わすような悲鳴のような高音のその声はおよそ人間のものからかけ離れていて、別の生き物の鳴き声だった。
耳は顔の一部に垂れ、その顔の中心には硬く大きな鼻先がある。大きな顔、腕や足に至るまで白く短い体毛に覆われていて、それは既に目の前の怪物と同じく、人間の姿ではなかった。
屯野琢磨は豚の頭と人の胴体を持った怪物へと変化を遂げていた。
怪物はそれぞれ同じものに感染していた。
通称『Tファージ』。
そのウィルスはあらゆる生物の一部や全体を全く別の生物へ作り変える力を持っていた。