「第二十四話」
「第二十四話」
屯野が市ヶ谷を倒し、数分と経たぬ内に施設全体の照明が点いた。
屯野のいた図書館の外はまだ雨や雷が止まなかったものの、停電はひとまず解決されたようだった。
しかし、屯野はそれに気付かずというよりそれに気付く余裕も無く、ただ床に倒れている人間の姿の死体となった市ヶ谷渉の前で立ち尽くしていた。
そして停電が回復してから時を置かずして、ロビーへと続く扉の方から男の奇妙な声の笑いが響き、その声の主は笑い続けながら屯野の居る方へ歩み寄ってくる。
その姿はチンパンジーのように背の曲がった白衣の老人――この殺し合いの場を設けた張本人。鵠沼玄宗だった。
「ひひ、ひひひひひ。いや――いや――。全て見ておったぞ。よくやったな屯野。怪人を倒したじゃないか。正義は勝つ――と言うやつか。話としては王道だが良い終わりだった」
鵠沼は屯野の近く、市ヶ谷が殴りつけた辞書の山に目をやり、また嬉しそうに笑う。
「辞書か。材質は吸水性の高いインディア紙。本来インクを染み込ませる為、吸水性の高い辞書の紙にお前はTファージの臭いのついた自分の汗を染み込ませ、結果あの怪人の嗅覚を逆手にとったと言うわけか。確かに、あの研究所で飼育していたあの豚の体臭はものすごかったからな。いやいやお前も中々頭を使えるじゃないか」
「うるせえ」
ようやく黙っていた屯野が口を開き、小さな声を出す。
鵠沼はその言葉を無視し、屯野の傍へ歩み寄って運動選手を労わるようにその肩を優しく叩く。
「ひひひ、照れるな照れるな。ワシは友と戦うお前を立派な男だと認めておるんだ。素直によ――――」
突如、音も無く鵠沼の細い体が突風に吹かれたように重力を失い、真横へ飛ぶ。
「は――――?」
鵠沼はそれ以上声をあげること無く、鵠沼自身が気がついた時にはその細い体が猛然な勢いをもって飛ばされており、景色が急速に後ろへ流れている。
そして二秒後。鵠沼は十五メートル以上離れた図書館の壁にその細い体を打ちつけ、背骨から内臓、やがて脳に至り、鵠沼の口からがはっ、と短く呻く声と共に大量の空気が押し出された。
(馬鹿、な)
鵠沼は襲ってきた痛みに動揺しながらも急遽Tファージで砕けた背骨等を急速に復元しながら、屯野の方を見る。
(ま、全く見えなかったのか……? アイツの……屯野の、攻撃が)
屯野が鵠沼に肩を叩かれたと同時に肥大させた腕はさっきまで鵠沼の居た方に真っ直ぐ伸びていた。
屯野の射抜くような鋭く開かれた目は遥か壁まで飛んで行った鵠沼の方を注視する。
「おい、クソジジイ」
明かりを取り戻した館内で屯野の声だけが響く。
「テメェの作った薄汚え玩具のせいで俺の友達が二人も死んだんだ。今更どのツラ下げて俺に会いに来てんだ。あぁ?」
鵠沼は慎重に起き上がり、呼吸を整え口を開く。
――落ち着け。Tファージの戦闘において蜂を使えるワシは屯野を遥かに凌ぐ。
「……故意ではない。ワシは無作為にTファージを感染させた。そして発症したのが偶然お前とあいつらだったと言うだけだ」
「うるせぇんだよ!! 偶然だろうと何だろうと、お前のせいで……麗那や市ヶ谷が……!!」
「…………」
鵠沼は叫ぶ屯野の表情と声に怒りと悲しみが入り混じっているのに気がついた。鵠沼はそれを見て眉をひそめる。
(まずいな。屯野のヤツ、ショックのあまりか心が暴走しとる。所詮は一介の高校生というわけか)
鵠沼は屯野に向かって身構え、自分の全身を無数の蜂へ変える準備をする。これならば屯野から攻撃を受けてもダメージは無いに等しい。
鵠沼は屯野の方へ片方の手を広げて自分の前に出し、声をかける。
「止めろ。今お前がワシと争っても何の利益も無い。お前は蜂に姿を変えたワシに無残に殺されるだけだ。それに、まだこの町に残っている怪人はどうする?」
その言葉を鵠沼が言い終わるや、鵠沼の言葉に応じるように屯野の顔が不安に歪む。屯野の口から何か言葉が出かけるもののやがて口をつぐむ。――よし、まだ交渉の余地はあるか。
鵠沼は間をおかず、続けざまに言い放つ。
「言ったはずだ。この町の感染者はお前と烏城麗那、市ヶ谷渉、そしてあともう一人がいると。市ヶ谷も、烏城も頭を砕かれ死んだ。そしてさらにお前まで死ねば、誰が最後に残ったその怪人と戦える?」
屯野の表情に不安が混じる。
「そ、それは……」
「お前がワシと争うのなら、何れもそれは最後の怪人を倒してからだ。もう遅い。屯野、今日はもう家に帰れ。その怪人の事はまたおって連絡してやる。この場の後始末はワシに任せろ」
「ク、クソ……! 畜生っ……!!」
屯野はその場で唾を吐くように俯き、毒づいた。変化させていた腕が元に戻る。
とりあえず屯野は鵠沼の言葉に不承不承ながらも納得したようで、屯野は通りすがり際、鵠沼に何もしないで横切り、そのまますぐそばの図書室とロビーを繋ぐ扉から出て行った。
その屯野の足音が離れていったのを聞き、鵠沼は屯野に聞こえないように短く溜息をつく。
(全くさっきの屯野の攻撃。あれは心臓に悪いぞ……)
鵠沼はさっきまで感じていた体の痛みを思い出し、皺くちゃの顔でしかめっ面を作る。
遺伝学者であり、主に研究の中で多くを過ごした鵠沼玄宗にとってあれほどまでに激昂した屯野の――人間の表情を見たのは生まれて初めての事だった。
鵠沼玄宗が改変ウィルス――Tファージ――を作り、この天見町の多くの人間に感染させた大きな目的はTファージによって体の組織を変え、人ならざるものと化した怪人達が町で争うのを望んだからだ。
そして、鵠沼は自身の好奇心から生まれた欲求を叶えることに成功し、結果その戦闘は自分の心を十二分に満足させるに至った。――だが、鵠沼は怪人同士の戦いが終わった今、六十余年の人生において感じたことの無い、消化不良を抱えたような、妙な気分になるのを感じていた。
鵠沼は自分がこのTファージを人々に感染させることで町の中でこのような死人が出る事は解っていた。そしてTファージが世間に発見されるリスクを考慮して幼い感染者を自ら手にかけた事もあった。
人を殺し、殺される事に躊躇いは無い。ただ、自分の好奇心を満たすだけだ。鵠沼はその為に二カ月前のあの時、日本第一遺伝子研究所の職員十五名近くとその時居合わせた公安警察官一名を迷い無く殺したのだ。
(殺すことに、躊躇いなど……無いはずだ)
鵠沼は声に出さず心の中で呟き、自分自身の気持ちを確認する。しかし、心の中からまるで自分とは別の人間の意見のように疑問が沸き起こる。
(なら、何故暴走気味だった屯野を何故あの時殺さなかった? 殺す事は出来たはずだ。――Tファージには強力な復元作用があるが、体内に入った毒の自浄は出来ないからな。――精神が不安定なヤツは何をしでかすか解らんからすぐに殺しておいた方がよかったはずだ。だが何故、ワシは殺さなかった……? ――――……まさか、躊躇ったというのか。この鵠沼玄宗が)
鵠沼は思わず額に手を当て、半分閉じた目を見開いた。
あの時の、冷静でなかった屯野の表情を思い出す。
自分はあれほどまでの感情のある、怒りに駆られた顔を自分は人前で見せた事があっただろうか。思わず鵠沼は自問した。
鵠沼玄宗の感じた躊躇の理由とは生まれて始めて感じた他人を殺してしまった事への罪悪感だったのだ。
怒りに駆られた屯野を鵠沼は無意識に気の毒に思ってしまっていたのだ。
初めて、友を殺された者の怒りに燃える人間の顔を見た瞬間。鵠沼は自身の行動が生み出した結果の意味を知った。
やがて鵠沼は目を閉じ、その考えを振り払うように首を振って、屯野の出て行った扉の方へ向き直る。
(考えていても始まらない。もうやってしまった事だ。……そうだ。今更何を考えている)
鵠沼は白衣の背の裾から大量の蜂を放ち、後始末は目的に応じて姿を変えることの出来る「彼ら」に任せる事にして自分も屯野と同じくこの場から帰ろうと思い、扉の方へ向かう。
ところが扉を出てすぐ傍には図書室のほうに背をむけたまま立ち尽くす屯野がいた。
「何だ、まだ帰っていなかったのか」
鵠沼はさっきまで感じていた自身の動揺を隠すように、出来るだけそっけなく屯野に声をかける。だが、声をかけられた屯野の反応は無い。屯野はその場から一歩も動くことなく、ただ扉の開かれた図書室からの光で照らされ、烏城の死体があるロビーの中を見続けていた。屯野の口が震えながら動く。
「……おい、ジジイ。お前、烏城麗那は死んだって言ったよな?」
屯野の後ろにいる鵠沼はああ、と頷いた。
「その通りだ。Tファージ感染者は脳を大きく損傷すると、復元機能を作動できず事実上死ぬ。お前が倒したあの市ヶ谷もそうだっただろう」
鵠沼はこれまでの第一遺伝子研究所で得られたトランスFで生まれた生物に対しての実験結果を元に答える。
「じゃ、『あれ』は何なんだ……!?」
屯野は掠れた声で言って、その場所から脇へ退ける。その瞬間見えたロビーの中の光景に鵠沼は絶句した。
薄暗いロビーの奥から何かの音がする。
音は市ヶ谷に頭を潰され、血まみれになって横たわっていた烏城の死体から出ていた。
烏城の首の無い死体が打ち上げられた魚のようにビクッ、ビクッ、と血まみれの床の上で腕や腰をカクカクと動かし、のた打ち回っていたのだ。
薄暗い中でも解るほど、烏城の死体は見えない力に操られるようにその場でビクビクと動き回っていた。
「…………ど、どうなってる。ワシは知らんぞ。何だあれは」
思わず声が震える。――目の前で自分の理解できない事が起こっている。思わず、後ろの図書室で死んだ市ヶ谷の死体がある方へ振り返る。市ヶ谷が動く様子は無い。死んで尚、烏城だけが動いているのだ。
やがて、のた打ち回っている烏城の体にゆっくりと変化が訪れる。
首の切断面から血の泡がブクブクと一つ二つと吹き出してきたのだ。やがて、その泡が吹き出す速さが増してゆく。
鵠沼の隣でその様を見守る屯野が口を開く。
「Tファージが作動してる」
「何?」
「麗那は自分のTファージを作動させてるんだよ。この臭いはそうだ」
馬鹿な――思わず鵠沼は隣の屯野にそう言いかけたが、それ以外に目の前で起こっている現象を説明することは出来そうもなかったので、鵠沼は口をつぐみ、目の前で起こる現象に見入っていた。
そして、また変化が起こった。
烏城の首から上が風船ほどの大きさの多くの泡に覆われた頃、それはたちまち束ねた紐のようになって形を変えてゆく。――筋肉だ。
「信じられん。Tファージを動かす宿主は死んでいるというのに、どうしてTファージは頭部の『復元』を行える……?」
――復元。今、屯野と鵠沼が目の前で起こっているのは烏城麗那が損傷した頭部を復元している所だったのだ。
間もなくして烏城の頭部の復元が終わり、烏城の首から上は髪の毛まで元通りの黒く真っ直ぐな長髪をもった元通りの顔があった。
烏城の損傷は頭部だけだったので、まさしく傷一つない烏城の体がロビーの床に意識を失った白雪姫よろしく横たわっていたのだ。
やがて、烏城は横たわっていた体をもぞもぞと動かす。その動きにさっきのような不自然さは無い。
そして、もそもそと体を起こした烏城は図書室から漏れ出た明かりに目をしかめつつ、辺りを見渡す。
「う、うん……私どうして、こんな……ところで」
その口から出た声も完全に烏城麗那のものだった。
「れ……麗那……。い、生きてるのか……?」
鵠沼の隣にいた屯野が上ずった声を出す。
「あ……た、琢磨君……?」
烏城がそう言い終わる前に屯野は烏城の名前を涙声で叫びながら前へ駆け出していた。
屯野は烏城の手をとって自分の額に押し付け、子供のように泣きじゃくっていた。
立ち尽くしたままの鵠沼は信じられない思いを味わっていて、驚きに目を見開きながら動揺した自分の頭の中で同じ疑問が何遍も繰り返し、わき起こっていた。
(そんな……馬鹿な。宿主が死んでしまったのならば復元出来るはずが無い。復元出来るはずがないのだ。何らかの指示なくしてTファージは起動しない。ま、まさか……――――Tファージが意志を持ったというのか……!? 烏城麗那のTファージが自意識に目覚め、損傷した自らの宿主の体を復元した……?)
だとすれば、烏城麗那の持つTファージは最早ウィルスでもナノマシンでも何でもない。烏城麗那のTファージは独立した意識を持つ一つの生物へと変化したのだ。