「第三十二話」
「第三十二話」
屯野の咆哮は続いていた。
豚頭人身の屯野の口から吐き出される僅かな唾液と共に、黒板を引っ掻く音を数百倍にも増幅したような、断末魔が大気に響き渡る。
そしてその音は屯野の数十メートル上空にいる腕から巨大な翼を生やした烏城麗那――烏城のTファージから生じた意識体・『鳥』――のいる場所まで容赦なく轟き、『鳥』の聴覚に重篤なダメージを与えていた。
「うあ、あ……あああああっ!」
その音に腕を翼に変えている『鳥』は耳を塞ぐ事も出来無い為に耐えることができず、翼を不規則に羽ばたかせながら苦しみに声をあげる。
屯野は自分の上げた声で、上空の『鳥』が苦しむ様を見て自分の企みが上手くいった事に満足感すら覚えていた。
(とっとと降りて来い。お前を倒せばもう全部終わりなんだよ……!!)
『鳥』は変わらず、苦悶の表情に声をあげ苦しんでいる。その表情はまさしく屯野が知る友達、烏城麗那そのものだった。しかし、その友達が苦しんでいる様をみても屯野は叫ぶのを止めるつもりは毛頭無かった。
(降りてきたらすぐに殺してやる。父さんを殺したお前を蹄で何度も何度も潰してやる。どれだけ復活しようがかまうものか。ミンチにしても復活しようものなら最悪俺が喰って、体内で消化してやる)
屯野は今、自分が誰の死を望んでいるのか、はっきりと理解しながらそう考えていた。
Tファージの副作用でもない、そう考えるのは真の屯野琢磨の意志だった。
自分自身が烏城麗那を殺したいと考えるのは屯野にとってなんら異常な事ではなかった。
屯野は一刻も早く、この何人もの人間が死んだTファージの騒動を終わらせたかった。
死ぬほどまでの罪の無い四人の人間が市ヶ谷に殺され死に、更に毬川に金を貸さないという理由だけで毬川に殺された人間、更にその市ヶ谷、毬川までも死に市ヶ谷は屯野自身が手をかけた。そして、先程屯野の父が死んだ。
これら八人は何れもTファージというものがあったから死ぬ事になった人間達だ。
屯野は自分の体内に蔓延したTファージを激しく嫌悪した。
だから今、屯野は例え、初めて出来た女の子の友達の命を犠牲にしてでもTファージの全てを終わらせたかった。
ほんの数日前、屯野が市ヶ谷と戦う前にいた喫茶店で絶対に守ると誓ったその人を屯野は今、殺そうとしている。
そんな事は解っていた。
「あ、ぐ……」
やがて、上空で翼を羽ばたかせ滞空していた『鳥』の動きが屯野の咆哮に耳が耐え切れず止まり、それは猟師に撃たれた鴨よろしく真っ直ぐに落下する。それは屯野が今まで待ち望んだ好機だった。
(しめた)
屯野は咆哮を止めず、すかさず落下地点まで向かい『鳥』を待ち受ける。
数秒後、空から落ちてきた『鳥』は硬いアスファルトに体を激しく打ち付け、その体が衝撃を受け大きく撥ねる。
普通の人間の体なら致命傷なものの、Tファージによって骨格や筋肉をはじめ肉体を強化された烏城麗那の体にはその程度の衝撃では致命傷になりえなかった。
そして、落下したと同時に上半身と下半身を切断するほどの力で真上から突如腹部に振るわれた屯野の蹄の一撃にしても同様だった。
「あああああっ!!」
――しかし、襲ってくる痛覚は意識が飛ぶほどのもので決してそれは『鳥』にとって生易しいものではなかった。
『鳥』の腹には屯野が振るった容赦ない蹄が振るわれ皮膚を貫き、肉が裂け、一撃を受けたその部分は真っ赤に染まっていた。『鳥』が強靭な力を持つ屯野から逃げようとするが、腕は『鳥』の体を貫いており、『鳥』はその腕に張り付けられ、体を僅かに動かす事しかできなかった。
地面に仰向けになった『鳥』の目の前には、荒々しく呼吸を繰り返す豚の顔があった。その顔に付いた黒い小さな二つの目は時折、『鳥』に突き刺した自分の腕と『鳥』の苦しむ顔とを交互に見比べている。
苦痛が脳を支配してゆく中、『鳥』は口の端から血が出ているのを気にせず、倒れた『鳥』の体に馬乗りになって圧し掛かってきた屯野の顔を見ながら不敵に笑う。
「へへ……、や、やる気になってくれて嬉し――――
『鳥』はその言葉を最後まで言うことなく、その時既に『鳥』の続けて顔前に迫りくる屯野の蹄があった。
「ッ――――」
自分の頭蓋が砕ける音と脳漿が弾ける粘着質な音を『鳥』は聞くことは無かった。
ただ、『鳥』のいた周囲に不快な音が響き渡っただけだ。
屯野はTファージ感染者の唯一復元が不可能な箇所である脳を左の蹄で攻撃した。
『鳥』の――頭部を砕かれた烏城麗那の――体は反射でビクビクと打ち上げられた魚のようにのた打ち回った後、動きを止めた。
屯野はその間、尚も攻撃を止めず続けざまに烏城の体に蹄を何度も打ち付ける。
何度も烏城の体を打つ内、とっくに体を貫き殆ど屯野はその下のアスファルトの地面を殴りつけていた。
それでも、それでも屯野は蹄が砕けるのもかまわず、その度すぐさま復元し屯野は肉片と集まりとなりつつある烏城を殴りつけていた。
(全部。全部終わらせる。クソ、死ね死ね死ね)
そう屯野は頭の中で考えながら、いつしか心は図書館で牛の怪人との最後の戦いの前に烏城と牛の怪人について自分が言った事を思い返していた。
『麗那、教えてやる。アイツは初めて会った時、俺を何の躊躇いもなく殺そうとしたんだ。アイツは……あの牛男は何の理性もない。正真正銘の獣だよ』
今、その獣はまさしく自分だ。屯野は自分が言ったその言葉を思い出し、自嘲気味に心の中でその時の戦いに挑む前の自分を笑った。
共にバーチャルアイドル『夢野れむ』を愛好し、それについてくだらない事を屯野の家で互いに言って笑いあい、命をかけて守りたい大事な友達だと言ってはいても、結局屯野琢磨という獣は今も躊躇無くその大事な友の烏城麗那の体を殴り潰し、その前にも同じく自分の事を思いやってくれた大事な友である市ヶ谷の頭をライフルで撃ち殺している。
そんな矛盾をはらんでいる屯野の考えと今の行動が心底可笑しくなった。
屯野は我を忘れ、両腕を烏城のいる場所へ叩きつけ、烏城麗那の体を肉片に変える作業へ没頭した。
その中、僅かずつではあったが烏城の体から出た血液が意志を持ったようにアスファルトの地を這い、水溜りのようになって屯野の背後の地面にまで迫っている事に屯野は気付けなかった。
やがて、その意志を持ったTファージに感染している烏城の血液が沸騰したようにぼこぼこと泡を立て始めた直後。
その血溜りからのた打ち回る蛇のようなものが急速に生え、その先は屯野の無防備な背中めがけ進み、突き刺さった。
「ブグァアアア!!」
甲高い叫び声が再び大気を振るわせ、屯野は狂ったように叫びながら激痛の走った背中に腕を回す。
だが、肥大した屯野の腕の稼動域は狭く、背中に刺さったものを引き抜くべく、懸命に手を伸ばすものの背中で刺さったままのた打ち回るそれを屯野が掴む事は出来なかった
屯野の背中に突き刺さり、のたうち打つ蛇のようなそれの正体は『鳥』の肢だった。
鉤爪が付き、何本もの皺が刻まれた鶏の肢は突如、屯野の背後の血溜りから生え、急速に血溜りから伸びたそれはその勢いを保ったまま屯野の背中に突き刺さったのだ。
屯野は背中の痛みに叫び、何とか背中に付いたものを取り除くべく自ら仰向けに思い切り倒れ、その勢いで自分の背中に刺さった肢を潰す。
屯野の背中でぐしゃりと刺さっていた肢が潰れる音がし、肢はそれ以上のた打ち回り、傷口を広げるのを止めた。
(やっぱりな。頭を潰されても平気なんだ。全身を潰したくらいじゃ到底死なないか)
屯野はすぐさま起き上がりつつ身構え、辺りを見渡す。
姿は見えなかったものの、屯野は『鳥』がどこにいるかをすぐに察知する。屯野の嗅覚が烏城のTファージの臭いを素早く嗅ぎつけ、屯野はそこを見る。
そこにあったのは大きな血溜りからゆっくりと生えるようにして出てくる、衣服の無い人の体を芯にして局部を羽が覆っており、腕からは二メートルほどの翼が生えていた。人頭鳥体の姿をした黒髪の女、『鳥』――烏城麗那の姿があった。吐き気がするほど強いTファージの臭いが屯野の鼻をつく。
髪と全身の羽はさきほどまで血のプールに全身を浸かっていたと思うほど、血で赤く染まっていて『鳥』の全身にはてらてらとした妙な光沢があった。
『鳥』の体の全てが血溜りから生え出てきた時には既に、『鳥』の足元の血溜りは跡形もなくなっていた。
(クソ、アイツ血液だけでも生きれるのか。化け物め)
「あー痛かったなーもう。迷い無くいきなりあたしの頭カチ割っちゃうなんてね。あははっ」
何事も無かったかのように復活を果たした『鳥』の顔は相変わらず笑顔だった。しかし今、その顔は血に塗れてはいたが。頭を潰された後にすぐ復活し、血塗れになりながら笑顔を浮かべる『鳥』に屯野は心底嫌悪した。
――その麗那の口で笑うな――
人のように高等な発声器官の無い屯野は心の中で、目の前で笑う『鳥』に言う。
屯野の不快感を他所に、『鳥』は明るい調子で話し続ける。
「でも、屯野君もびっくりしたでしょー? 後ろから攻撃されて。えへへへ」
――その麗那の口で、声で、俺の名前を言うな。笑うな――
屯野は衝き動かされたように追撃を加えるべく、拳を振り上げ『鳥』の元へ走り出していた。
――そんな化け物じみた姿で俺の前に立つな――
一瞬の間の後、脅威の速度で放たれた屯野の拳を『鳥』は避けきれず、その重量を持った一撃は容赦なく『鳥』の顎に叩きつけられた。
『鳥』はその叩きつけられた勢いを利用し、瞬時に腕の翼を大きな翼に変え、飛ばされながらも屯野のいる前で羽ばたかせる。
屯野は多くの羽毛が舞い上がると共に、咄嗟に顔の前を腕で覆っていた。
その隙を『鳥』が見逃すはずも無く、屯野がそうする事を知っていたように『鳥』はその時損傷の回復を既に終え屯野の方へ向かい、同時、屯野の空いた腹に自分の肢を槍のように真っ直ぐ揃え、突き刺す。
屯野の悲鳴を『鳥』は眉間に皺を寄せながらどうにかその轟音を耳に入れまいとし、鳥は突き入れた肢が脂肪を突き、肉を抉りそれがやがて体の奥、腸などの消化器系へと達したことで更に笑みを作る。
そして『鳥』はその中で三又の肢を閉じた傘を広げるように、屯野の体の中でぱあっ、と肢の指を開き、屯野の体の中をこねくり回した。
更に悲鳴が大きくなる。
屯野が気を失うような痛みに喚く間、屯野の苦悶の顔の目の前で『鳥』が途端にその顔、口元を屯野の方へ近づけてくる。
その向かってきたものを見て屯野は戦慄した。――嘴だ。麗那の口に鋭利な嘴が生えている。
瞬間、屯野の右目にも激痛が走り、屯野は咄嗟に大きく上体を揺らし目を覆った。
屯野が上体を振り回す背の膂力に敵わず、『鳥』はその力を受け、思い切り振り回され、アスファルトの道路へ真っ直ぐ投げ飛ばされる。
屯野は腹部と右目の回復を急ぎ行いながら、屯野はさっき感じた戦慄をいまだ拭えず、狼狽していた。
先程『鳥』に突かれた屯野の右の眼窩は血を垂れ流しながら、大きく陥没し見えなくなっていた。
あと僅かでその嘴は目を越え、その奥の脳にまで達していただろう。
そして、達していたなら屯野も恐らく市ヶ谷のように、Tファージを使っての回復ができずに死んでしまっていた。
(……あ、あっぶねえな。とんだ一撃必殺だ)
屯野はあと数センチの差で死にかけた恐怖を感じながら数秒後、全身の回復を終えた屯野は豚頭人身の姿で再び『鳥』の姿を探す。
『鳥』は既に大きな翼で空に飛び立って、屯野の周囲をくるくると旋回していた。
また、叫んで落としてやるか――屯野がそう思った時、突如『鳥』は旋回を止め、翼を真横に伸ばしたまま屯野の方へ矢のように一直線に風を切りながら向かってくる。鏃となる嘴を屯野の方に向けて。
屯野は身構え、寸での所で向かってくるそれをかわし、飛び去った『鳥』を見るが『鳥』は上空で器用にUターンし、そのままの勢いを保ちながら屯野の方へ再び突っ込んでくる。
(ヤバイぞ、今いる直線の道路上だと『鳥』の飛行を制限する電線があまり多く張り巡らされていない。何とかさっきの十字路へ戻らないと……!!)
『鳥』が繰り出す一撃必殺の攻撃を避ける事に専念しなければいけない今、屯野は電線の張り巡らされている十字路へ移動する為に『鳥』に対し背を向け走る事は出来ない。かといってさっきのように叫ぶ事で『鳥』の動きを止めようとするのはあまりに無謀だ。――思い切り息を吸い、動きを封じるほどの声量で叫ぶ頃には『鳥』の嘴は屯野の眉間か後頭部を貫いているだろう。
息を吸い、声をあげるまでのタイムラグを見計らうように、『鳥』は絶妙なタイミングで続けざまに屯野に向かって降下際の攻撃を繰り返す。
防戦一方に立たされた屯野は攻撃に転ずる事のできない今の状況に思わず歯を噛み締める。
(ここじゃ、空を飛べるあいつの良いように攻撃されるばっかりだ。……クソ)
その時、屯野は何度目なのか解らない、その『鳥』の攻撃をかわした後ですかさず両腕で自分の目の前を覆う。
『鳥』はアスファルトの地面から上空へ飛翔しながら、屯野が腕で顔の前を覆い防御の姿勢をとっているのを目の端に捉え、人間の口でせせら笑う。
「あれぇ? もう避けるの疲れちゃった?」
言いながら『鳥』は飛び上がったその場でUターン。後に翼を水平に伸ばし、そのまま下にいる屯野へ突き進む。間もなく『鳥』の口元に硬質で鋭利な嘴が生えてくる。
『鳥』は顔の前を腕で覆った屯野の前に迫り、加速した勢いを保ったまま心の中でほくそ笑む。
(今、速度を持って突き進んでるあたしの嘴は槍の切っ先みたいなものなのに。そんな腕くらいすぐ貫通しちゃうんだから!)
『鳥』は屯野の顔を覆う腕の皮膚に触れた瞬間、加速度を持ってつき進む自分の嘴が屯野の腕を裂き、脳にまで達するイメージを思い描く。そして、嘴は一瞬にして屯野の皮膚から肉を裂き、そして『鳥』にとって信じられない事が起こった。切り裂いた皮膚の間から爆発したかのように大量の肉、屯野のTファージが生み出した筋組織が間欠泉の如く噴出してきたのだ。
「!!?」
『鳥』は驚きに目を見開くが、そのときには既に屯野の体に突き進んでいた『鳥』の体は噴出す大量の肉に押し返され、衝突の勢いを失っていた。
(よし――)
そして自分の腕から噴出す膨大な筋組織を見て屯野は自分の防御が思ったとおりにいったのを知り、やがて勢いを失い地面に落ちつつある『鳥』の姿を肉が噴出す中、どうにか視界に捕らえる。
屯野は言葉にならない甲高い鳴き声で鬨をあげながら肉を噴出す腕を強引に振り回し、その硬い蹄のついた拳を目の前の『鳥』の体へ叩きつけた。
凄まじい咆哮と共に光速と呼ぶべき速度で繰り出された屯野の拳の一撃をまたも避けきれず、『鳥』はその一撃を全身で頂戴し、仰向けになった細い体が砲弾のように何メートルも真っ直ぐ吹っ飛ぶ。
『鳥』の体は飛ぶのを止め徐々に落ち、今度はギザギザしたアスファルトに背を数秒削られ止まった。予期しなかった攻撃を受けたためか肉体の損傷は大きく、『鳥』の体からは骨や内臓がはみ出していた。
『鳥』は仰向けに倒れたまま真っ黒な空に向かって血反吐を何度も吐いた。
(皮膚が裂けた瞬間にTファージを発動させて、目眩ましをするなんて……)
回復を終えた『鳥』は自分の血反吐に塗れた顔を腕の翼で器用にぬぐいながら、足腰だけで素早く立ち上がる。
屯野の姿は『鳥』から直線六メートルほどの近くにいたが追撃を加える様子は無い。
『鳥』は素早く巨大な翼を広げ、首をゆっくりと上げ、飛び立つ姿勢を取る。
(とにかく一旦、空に逃げないと。あたし自身は死なないとは言え、まともな接近戦では力の無いあたしは若干、分が悪……――――い)
飛び立とうとした『鳥』は自分の上を見た時、動き出そうとしていた翼の動きはぴたりと止まる。
「し、しまっ――――」
『鳥』は思わず口に出し、自分の真上に配電線が架かっていたのに拘わらず、大きな翼を広げた自分の失策を呪った。このままでは翼は電線に触れ、飛び立った瞬間に感電してしまう恐れがある。
その事に気付き、急いで『鳥』は電線を避けるべく、後ろ向きに走るが、『鳥』の展開した大きな翼が何れも風の抵抗を受け、その動きは必然、水の中に浸かった足を動かすように重く、鈍くなる。
その最中、『鳥』はTファージを総動員させ、風の抵抗を抑えるべく大きな翼を小さく戻すものの、しかしそれは既に拳を振り上げ『鳥』のほうへ向かってくる屯野に対しては遅すぎた。
豚頭人身の屯野の顔が『鳥』の目の前に来た瞬間に『鳥』は既に、地面に叩きつけられていた。
『鳥』は今日二度目の血を吐きながらも、体を起こそうとするが、腹に当てられた屯野の太く強靭な腕は烏城を地面に張り付けて放さなかった。
「ぐ――――く、こ、この」
腕とやがて脚とで組み伏せられながら、『鳥』はもがき苦しむ中、自分の眼下で屯野の豚の頭が何か音を立てながら激しく上下に動くのを見た。
その豚の頭は『鳥』の体を一心不乱に食べていた。
顔が血塗れになるのも構わず、烏城麗那の上体を骨ごと強靭な顎で噛み砕いて食べていたのだ。
「ぐ……あああああっ!!」
抵抗出来ず、肉を喰われ続ける痛みに叫び声をあげる烏城麗那に覆いかぶさり、その体を文字通り貪り喰らう豚頭人身の屯野の姿は傍から見れば、か弱い女に淫猥な乱暴をする悪漢のように見えただろう。
(――――、――――、――――)
しかし、獣となった屯野琢磨の脳内には既に躊躇という二文字は存在しない。
ただ、目の前の『鳥』、その最後の敵を討ち果たす為に、屯野は顎を何度も動かし、烏城の肉体をひたすら喰らっていた。
屯野は『鳥』の動きを封じる腕の力を更に強める。
(――――、――……もう逃がしてたまるか。お前の肉片全部、血の一滴まで俺の体の中で消化し尽くしてやる。――――、――――)
肉を喰らい、骨を噛み砕き、同時に血液を吸い、それを凄まじい速度で繰り返し、屯野は自らの体の中に烏城麗那の体を収めてゆく。
あっという間に血の殆どを失い、少し前から真っ青になった表情を浮かべる『鳥』は屯野の食事を止める事が最後まで出来なかった。
やがて、体を喰い尽し、頭、腕、脚、と屯野の頭はバリバリと咀嚼する音を立て上下しながら動き回り、三分後。屯野がさっきまで組み伏せていた烏城麗那の体は跡形も無く屯野に喰い尽くされ、消失していた。
屯野は血と汗に濡れ火照った顔を腕で拭い、そして躊躇い無くその『鳥』の僅かな残滓を一気に舐めとった。
屯野は『鳥』が収まった大きな腹に手を当てて、異常があるかを確かめた。
驚くほど腹に痛みは無かった。
烏城のTファージを体内へ入れたことで何の拒否反応も無い。恐らく屯野の読みどおり体内で消化されたのだろう。
異様な静けさの中、屯野はTファージの変身を解いて人間の姿に戻り、かつて自分が組み伏せていた『鳥』の体があった場所を一瞥し、今しがた自分のし終えた事を思い返す。
(お、俺は……お、俺……は……)
――――やがて屯野は口元に手を当てたが耐え切れず、アスファルトの地面に大量の胃液と吐瀉物をぶちまけた。
「ごおおえええええっ」
屯野の口元に抑えた手の指と指の間から微かに温度をもった泥のような液体がびちゃびちゃと地面に際限なく零れ落ちる。
そして嘔吐する屯野の目からはとめどなく涙が流れ落ちていて、その涙もポタポタと地を濡らした。
(嘘だ……嘘だ……俺は麗那になんて、事を……自分勝手な理屈で……麗那を……麗那を……!!)
計り知れないほどの罪悪感が沸いてくるや、それは屯野の心をこれでもかと締め付けた。
屯野は自分のした事を否定し、それを思い出すまいとするが、腹に残る感覚は消えず、口には烏城の肉や骨を咀嚼した感覚が未だに残っている。
――自分は麗那も殺してしまった――
父を目の前で殺されたことで、Tファージにまつわる全てを烏城麗那を殺すことで終わらせると、そう決めたのは自分だった。
だからこそ屯野は烏城を肉片になるまで殴りつけ、その後血液から復活し体を取り戻した烏城の全身を喰らった。――何の躊躇いもなく。
屯野は胃液を吐き出しながら、今自分の頭がTファージのもつ凶暴性に侵されていればどれほど気が楽になったかと思った。
烏城麗那を殺した事、そして市ヶ谷渉を殺した事、そのこと全部Tファージの所為にして、二人を殺したのは自分の残忍さではなくTファージが屯野の頭を乗っ取りした事だと、屯野はそう思いたくて堪らなかった。
「はぁっ……はぁっ……あ、ぁ。ああぁ――――あ。うあああああああああああっ!!!!」
長い嘔吐を終え、気付けば屯野は空を見上げながら、子供のように大声を上げ泣いていた。
市ヶ谷を失った悲しみが、父を失った悲しみが、麗那を失った悲しみが、膨大な悲しみが今になって一度に屯野の胸に押し寄せてくる。
屯野はあんな事をした後で、悲しみに涙を流せる自分自身が解らなかった。
烏城の体を喰らっている時も、泣いている今も屯野琢磨と言う自分自身を失っていない事に、自分の事ながら屯野は気がおかしくなりそうだった。
「ああ、あ……」
「うっわ、もう食べ終わってんだね」
突如、背後から聞こえるはずのない声がした。
「――――え」
頬を涙で濡らした屯野が振り向いた先には、屯野の影からはえ出てきたように烏城麗那の上体があり、それはアスファルトの地面に広がった大きな血溜りからずぶずぶと生え出てきていた。
「な――――なん、で」
うわ言のような言葉をどうにか言って、屯野は跡形もなく食べた筈の烏城麗那の体が復活するのが信じられず、理解できないその光景を黙って見つめる事しか出来なかった。
血溜りから生え出てきた烏城の上半身はやがて腹、脚と続き、ついには屯野が先程組み伏せ、喰らう前と全く変わらぬ、体の局部を羽で覆い腕に翼を持った半鳥半人のその姿で『鳥』は屯野の前に再び現れたのだ。
血で濡れ、光沢を持ったその顔が屯野の顔を見てニッコリと微笑んで、その口元が動く。
「えっへへぇー……」
喰われる前と全く同じ『鳥』の口から出た明るい声に屯野は身震いすら覚えていた。――馬鹿な。俺が喰った筈なのにどうして――
「いーやー。屯野君もこのあたし相手に今までよくやったほうだと思うよ。――でも、もう解ったよね? 屯野君はどう頑張ってもあたしを殺せないって事がさ」
「な――なん、で、俺が倒した筈……なのに」
「だって、あたしは血がほんの一滴でもあればそこから自分の体を再生出来るんだもん。でもビックリしたなー。だって屯野君さっきあたしの体を食べてる時、肉や骨は勿論、血も殆ど吸っちゃうんだもん」
「…………!!」
「うん、屯野君が人間の九十パーセント以上を食べたのはホントにビックリしたよ。生き返れなくなるかと思ったー。あははっ。ま、結局は地面にほんのちょっと食べ残した血が残ってたからあたしはこうして生き返ったんだけどー。あはっ、あははっ、あはははははっ」
そう言って『鳥』は腹を抱え無邪気に笑い始めた。
屯野は血の気が一斉に引くのを感じた。屯野の全身が目の前で笑う血塗れで腕から翼を生やした半鳥半人の、半裸の女に恐怖している。
(そんな……そ、それじゃあ俺は、どうすればいいんだ……!? 幾ら殺しても、喰い殺しても、血の一滴があればすぐ再生出来るような奴に、俺はどうやって立ち向かえばいい……?)
屯野はやがて目の前にいる『鳥』に口を開く。
「お……おい」
屯野の口から出た声は自分のものとは思えないような老人が出すようなか細い声だったが、その声は『鳥』に届いたらしく、やがて『鳥』は笑うのをやめ屯野の方を改めて見る。
「あ、何ー? どうしたの?」
「お……お……」
口が震えて上手く言葉が出ない。
「何なの?」
「お……俺を殺してくれ……」
完全な人の姿のまま言った屯野の目からは、再び大粒の涙が溢れていた。
「え……。――え? どゆこと?」
「もう俺は、戦えない」
「……?」
「……俺はもうお前とは、戦えない」
今、屯野の頭を支配しているのはTファージ感染者同士の圧倒的な性能の差だった。
血の一滴から肉体を完全再生出来る目の前の『鳥』と、頭部を損傷すれば死んでしまう、ただのTファージ感染者でしかない屯野琢磨とではあまりにもその差は大きかった。
そして、それを二度も見せ付けられ屯野は完全に目の前の化け物に対し戦意を喪失していた。
(コイツはもうあの市ヶ谷のときみたいな怪人じゃない。人じゃない――怪物だ)
屯野は自分で理解していた。自分は友の体を奪い、父を殺したこの怪物には決して勝てないのだと。
精一杯、屯野は『鳥』を相手にやるだけのことはやった。しかし、それらは結果、無駄に終わった。
――だから、今こうして目の前の怪物に降参する事に悔いは無い――
屯野は目から涙を流しながらそう自分に言い聞かせ、掠れた声で怪物に再び哀願する。
「だから、頼む。俺を殺して――――
「ふざけるな!!」
その時屯野の後ろから、鋭い女の声がしたので思わず身を震わせた。
そしてそれは屯野の前にいた『鳥』も同じだったようで、『鳥』の表情からは笑みが完全に失せ、驚きに目を見開いている。
屯野の後ろの女の声が続ける。
「……何故、お前が殺されねばならない。殺されねばならんのは屯野、お前の目の前におる奴だろうが。お前が殺され死ぬ必要など断じて無い」
その声と、女らしからぬ妙な言葉遣いに聞き覚えがあった屯野はゆっくりと声のした方へ振り向いた。
そこに立っていたのは一人の女だった。
彫りの深い顔立ちにブルネットの長い髪、扇情的なドレスに身を包んだ三十歳ほどの完全な女性の姿に変身した、この騒動の元凶、と同時にTファージの生みの親、鵠沼玄宗が屯野達の前に姿を現したのだ。
変身した美しい女の姿で歩み寄ってきた鵠沼は、屯野に背を向け、前にいる『鳥』を真っ直ぐ睨んでいた。
その後姿を見ながら屯野は信じられない思いを味わっていた。
「じ……爺さん?」
屯野は自分の見ている光景が夢に違いないと思った。
戦いの傍観者であるはずの鵠沼が突如、この場に姿を現した。そして――
(死ぬ必要など無い……だって……!?)
死に向かう屯野を引き止めるような事を言った鵠沼が屯野には信じられなかった。屯野の中で目の前の鵠沼に対し怒りが湧き起こってきた。
「ふ、ふざけるな……!! 今まで散々俺を命がけで戦わせといて何言ってやがる!! 何で俺がアンタに……人の命をどうとも思わないアンタに今更そんな事言われなくちゃいけねえんだよ!!」
「…………自惚れるな」
その声はか細く震えていた。
「――え?」
「ワシはあくまで『戦いを放棄した今のお前』が死ぬべきでない、と言っただけだ。戦いで命を失うのならまだしも、戦いを放棄してあっさりと死なれてはワシが……楽しめんだろうが。それにだ」
体を前に向けたまま、鵠沼は屯野の方に首を振り向いた。その表情は怒りに染まっていて、そこにはかつての冷静さの欠片も無かった。
「お前は……悔しくないのか!? 友達の体を乗っ取り、その体でお前の父親を殺したようなあの下衆に殺され、お前はそれでいいのか!? お前はワシと病院で初めて会った時に自分で言っただろうが! 怪人に殺されるくらいなら逆に殺してやると!! 思い出せ!!」
「……じい、さん……?」
その鵠沼の剣幕に屯野は思わず圧倒された。
初めて会った時の鵠沼と今の鵠沼とではその老人と女という見た目以上に屯野にはその二つが今、大きく違って見えた。
普段感情を出さない人間が初めて感情を露にしたような、切羽詰ったような感じが奇妙な事に今の鵠沼の表情にあったのだ。
「うーん。なんだかなー……鵠沼のおねーさん? 色々言ってるところ悪いけど、早くあたしに後ろの奴殺させてくんない? もうあたし既にザコ二人倒して、あとその屯野君とももう十分戦ったしさー疲れちゃったよー」
すぐ前にいる『鳥』がため息交じりに不満を漏らす。
鵠沼の顔が再び『鳥』の方に向き、鋭く言い放つ。
「黙れ、Tファージ。お前に屯野は殺させんぞ」
「……へ?」
「今からお前はワシの敵となった。そしてこれからお前はワシか屯野のどちらかに殺される事になる」
その言葉の後、『鳥』は急に表情を恐怖に歪める。
「なっ……!? 何言ってるの!!? あたしは誰にも殺されなんか――」
しかし鵠沼は『鳥』の言葉を無視し、『鳥』の方を向いたまま後ろにいる屯野へ静かに言う。
「……いいか、琢磨よく聞け。お前は決めねばならん。ワシはあの目の前にいる失敗作をこれ以上この町で泳がすわけにはいかんからお前がどうあれ、ワシは奴に蜂を放って殺すつもりだ。――しかし、今なら選ばせてやる。親の仇である奴に自分自身で片をつけるか否かをな。烏城の事は心配するな。それについては決着がついた後でワシが最善を尽くして助けてやる」
「た、助けてやるって……爺さん、どういうことだよ。何を……言ってんだよ?」
「今からワシはお前の味方になった。そういう事だ」
鵠沼玄宗という齢六十を越えた一人の人間は市ヶ谷と屯野の戦いの後、屯野琢磨という一人の少年に対し、生まれて初めて自らが引き起こした事に罪悪感を覚え、そして彼に同情していたのだ。
やがて今までの間、この最後の戦いを上空から蜂の姿で眺めていた鵠沼は、親友の意識を乗っ取られ、父を殺され、更には自らの命を投げ出そうとする屯野が自分の作り出したウィルスの所為で、屯野が自ら生んだそのウィルスそのものに殺されようとしているのにとうとう耐えることが出来なかった。
今まで俯瞰していたその他大勢でしかなかった人間の一人、屯野琢磨という一人の個人を見つめている内に鵠沼の心には変化が生じていた。
鵠沼は己の本心に常に忠実な人間だった。だからこそ、幼い頃の夢であった人ならざるものを作り出す為にTファージを開発し、それらを町へ解き放った。
そして今、鵠沼玄宗はその本心を以って、屯野琢磨の味方になる事を決意した。