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「第一話」

「第一話」


西暦2026年  六月 日本。


科学者という人種は嫌いだ。――公安警察官である久住義人くずみよしとはそう苛立ちを募らせながら目の前に真っ直ぐに伸びたリノリウムの床を歩いていた。

彼の苛立った心境を表すように彼の履いた革靴が床を叩き、カツカツと高い音を響かせる。

久住の苛立ちは最早、三十八になろうかという彼の僅かに皺の刻まれた額にありありと表れ話しかけるなという雰囲気すらあっただろう。

そんな久住のすぐ隣に付き添うようにして白衣を着た痩身の男がいた。

「――いや、手前共も本来ならば所員全員でお迎えに上がりたかったのですが何分なにぶん急を要したものでして。その点では礼儀知らずで誠に申し訳ございません」

そう男は興奮したように素早く詫びの言葉を久住にくし立て、久住の顔を申し訳なさげに伺った。

その男は歳は六、七十程か禿げた頭と頬骨のこけた青白い顔。男の後頭部に生えた長い白髪は男のこれまでの年月を感じさせる。白いあごひげをたくわえ、皺だらけのチンパンジーのようで前に突き出た歯茎や猫背になった背格好が印象的だった。

男は早足で歩く久住について来るので精一杯なのか息切れを起こしているようだった。

医者がよく着るような糊がぱしっと利いた清潔な白衣に身を包んでいる年老いた男と、ダークスーツで身を包んだ久住の二人は傍から衣服の色は『ダークスーツの黒』と『白衣の白』とで相反し合い、互いは相容れない存在のように見える。

また体格においても久住の方がその研究者風の男より遥かに上背が高く、骨格もラグビー選手と平均的な中学生程違いがあった。

(当然だな。この男と私は生きている世界が違う)

久住は歩を進める中、その痩せこけた男を見て中学の時に理科の授業で見た骨格標本を思い出した。

やがて久住は短く息を吐く。

「何度も言うようですが、自分にそんな気遣いは必要ありません。自分は今朝の貴方達の連絡を受け、上層部から査察を命じられている身なのですから」

「いえ、それでも手前共は――――」

久住は足を止め、強引に傍にいた白衣の男の襟首を目にも留まらぬ動作で素早く片腕だけでつかみ、男の体を傍の壁に打ち付けた。予期せず事に男は抵抗出来ぬまま、うぐっと短く呻き、顎の真下には大木のような久住の真っ黒な腕が襟首を掴んで離さない。

久住は白衣を纏った痩身の老人を腕一本で冷たいコンクリートの壁へと貼り付けていた。

久住は歯を硬く締め、鬼のような形相で片手一本で持ち上げた目の前の老人を睨みつける。

「本来ならば俺は貴様らのような輩に付き合う事も無かったんだ。俺に対しての礼など貴様らのような科学者に初めから期待していない」

言い終わるや、久住は男から手を離した。

不意にいましめを解かれ、床に落とされた白衣の男は床に片手をつき、もう片方の手で胸を押さえながらぜいぜいと喘いでいた。久住はその苦しそうに息を確かめる老人の姿を静かに見下ろした。――みっともない。これがこの研究所のたる男の姿か。


『日本第一遺伝子研究所』。それが今、久住がいる場所の名前である。


その場所は日本の行政機関の一つである農林水産省が四年前にあるプロジェクトを発表し、プロジェクト発足間もなくして莫大な資産を投じ、プロジェクト発表の二年後に東京湾上に完成させた日本最大級の遺伝子研究施設である。

海を巨大なコンクリートの箱舟で敷き詰め、山というほどの土砂を詰め込んで、多くの人員と金を使い、その果てに出来たのが今、久住がいる研究施設だ。

そして久住は完成して既に二年経つこの研究所の為にそれらの手間や金、人材を費やす程の価値があったのかと、政府に不信を抱かずにはいられなかった。


久住は『科学者』という人間の性格を知っていた。

彼らは自らの研究に対して莫大な費用をお構いなしに要請する。それは一本の試験管から数億する高額なゲル電気泳動装置まで、大小様々彼らはそれら研究機材を政府へ要請し、政府は何れも湯水のごとく、プロジェクトの費用と称し、成果を見るまで際限なく金をつぎ込んでゆく。

久住の目の前にいる科学者にとってはおそらく研究こそが全てであり、それにかかる金などは気にも留めていない。――そうでなければ、六兆円・・・という膨大な金が掛かるものか。科学者という人種・・は費用対効果という言葉も聞いた事がないのだろう。


久住は常々思っていた。科学者はこちらに都合のいい事ばかり触れ回る一種の詐欺師のような存在だと。成果は膨大な利益をもたらすと言うが、そのくせその成果は十分に保障できないとくる。彼らの甘言に政府が惑わされ、多くの財が泡となったのを久住は少なからず目の当たりにしてきた。

そのせいか、久住は大学時代、科学を専攻せず法学を選んだ。その後、警察学校に進み一定のキャリアを踏み公安警察査察官へとなった。久住は科学を人一倍嫌悪していた。


久住の下げた目線の先にはまだ白衣を着た年老いた科学者が研究所の真っ白い床に手を着け喘いでいる。

その男はこの研究所の所長であり同時にプロジェクトの総責任者でもある。

彼はかつて、医学や病理学を専攻していたが現在においては遺伝学、遺伝子工学に精通し――噂ではあのヒトゲノム計画にも一時は名を連ねていたらしい――類まれなる頭脳を持つ遺伝・遺伝子工学の権威の一人とも言う。

近年、彼は周囲の人間を憚るように姿を見せず、何年もの間所在が知られていなかったが、このプロジェクトの発表とほぼ同時に遺伝学者として表舞台に立ち、プロジェクトの責任者となり多くの人間から歓迎されたという。

が、正直、久住にはただの老いぼれじじいにしか映らなかった。

屑が――。そう久住が眼下でうずくまる老人に言おうとした時だった。


「―――――ひ……ひひ」


一瞬、久住はその声がどこから出たのか解らなかった。

間もなくよろよろと起き上がった白衣の老人はその皺の刻まれた顔を久住へ向けた。その顔は不気味に笑っていた。

久住は間もなくさっきの声が老人の笑い声という事がわかった。老人は目の前の暴行を振るった久住に怯えていない。久住のしたことに対して笑っていたのだ。

白衣を着たチンパンジーのような老人はヤニで汚れきった黄色い歯をむき出しにして、口角を歪に吊り上げた不気味な表情を久住に向けていた。

「ひ……ひ……」

僅かに息を切らして、不気味にゆがめた口の端に泡を溜め、男は笑う。

久住は今まで生きてきた中でこれほどおぞましい表情を見たことが無く、目の前の怪奇にたじろいだ。久住は自分の足元を見て驚いた。足が得体の知れない恐怖に震えている。

白衣の老人は引きつった笑顔をやめ、再び久住がこの研究所に来た時と全く同じの柔和な表情を作って、久住にその日の天気を聞くような穏やかな口調で語りかける。

「まぁ、言わせて貰いますがね、――――手前からすれば礼を欠いとるのはあんたの方なんですよ」

「何だと?」

いつの間にかその老人は久住の前に曲がった背を向けて立っていた。

「ついて来てください」

後ろの久住を見ようともせず、有無を言わさない響きを含んでそう言った老人は前へと歩を進める。

今、久住の目に映ったその背には何故だか、得体の知れない老人の自信が感じられた。


二分後、久住が老人に率いられ辿り着いたのは研究所のある一室だった。

その部屋は誰も居ず、さほど広くなく、床、久住の左右後ろが白い壁、唯一正面には部屋の壁幅ほぼいっぱいに巨大なガラスが張られていた。部屋の中には横二列に波のようにうねったフォルムの椅子がそれぞれ十脚程並べられていてそれらは、研究所の中と同じで床や天井と同じくウンザリするほどの白で彩られていた。――装飾や色彩の富まないこの『異世界』に久住は気がおかしくなりかけていた。

久住は老人と二人きりの誰も居ない白い部屋の中で目頭を押さえながら溜息をつく。

部屋の奥の方からしわがれた声がした。

「どうぞ、こちらから下の様子をご覧ください」

老人はガラス張りになったところへ久住を誘導する。

久住がそちらへ近寄ると、ガラスのすぐ下では老人と同じような白衣を着たここの研究員達があらゆる機器に目をやりながらひしめいている。

なるほど、椅子が劇場のように並べてあったのはこの部屋が下で行われる研究を見るため場所だからなのか。久住はそう納得した。

久住は並んであったうちのひとつの椅子に腰掛け、ガラスの下に見える光景に注視した。

久住の視界の大部分を占めているのは階下の研究者達が取り囲むようにしてある強化ガラスなのか、薄く透明な素材に囲まれた人の倍ほどの高さのある大きなケージだった。ケージには何本ものビルに接続された排水パイプ程の太さの管が接続されていた。

ケージの中には百を優に越す程の小さく赤い眼、白く短い体毛のネズミの群れが一つの固まりのようになっておよそ数百のネズミがひしめいている。

彼らはケージを埋め尽くし短い泣き声をいくつもあげていて、膨大な泣き声は久住の目の前のガラスをも透過してしまう。

「これは何だ」

「下の『奴ら』はとある免疫を取り除いたマウスです。これからあなたに見ていただくのはある動物実験です」

「俺に専門的な知識は無いが」

「何、公安のあんたにハナからそんなもの期待しとらんよ。ひひ」

老人は恐れもなくそう言いのけると、座っていた久住の傍へと腰を下ろし、開いた膝の上で組んだ手の甲に顎を乗せ、きばんだ歯を見せ不敵に笑う。

「何だと?」

久住は不快感を露にし思わず立ち上がったが老人は表情を崩さず、眼下の光景のみを見つめていた。

「これから手前が見せるのは、言わば生命の改変とでもいいましょうか。――農水省のプロジェクト発足から二年後、この研究所で我々はトランスジェニック(遺伝子組み換え)技術の研究に努め、そしてある技術・・を完成させました。――――……スライドだ。早くしろ」

白衣の老人が下にいる研究員たちに指示したのか、短く呟くと、久住の目の前のガラスがブン、と音をたて久住達二人の視界を遮るように目の前のガラス上に画像と文字が投影された。――――このガラスはリアスクリーン(透過型スクリーン)、か。たかが説明のために贅沢なものだ。

目の前に写された画像は子供が描いた昆虫のようで弓矢のような形をした体の尾部に蜘蛛のような足が六本ほど生えていた。そしてそれは黒地の背景に青色で描かれていた。

横にはそれに付随した情報なのか久住の理解できない科学の専門用語を交えた文字が英語で並んでいた。

久住は目を左右させて懸命にスライドを見るが、画像以外は読み取れるものが無かった。

「――皆目解らんな。これは何なのだ」

「手前がこの研究所で作成したもので、手前はこれを『トランスファージ』と名付けました」

「ファージ……? これはウィルスなのか?」

「まぁ効率を重視し、結果そうなってしまいましたがね。生態由来の細胞を溶菌 (殺さない)しない様に作ったので厳密にはナノマシンでしょうか。手前は遺伝学者で病原微生物学は専門ではなかったので、思ったより時間が掛かってしまいました」

「病原……だと? ふざけるな、お前たちは遺伝子の研究者だろう!」

久住はからかわれてると思い、隣に座っている老人に詰め寄った。

「――フン、公安の使い走りの若造が。感情のままにがなりおって。冷静になれ」

「――――!」

久住は思わず声を呑んだ。目の前の老人の声は冷静そのもので、途端に初めの久住のご機嫌を伺うような弱い老人の影はなく、階下を見つめる老人の自信に満ち溢れた顔つきはこの研究所の長の威厳がたしかに感じられた。

久住は老人から目を背け、非は自分にもあったと認め、不承不承ながらも座りなおした。

老人はそれを見て、視線をガラスへ戻し、静かに口を開く。

「お前はワシに言われたものを見ればよいのだ。使い走りの分際で生意気な口を叩くな」

老人の口調は初めの頃の慇懃な口調から変わっていた。

「あの下のマウスの血中にはそれぞれこのTファージを打ち込んである。さぞ驚くだろうよ――ケージ内の電磁マットの動作確認。確認後、直ちに作動のカウントダウンを始めろ。スライドを消してこの若造に見せてやれ」

『…………確認終了。マットの作動コードを入力しました。カウント0でに自動的に作動します―― カウントを読み上げます。作動まで10 』

突如、久住の背後のスピーカーから機械質な声が響く。同時にスライドに映っていたTファージの映像が消え、ガラスの下のネズミのひしめくケージが見下ろせるようになった

久住は反射的に声のしたスピーカーの方を振り向いていた。老人と目を合わせずスピーカーの方を見ながら、

「何をする気だ」


カウントは秒数ではないのか独特の長い間を持ってゆっくりと進む――『 9 』


「査察に来た小僧。前を向け」

久住は老人の方を振り向く。その時老人はゆっくりと椅子から立ち上がり、眼下の実験室に見えるケージを見ているようだった。嫌な予感がする。この老人の得体の知れぬ自信。動揺しないたたずまい。久住にとってそれら全てが不快に見えてくる。


『 8 』


不気味な間にたまらず久住も椅子から立ち上がっていて、久住の内にある動揺を隠しきれずに老人に詰め寄る。

「何をする気なんだ!!」

老人は背後に詰め寄ってきた久住の方を見ようともしなかった。

「言っただろう。生命の改変だと――そのままの意味だ」

老人の言葉は信じられない。しかし、その自信に満ち溢れた老人の声に久住は今や恐怖すらしていた。あの時、この部屋に来る前、研究所で思わずたじろいだのはその底知れぬ自信に怯えたのか。

「出来るわけがない。そんなもの空想だ!!」

久住は思わず立ち上がったまま老人の前で両腕を広げる。老人の目にも久住が恐怖しているのは明らかだ。


『 7 』 


久住の声は老人には届いていなかった。

「農水省の掲げた『家畜工場』。そのプロジェクトの目的は安定した量の食肉を国民へ供給する方法を見出す事。……ワシはその方法を見出した」


『 6 』


ゆっくりとしかし確実にカウントダウンが刻まれる中、老人は座ったまま淡々と言葉をつむぐ。

「Tファージは対象の体内で連鎖反応を起こしTファージに組み込まれた『あるDNA』を増殖させ、その対象の生体由来のDNAを改変する」

老人は突き出た黄色い歯を見せ、内なる感情をあらわにするように笑う。

「ワシの見出した方法と言うのがつまり、それだ。DNAの改変。Tファージを使い、生き物を構成している物質を内側から変形させ、結果。生き物は『違う生物』に作り変えられる」

「な……」


『 5 』


「膨大に生まれるネズミはTファージによってたちまち豚や牛、鶏といった食肉に使われる家畜に変身・・してしまう。どうだ面白かろう。――ま、下のケージは場所の広さの都合で皆、鶏に変わりおるがな」

久住は目の前の老人は魔法のような事を平然と触れ回る癖に、この老人が嘘をついてるとは思えず、そんな自分に激しく嫌悪し、久住は無意識に声を荒げていた。

「お……面白いだと? 生物兵器にも使えるような物騒なものを国単位で運用できるか!」

「安心しろ。Tファージは確かにウィルスだが、かつてお前達のような小賢こざかしい役人が使っとった野蛮なものではない。感染経路は血液感染のみ、それも人間をはじめウィルスの侵入を防ぐ免疫がある生物には殆ど感染する事が無い。下のマウスはノックアウトマウス(特定のウィルスに対しての免疫を除いたマウス)だ。よほどの事が無い限り感染はしない。何しろワシが作ったのだからな」


『 4 』


「……ところで、あのマウスに既にそのウィルスを既に打ってると言ったな。しかしお前の言う変化は見られないぞ。はは、何が『変身』だ。失敗してるじゃないか」


『 3 』


「Tファージが生態由来のDNAを改変し増殖させる連鎖反応、つまり改変トランスを行うにはワシが設定した条件が必要だからだ――――微弱な電気ショック。それが今、奴等・・の居るマットにあたえられる。見ておけ」

「な……」

久住の目は自然とガラスを隔てた眼下のケージに注がれた。


『 2 』


老人は口元を引き締め、厳粛な面持ちのまま、静かに口を開き、下の研究員たちに話しかける。

「あー……聞こえるだろうが、下の研究員諸君に手前は改めて礼を言いたい。隣に居るこの査察の目を明かす日が来たことを誇りに思う。しかし、これは同時に諸君らの目を明かす事になる。諸君らの目の前にあるケージ。その中の二百十六匹のマウスは鶏のDNAを組み込んだTファージに感染していると言ったが、それは実は少し違うんだ」


『……所長?』


スピーカーからよく解らないと言う声が響く。


久住の隣にいる老人は突如、歯をむき出しにし、皺だらけの顔で不気味に笑った。

「二百十六匹の牛豚・・の肉に埋もれて死ね。このTファージはワシのものだ」


瞬間。久住の目の前で爆発が起きた。少なくとも老人の言葉の直後の久住にはそう言うしかなかった。


「馬……鹿……な……」

茫然自失。久住は目の前で繰り広げられる光景が信じられず、いつの間にか脚が力を失って床に膝をついてしまった。

ケージの中で電気ショックを受けた二百十六匹のマウスが突如、何倍何百倍もの体積を持ってそのネズミの体を激しく膨張させたのだ。

ネズミの体内の牛や豚のDNAを組み込まれたTファージが電気ショックにより活性化し、その働きを存分に発揮した。

当然、ネズミを入れていたケージは二百十六匹の牛豚達の膨大に膨れ上がった体積を収めきれるわけがなく、0.1秒もしない内に破裂した。

久住のすぐ目の前では巨大な牛や豚が異世界から飛び出してくるようにケージのあった場所を中心に文字通り肉の爆発が起こった。

スピーカーからは実験室の惨状が出力され、久住達にも伝わってきた。

ネズミのいたケージと下に居た研究員達とを隔てていた強化ガラスも瞬時に内側の膨張する肉の圧力に耐え切れず破裂し、やがて怒号、悲鳴など下に居た何十人もの研究員の断末魔が改変トランスされた豚や牛の鳴き声に混じっていくつも上がる。

しかし、久住の体感時間で十秒を過ぎる頃にはそれらは全て止み、下と繋いでいた音声スピーカーのザーザーと言う雑音も消えうせた。下に居た研究員は漏れなく牛豚の肉に押しつぶされ圧死したのだろう。

改変トランスされた幾つものネズミだった生き物たちが今や牛や豚の姿となって、その肉は目の前のガラスに押し付けられている。

ブァーブァーグォーグォー、と久住たちの居る所までせり上がって不気味にひしめき合う家畜の鳴き声がいくつもガラスを透過し響く。

目の前を二百頭を越す牛豚の肉が久住達のいるところまで競り上がり、目の前の景色を家畜の肉が所狭しと覆っている。その様はまさしく肉の壁そのものだ。

ここのガラスは下の階よりも分厚く頑丈なのか、久住や隣の老人も膨張した肉に押しつぶされる事はなかった。

久住は目の前で起きた事を自身が三十八年積み上げてきた常識で受け入れられず、気が狂いそうになっていた。――――何だ、ここは。魔法の国か。夢に決まってる。

しかし、そんな久住の淡い想像を裏切るように目の前のガラスが研究室から起きた肉の膨張を受け入れ、ギシ、と音を立てる。

「信じられんか」

ガラスの前で膝をついていた直ぐ背後から老人の声がした。

慌てて、久住は立ち上がり、恐怖でおぼつかなく駆けながらそれでもどうにか近くのコンクリートの壁に寄る。

「これがワシの作りあげた『Tファージ』だ。生物を遺伝子を書き換え改変トランスさせる究極のバクテリオファージだ。このように例として繁殖力に優れるマウスへ牛豚のDNAを組み込まれたTファージを組み込む事で瞬時に食肉となる家畜を量産させる。そう、国が掲げたプロジェクトの目的である安定した食肉の供給はこれで実現可能となる。素晴らしいだろうが? まぁもっともTファージの全てのデータ、設計図、それを知る研究員はたった今、肉に埋もれおったがな」

老人は笑う。狂ったように、目の前で起こった残虐な現象に巻き込まれた者達へ一瞥もくれる事無く、ただ己の成果を誇示した喜びなのか、ひたすら笑い続けている。

久住はその狂喜に満ちた表情を浮かべ年甲斐も無く不気味に笑う老人を睨みつける。

狂科学者きょうかがくしゃが……!!」

「この貴様等のような無知蒙昧むちもうまいな輩にこの研究成果が解るとは思っとらん。仮にこの国の奴等がTファージを解析しようとし、複製を試みようとしても解らんよ。DNAを構成する四塩基――アデニン シトシン グアニン チミン ――の単語のみで表され、その文章のデータ量にしてCD-ROM八百枚超だ。DNAシークエンシング(DNAのデータを全て把握する事)すら出来まい。これは……Tファージはワシだけの物なのだ」

白衣の老人はおもむろに枯れ木のように細い右腕を久住のほうへ差し出す。

「――――?」

するとどういうことか、白衣の右の袖口から伸びていた腕が瞬時にえ、伸びていた袖口がはらりと落ち、床へ向く。

ところが、袖の中からは腕とは別の、黒い雲のようなものが不気味な音を立てて伸びてきた。それは何千匹ものの生物で、指先ほどの小さな体を持ったそれらは一匹一匹が一つの群れをなして宙を浮遊していた。ハチだ。


久住が見たことだけを言えば、目の前の老人は自分の腕を蜂へと作り変えたのだ。


「な、何だ……? これは……?」

無数の蜂の耳障りな羽音が部屋中に満ちる。種類は皆同じだ。久住は理解した。最も攻撃性が高く、毒性の強いオオスズメバチ。これだけの数、刺されれば間違いなく死ぬ。

ところがそのスズメバチは部屋の中空をいつまでも滞空するだけで、久住に襲い掛かってくる素振りはなかった。そう、まるで目の前で久住という獲物を見つめ、おとなしく居直っている白衣の老人の意志に従うように。

「Tファージに感染しているのはあそこのネズミだけではなくワシ自身・・も感染していてな」

老人は袖から生えた蜂の群れを久住に見せ付けるように、蜂の群れを自分の周りでグルグルと回らせる。

「さっきも言った通り、人間を含むあらゆる生物は体内に侵入したウィルスから身を守る抗体免疫が存在している。だが、これには例外があってな。あらゆる生物の中でも、このワシのように稀にある特定のウィルスに対しての免疫作用が働かないものも中にはいる訳だ」

片腕を蜂に変えた老人は動揺しきっている久住を見つめ言う。

「Tファージはワシが作り出した技術なのだ。Tファージに感染した人間は意のままに変身する事が出来る。遺伝子情報さえあればこのように自分の腕を蜂の群れに変える事も可能だ。面白かろう?」

「この研究所が目指していた食肉の安定供給を実現させる、などとうたっておきながら、お前は日本の政府や国民を騙したのか」

「騙した――などと人聞きの悪い事を言うな。ワシら研究者はお前ら役人どもと違って彼らを決してないがしろにしたりはせん。このワシは『人類はあらゆる生物に変身できる』と言う、人類の更なる進化の可能性を提示したのだ」

蜂の動きが機敏になり、むき出しにした毒針は一斉に久住の方へ向く。一斉に飛び掛るつもりだ。

久住は歯を食いしばり、覚悟を決めた。

「俺を殺すか。こんな事をして、国へ楯突たてついてどうなると思っている。一体何が目的だ。 鵠沼玄宗くげぬまげんそう

久住は初めて目の前の老人の名を呼んだ。

「かつてこの国を捨て、野心や出世欲の無い世捨て人だったこのワシに大層な目的などは無いよ。あるのは子供の頃にあった純粋な好奇心だけだ」

老人――鵠沼くげぬまと呼ばれた男が言い終わると同時に、部屋の中の無数のスズメバチの羽音がひときわ大きく鳴り、久住は何千匹ものスズメバチに全身を取り囲まれた。



こうして公安警察官、久住義人はTファージ使用による最初の犠牲者の内の一人となり、彼は三十八年間の生涯に幕を落とした。


同日、東京湾海上交通センターより、同海上に位置している研究施設。『日本第一遺伝子研究所』より立ち上る黒煙の様なものを観測。後日、局員らがとらえた黒煙の映像を拡大した結果それは煙ではなく大量のスズメバチの群れだという事が明らかになった。



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