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「第二十七話」 


「第二十七話」 


昼過ぎの屯野宅のリビング。

今その場で、椅子に座ったドレス姿で厚化粧の若い女の姿で鵠沼玄宗くげぬまげんそうは話し終え、前にいて自分の話を聞いていたジャージ姿から私服に着替えた、この家の主の息子、屯野琢磨とんのたくまと同じく私服姿の黒髪美少女、烏城麗那うじょうれいなの姿をゆっくりと眺め回すように見る。


最後に自分と烏城が戦う事になる怪人の話を聞き終えた屯野は唾を飲み込み、やがて言葉を出す。

「つまり、俺らが最後に戦う怪人って言うのはその何とか会とかいう宗教団体の教祖、豚座守いのこざまもるって奴で間違いないんだな?」

「本名は毬川蝶子まりかわちょうことか言っておったが。ま、ワシにはあんなトランスファージをあのような小金稼ぎの詐欺に使う守銭奴の事なぞどうでもよい」

鵠沼は本当にどうでもよさそうにテーブルの上で頬杖をついてあさっての方を向きながらそう、口にする。――中身がジジイだって知っていなけりゃ死ぬほど可愛い仕草なんだけどな。

「…………宗教団体の長か。随分でかい立場なんだな。そいつは。んー……話を聞いて思ったんだけど、その豚座いのこざ――えっと毬川まりかわって奴は別にそれ以上人殺しをするつもりは無いみたいだな」

「ああ、そうだな。あの女は自分の宗教での金儲けにのみ執着しとる。人殺しは初めの一回のみでそれ以上殺人は犯さんとあいつもハッキリと言いおった」

その言葉に屯野は自分の高ぶっていた心が束の間、安堵するのを感じた。

その横で聞いていた烏城がすかさず隣にいた屯野に声をかける。

「でも、琢磨君。その人のやっている事は人を殺さないとはいえ、十分な犯罪です。詐欺で罪の無い人たちからお金を騙し取るなんて決して許せる訳がありません」

「あ、ああ。そうだな……解ってる」

思ったより強い口調で言われ屯野は思わず動揺し、曖昧な言葉で肯定した。

烏城の言う事は当たっている。確かにTファージを使い、この町でそのような詐欺をしているのは屯野自身、到底見逃せる問題ではない。――だが、

「それでも、その毬川もTファージの感染者で悪事を働いているとはいえ、市ヶ谷みたいに殺してしまうのはもう真っ平だな……」

その言葉を聞いて烏城の顔色が突如青ざめる。

「そ、それはそうですけど……」

烏城の動揺の理由は屯野にはよく解った。

町立図書館での戦いの際、烏城がTファージ感染者である市ヶいちがやに頭を砕かれ殺された事、そして屯野が烏城のライフルで市ヶ谷を殺した事や頭を砕かれ死んだはずの烏城がひとりでに蘇生した事。戦いが終わった後、それら事情を知らされた烏城はその全ての事に驚き、特に蘇生は自分の意思では無かったと言った。

(今、麗那れいなの頭の中では市ヶ谷の死が重くかってるんだろうな。多分、今の俺と同じように……)

ふと、屯野の中である違和感が沸き起こった。屯野は目を僅かに見開き、鵠沼の方を見る。

「――あれ? そういえば……おい、じいさん」

鵠沼はあさっての方を向いたまま感情無く静かに口を開く。

「今はいいが、外でこの姿のワシを呼ぶ時には『お姉さん』と呼んでくれよ。――何だ?」

「い、いや……その、どうして今更、俺たちにTファージ感染者――最後の怪人――の情報を教えてくれたんだ? ……市ヶ谷の事は俺たちに教えなかったくせによ」

長い間があって鵠沼がようやく屯野の方を向き、答える。

「まぁ、そう怖い顔をするな。今日、この情報をお前たちに与えるように言ったのは他でもなくその毬川まりかわ本人だったんだよ」

「鵠沼さん、どういう事ですか?」

烏城が鵠沼におずおずと尋ねる。

鵠沼はそれに淡々と答える。

「昨日ワシはお前達にも言った通り、毬川にも今日の深夜、町立図書館でこの町に毬川含め計四人いる感染者同士の戦いの場を設けた事を伝えた。しかし、毬川はそれを断り、代わりにこんな事を言いおった――――『その戦いの勝者の化け物に私の事を教えてあげて。あと、もし私と会うときはあらかじめアポを取るようにね。教祖というお仕事は存外忙しいものだから』――――とかのたまっておったよ。クソ、あいつは戦うことより金儲けの事しか考えておらん。ワシに言わせればあのような小娘など所詮しょせんは二流の詐欺師だ」


「もし、私たちが市ヶいちがや君みたいにすぐに自分以外の感染者を殺そうとする人だったらって、その毬川さんは考えないんでしょうか……。自分の命が危ないかもしれない状況なのにどうしてそこまで気楽でいられるんでしょう……? 何だか私、その人が怖いです……」


「畜生、ふざけやがって……!」


「ほれ、今じゃ名刺まで作っておる。毬川と会うつもりならこの連絡先に掛けてみろ」

鵠沼が懐から小さな紙片を取り出し、それをテーブルの上にダン、と勢いよく音を立て乗せる。その動作には鵠沼の毬川に対する嫌悪があらわになっていた。

「伝える事は伝えた。ワシはこれで帰るぞ。それじゃあな」

そう言って鵠沼はリビングに屯野と烏城を残し、屯野の家の玄関から静かに出て行った。



やがて屯野は名刺を受け取ってからすぐに家の固定電話からその番号へと掛けた。名刺に書かれた電話番号はどうやら毬川の携帯電話の番号だったようで、電話には毬川蝶子まりかわちょうここと、豚座守いのこざまもるがすぐに出た。

屯野は烏城にも会話が聞こえるように受話器を少し離して、彼女に前口上無しにTファージに関わる者のみに解る符丁を伝える。

「戦いの勝者だ。アンタに会いたい」

長い沈黙の後、やがて毬川の妖艶で甘ったるい声の返事が返ってくる。

『――へえ。声の感じからしてアナタ随分とお若いのね。いいわ。さっき、丁度集会が終わったばかりだし。今から会えるかしら?』

警戒心がまるで無い毬川の提案に屯野は思わず呆気に取られる。

「ち、ちょっと待て。それは――」

『私とアナタがこれから互いに敵対するか、静観するか、その関係について、今から話しておいた方がいいと思うんだけど?』

「あ、ああ……そうだな。――って待て待て、アナタだと? ……こっちは一人だ。妙な事を言うな」

『あはは、嘘をつくのが下手ね。声が震えてるわよ? アナタ今受話器を他の誰かに聞こえるように耳から少し、離してるでしょう?』

「……」

電話を持つ手に無意識に力が入り、キシと乾いた音を立てる。

『キー局が今放送してるニュース番組の音がアナタの荒い呼吸音と同じくらいの大きさで聞こえるくらい遠くにね。こんな内緒にしておきたい話をアナタがわざわざ受話器を耳から離すって事は今アナタの近くに仲間がいるって事に決まってるじゃないの。あの爺さんから色々聞いてると思うけど、アナタが今電話してる相手は詐欺師なのよ? ――私からしてみれば妙な事を言ってるのはそっちの方』

「…………」

屯野は苦虫を噛み潰したような顔をし、受話器の向こうの人物への悔しさを滲ませる。

近くで控えるようにいた烏城は声無く息をのんで、二人だと言い当てた毬川の手腕に悔しさよりも信じられないと、口に手を当て驚いていた。

詐欺師と言う人種を始めて相手にした屯野は言葉が出ない。

『公民館の近くに『クラム』という小さな喫茶店があるでしょう? 私今そこにいるの。そこで話し合いましょう』

そう言って通話は切れた。



五分後、家に少し出かけると家族へてて書置きを残した屯野は烏城と共に家を出て、指定された『クラム』という喫茶店へと向かう事にした。

その場所までは家からおよそ十分ほどの距離だったので、八月の猛暑と言うこともあったがあえて二人は歩いてその場所まで行く事を決めた。

家から出て二分ほど経った時、烏城がポツリと言った。

「琢磨君」

「何?」

「琢磨君は今から毬川さんに会ってどう言うつもりなんですか?」

「勿論、今そいつがやってる詐欺を止めさせる。そしてTファージを使う事も。町を救う為とはいえ俺はもうこんな物騒なものを金輪際こんりんざい使いたくない――――それに麗那ももうTファージを使ったら駄目だ」

「え……!? で、でも。わ、私は」

「プールで麗那が言ってた事は覚えてるよ。自分の腕の火傷を隠すためだろ? でも、あの爺さんが今朝俺に言ったんだけど、Tファージには副作用があるんだ」

そう言いながら屯野は今朝、烏城が屯野の家に来る前にリビングで鵠沼と話した事を思い出す。

Tファージは体を家畜である、豚、牛、鶏、いずれかの動物に変える力があるが、家畜に変身すれば劣悪な環境で育った家畜の膨大なストレスの影響を受け、その宿主の凶暴性が増すということらしい。

Tファージは強力な力を得ることが出来るが同時にその力に心が呑まれてしまう危険がある。


そして、その副作用が自分の友、市ヶ谷渉を怪人へと変えてしまい、屯野は怪人となった彼を殺してしまった。


屯野はその事を伝えた後、俯いて言う。

「俺は麗那まで殺したくない」

屯野の背から烏城が息をのむ音が聞こえる。そして、短く答える。

「…………解りました」

屯野はそんな自分の体内にもあるTファージへの恐怖を押し隠すように烏城の前を足音を立てながら歩く。

その後ろで屯野についてくる烏城の足音が小さく聞こえた。



「遅いわよ」

八分後、屯野達が『クラム』に入るなり、店の奥のボックス席から少し怒ったような女の声が屯野達を出迎えた。

店内はいかにも場末の店という感じで、かつては賑わいを見せていたという風に三~四十人は入れそうなほどの縦に伸びた広さはあったが、今は活気も無く空席だけが目立つだけだった。

店内の天井部に据えられた古いスピーカーからはノイズがかったボサノバを流し続けていた。

カウンター席にいる店主らしき年老いた男は時が止まっているのかと言う風に、微動だにせず安楽椅子の上で静かに本を読んでいる。頭が舟をこいでいて恐らく店主は眠っているのだろう。

魂のない死者の国のようなこの店内の奥で一人の女が店内に入ってきた屯野と烏城を見つめて、手招きしている。


その女こそが自分と烏城をここまで呼びつけた本人、高次生命変革会こうじせいめいへんかくかい会長である豚座守いのこざまもること、詐欺師の毬川蝶子まりかわちょうこだ。

見た目としては背中まで伸ばした銀髪を除けば特に変わった所の無い美人といえるくらいに屯野には見えたが、その頬はこけ、眼が窪んでいるので台無しだ。

その姿に栄養失調の女優のようだ、と屯野は思った。

衣服は大人しめの紫のタートルネックにドッグタグの様な首飾りを着けている。

女の歳は二十才後半くらいかそれ以上に見えた。

(こいつが教祖か。何か普通のオバサンに見えるな……)

そして毬川の傍にはアタッシュケースが置かれており、それは妙な存在感を放っていた。

毬川は自分の方へ近づいてきた屯野達に目の前の席を指し示す。

「それじゃ、とっととそこに座りなさい」

屯野達は言われるがままに毬川の指差す前の席に座る。

人が居るとはいえ、向こうが戦いを仕掛けてこないと完全に言えない訳ではない。屯野と烏城はいずれも座っている毬川の動きを注意し見ながら、警戒心を解かなかった。

「お互いの自己紹介は省くわね。アナタ達は私の事をあの鵠沼ってヤツから聞いて知ってるだろうし、私はアナタ達の事を別に知りたくも無い。私はただスムーズにこの話し合いを終わらせたいの。そして話し合いの前に、まずはこれを見てくれるかしら」

そう言って、毬川は傍らのアタッシュケースに手を伸ばし、それを屯野達と毬川とを隔てている何も乗っていないテーブルの上にどかっと乗せる。

「……?」

烏城は激しい音に驚きながらもアタッシュケースの載ったテーブルの方に僅かに身を乗り出す。

屯野も毬川の行動が解らず同じくそうした。

(何だ……?)

「おい待てって、オバサン、何を出すつもりなんだよ?」

「大丈夫よ。中からピストルや飛び出しナイフなんか出たりしないから。――あと私の年齢は二十九・・・。次、私の事をオバサンって言ったら冗談じゃなく殺すわよ――とにかく、私が開けるからアナタ達は中身を見て。話はそれから」

そう言って毬川は自分の方へアタッシュケースを寄せ、蓋を開ける。

「ほらアナタ達、こんなの見たこと無いでしょう?」

毬川はテーブルの上で開かれたアタッシュケースを中華料理店のターンテーブルを回すようにその場でくるりと半回転させ、その開かれたアタッシュケースの中身を屯野達の前に見せる。

その中身に屯野は目を見開き、驚きを隠せなかった。それはびっしりと詰まった札束だった。それが幾らなのか屯野には想像もつかない。

屯野の反応に満足したように、嬉しそうな毬川の声が屯野の耳に妙な含みを持って響く。

現生げんなま一億円。人によっちゃ一生かかっても拝む事は出来ないような大金よね。驚いたでしょう?」

「あ……ああ」

屯野はそのびっしりとつめられた札束に驚愕しながら、隣にいる烏城の様子を横目でこっそりと見る。

烏城は歯を噛み締め、驚きよりも眉間に皺を寄せたその表情には怒りすらあった。

その表情は烏城が初めて牛の怪人と対決した際にその牛の怪人に向けた敵意に満ちた表情だ。

「……詐欺で得たお金ですか。随分汚れたお金をお持ちですね。私にはあなたの持ってるそのお金は子供の持ってる木の葉のお金と同列です」

烏城にしては珍しいほど慇懃な口調に、言われた毬川は明らかに身の苛立ちを露にする。

「はあぁ? 何も知らねぇクソガキが。図に乗ってんじゃねえぞ」

途端口調が変化し、苛立つ毬川に屯野は驚き、身を僅かに震わせ烏城を見る。

「…………」

烏城は怒りのこもった目で、萎縮せずただ真っ直ぐに毬川を睨みつけていた。

「そ、それよりもその金は何のつもりなんだよ」

黙ってにらみ合う両者に、屯野が慌てて仲裁に入る。

「……それは示談金じだんきんよ。全部本物だから安心して。何なら一枚手に取ってみてみる?」

「……ま、マジでか」

屯野は手をためらいがちにそのアタッシュケースの中へ伸ばしていたが、その屯野が掴み取るよりも先に烏城は素早く札束を幾つかとってそれを眺め始める。

「本物です。琢磨君」

そう言って烏城は静かにその取り出した札束を元のところへと戻す。

お嬢様という家柄だからか、このような金額のお金に躊躇しない烏城に屯野は尊敬すら覚えた。屯野といえば手にする札といえば千円札くらいで五千円札はたまに見ることがあるが、万札など最後に見たのがいつか思い出せないくらいだ。

「おい、示談金ってどういう事だ?」

「私はまだこの町での私のTファージを使った金稼ぎを終わらせるつもりは無いという事よ。でも、私の手品の種を知ってるアナタ達は私の詐欺を止めさせたいと思ってる。そこの『お嬢ちゃん』の今の顔を見れば解るわ――だから、私は大人だから互いの意見の相違をお金で解決しようと言うわけ」

「…………」

「率直に言うわ。私の詐欺を半年間何もせず見過ごしてくれたらこのお金はアナタ達二人にあげるわ。どう? 一人頭五千万もらえるのよ。自分の良心を犠牲にするのに十分つり合う金額でしょう? これは今までの私の稼ぎの半分をはたいてるんだからこの私の人情に感謝して欲しいわね。でも、私はそこまでするほど自分が殺されないという安全が欲しいのよ。アナタ達は別の感染者と戦ったんでしょう? でも、私は戦うのって野蛮だし嫌いなのよね。何より金にならないし」

毬川の話を聞くうちに屯野は目の前の人物の金への執着を目の当たりにし、そのあまりの価値観の違いに気が狂いそうになっていた。

(な、何なんだよこいつは……ここまで金、金ってこだわりやがって……こいつ、本当に『人間』なのか……!?)

目の前で涼しげな顔で自身の考えについて話す毬川は紛れも無い人間の姿をしている。

だが、その口から出ている言葉はとても人間のものとは思えない。

屯野は身の内にかつて鵠沼と初めて会った時と同じ種類の恐怖を目の前の毬川蝶子という一人の痩身痩躯そうしんそうくの女に抱いていた。

「で、その私の詐欺を見逃すか否かの返事だけど、今その返事を欲しいの」

「……どうしてですか?」

「そうだ。こんな大きな金がかかった返事なんて数分そこらで決めれるものじゃない。何日か時間をくれ」

屯野も言うが、毬川は首を横に振る。

「それは駄目ね。いい? これは子供同士のお遊びの約束じゃないのよ。もし、今この場からアナタ達が何の約束もせず出て行った後で私がアナタ達に襲われないという保証は無いの。敵意が無い事を教えて頂戴」

毬川の妙に鋭い二つの目が屯野達を睨んでいる。

屯野は烏城の方を見て、これ以上毬川との話し合いは無駄だと、目で合図をした後、屯野達二人は同時に席から立ち上がる。

「――――ふざけるな。今、返事なんて出来るか」

立ちあがった屯野は毬川に向かって乱暴に言葉をぶつける。

どの道幾ら金を毬川から貰おうが、そんなものを貰ったところで屯野の考えが変わるわけでもないし、詐欺で稼いだ汚れた金など屯野は貰いたくなかった。

当然、それは一緒に立ち上がった烏城も屯野と同様のようだ。

「帰るぞ、麗那」

「はい。琢磨君」

ボックス席に一人残されて座ったままの毬川が出口の方へ向かってゆく屯野達の背に向け、ポツリと言う。

「言っておくけど、アナタ達が私の提案にイエスと言うまでは、私、アナタ達をここから逃がすつもりは無いから」

そう言ったのを聞き、屯野は振り向くが毬川はその場から一歩も動く様子は無い。

屯野は僅かに動揺したもののその追ってこない毬川の態度に安堵し、ドアノブに手をかける。

「うるせえ、とにかく俺たちはここから帰るからな」

カチャリ――――。屯野は烏城を率いて扉の外へと足を踏み入れようとしたが、


信じられない事にそれは不可能だった。


扉を出たすぐ傍にはいつの間にか四人から五人ほどの人の集団が扉を出た屯野達の周囲を外へ逃がさぬように取り囲んでいたのだ。

その集団の人間たちは皆が同じ、五~六十ほどの歳の所帯を持っているおとなしそうな女性で彼女らはその中で皆、不気味なほどに明るい笑みを屯野達に振りまいていた。


その女たちの中の一人が明るい声で言う

「いけませんよ。豚座いのこざ様のお話を聞かないまま帰るなんて」

そしてまた別の一人がさっきとまるで同じ抑揚の声で明るく言う。

「豚座様は我々、高革会の崇高な理念である『変革』をより多くの人に伝える為に、あなた達をその伝道師としてお選びになったのです」

また別の人の声。

「そしてその役目に選ばれたあなた達は今、この世界で最も豚座様の恩恵にあずかっているのですよ」

そして、また別の声。

「その豚座様直々のお話を聞かずして、あなたたちが帰られると豚座様は大いに悲しみます」

また別の声が続く。

「ですから今、私たちはこれからのあなた達の為を思って、今すぐに豚座様の元へお戻りなさいと言っているのです。豚座様を悲しませてはなりません。さあ。お戻りなさい」

彼女らの手が外へ出ようとする屯野と烏城へ真っ直ぐ伸び、その手はやんわりと、ただ確かな力を持って前へ進もうとする屯野達の動きを押し留める。

彼女らの口が皆同じように動く。

「「「「「お戻りなさい。お戻りなさい。お戻りなさい。お戻りなさい。お戻りなさい。お戻りなさい。お戻りなさい。お戻りなさい。お戻りなさい。お戻りなさい。お戻りなさい。お戻りなさい。お戻りなさい。お戻りなさい」」」」」


そして間もなく屯野達は彼女らに押されるがまま喫茶店の中へと戻ってしまった。

ドアにはガラスがはめられていてその前には微笑みながら直立する屯野達を押し戻した彼女たちの姿があった。

屯野はあまりの恐怖で全身が凍りついたようにその場から動けないのを感じていた。

心臓の場所に当てた手がまだ外に出た時に感じた恐怖で震えている。

「な、なな、ななな何だよ……!! な、何なんだよ!! アイツラはよぉっ!!」

泣きそうになるのを懸命に堪えながら屯野は誰に向けるでもなく感情のままに叫ぶ。

どこにでもいるような、屯野の母親のような歳の常識のあるはずの女性たちがあんなふうに狂ったように同じ言葉を繰り返す光景はまさしく狂気の沙汰だった。

屯野は頭を抱える。いつの間にか目には押さえ切れなかった大粒の涙が際限なく溢れていた。

(何だよアイツラは……! ふざけるな、ふざけるなよ……!!)

「た、琢磨君……」

烏城も動揺しているのか声はどこか虚ろだ。

屯野は烏城に泣いているのを見せたくなく、慌てて涙を拭き最大限気丈な風を装って答える。

「え? な、何……? 麗那、何か……言った?」

屯野は烏城の方を見る。烏城の目は屯野の方を向いてはいなかった。そしてその目に動揺の色があるのは明らかで、目線の先にはドアの向こうで笑みを浮かべている女の一人に向けられていた。

「あ、あの女の人……私、見た事があります……」

「……え?」

信じられない思いで屯野はもう一度、ドアの前に群がる女の顔をよく見てみる。

すると、そこには四月の入学式で見覚えのある顔があった。

参列した父母の中、群を抜いて厚化粧をしてきたその一人の女子生徒の母親の顔を屯野が見間違えるはずは無い。

「あ、ああ……! ……あれはウチのクラスの宮野の母さんじゃねえか……!?」

そして、いつの間にか席を立ち呆然とする屯野達の後ろに毬川が現れ、彼らの肩に優しく手を置いた。そして、二人に聞こえるくらい小さな声で毬川は聖母のように優しい声で話し始める。

「アナタ達がもし、こちらの提案に受け入れなかった場合はあの全員を人質にする覚悟もあるわ――いい? この話し合いはアナタ達がこの場所に来た時点で対等なんかじゃないの。さあ、これでようやくアナタたちがこれからどうすべきか、理解できたかしら?」

この場は話し合いの場で無く、脅迫の場だ。屯野達には選択する権利など無かったのだ。

屯野はこの場所まで警戒せず、のこのこと足を運んだ自分を激しく呪った。


――この毬川という女は最低最悪の詐欺師なのだ。屯野達は電話で毬川にこの場所を指定されたあの時点で既に騙されていたのだ。



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