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「最終話」




「最終話」


「あ――れ」

屯野琢磨とんのたくまはその瞬間、深い闇の中から意識を取り戻した。――今まで寝ていたらしい。何日も眠っていたように屯野の体は重く、思うように動かなかった。

仰向けになって寝ていた屯野の虚ろに開かれた目には見慣れない光景が映っていた。

それはとある施設の天井だった。白く、清潔な色をしている。――見慣れはしていないものの、屯野は最近これと同じものをどこかで見たような気がしていた。

照明のついていないとある一室に置かれているベッドに屯野は今まで寝ていたらしい。

屯野の身に着けた服は同じく清潔な薄い緑色の薄い布製のズボンと甚平のような簡素な服だった。

(ここは……やっぱり病院か?)


ここ――暗い個人病室のベッドの上で屯野の意識が時間をおくごとに回復するにつれ、屯野は自分がこの状況になるまでの記憶の糸を少しづつたどっていた。

まず、思い出したのは深夜の十字路で自らの手で放り投げ、感電死させた烏城麗那の死体を鵠沼くげぬまと共に見つけた事だった。

そして、その後鵠沼に連れられ、屯野達は真っ暗な町を歩き、やがて大きな建物に辿り着き止った。しかし、そこからの記憶は曖昧だった。

断片的にあるのは、屯野と鵠沼が辿り着いた建物の傍で屯野達を迎えるようにして一人の人物がいたと言うこと。更に鵠沼はその人物と言葉を交わした後で屯野はその二人に率いられるようにして建物の中へ連れられ――そこからの記憶は全く無かった。


十分ほど経ち、体の感覚も戻ってきた屯野はベッドの上でゆっくりと体を起こして周りを見渡す。

とある病室。

傍にある窓とカーテンが開かれ、月光が差し込んで屯野のいる部屋をほのかに照らしている。――今は夜なのか。『鳥』との戦いが終わってから今まで一体どのくらいたったんだ……?

屯野はこの状況の中で、自分でも驚くほど冷静だった。

何故ならこの今置かれた状況と全く同じ状況をほんの数週間前、体験したばかりだったからだ。

それは七月の中旬の頃。屯野が初めて烏城麗那と知り合い、そしてTファージを持つ牛の怪人と戦い、負けた屯野は今と同じようにこの病室で目を覚ましたからだ。――今では前と違い、腕に点滴を打たれていないという違いこそあったものの。

(こうなるのも二度目だな。……今まで骨折すらした事が無い俺が同じ年に二度入院なんて、ほんと笑えるな)

自嘲気味に心の中で呟いて、屯野は七月中旬のあの時、この病室で目を覚ました時の事を思い出していた。今からほんの数週間前の出来事ではあったが、その時の事が屯野にとってはとても大昔のように思える。

(あの時は、妙な夢を見て起きたよな……自分が怪人になった夢か。うーん……でもあれは間違っちゃいなかったんだよな。目が覚めたとき、病院の医者に変身してた鵠沼の爺さんがいて……俺はその時初めてTファージの事を知った)

ベッドの上で体を起こした屯野はぼんやりと物思いにふける。


本当に全てが夢であればよかったのに――そう思う屯野の期待を裏切るように屯野は未だ、体内のTファージが機能し、嗅覚を発達する事ができる己の体に嘆息し、嗅覚を元に戻した。


(あの時……初めのあの時に無理やりにでもいいから爺さんに誰と誰がTファージに感染していたか、聞いていれば……俺は市ヶ谷を殺さずにすんでいたかもしれなかった)

屯野はその時の自分を思い出し、一人、静かな病室で後悔した。

あの時、屯野はただ、人を襲う怪人を倒すことしか考えていなかった。

その怪人たちが一体どういう人物であったのか、どういう経緯で、どういう理由があって人を殺したのか、それを屯野は全く考えていなかった。

今となって、図書館で牛の怪人と戦う前の烏城の言葉が重く含みを持って思い出される。

『……私たちの戦う相手はその、私たちと同じTファージの感染者……人間、なんですよね?』

烏城はあの時、自分の戦う人を殺した怪人がどういう存在であったのか考えようとしていた。

しかし、屯野にはそれが無かった。

ただ、正義の味方になったようなつもりでいて、自分はこの町に巣食う悪を退治するという幼稚で残酷な考えしか持ち合わせていなかったのだ。――市ヶ谷もそして烏城も死んだ今それを理解してももう遅い。

屯野はその時の正義感に駆られた自分が滑稽だと思うと同時に、愚かに思え、後悔した。

(でも、どの道もう取り返しがつかないんだ。……それにもうこの騒ぎは終わった)

その時、屯野の考えを中断させるように、突如外の廊下から小さな足音が聞こえてきた。

「……」

その音を聞いた屯野は咄嗟に布団の中から体を出し、ベッドから降りていた。

普通、面会時間をとうに過ぎているであろうこの夜間に足音が聞こえるのはおかしかった。

見回りをする警備員か、看護婦かとも屯野は考えたものの、警戒を解く事はできなかった。

やがて足音が近づいてきてそれは屯野の病室でピタリと止まる。

「ッ……!」

屯野は患者服で起き上がった今、自分の首筋に厭な汗が一筋伝うのを感じた。

(だ、誰だ……こんな時間に)

屯野は反射的に、思わず扉一枚隔てた向こうのその足音の主に向かって身構えていた。

突如、扉の方から音がした。

――コン、コン――

ドアをノックする硬質な音が二度、屯野のいる静かな病室へ響いた。

「………………」

屯野はその音に何も答えなかった。

恐らくノックした相手は今、屯野が寝ているものと思っているだろう。

ベッドに戻り寝たふりを装おうとも考えたが、既に屯野はベッドから出てしまっていて今、物音を出すのははばかられた。

ノックの後には永遠とも思える間、静寂が再び屯野のいる病室を包んだ。

屯野はその中で一生懸命、恐怖に声をあげまいとして、ドアの向こうにいる人物へと神経を集中させていた。

そして、前触れもなく扉はゆっくりと開かれた。

「ああ、何だ起きていたのか」

病室の扉を開けたその人物はベッドから出て自分の前で身構えた屯野を目にし、ゆっくりと言う。そこには何の無礼さも無く、優しげな声だった。

病室の窓から差し込む月明かりがその入ってくる人物を徐々に照らしてゆく。

そこにいたのはこの病院の医者らしい白衣に身を包んだ一人の男だった。

体格は百七十センチの中肉中背と極めて並みで、年は四十か五十に見える。その男の目は暗い中でも猫の目のように大きな目をしていた。――老練な医師といったところか。

その男に屯野は見覚えが無いはずだったのだが、しかし、何となく屯野はその男が全く見覚えが無いと確信を持てなかった。

「さあ、そんなに気を遣うことは無い。ほら、せっかくベッドがあるんだから寝たらどうだ?」

「……ア、アンタ誰だ? 鵠沼か?」

「そうだ」

「!!」

「――なんてな。冗談だよ。あはははは」

「冗談……?」

「鵠沼というあのおじいさんだか美人さんだか解らない人はもうこの町にはいない。私はあの人に君に関することやその他、色々(・・)聞かされてるから、安心していいよ。それにあの人から伝言も預かっているんだ。聞きたくないかい?」

「…………それよりアンタはどういう立場の人間なんだよ? 伝言を預かってるって――」

「うーん。屯野君。君は目上に対する口の利き方を習わなかったか? 仮にも私は君より年上の立派なおじさんだ」

「……はいはい、解りましたよ……!」

屯野の憮然顔を見た男は息を吐いて、笑顔を見せる。

「いじわるを言うのもこのくらいにしておこうか。私の名前は橋川清吾はしかわせいご。この病院の医師だ。そしてある時、この病院内で正体不明のウィルスの残滓ざんしを発見し、その調査の果てにあの鵠沼くげぬまに殺されかけていた者だ」

調査――。聞きなれない言葉に屯野は男の素性を大方察した。

「アンタ――い、いや、その橋川さんは……」

男が満足そうな顔をして口調を改めた屯野の言葉を聞く様子に屯野は心の中で苛立ちを募らせる。

「調査してたっていうのは、その……橋川さんって警察か何か何ですか?」

「本当に私がそういう立場であれば、君くらいの年の子にしてみれば随分私は格好がついたんだろうな。しかし、残念ながら私はただの医者で、更に引かなくても良い貧乏くじを偶々(たまたま)自分で引いてしまって、自分で勝手に調査をしていただけなんだ。とはいえ、何人かに協力を仰いだりしたけどな。おじさんの探偵ごっこについて詳しく聞きたいのなら今から話すが?」

やがて、屯野はその橋川の数十分にわたる話を聞いた。


橋川清吾は屯野が牛男に敗れ、病院に運ばれた際に救命治療する担当医の一人だった。


屯野が病院に運ばれたその時、院長――嘉田良助かだりょうすけ――の様子がおかしいことに橋川は気付きその理由を問い詰める為、橋川は早朝に病院へ向かった。

ところが、その日、普段ならいるはずである院長はいなかった。そして再び妙な事に橋川は気付いたのだ。それは屯野琢磨が入っている個人病室の前に異臭を放つ泥状の液体がブチまけられている事に。


そして、それこそが橋川の調査をするキッカケとなったものであった。

見た事の無い物質に初めは戸惑いを覚えたが、清掃が入る前に橋川はその液体の一部をゴミ箱に捨てられていたペットボトルの中にひとまず入れ、家に持ち帰りそれを家にあった顕微鏡などの道具でよく観察し、やがてそれが細胞を構成単位としないもの――ウィルスだという事に気づいた。


そのウィルスの形を更によく把握したいという、初めの内は何げない好奇心のつもりで橋川は余暇を利用し大学の透過型電子顕微鏡を利用し更に鮮明にその院内の泥から見つかったウィルスの姿を見ようとした。

橋川自身、ウィルス学に精通していた友人の影響を受けていた為、ウィルスの知識はそれなりにあった筈だったのだが、そのウィルスは形こそ見たことがあったものの、その中には信じられないものを持っていた。


それは四塩基からなる螺旋状の高分子生体物質――つまり人間の遺伝子だった。


つまり、橋川が見つけたものは感染した生き物を『人間』へと変えてしまうウィルスだったのだ。それは、明らかに自然界のものとはかけ離れていて明らかに生物兵器としての側面を持ち合わせた人工的なものであると橋川は理解した。

やがて、橋川は事の重大さにその事を周囲の人間に秘密にしたまま、密かに調査を続けた。

身の回りでこのウィルスがあるという事はそのウィルスによって引き起こされる異常がどこかで起こるという事を橋川はその見つけたウィルス――Tファージが病院に残されていたという事から確信していた。

やがて、橋川は屯野が退院し一週間ほど過ぎた頃、ついにその異常の元を見つけることが出来た。

それは高革会と呼ばれる新興宗教の集まりで行われる事についての数日前からまことしやかに買い物帰りの主婦の間で囁かれだしたある噂だった。


『なんでも高革会の教祖、豚座守いのこざまもるは文字通りの変革を見せ、大勢の信者を得ているらしい』


普段ならその噂を一蹴に伏すところであったが、橋川は何としても次に行われるその集会に参加しようと思った。

ところが、次の集会のその日は県内の大学へ講習の予定が二度の延期の果て、兼ねてからあった為にどうしても予定を外せず、橋川は急遽金を払って代わりを立て、その会合の様子を探らせた。

その報告は恐ろしいものであり、同時にそれは橋川の興味をそそった。

何と壇上に立った教祖の腕がたちまち、豚の腕へと変化したという事だった。

橋川は礼として代わりに行って貰った彼にお詫びの言葉を添え、追加に金を払い、集まりであった事は忘れるように言明した。

そして、更なる調査を続けようとした矢先――


「今日の早朝二時ごろにね、私の家にある女から公衆電話で電話がかかってきた。――そう。私はとっくに鵠沼に見られてたのさ。私がそのウィルス――Tファージを見つけた事、私のしてきた調査を全てね。私はあの男か女か解らないような怪物に泳がされていたんだよ。これはTファージと言うそのウィルスの名前と一緒にあの鵠沼から聞いたんだが、通常なら私はTファージの存在を知った嘉田院長のようにとっくに殺されていたらしい。しかし、鵠沼は私を殺さなかった。どうしてだと思う?」

「……」

「私がTファージに対するワクチンを作ろうとしていたからだよ」


「ワクチン……!?」


「そう。鵠沼は何れTファージの働きを抑制、または滅菌するワクチンをTファージを開発した後に作るつもりだったらしい。だが、ワクチンを作る時間は無く、何でもTファージを開発し、実用段階に入った段階とほぼ同時期に査察が来たから急遽、Tファージを自身に感染させ、外に持ち出すを得なかったとかどうとかでな」

「そ、それよりっ……そのワクチンは結局完成したんですか?」

「ああ。最終的には完成させたよ。――鵠沼がな」

「え……?」

「……次元の違う天才とは鵠沼のような人の事を言うんだろう。鵠沼は私を生かす代わりに、今日かかってきた電話である取引を持ちかけてきた。それはワクチンを開発できる設備を無条件で、鵠沼の痕跡が残らないように使わせるというものだった。――――だが」

そこで橋川は顎に手を当て、不意に言葉を止める。

やがて、その時の事を思い出すようにゆっくりと言葉を出す。

「今思えば、鵠沼は私と取引などせず私を嘉田院長のように殺し、自分でワクチンを作る為の施設を使えたんじゃないかと思うんだ。今考えればおかしな取引だったな……」

(爺さん……)

屯野は鵠沼が嘉田の時のように軽々に人をさず、『あえて』取引をした理由が今なら解るような気がした。

「そして私は二つ返事でその取引を受け、鵠沼にこの病院の施設を使わせた――この病院は大学付属の病院だから、別棟で研究用ラットを飼育してたり、ウィルス研究に対するそれなりの設備は整っているからな――そして、私はウィルス学に精通した友人と共に何週間も苦心惨憺くしんさんたんの末、作る事のできなかったワクチンをあの鵠沼は私を嘲笑うかのように五分と立たずして作り上げた――それがこれだ」

そう言って、橋川はおもむろに懐から銃の薬莢やっきょうのような円筒の小瓶を取り出した。容器の中には無色透明の液体が半分ほど入っている。

気付けば屯野はその円筒の小瓶に入ったその液体を注視していた。

「対Tファージ用cIFNカウンターインターフェロン。と、鵠沼はそのワクチンの仰々(ぎょうぎょう)しい名を言って私にこの小瓶を手渡したよ。君と鵠沼がこの病院に来た後、今からつい二時間ほど前にね――さて、屯野君」

橋川はそこで目を下げ、やがてゆっくりとその目を上げる。その目は今までになかったその男の真剣さが宿っていた。

「これから私が言う事が鵠沼からことづかった君への伝言だ。落ち着いて、よく聞いて欲しい」

――そして、屯野はその橋川の言葉に思いがけない事実を幾つも知る事になった。





――――そしてその日から三日後――――



「た――――くま――……琢磨っ!」

その日の朝、その甲高い声で屯野はようやく目を覚ました。

目を開けた屯野の目に映ったのは、見慣れた天井とそして見慣れた人物の顔があった。

「何でまだパジャマで寝てんのよ! ほらあっ、あの子に家の前で待ってもらってるんだから、待たせてないで早く着替えて行きなさい!」

屯野は体を起こし、自分の部屋に散らかったバーチャルアイドル『夢野れむ』のグッズを蹴り飛ばしながら、ずかずかと出て行く姉、屯野雪沙とんのせつさの後姿を見届けた。

「はぁ……やべ、寝すぎたな……。それじゃそろそろ起きるか……」

寝ぼけ眼のまま、屯野は言った後屯野はおおきな欠伸あくびをついて服を着替える事にした。

服を着替えていた屯野は、昨日自分が閉めていたはずのカーテンが――恐らく――自分を起こしに来た雪沙によって開けられ、そこから入ってきた陽光に思わず目をしばたたかせた。

「ああ、クソー……今日も暑くなりそうだな」

夏真っ盛りの八月の日差しに屯野は呪詛を呟きながら、屯野は服を着替え終わる。

いつものTシャツに奥から今日のために引き出した綿めんの迷彩柄の半ズボン。

普段なら、もっと着古し擦り切れたいつものジーンズを穿くのだが、今日は屯野にとって特別な用事があった。

やがて、屯野は二階の自分の部屋から玄関に続く一階への階段をゆっくりと下りてゆく。

階段を下りながら屯野はリビングから出てきた人物の姿に目を留める。そしてその瞬間、屯野の口が自然に開きその人物を呼ぶ。

「あ、父さん」


そこにはいつも通りこの時間には既に背広姿に身を包み、会社へ向かう前の屯野の父、屯野雅仁とんのまさひとの姿があった。


「琢磨か。……今からどこかへ行くのか?」

「ああ、うん。ちょっと友達と遊びにね」

屯野はそういいながら、リビングから出てきた雅仁に背を向ける形で玄関に向かいサンダルを履き始める。

「そうか――これから駅まで行くのか?」

「うん」

「丁度、父さんもこれからそこまで行くところだ。どうする、その友達とお前さえよければ父さんも駅まで――」

「ああ。いいよ。ついてきてくれても」

屯野は言って既に玄関のドアを開けていた。


ドアの向こうの敷居の所にはカジュアルな星柄の膝丈ワンピースに身を包み、肩まで伸びた長い黒髪の美少女、烏城麗那うじょうれいなが夏の日差しを気にしないような涼しそうな顔でちょこんと立っていた。


その表情がドアから出てきた屯野と雅仁の顔を見て、やわらかな笑みになった。

「琢磨君。それに琢磨君のお父様。お早うございます」

そう淀みなく言って烏城は屯野と雅仁にお辞儀をする。――お嬢様育ちの烏城が礼儀正しいのは相変わらずだ。

「お早う。烏城さん、すまないね突然」

屯野よりも先に烏城へ言葉を出したのは敷居の門を開けながらそう言った雅仁だった。

烏城は屯野を率いながら門から出てきた雅仁に道を譲るようにそっと脇へ避けながら、相変わらず礼儀正しい言葉遣いで雅仁に言う。

「いえいえ、どうかそんな事気にしないで下さい。これからお仕事ですか?」

「ああ、丁度これから駅へ向かうところでね。折角だから一緒に行こうと思って」

「ええ。いいですよ。ね? 琢磨君?」

雅仁と話していた烏城の顔がくるりと屯野の方を向く。

「あっ……。あ、ああ……そうだな。……うん、それじゃ父さん、駅まで一緒に行こう」

そう言って、屯野と雅仁、烏城の三人は夏の日差しを受けた住宅街の道を歩き、駅へと向かう事にした。

三人が談笑し――話していたのは主に烏城と雅仁だったが――、歩いている最中、雅仁が歩きながら目で空を仰いで突然、口を開く。

「しかし、今日も暑いな。烏城さんも日焼け対策、大変でしょう」

そう言って、雅仁は烏城の腕を覆うように、ついているレースのついた薄い紫色の長細い布にさりげなく目を向ける。――それは腕の日焼けを防ぐ為につけるアームカバーと呼ばれるものだ。

「あ、い、いえ……その……はい、そ、そうですねっ」

途端に烏城は言葉を濁し、僅かに引きつった笑顔を見せる。それは何も言わず同じように歩いていた屯野の方にも向けられた。――そして、その時には既に屯野の家から歩いてきた屯野達三人は、目的地であった駅に辿り着いていた。

「それじゃ、父さん俺たちこれから遊びに行ってくるから」

「ああ、遅くなるんじゃないぞ」

父と子が互いに言葉を交わし、雅仁はそのまま駅の中へ向かい屯野達はそこで別れた。

雅仁が改札を通ってその姿が完全に見えなくなった頃、屯野の隣から気遣わしげな声がかけられる。

「…………あの、琢磨君?」

「――――え」

「その……私たちも行かないんですか?」

「あ、ああ……」

「もう。しっかりして下さい。今日こそは琢磨君のいつも行ってるという、『ざ・虎穴こけつ』なる夢野れむのグッズが置いてあるお店に連れて行ってもらえると私、昨日から楽しみにしていたんですから」

「……うん。そうだな。じゃ、行こうか。ここからちょっと遠くなると思うけど」

「はい。――――――あの、琢磨君」

「何?」

踏み出そうとした屯野の足が不意に止まる。

いつに間にか、屯野に行くように催促した烏城はその場で俯き立ち止まっていた。

「琢磨君は……やっぱり私の事やあの屯野君のお父様の事が生きている事がおかしいと、今も心では思っているんですか?」

「はぁ? いきなり何言ってんだよ。俺はそんな事思ってない」

烏城はゆっくりと頭を上げ、屯野の方を見つめる。

「その……私と琢磨君のお父様が……Tファージで再構成され人工的に作られたクローンであったとしても?」

その目元はいつの間にか濡れていた。

屯野はあくまでそれを見ない振りをして、気丈に目の前で涙を浮かべる烏城に言い放つ。

「ああ、そうだよ」


――――そう答えながら、屯野の意識は三日前、烏城麗那に寄生し、意識と体を乗っ取ったTファージ『鳥』との戦闘を終え深夜の病院で、目を覚ました時の橋川との会話に戻っていた――――



「これから私が言う事が鵠沼からことづかった君への伝言だ。落ち着いて、よく聞いて欲しい」

目の前にいる白衣を着た老練な医師、橋川清吾はしかわせいごは屯野の前でそういった。

「まず、屯野君には会って貰わなければならない人がいる。――さあ、いいよ。入ってきてくれ」

そう言って、途端に橋川は病室の出口の扉へ目を向ける。

誰か来るのか、と屯野も橋川に倣って思わずその扉の方を見る。

やがて扉が開かれ、おずおずと入ってきた人物に屯野は驚愕する。何とそれは感電して死んだはずの屯野と同じ薄い緑の患者服に身を包んだ烏城麗那だった。

「な……!!」

屯野はその姿に素直に安堵する事は出来なかった。

何故なら屯野は病院で目が覚める前、この姿をした『鳥』と争い、襲われていたからだった。

屯野は入ってきた烏城を思わず睨みつけた。

一方、屯野に敵意を向けられているはずの烏城はこの病室に入ってきてからというものの屯野とひと時も目を合わそうとしなかった。

「橋川さん……!! どういうことですか!?」

屯野の緊迫した声とは対照的に、答える橋川の声は今起こっている事態の全てを知っているように穏やかだった。

「落ち着くんだ。屯野君。彼女は正真正銘の烏城麗那という、何の力を持たないただの人間だ。それに、鵠沼は屯野君にはそれが本当かどうか確認する手段を持っているとも言っていた」

そう言われ、屯野はすぐに自分の体内のTファージをほんの数秒の間活性化させ、嗅覚を鋭くさせる。近づかずとも解る。橋川の言葉は嘘ではない。

「ぐ……」

屯野は納得し、身構えていた姿勢を崩し、入ってきた烏城に対して警戒を解いた。

「…………」

屯野がそうしても、烏城は一向に何も言わず、誰とも目を合わせようとしない。

「ところで、橋川さん。どうして、麗那はここに生きているんですか? 俺の知る烏城麗那は、その――」

「言わなくてもいい。君は仕方なくやった事だと聞いているよ。命あるものへ言うのは憚られるが、この烏城麗那そのものはTファージからり出された人間なんだ」

「作り……出された?」

屯野の目は再び烏城へ向く。案の定烏城は俯いたまま動かない。

橋川が遅れて屯野の言葉に答える。

「そう。鵠沼はTファージを使って、死ぬ前までの記憶をもつ、寸分違たがわない烏城麗那を作り出したんだ。彼女の脳の電気信号パターンも生前の烏城麗那と全く同じ。つまり、私たち人間が『心』と呼ぶそれもきちんと彼女の中に存在している」

「でも……でも、そんなのおかしいだろ!!」

屯野の口調が思わず荒くなる。

「それだったら……Tファージで麗那の体が作られたんなら、俺は麗那からTファージを嗅ぎ取ってる筈だろ!!」

「それは当然だろうな。既に君と同じくこの子にもTファージのワクチンを打ってあるからね。この子の体にはもうTファージから作られた肉体があくまであるだけで、その大元のTファージは存在していない。……君が動揺するのは無理もないな。ほんの少し前、鵠沼がこの子を作った、いや生み出した時、私も君と同じ思いを――――」

「え、ちょっと待て――……いや、待って、ください。今、橋川さんなんて言いました? Tファージのワクチンを既に烏城とに打ったって……どういうこと……なん、ですか」

しかし、そう言った屯野の頭の中では既に自分のみで起こっている、考えたくもない最悪の事態が渦巻いていた。

屯野はそれを否定したかったが、しかし橋川は重苦しい声で、しかし淡々とその屯野が考えたくなかった事実を告げる。


「そう。屯野琢磨君。君の体に感染したTファージはこの子の物とは違って特別、異例だったらしいんだ。今、私が持っているこのワクチンを使っても効き目が無かったんだよ。鵠沼曰く、君の持つTファージには何でもあらゆるウィルスや薬剤に対しての抗体免疫を自在に生み出す特別な性質があるようなんだ」


「そ……そんな」


絶望が屯野の心をたちまち包んだ。

屯野の体は死刑を宣告された囚人のように脚から崩れ落ち、病室の床に這った。

橋川はそんな屯野を慰めるように、努めて優しく声をかけた。

「鵠沼はこれと違うワクチンを何時間もかけて何パターンも作って手を尽くしたものの、君のTファージが消える事はなかったんだ。――君の為に必死だったよ。あの人は」

「…………」

「使いすぎなければ危険は無いといっていた。性格が凶暴になるという副作用がTファージにはあるらしいな。……本当に恐ろしい技術だよ。Tファージと言うやつは。――ああ、ごめんよ、君たちに言っている訳じゃないんだ。気を悪くしないで……といっても信じないだろうな。私も鵠沼に話を聞いたばかりで混乱している」

そこで橋川は言葉を切り、やがて口を開く。

「あと、鵠沼は死んだ君のお父さんもTファージで……ここに居る彼女と同じように、その……よみがえらせてくれたそうだ。今は君と同じで別の病室で寝てもらっているよ」

「そう……ですか」

「私は……鵠沼と言う院長を殺したあの人間が悪なのか正義なのか、あの人が去って行った今もそれがわからない。あの人が完全な悪なら君たちの事を蔑ろにし、黙って去るはずだ。なのに、あの人はそうしなかった。君のお父さんや友達を蘇らせ、君に対する治療も必死に行っていた。何が鵠沼に思い直させ、『正義の行い』をさせたんだろうな」

「そんなの……知ろうとも思いませんよ。俺の中であのジジイは今でも完全な悪なんですから……」

そう言う屯野であったが、屯野の心はそれをどこか受け入れられないでいた。

鵠沼玄宗は『鳥』との戦いの際、命を投げ出そうとした屯野を引き止め、『鳥』に勝つ方法を教えてくれた。

その時の鵠沼は屯野に対し、自分は味方だとハッキリ言ったのだ。

あの時の言葉が無ければ屯野は今生きていなかった。あの言葉が無かったなら屯野はあの『鳥』に無残に殺されていただろう。

この病室にいる今、治療する為必死だったという鵠沼の様子を屯野が想像する事は、屯野自身が信じられないことだが、決してかたくなかった。

そう考える中で、屯野はこの病室で自分が最初に感じた後悔を思い出した。かけがえの無いもう一人の友達の事を。

「橋川さん」

「何だ?」

「その、鵠沼がTファージで……作った人って他にもいませんでしたか……?」

沈黙。

橋川は暫く、屯野の方を見たまま動かない。何かを考えているのだろうか。それとも――、ゆっくりと橋川の口が動く。

「ああ、鵠沼は市ヶ谷君をTファージで一番初めに蘇らせていたよ。でも――蘇った彼は鵠沼と一緒にどこかへ行ってしまった」

「は――――、そ……そんなっ、何で引き止めなかったんですか!!」

「君にこれを渡すように、市ヶ谷君から言われている。彼が鵠沼と共に行ったのは自分の意思での行動だったと思うよ」

「な……何だよこれ」

手渡されたそれはルーズリーフ程の紙を半分に折りたたんだもので、手紙と言うには簡素なものだった。

「読んでみなさい。それは彼が僕の前で君宛に書いたものだ」

「…………」

屯野は震える手でそれを受けとった。

開いた紙にはボールペンで汚い字がびっしりと書かれていて、その特徴のある筆跡は明らかに市ヶ谷と同じものだった。


『屯野へ。

まず、今、Tファージによって生き返った俺がお前の前にいない事を謝らないといけない。

俺は多分お前と同じ時期にTファージに感染して、自分の体を牛に変えれる力を得たことに気付き、そして、俺は自分の意志でその力を使い人を殺した。


屯野、俺はTファージで人を殺した時に死ぬつもりでいたんだ。


ウチの部活のマネージャーに手を出した奴ら五人全員をこの手で殺してからな。でも、結局俺は最後の一人を殺せず、お前に負けた。

しかし、Tファージによって生き返った俺は最後の一人を殺しに行く事にする。

勝手なこと言って悪い。

でも、人を殺してしまって、そしてお前も殺しそうになった俺はもう生き返ってもお前といつもどおりの友達に戻れそうも無い。楽しく笑い合えそうに無い。普段どおりでいられそうも無い。

だからごめんな。俺は鵠沼に最後の一人の居場所を聞いて、そいつを殺してから死ぬ。多分、目を覚ました屯野がこれを読んでるくらいにはもうとっくに俺は死んでいると思う。

もう人を殺してしまった化け物の俺には普通の人間として自分の気持ちをコントロールできないんだ。Tファージのせいでもない。現に今もこうしてお前にこの手紙を書いている。俺は罪悪感に押しつぶされそうなんだ。でも、その前にやるだけのことはやる。俺はもう決めているんだ。

俺にとって屯野、お前は本当面白いヤツで退屈しなかったよ。それじゃあな。


――あと、プールに入る前にお前に言ったけど烏城と仲良くしろよ。まぁ、お前みたいな萌え豚野郎にはもったいないけどな』


読み終えた屯野は気付けば紙に顔を押し付け、自分でも聞いたことがないような声をあげ泣いていた。

(知ってたよ。お前が死ぬつもりだったって事なんて……! お前が死んだ後、家に来た鵠沼から聞かされたよ……!! なのに、折角鵠沼からまたをもらったのに……どうして、お前が汚え字までこんなに書いて、わざわざ手紙を出すような事をしたんだよ!! お前らしくもねえ……!! 直接会って俺に言ってくれれば……俺は……俺は……)

屯野は耐え切れず、叫んでいた。

「俺はお前が行くのを何としてでも引き止めて、俺と……麗那と、お前とで……『俺らは三人変わらず、ずっと友達だ』って言ってやれたのによおっ!! 畜生……畜生おっ……!! 何でお前が一人で死にに行ってるんだよおおっ!!」

「た……琢磨君……?」

病室に入ってきた時から今までずっと黙って俯いていた烏城が首を上げ、屯野の方を見る。

そして傍にいた橋川が屯野達に背を向け、そっと病室の出口の方へ向かった。

「君に伝える事は伝えたよ。それじゃあ」

屯野達に聞こえるか聞こえないほどの小さな声でそう言って橋川は静かに戸を開け、屯野達のいる病室を後にした。

「……麗那」


――――そこで屯野の意識は再びその三日後の朝の現在。烏城と共にいる駅前に戻る――――


今、屯野の目の前では三日前のあの病室の時と同じ、屯野の目の前で申し訳なさそうな表情を浮かべる烏城麗那の姿があった。

しかし、正確にはそれは屯野琢磨が知り合ったときの烏城麗那ではなく、三日前、鵠沼玄宗のTファージによってその体と心を再構成された烏城麗那のクローンだ。

「……麗那」

屯野の心は三日前、市ヶ谷の最後の手紙を読み終えた時のあの気持ちから、何も変化は無かった。

屯野はあの時、烏城に言ったのと全く同じ言葉を、全く同じ気持ちで再び口にする。


「俺は麗那の事をずっと大事な友達だと思っているよ。それは絶対に変わらない。――俺の知ってる大事な友達は今も変わらず俺の目の前にいてくれている」


「琢磨君……。ありがとう……。ありがとう……」


「さ、それじゃ早く電車に乗って、夢野れむのグッズを見に行くぞ。麗那がそれを楽しみにしてたんじゃしょうがないからな」

「……はいっ。今日は私が満足するまで何時間でも琢磨君に付き合ってもらいますからねっ!」

明るい顔になり、烏城は手を繋ぎ屯野を駅の中へとかす。

屯野は苦笑しながら、その自分の手を握り、引っ張る烏城の腕へと目を向けていた。

そこにはここに来るときまで着けられていたレースのついた薄紫色の布製のアームカバーだった。

その端、アームカバーがいつの間にか捲くれ、そこから覗く烏城本来の白い肌に僅かなピンク色があった。それは覆い切れずにいる烏城の幼い頃、左腕に負った火傷の痕だった。

烏城はその一際、肌の色の違う火傷の痕にコンプレックスを抱いており、それを人前で見せるような事はしなかった。

今、烏城は屯野の前に伸ばしたアームカバーを着けた左の腕から火傷の痕が僅かに見えていると解ったらしい。屯野とその位置で目が合った。

「琢磨君?」

しかし、今、烏城はコンプレックスのあるはずのその火傷の痕を烏城は屯野に見られていると解っていながらも隠そうともせず、首を小さく傾げるだけだった。

「ああ、いや、何でもない」

そう答えた屯野であったが、心の中の自分は烏城が自身のコンプレックスを克服した事によって、密かに嬉しく思っていた。

「それじゃ、『ざ・虎穴こけつ』へレッツゴー、だな」

「はい! レッツゴーっ」

駅の中へ入って行く二人の口調は共に楽しそうに、弾んでいた。


空は晴れ、夏の空らしい入道雲が立ち込め、これ以上無いくらいの熱気が二人を包んでいる。


二人の夏休みはまだ始まったばかりだ。






◆『余話』


翌日、ある新聞の地方欄にこんな見出しが出た。


▼高一男子、県内で会社員を殺害後、首を切り自殺。


昨晩、天見町の第二ビルにおいて県内で勤務する男性会社員、能美雄太(二十四歳)さんの死体が発見された。被害者、能美さんの体には幾つも鋭利な刃物による刺し傷があり、そのすぐ傍には凶器と見られる一般家庭用の包丁を手にもったまま死亡した被害者と見られる少年の姿があり、ビルの警備担当者により早朝発見された。捜査にあたった県警察の調べでは、その少年は自分で首を切ったものとみられ、警察では殺害の後、少年が自分で凶器となった刃物で首を切り自殺したものと見て捜査を進めている。また、被害者の能美さんは被害者の少年と同じ学校に通っていたという事から、警察はその点において少年と被害者との因果関係あったのかを更に詳しく調査している。



――そして、同じく天見町のとあるファミレスの中、客層の中で一際浮く大きな白衣に上下は飾り気のないワイシャツとスラックスに身を包んだチンパンジーのような顔をした齢六十過ぎの老人、鵠沼玄宗くげぬまげんそうは読んでいたその新聞から目を外し、テーブルを挟んで目の前に座った男の姿を見た。

背広をぴっちりと着込んだ愛想のいい、その特徴の無い四十過ぎ男は鵠沼の視線に気付いて閉じた口元でニコリと微笑んだ。

「いやあ、本当に電話でお聞きした通り、先生がご無事で何よりですよ。わたくしどものプロジェクトの第一人者であり、日本第一遺伝子研究所の所長である鵠沼先生が突如いなくなってしまって、今の今まで先生の身を案じていたのですよ」

「ああ、そうかね。しかし、そんな事をここで言ってしまって良いのか? 国家の機密とやらはどこへ行ったんだ?」

そう言うと男は笑みを浮かべ、鵠沼の顔の前で手を横にひらひら振った。

「いえいえ。声をはばかる必要はありませんよ。い、今この店内には私達しかいないようですしね」

「……ほう。しばらく前にワシが注文していたコーヒーがまだ来ておらんのもその所為せいか?」

鵠沼が新聞を置いて、誰もいないファミレスの店内を見渡しながら言う。変わらず男はニッコリと笑うだけで答えは無かった。

(――――チ、のんびりと構えおって。コイツ、もうこの場でワシを捕まえた気でおるな。恐らく、この店はコイツの手の内の者で囲まれとるだろう)

鵠沼は息をついて、再び男の方を向く。鵠沼自身が今現在置かれている危機的状況に対し、その老人の口元は男の前で自然・・と笑みを作った。

「ところでな、いつぞやかワシを捕らえようとしたものがおっての」

その言葉を聞いた瞬間、鵠沼の目の前の男がほんの一瞬、不快そうに眉をひそめるのが見えた。その後すぐに男はテーブルに勢いよく両手を着いて、鵠沼のほうに身を乗り出した。

「え!!? せ、先生、お体は無事だったのですか?」

男は動揺し、眼は大きく開かれている。しかし、鵠沼は身を案じる男のその態度が嘘だとすぐに解った。

(ひひ、よくもまあ、ワシの前でそんなワザとらしい猿芝居を打てるものだ。名前は忘れたが名刺には確か、農林水産副大臣、とか言う長ったらしい肩書きがついとったな。全く滑稽だ)

「ああ、幸いにな。ところでだ、一つ尋ねたいのだが」

「ええ。何でしょう?」


「国家機密であるプロジェクトの第一人者であるワシを捕らえようとした者は、驚く事にな――――こんな姿をしておったんだよ」


その言葉の後、突如、鵠沼の顔、骨格、肌の色、鵠沼玄宗の体そのものが波打ったようになり、たちまち変化してゆく。


「――――え」


男は席に着いたまま動く事ができなかった。ただ、目の前に座った老人が突如、三十ほどの美しい女性へと変貌を遂げたのを黙って見届ける事しか出来なかった。


「う、――うわあああああっ!!」


男が悲鳴を上げ、席から立ち、慌てて目の前で変化した鵠沼から逃げようとしたが、足が縺れ通路に転げ落ちてしまった。

「ひ、ひぃぃ……!」

男は体を鵠沼の方へ向け、床を後ろ向きに這っていた。

鵠沼も席から立ち上がり地面を這うその男に近づき、自分のすぐ正面真下に腰が抜けたのか大きく動けず、その場で怯え続ける男の姿を認めた。

「ひひひ、驚いただろう? 生き物の姿形をそっくりそのまま変えるTファージだ。ネズミを肉へ変える以外にもこんな使い方があるんだ」

鵠沼は口からTファージで自ら変身したその女の声を出し、そしてその声を聞き、男は更に悲鳴を上げ驚いた。

「ワシを捕らえようとしたこの女は、この姿の通り遠い海の国の外人・・だったんだよ。それがどういうことか、農水省のナンバー2であるお前さんなら解るだろう? この女は我が国の国家機密であったはずの遺伝子研究所での研究成果が国外に漏れておった証拠だ。お前ら政府の役人はワシの研究を初めから別の国に明け渡すつもりだったんだな?」

「ち、違う……! そんな事は……!!」

「ほほう? 全く大した愛国心だな。涙が出る。ワシを襲いおったこの女は色んなものを持っていたぞ? 香水の入ったビンが沢山と、あと化粧道具。――ああ。あと、この事はお前さんにとって大した事は無いかもしれないが、その女はそれらの他に、写真つきのFBIの証明パスと自動小銃一丁とを持っておったよ」

やがて男の顔に不快が露になる。そして、噛み締められた口は、呻くように短く小さく言葉を紡いだ。

「くっ…………! ――――し、」

「何? 何か言ったか?」

「し……仕方が無かったんだ……!! この国の財源はもう底をついている。そんな赤字を抱えた我が国が欧米に頼らずして六兆もの研究資金を費やせるか……!! それに、食糧危機が迫り、食糧の多くを輸入に頼る今我が国には、多くの輸入先でもあり、かつ自国内の穀物メジャーをようしている欧米に頼る以外、生き残る道は無いのだ!!」

「……おかしな話だな。研究所の名に日本とついてはおるが、実際はその研究所での成果は細大漏らさず全てアメリカのものなのだからな」

「た、頼む……! お前がその研究成果であるウィルスの情報や研究データ全てを米政府に伝えれば、日米政府間で交わされた取引にると、そのウィルスから作られた生肉販売のシェア四割をこの国に明け渡すと明記してあるんだ。だ、だから――」

「断る。それではまるで日本は奴らの属国ではないか。ふざけるな。お前も日本国民としてプライドと言うものが無いのか」

やがて、男は恐怖に口角をぴくぴくと吊り上げながら鵠沼を見て笑った。


「……はっ。そ、そんなものにこだわって何の徳がある? そんなものに拘っておればやがて起こるのは絶えない貧困だ。外国という支えを失った国の民はたちまち飢え、国力を失ってゆく。私達政府はこの国を真にうれいているんだよ!! 日陰で生き、こけのように暮らす、金食い虫の研究者風情のお前にこの国の何が解る!!」


男の口から出た声は最早、言葉ではなく怒号に近かった。


そこにはその男の心の内にある行政機関の高官としての意地、そして真に国を思う愛国者としての姿があった。


鵠沼はその男から少し目を反らし、やがて思い出すようにぽつりと言う。

「……近頃、お前と同じ目をした少年を見たよ」

「何?」

「ああいや、忘れてくれ。ただの年寄りの独り言だ。しかし、年寄りとは言え、中身は子供のように世間知らずで純粋なままだったらしい。全くお前の言うとおりだ。随分とむごい話だ」

その鵠沼の言葉が解らず、男の首が僅かにかしぐ。

「残念ながらワシはお前さんの言っておる事が解ったが、どうやら子供のワシはその要求を呑めそうにない」

「な、何だって!?」

「なので子供のワシは、子供らしく決着をつける事にするよ」

「? ……どういう事だ」


「これからワシの独断・・であらゆる世界各国の研究機関にこの技術の全てを無償で流布する」


たちまち男はその言葉に驚き、目をいた。

「馬鹿な! そんな事をすれば一度に酪農家や卸売りや輸送する中間業者など多くの失業者が世界で一度に生まれる事になる!! 世界中が混乱するぞ!!」


「なら、大人のお前が正してくれ」


「え……?」


「米政府が日本側に有利な要求を呑まんのであれば、ワシはさっき言った事を実行に移すつもりだ。それは多くの食糧を配給する米政府が最も恐れる事だろう。――つまりな、ワシは米政府との交渉の道具となってやろうと言うわけだ。お前さんも知っておるだろうが、四十年以上あらゆる国で学んできたワシは国籍などとうに捨て、今や無国籍の人間だ。さっき言ったその有利な条件の詳しい内容は大人のお前さんら役人に任せるよ。好きな条件を呑ませてやる。ワシがゴネる事でな」


鵠沼はあっさりと言い、しかし明確に言った。男はその言葉を中々信じられないようで、床から起き上がりながら口に手を当て、真剣な面持ちで鵠沼の言葉を暫く考えていた。

やがて、数分が経って既に起き上がっていた男は慎重に言葉を選ぶように女の姿になった鵠沼を見、ゆっくりと口を開いた。

「い、いいのか……本当に。……し、しかし、それでは名目上、政府に反対したというお前に対して日本政府からの何の褒美も、そしておまえ自身の栄誉もなくなる。今日からお前は国から追われるただの犯罪者となるんだぞ……!?」

「ワシはそんなモンをもらって喜ぶ歳じゃない。――それに、このネズミを何倍もの量の食肉に変えるTファージと言う技術は独り占めしちゃいかん。仲良く、皆で使わんとな。このTファージは誰のものでもないと、研究所の外に出てワシは解ったんだよ。そして、この国でこれから末永く幸せに生きて欲しいガキ共もおる」

「……?」

首を傾げる男を無視し、鵠沼はその『ガキ共』も見ているであろう店内の窓から覗く青い空に思いをせる。


(ま、これでワシの外での罪が償えるとも思えぬがな。どうか食い物に困る事も無く、幸せに生きてくれ。――琢磨たくまよ、ワシはいつまでもお前の味方だからな)



◆おしまい◆




長くなりましたが、これでおしまいです。

お付き合いありがとうございました!

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