「第四話」
「第四話」
その日学校が終わり、下校中の電車の中で隣に座っている人物に対し屯野琢磨は今現在、起こっている信じられない事態を受け入れられず、気が狂いそうになっていた。
「あ、あの……屯野君? どうかしましたか?」
動揺しきった屯野の目には上目遣いで屯野の顔を覗き込む、名皇高校の紺色のセーラー服を着た可憐な女子生徒の姿があった。
彼女は人形のような大きな黒目。端整な顔立ち。肩まで伸びた長い黒髪。屯野がよく見る青年向けの漫画から抜け出てきたような姿だった。
屯野は目を両手で覆い、今自らの置かれたこの状況がどうにか夢であるようにと祈った。
『優しい系黒髪ロングの美少女』が『デブでオタクな醜男』である屯野の近くにいるなんて天地がひっくりかえてもありえない事なのだから。
この珍事が起こった原因は下校時、屯野がこの電車に乗った数分前にあった。
学校が終わるといつものように、屯野は家まで十分ほどある電車の移動時間、一人で席に座って静かに文庫本を読みながら過ごしていた。――市ヶ谷とは部活動(爽やかな市ヶ谷のイメージ通りというか、市ヶ谷はバスケットボール部に入っている)で、更に帰りの線が違うために別々に帰ることにしていた。
そして屯野がこの日電車内で読んでいた文庫本が珍事の大きな原因となり、屯野自身の最大の窮地を招く原因となっているのだ。
その文庫本は屯野が下校途中、駅の売店で見かけ思わず買ったもので、屯野が贔屓にしているバーチャルアイドル『夢野れむ』をノベル化した物だった。
その本は発売されて二週間がたつが再版が追いつかず、各地で売り切れが相次いでいた。しかし屯野の立ち寄った駅の売店では購買層の違いからだろうか、その本が置いてあり、屯野は直ぐにそれを買った。屯野の買ったものは全国五十万人の『夢野れむ』マニアの中では価値の高いと言われる初版だった。
日光に晒されたのか本のページは僅かに日に焼けていたが、屯野はそれでも初版を手に入れた喜びを噛み締めた。
普段なら本には表紙が見えないようにカバーをかけて読む事にしている屯野だったが、今日は当日買った本だった為(屯野が買った売店ではカバーをかけてくれなかった)、仕方なく扇情的な衣装を着たアニメキャラクターの描かれた表紙を晒さざるをえなかった。
屯野は周りを気にする性格が人一倍強く、恥ずかしい気持ちもあったがしかし、早く読みたいという気持ちの方が恥じらいよりも遥かに先行してしまった。
そして、屯野が意識を本だけに集中させ、やがて挿絵のページに差し掛かり、至福の時を満喫していると、『それ』は突然訪れた。
「あ、あ……あ、あ……!」
屯野は声にならないような声を確かに聞いた。
(……何だ。隣か……?)
屯野は本から目を上げ、自分のすぐ左隣、声のした方へ首を動かす。
すると屯野の目の前数センチには目を血走らせ、屯野の持った本を覗き込む女の恐ろしい形相があった。
「――――!?」
思わず屯野は訳も解らないような叫び声を上げ、座席から飛びのき僅かに後ずさった。
その拍子か、屯野の持っていた文庫本が手から落ち、ぱしん、と車内の床に音を立てて落ちた。
「あ……」
その長い黒髪の女の子がそれに気付いて、椅子から立ち、本をゆっくりと丁寧な動作で拾い上げる。
屯野はその女の子が屯野と同じ学校のセーラー服を着ているのにその時気付いた。
「えっと、どうぞ……」
頬を僅かに染めながら自らの方に本を差し出す彼女の顔に屯野は見覚えがあった。
やがてはっきりと思い出し、驚きを隠せぬまま、屯野は太い指先を目の前の人物に向け、言い放つ。
「あ、あなたは二組のAランク美女、烏城麗那さん!!」
そう指差し、言われた女の子は途端に慌てた表情になって、
「なっ、いきなり、何ですか!? というか何ですかその肩書きは!!? 私は三組の皆さんにそんな風に言われてるんですか!?」
人もまばらで、それなりに人がいる電車の中、その黒髪の女生徒――烏城麗那は彼女の独特の口調で屯野に突っ込みを入れてゆく。
屯野は他の乗客達から刺すような目線を感じながらも、烏城の言葉の中で気になることがあった。
「『三組の』って……烏城さん、俺の事知ってるの?」
屯野は思わず自分を指差し言った。屯野は四月に入学してから烏城とは話したことすらないのだ。
とはいえ、烏城の事は陸上部のエース、容姿端麗、成績優秀、などなど、そういった評判は嫌でも屯野の耳に入ってきてはいたのだが。
屯野の信じられない気持ちを余所に、烏城は屯野の質問に、はいと言って微笑んだ。そして、
「その……屯野君って好きなんですよね? ――――こ、こういうの」
そう言って烏城は顔を赤らめながら、先ほど自分が屯野に差し出していた本の表紙を屯野に見えるように胸の前で構えていた。
「げ……!」
烏城の持った本には可愛らしい衣装に身を包んだ、バーチャルアイドル『夢野れむ』が描かれていた。それは言うまでも無く屯野の大好きなキャラクターであり、そういう物はクラスの女子をはじめ、この世のあらゆる女子――九歳離れた屯野の姉の雪沙は除いて――に知られたくなかった趣味の一つだ。――危機的状況である。
「あ、あの……屯野君? どうかしましたか?」
直ぐ傍で烏城が屯野の顔を慎重にのぞき見ている。
以上、回想終了。
屯野は今自分が置かれているこの状況に気が狂いそうになっていた。
今、目の前でこれまでの屯野の人生で話す事はおろか目を合わせることもなかったろう、とびきり美人な女子が屯野の趣味を暴いてしまった。
「そ……それは」
屯野は最早、目の前の光景に対し冷静を保つことが難しくなってきた。一番起きて欲しくなかったことが起こっている。口から出る言葉はこの現状を取り繕うと試みる無様で曖昧な言葉だけだ。
屯野には萌え萌え文庫本を持つ烏城の柔らかな笑顔に僅かに影がさしているように見える。屯野が烏城に軽蔑されているのは明らかだ。
屯野は中学の頃から『オタク』であるが、入学してからの数ヶ月はそれを隠してきた。そういった趣味が女子からの攻撃の対象になる事は中学の苦い経験で知っていたからだ。
しかし今こうして、同じ高校のしかも顔を知っている同級生に知られてしまった。――終わった。屯野はうな垂れて短く、しかし重いその四文字が心の中で響く。「あの、私も好きなんです。この『夢野れむ』が」
「は」
「ですから、私も屯野君と同じで好きなんです。これ。いやぁ、その本どこに行っても売り切れで屯野君が持ってるの見たときは思わず私変な声上げちゃって……」
烏城は座っていた座席に座りなおし、細い手でそっと隣で呆然と立ったままの屯野の手をとって、その手に屯野の本を乗せた。
「え……」
あまりにも予想外な事に屯野は理解が追いつかなくなっていた。
すると、走っていた電車が一際ゆれ、棒立ちになっていた屯野は直ぐ後ろの座席にドシンと体を落とした。
すぐ隣には烏城の優しそうな笑顔がある。
と、思ったがその目にどこかで見たような一際光るものを屯野は感じた。
「屯野君っ!? き、きっ、昨日のれむちゃんのライブ見ましたかっ!?」
「あ、う――」
ん。と屯野が答えようとする前に、既に烏城の言葉が続く。
「そうですよねっ! 見てない筈無いですよね!!? いやー、昨日のはマジで感動しちゃいましたよー!! 私っ、観客でいたんですけど、わざわざ同時に五台で見た甲斐ありましたねーホント。どのカメラワークでもれむちゃんが可愛く写っててもー最高っていうかやっぱりバージョンアップが明けて初のライブでしたから感動度も違うんでしょうか? 冒頭での魔女っ子の衣装でのダンスもあれ、初期の頃のれむちゃんのイメージを出してたんですよねー。曲は最初の頃の曲って解ってたんですけど、あのライブの、よりにもよって後で初めの奴から見返してたら気付いて、その時はホントに映像データで昨日から見直して復習してたのに何で! 何でその時に気付けなかったの私ぃー!! って、悔しかったって思ってー、でもそれからの二曲目の入りで――――」
「……………………え、と……烏城……さん?」
今や彼女の目の中では星が輝いて見えた。
烏城は尚も興奮してしゃべりまくり、口を挟む間もなく話し続ける烏城に屯野は観念したように両手を膝に付け、時々頷きながらそれを聞いていた。烏城が話し終えたのかようやく落ち着き、静かにしている屯野に気付いた頃には二人とも本来降りる駅を過ぎてしまっていた。
「あの、よかったら、メールアドレス交換しませんか?」
戻りの電車の中で烏城はいきなりそう言ってのけたので屯野はまた驚いてしまった。
「うぇえ!? だっ、誰と……!?」
「私と屯野君がですけど……? あ、もしかしてご迷惑ですか? 今日初対面で、私、いきなりすぎましたね。ごめんなさい……」
「いやいやいやいやいや! ぜんぜん迷惑じゃないし、むしろ俺が迷惑かけるんじゃって思うくらいで……!!」
「そんなこと」
そう言って、烏城は屯野の方を向いてにっこりと微笑んだ。
「……私、『夢野れむ』について話せる人が全然居なかったんです。ホント、皆そんな話全然してくれなくて……むしろそういうのが嫌いな人が多くて。だから、屯野君みたいな『夢野れむ』を知ってくれてる人が居てくれて、その事について解ってくれる人が居て、私、ホントに嬉しいんです」
屯野は隣に座る烏城の姿を見て確かに、と思った。
烏城はこれまで、屯野のような『オタク』という特定の趣味をもった人間と接したことが全く無かったのだろう。運動部であることや真面目そうな烏城の外見が理由になっていたのだろうか。だからこそ、つい先ほどの烏城の早口で捲くし立てられた『夢野れむ』に関する膨大な意見やその時の感情もこれまでずっと誰にも言えず、屯野と話すまでに彼女の心の中に溜め込まれてきたのだ。
屯野は初めて、そのような話題を共有する友達を持ったときには、共感する事を味わえたという強い喜びがあったのだ。
今の屯野は、これまで顔を合わせる事すらろくに無かった烏城の気持ちが不思議とよく理解できたような気がした。
そして数分後、屯野と烏城は共に携帯のメールアドレスを交換することになり、それを終えた頃には丁度、車内のアナウンスが屯野の降りる駅に着いた事を知らせ、屯野は、どこか上の空で座席から身を起こし、座っている烏城にじゃあ、と短く挨拶を交わして列車から降りた。
烏城は微笑んだまま、体を後ろの屯野の方へ向け小さく手を振っていた。
短い駅員の笛と共に、屯野の後ろの電車のドアが閉まり、ゆっくりと電車は進んでゆく。
屯野は去り行く電車の中でまだ、屯野のほうへ小さく手を振る烏城の姿を黙って見つめていた。
「…………夢じゃないよな」
電車が完全に見えなくなってから、古典的な動きで屯野は自分の大きい頬をつねってみる。痛かった。
同時に、屯野のズボンのポケットの中からブー、と携帯が振動する音がした。
慌てて、屯野は携帯を開き、画面を見てみると誰からかメールを受信したようだった。
『初メール!』と妙な件名を打たれたそのメールはつい先ほどのものだった。
「烏城さん……?」
屯野は僅かに震える手で、そのメールを開いてみた。
本文には年頃の女の子らしい絵文字をちりばめた文字で書かれていて、そう言うメールを受け取ったことの無かった屯野にとっては読みづらく、難解極まりない(それでも一応は日本語であった)が四分後には何とか解読することが出来た。文面にはこう書いてあった。
「さっきは、私ばっかり屯野君に話してしまってホントにごめんなさい! 屯野君、私の話を聞いてくれてありがとうございました。嬉しかったです。今はちょっと忙しいんですけど、また今度、今日みたいに部活の無い時にまたどこかで会って話したいですね。会える時はこちらから連絡します。その時は屯野君の意見も聞かせて欲しいです。それでは、また。
追伸 あんまり私からメールしてもご迷惑かもしれませんし、どうしてもという時にメールします。あと電話番号を聞き忘れていたので私の分をここに書いておきます。屯野君の分も教えてくれると幸いです」
屯野はメールの内容について解ったという事、そして自分の携帯の電話番号を書いて烏城に返信した。(その際の文面で二十分程、屯野は悩んだが)
屯野は駅を出て夕焼けに染まった駅前の街を一人、何も言わず歩いていた。
屯野の頭の中では信じられないことに普段の思考の殆どを占める『夢野れむ』の事や、周囲の自分を見る目などは全く気にせずに、ただ小さく手を振っていた烏城のことや、烏城のメールの事がどこまでも尾を引いて、屯野の頭の中をめまぐるしく回っていた。
やがて、屯野は駅から離れ、自宅のある住宅街へ続く路地に居た。あたりには人通りも無く、日は殆ど沈んで周囲は薄暗くなっていた。
屯野はその中、家々の間を歩きながら長い溜息をついて、誰にも聞こえない声で呟いた。
「これが俺の人生最良の時、『モテ期』というやつなのか……!?」
屯野の声は自信に満ち溢れて、僅かにうわずっていた。
この十五年間彼女はおろか、女友達の一人も居ないという孤独な青春を歩んできた屯野にとっては今日の帰りの電車での出来事は十五年分の盆と正月と七夕、クリスマスがそれぞれ一個小隊を率いて押し寄せてきたときに感じるほどの喜びだった。――とにかく今の屯野にとってこの瞬間は今までの嬉しかったどんな瞬間よりも嬉しいのだ。
屯野は自然に家へと向かう足取りが軽くなるのを感じた。が、踏み出そうとした足はぴたりと止まった。
「――――え?」
屯野の足元には仰向けになって血まみれで倒れている男の死体があった。
リアルな血の匂いと目の前の凄惨な光景に屯野は悲鳴をあげるより先に、死体からこみ上げてくる死臭にむせ返りそうになった。
死体の男は背広を着たサラリーマン風の男だった。
男の着ている背広のもともとの色は殆ど血で汚れている。
男は体中をものすごい力で殴られたようで、腕や足などは糸の切れた人形のように変な方向に折れ曲がっていた。
頭からの出血が酷く、血まみれになっているのは主に頭からの血が原因していた。頭は頭蓋骨が万力で潰された様になって、もはや男の頭は原型をとどめていなく、首の上には血の塊のようなものだけが乗っていた。
「――――!!」
屯野はその光景を思わず視界におさめてしまい、慌ててその死体から目を背けたが体の内から這い上がってきたものを抑えようと屯野はとっさに口に手を当てた。――――ざり。
「……?」
目を背けていた屯野は、死体のある前の方から足音がしたのを、頭の中が動揺と恐怖で入り混じっている中で確かに聞いた。
屯野は足音のした路地の先へ目を凝らす。足音は屯野の方へゆっくりと近づいて来る。
屯野の居る辺りの場所は電柱の上に備えられた、時折ストロボのように明滅する切れかけの蛍光灯のお陰でまだ明るかったが、足音のした方は高いビルや石垣にさえぎられ、その一帯には不気味なほど光が無かった。
屯野は足音の主がどんな人間か判断する事は出来なかったが、恐らくはこの騒ぎを聞きつけた警察か救急隊員のどちらかだろう、と屯野は推測した。
(い、今逃げようとしたら多分、俺がやったのかって疑われるかもしれないし――ここは逃げないで、俺がやったんじゃないって弁明ぐらいはしておこう)
「あの――」
屯野は近づいて来る人に話しかける。
「お、俺はその今この人が死んでたのを見ただけで……その、何にも知らなくて――――」
近づいて来る人に屯野の頭上の蛍光灯の光が届き、その輪郭が徐々に見えてくる。
「だ、から俺……?」
足音が途端に不規則になる。屯野は目の前から来たものの姿に違和感を覚え、その人物が屯野の目の前に来た時にはすでに屯野は驚愕し、言葉を失っていた。
屯野から死体をはさんで前にいる大きな体躯を持ったその人物の姿は、白い服を着た救急隊員でもなく、青い制服に身を包んだ警察官でもなく――――更には人間ですらなかった。
「ブォォォォオォ!!!!」
『それ』の口から出た音は言葉ではなく、咆哮だった。その怪物には人としての言葉は無かった。
屯野は今、自分の目に映っているものが信じられなかった。
「な、何だよ……こいつ……?」
屯野の全身の筋肉が痙攣したように震えあがって、一歩も屯野は動けずにいた。
信じたくなかったが屯野の目の前には二メートル程ある大柄で上下黒のジャージ姿という人間の衣服を纏った体に『牛』の顔を持った、首から上がこの世のものとは思えない姿をした不気味な生き物がいた。
屯野はその姿を見て、小学生の頃にやったRPGゲームに出てくる目の前の怪物と同じ牛頭人身の姿を持つミノタウロスという架空の怪物を思い出した。
人の体を持ち、額に一対の角を持ち、黒い体毛に覆われた牛の頭を持つ目の前の怪物は二つの眼で屯野の姿を捕らえている。そして、その顔は口元をはじめ、その周囲にはおぞましいまでの血液に彩られ、薄暗い路地の中で光沢を放っていた。口元が何かを食むように僅かに動く。屯野はその動く口の中に髪の毛の付いた肉片が付いているのが見えた。その瞬間。全身に感じた事のない戦慄が走る。
「お前がこの人を喰ったのか」
再び、その怪物は口の中の血を迸らせながら咆哮し、巨人のような人の部分で身構え、目の前にいる屯野へ敵意を露にする。