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「第十五話」


「第十五話」


夜の天見町の多くの店が真っ直ぐ伸びた道路沿いに立ち並ぶとある大通り。

そこでは奇怪な姿をした二人の怪人達が息詰まる命のやり取りを繰り広げていた。

どちらかの硬い蹄がどちらかの肉に鈍い音を立てぶつけられ、その度人のものではない叫び声が響く。

その光景を見下ろすように、大通り沿いのビルの屋上から一人の白衣を着た背の低い老人が居た。

老人の名は鵠沼玄宗くげぬまげんそう

感染した人間を怪人へと変化させるウィルス『Tファージ』の開発者であり、この騒動の黒幕である。

チンパンジーのような猫背の老人――鵠沼は髭の生えた顎を撫で、遥か真下で行われている怪人同士の死闘をまじまじと眺めていた。

恍惚とした表情すら浮かべ、鵠沼はやがて溜息をつく。

「――ひひひぃ。素晴らしいな、ワシの作った怪人共が戦っておる。ネズミを家畜に変え、その肉を喰らうよりこっちの方が何倍おもしろいか。――おぅ、屯野もやるじゃないか。あの牛男に引けをとっていない」

肉と骨がぶつかり合う息もつかせぬ応酬に鵠沼は格闘技を見ているような気持ちになり、気持ちが高揚するのを感じた。

「ひひひ、ひひひ、ひひひ。やれ、やれ。ひひひ、ひひひひひ」

歳も立場も忘れ、ただ鵠沼は子供のように腕や体を動かし、はしゃぎ、目の前の殺し合いに狂喜する。



「ブォオオオオ!!!」

牛の怪人は口を開け咆哮し身をかがめ突進する。その恐ろしい速度を持ったまま屯野に真っ直ぐ突き立てられた一対の鋭利な角が四メートルほど離れた屯野の懐に迫る。

「――ギィィ!」

屯野は素早く腕を瞬時に人間の腕へ変化させるや、その両腕を角の迫ってくる自らの正面へ突き出す。

同時に屯野の腕はエアバックを開くように大きく太った腕へと変化し、そこから生えた蹄が迫ってくる牛の怪人の角を阻んだ。

角と蹄がぶつかり合って、耳をつんざく高音が辺りへ一際高く鳴る。

牛の怪人は弾かれた衝撃で屈んでいた身を真上に仰け反らせてしまう。

瞬間。屯野はその牛の怪人の開かれた股下に豚の硬い鼻先を潜り込ませ、下から斜め右上へ一気に牛の怪人の巨体をしゃくりあげる。

再び牛の怪人が大きく咆哮しながらその巨体が為す術も無いまま弾丸のように飛び、それは大通り沿いのショーウィンドウのガラスへ飛び込んで落下し、大きなガラスを勢いよく音を立て突き破りその奥の店内へ飛び込んだ。

(や、やべぇ……器物損壊きぶつそんかいしちまった……大丈夫かな――な、何て考えてる場合か!!)

思わずとった自分の行動に後悔しながらも、豚頭人身の姿の屯野は牛の怪人の方へ追撃をかけるべく素早く、ショーウィンドウが割れた先の店内へ近づく。

店の中は薄暗かったが、近くの街灯のお陰で薄暗いながらも中の様子を覗えた。

中は洋服店だった。

元々その中には若者向けの洋服が綺麗にボードの上に折りたたまれ陳列されていたようだが、牛の怪物がその中へ飛び込んできたせいで、無数のガラスの破片やボードから落ちた乱れた洋服等で散らかり、店内は地震でも起こったような様相をかもし出していた。

気になる事に、その中でここへ飛ばされた筈の牛の怪人の姿はどこにも無かった。

(……! 何で、近くにTファージの臭いはあるのに姿がねえんだよ)

焦りと苛立ちを感じながら屯野は鼻を鳴らして辺りに目を凝らすが――突如、屯野の視界を何かが噴出す音と共に膨大な白煙に多い尽くされた。

(なっ! 何だ――――ぐあぁ!!

屯野が驚き、目の前で起こった状況を理解する間もなく、屯野の大きな体の横っ腹から牛の怪人の蹄に殴打され、体は横っ飛びに舞い、その勢いを持ったまま店内の床をすべる。

たちまち、周囲は白煙に覆われ、屯野は視界の無くなった中で痛みを堪えながら叫び、腕を闇雲に振り回しながら素早く起き上がる。

「ブォオ!!」

同時に白煙に包まれた中で、屯野の闇雲に振るった腕が牛の怪人に偶然命中し怪物は痛みに呻き、どうと仰向けに倒れる音がした。

やがて霧のように辺りを埋め尽くしていた白煙が消え、屯野は足元で苦しそうにじたばた動く牛の怪人と共に白煙の正体を知る。

そこには膝丈ほどの大きさをしたハンドルのついた赤色の円筒――消火器――があった。

(こ、こんなのまで使うかよ普通? でもこういう道具を使えるってのは、やっぱり相手も俺と同じ『元は』人間ってことか――――)

屯野は素早く、消化剤をき終えた消火器から足元でのた打ち回る牛の怪人へ目線を戻し、自らの蹄のついた拳をすかさずその怪人めがけ、

(――よおっ!!)

「オオオオォォ!!!」

激しく怪人の頭めがけ振り下ろされた屯野の蹄が牛の頭蓋を打ち、その衝撃は屯野のTファージによって変成された筋肉に伝わる。


太く大きな牛の叫びと共に、その怪人が大きな全身を打ち上げられた魚のように震わせること五秒。――――牛の怪人はピクリとも動かなくなった。


(……か……)

屯野は体内のTファージを沈静化させ、人間の姿に戻る、と同時に屯野は床にへたり込んだ。

牛の怪人は倒れ、上半身裸にジーパンだけの悲惨な姿になった屯野は動かない怪人の近くで長い溜息をついて――

「勝った……の……か? 俺が? 倒したのか?」

屯野は倒した怪人の全身を上から下まで眺める。牛の怪人は動かない。

屯野は倒れた牛の怪人を後にし店を出て、胸をなでおろし、目線を床へ下げる。

「あー、よかっ―――― 「琢磨君ッ!! 逃げてぇ!!」 


前から聞き覚えのある、叫びに近い甲高い女の声。瞬間。背後から、


「ブオオオオオォォォ――――!!!!!!!」


これまでで一番大きな牛の咆哮と共に、何かが動く音を屯野は聞きつけた。

慌てて、屯野は下げていた視線を上げ背後へ振り返る。

「な――」

店の中でいつの間にか起き上がり猛然と迫る牛の怪人の姿があり、それはやがて、店内から屯野の元へ真っ直ぐ向かっていた。

慌てて両足を開き身構え、体内のTファージを活性化させ、上半身を肥大させる。この間約二秒。

「ちくしょ――――」

屯野は短く毒づき、腕を顔の前で覆う。それは強靭な筋力を持つ怪人の攻撃に対しての防御としては心もとない。

屯野に迫ってくる牛の怪人は蹄を大きく振り上げた。屯野は歯を食いしばり、かなりのダメージを覚悟する。

しかし、牛の怪人の攻撃はこなかった。代わりに屯野の後ろから音がするほどの強い風を伴い何かが通り抜け、その通り抜けたものは牛の怪人を驚かせた。

一瞬屯野の目の前に見えたのは、真っ直ぐ牛の怪人の頭に伸ばされた一本の細い肢、それは三又に別れ、――鶏の肢を連想させた。

「――――!!」

牛の怪人の声にならない驚きの数秒後、肉が壁を打つ激しい衝突音が辺りを震わせた。


訳も解らず、屯野が顔を塞いでいた腕の防御を解くと、

「え」


そこにはフリルの付いたピンク地に水玉模様の可愛らしいパジャマに身を包み、その捲くられた腕の袖口から一対の大きな白い翼を生やした黒髪の美少女。烏城麗那の後姿があった。



場違いな天使のような奇怪な姿をした烏城はその大きな翼を元通りの人間の腕へと当たり前のように瞬時に戻し、後ろに居た屯野へ駆け寄る。

「琢磨君!? だっ、大丈夫ですか!!?」

「……麗那さん?」

烏城の白く細い腕は屯野の両肩を掴んで震えている。

驚きの声も殆どあげられぬまま、呆然とする屯野をよそに烏城は動揺していると解るほどの早口で目の前の屯野に捲くし立てる。

「何ですか!? あの怪物は……――きゃあっ!!? ――――た、琢磨君……そ、その……体、が」

烏城はバルーンアートのように歪に肥大した屯野の腕や体を見て、恐怖を目に浮かべ、屯野からじり、と後ずさる。

「……」

今、屯野の上半身はTファージを活性させた事で顔を除いて腕や腹が大きく肥大した豚のような奇怪な形状をとっていた。

屯野は豚の姿を人間の姿に戻しながら、自分がTファージを使っている事を烏城に見られてしまったという事以上に別の驚きがあった。

屯野の姿に恐怖する烏城とじく、屯野の表情からもすでに血の気が引き、口を呆然と開け、目の前の烏城に恐怖・・していた。

「そんな……嘘だろ……れっ……麗那さん……が」

昨日の鵠沼の言葉が屯野の頭の中でいやな響きを持って反響する。

『この天見町には人を襲う「怪人」になる事の出来るウィルス――Tファージ――に感染した者は屯野を含め三人いる。そしてその内二人は既に人を襲っている』


「麗那さんも……あの牛野郎と同じ人を襲う怪人だって言うのか……!?」


「え? 何を言っ――、きゃああああっ!!」

途端。呟いた烏城の体が屯野の真横へ勢いよく飛び、烏城の叫び声が遠のいてゆく。屯野が気を取り戻した時は既に再び迫ってきていた牛の怪人に殴り飛ばされた後だった。

「ブオオオオ!!」

牛の怪人が怒りを露にし、吼え、瞬時に屯野へと振り返り、照準を定める。同時に混乱する屯野は烏城を殴った目の前の怪人に対して言いようの無い怒りを覚える。

「――てめぇ、麗那さんに手ぇ出してんじゃねえぞ」

屯野がそう叫び終わる前には既に、屯野が怪人に振るった右の拳は形を変え、その蹄は縦に伸びた怪人の持つ牛の顎を下から捉えていた。

牛の怪人の大きな体が屯野の下から上に伸びる猛烈なアッパーの一撃を受け力を失い、その上体が大きく浮き、やがて前に倒れる。

「オ、オオ――オオオオ!!」

しかし、倒れる間際に牛の怪人は大きく吼え、半分ほど折れた上体を浮かせると共に屯野の腹へ左腕の容赦ない一撃を浴びせる。

突如、腹に向かってきた牛の怪人の攻撃をかわしきれず、屯野の体は大きく空に跳ね、その体は背中から硬い道路へと投げ出された。

道路の上で仰向けで倒れた屯野は咳き込み、その最中で胃の内容物を僅かに出してしまい、衝撃の痛みを堪える屯野の目に涙が浮かんだ。

……このまま負けてしまうのか。暗くなった空を見上げる屯野の頭の中でそんな絶望がよぎった。




牛の怪人は倒れ動かない人の姿の屯野へガードレールをまたぎ、ゆっくりと歩み寄ってくる。

――これで、本当に終わりだ――

牛の怪人は自身の心の中で己の勝ちを悟った。

怪人の目の前には数メートル先にいる固く冷たい道路の上で仰向けになった無防備な男――屯野琢磨がいた。

怪人は側面に付いた黒い目でその姿を認めるが、突如、屯野を後ろにし、庇うように立ちはばかった一人の奇怪な姿をした少女に目を留める。


「こ、これ以上琢磨君に近づかないで!!」


声を荒げ、言ったのは牛の怪人に殴り飛ばされたはずの烏城麗那だった。

普段の彼女を知る者では考えられないほどの怒りを顔に滲ませ、烏城麗那は牛の怪物の前で両足を大きく開き、両腕から大きく白い翼を生やしていた。

目の前の翼を生やす烏城の気迫にされ、思わず怪人はその足を止めていた。




烏城は体を牛の怪人に向けたまま、首だけ屯野のいる後ろを振り返り、叫ぶように話す。

「琢磨君!! 頭の中で傷を治していく様子をイメージして下さい! 早く!」

「れ、れい、なさん……?」

「いいから! 早くして下さい!! ――……どっ、どなたかは知りませんが」

その時、烏城の険しい表情が正面にいる牛の怪人の方へ向けられる。

「……どうやら、お見受けしたところあ、あなたも私や琢磨君と同じで自分の体の一部を動物の一部に変えられる力を持っているんですね」

僅かに牛の怪人に対しての恐怖に言葉を震わせながら、それでも気丈に烏城は牛の怪人へ話しかける。

牛の怪人は足を止めたまま立ち尽くし動かない。その様子は烏城の言葉に対しての肯定も否定もなかった。

一息おいて烏城は続ける。

「――――では……同じ力を持った者として、あなたに忠告します。私の後ろにいる琢磨君を傷つけようとするのなら、私はさっきのようにあなたに攻撃します」

すると、烏城の傍で音がし、牛の怪人はその音のした方を見、途端にうろたえ、動揺に思わず呻く。

「れ……麗那さん、どうなってるんだよ……これ」

そこには回復し起き上がった屯野琢磨がいた。

屯野は烏城に言われたとおり、傷の治る様子を想像してみると間もなく、その想像通り、体内から自然と痛みが消え、屯野の中のあらゆる痛みは体の中に溶け失せてしまったのだ。

しかし、体がすっかり回復した事を屯野は素直に喜べず、屯野は自分の体の異常な回復力に驚きを隠せず呆然としていた。

「……。どうしますか? 怪物さん。私はあなたと戦う気はないですが、あなたが琢磨君と戦うと言うなら私は琢磨君と共にあなたと戦います。一対二どちらが有利かは言うまでも無いでしょう? 早くこの場から逃げて――――」

「!? おい、麗那! お前何言ってるんだよ!! こいつは昨日の事件で人を何人も殺したさつ……!」

口を挟んだ屯野はそこまで言って急に言いよどんだ。

烏城の腕から生えている翼は紛れもなくTファージの作用で、烏城はそれに感染しているこの町で三人いる感染者のうちの一人だということを屯野は知っている。――烏城が腕から伸ばした大きな羽は活性化したTファージの臭いで満ちていた。

そして、その内二人はTファージを使用して殺人を犯しているという事も。

その殺人鬼さつじんきは、目の前で屯野を殺そうとする牛の怪人であり、また屯野を庇ってくれた烏城麗那その人でもあるのだ。


屯野が言おうとしている殺人鬼という言葉は烏城にも当てはまってしまう。

屯野琢磨という自分を大切な友達と言ってくれた、ただ一人の女の子、烏城麗那に対しても。


「クソッ……」

屯野は烏城に向けていた目を地面に下げ、毒づいた。

今では屯野はそんな烏城を友達と呼ぶ事すら自分の中で躊躇ためらってしまい、屯野の心は常識の中で揺らいでいた。


そして、殺人鬼の一人であるはずの烏城に屯野琢磨自身の命を救われた手前、牛の怪人に逃げるよう提案する烏城を止める事もできずにいた。

なぜなら烏城が町の人間を四人殺しているこの牛の怪人を逃げさせようとする事を止める正義が屯野にあるのなら、屯野は今この場で同じく町の人間を殺した殺人鬼である烏城麗那をも殺さなくてはいけないのだ。

屯野の中で処理しきれないほどの葛藤が溢れ、屯野はその場を動く事が出来なかった。


(何が正義の味方だ……。畜生、烏城麗那があの牛野郎と同じ殺人鬼でも……それが俺の……命を救ってくれた友達なら……ぶっ殺せる訳、ねえだろうが……!!)


烏城は後ろにいる屯野に何も言わず、ただ前にいる牛の怪人だけに意識を注いでいた。

「早く! 早く、私たちの前からいなくなって下さい!!」


「……………………」


牛の怪人と烏城との間で長い沈黙があった。やがて、牛の怪人は踵を返すや、屯野達がいる方とは逆方向へ真っ直ぐに伸びた道路を走り去ってしまった。

屯野は何もいえない自分の甘さや、走り去ってゆく牛の怪人を止める事のできない悔しさに歯噛みしながら、その走り去ってゆく怪人の後ろ姿が完全に見えなくなったのを確認した。

「……っはぁ――――」

そう、溜息をついたのは烏城の方で、烏城は変化させていた両腕の羽を人間の腕に戻し、その場に力なくへたり込んだ。

「……」

屯野は何も言えず、屯野の目の前で無防備に気を抜いて足を地面につける烏城を見下みおろす。

途端に、烏城が前を向いたままぽつりと口を開く。

「……やっぱり、琢磨君も私と同じだったんですね」

「――――!!」

その言葉が終わると同時に、屯野の中で何かが切れる音がした。

烏城は首を返し、屯野の方を見上げてくる。

「あの…………琢磨君?」

「……やっぱりって何だよ」

「え?」

「お前気付いてたのか? ……俺が……俺がTファージの感染者だって事をよお!!」

安堵しきって緩んでいた烏城の表情が途端に無表情に固まる。

「……」

「お前が俺と友達になったのも、俺を牛野郎から助けたのも、ただ力を持っている感染者を味方につけたかっただけなのか!? ええ!? そうなんだろうが!!」

烏城は黙ったまま何も言わなかった。

「……俺は知ってるんだぞ。お前が……既にその力で人を殺してるって事をな。ああそうだよ、お前の思い通り、俺にとっての友達であって命の恩人である烏城麗那をアマちゃんの俺は殺せねえよ。お前が人殺しだと解っていてもな!!」

自分の中でせめぎあっていた思いを烏城の前で屯野は怒りに任せ、吐き出した。その中で言った言葉に烏城へ人殺しという言葉を使う事への躊躇いは一片もなかった。

言い終わった後、屯野は烏城の顔を直視できずただ烏城のいる方から目をそらしていた。

悔恨、激情、後悔、屯野は前にいる烏城に何も言えずに屯野の頭の中はそれらの感情で覆いつくされた。

屯野の言葉に対しての烏城の返答は返ってこない。

深夜二時過ぎ、人気ひとけの全くない道路の真ん中で立ち尽くした二人は共に一切の言葉を失っていた。

「…………」

目をそらしていた屯野はいつまで経っても言葉を発しない烏城に、永遠とも思える今の沈黙の時間の中で苛立ちを覚えつつあった。

次第に屯野は烏城が黙っているのに耐えられなくなり、目を烏城へ向ける。

「おい、いい加減――「し……信じてください」

屯野が言い終わらぬ内に、烏城の消え入りそうな声があった。

烏城は地面を見たまま、ぽつりぽつり言葉を出す。その表情は解らなかった。

「私……私、人をこ、殺してなんかいません。本当です」

「嘘つけ。殺したんだろうが。この騒動を見下ろしてる張本人から俺はこの耳で昨日聞いたんだよ。この……怪人が」

「やめて……お願い……私を……そんな風に言わないで……お願い……!」

「……麗那?」

地面にへたり込んでいた烏城はいつしか自分の頭を手で抱え、元々白い烏城の肌が更に白くなり、全身が凍えているように小刻みに震えている。

顔からは大きく開かれた目からぽたぽたと際限なく涙が零れ落ち、明らかに烏城は屯野の言葉に恐怖していた。

それは先ほど牛の怪人に相対した時以上で、烏城は屯野には解らない計り知れないほどの恐怖に恐れ、おののいていた。

『屯野。その子――麗那は四人目のTファージ感染者だ』

突如、屯野の遥か頭上の上空から老人の声がした。

「じ、爺さん?」

屯野が上に向かって問いかけていた頃にはすでに、屯野の傍には何千匹もの蜂が群がって、それらは一瞬に形を変える。白衣を着たチンパンジーのような顔つきの老人。鵠沼玄宗くげぬまげんそうだ。

その鵠沼の蜂から人への変身を始めて目の当たりにした烏城は声なく、息を呑み、驚いた。

そんな烏城を無視し、鵠沼はにかっと屯野の前で黄色い歯を見せ不敵に笑ってみせる。

「ひひ、屯野よ惜しかったな。全て見ていたぞ。お前の店の中で牛男の脳天へ喰らわせたあの蹄の一撃は、大打撃となったが奴の命を奪い取るには至らんかったな」

屯野には鵠沼が嬉々として言う言葉や、その喜びに弛緩した表情、その全てが不快だった。

「黙ってろよ。そんな事はどうでもいいんだ。――爺さん。……何だよ。麗那が四人目・・・ってのは」

屯野が感情無く呟くように言ったその言葉を聞き、鵠沼は意外な事に屯野に頭を下げた。

「すまなかった。ワシもその子――麗那が感染しておるとは思ってなかったんだ」

「は?」

屯野は鵠沼の言葉の意味を理解できず、首をかしげる。

鵠沼は小刻みに怯え、震えて黙り込んだままの烏城麗那の方をちらりと見る。

「監視漏れ――というやつだな。この場合はワシの放った蜂が無事に針を刺し、恐らくそこの麗那にTファージを感染させたはいいものの戻ってくる過程で命を落とし、報告を終えぬまま死んでしまったのだろう」

そう言い終わってから、鵠沼はまぁ、そんな事はワシの知る限り起こらないと思っておったがと、付け加えた。

「じ、じゃあ……麗那は……誰も殺して……」

鵠沼が素早く屯野の後を継ぐ。

「いない。それはワシの今までのこの町でしていた監視の限りで明らかだ。殺人を犯したのは他の感染者だ。ひひひ、腕を翼に変身させた姿を見てワシは度肝を抜かれたよ――昨日の夕方、ワシが病院でこの小娘に会った時でも、ワシはその小娘本人が感染者だとは解らなかった」

その時、烏城の首がゆっくりと動いて鵠沼の方を向く。その目は動揺していた。

「あの……私、あなたと……どこかでお会いしましたか……?」

「ああ、そうなるな」

屯野は鵠沼が自信に満ち溢れる声でそう答える理由を知っていた。

「し、失礼ですが私はあなたの顔を見たことが――」

「いやぁ、そうじゃろう。しかし、改めて見てもお前さん随分綺麗な顔立ちをしとる。髪にも手を加えておらぬし。その黒髪といい、目つきといい、まるで漫画の雪杉ゆきすぎミドリのようじゃ。ひひひ」

「……?」

鵠沼が烏城の足先から髪の毛の先までをじっくり眺め回して、烏城はそんな鵠沼の態度にどうしたらいいのかと、躊躇いながら屯野の方を時々見て、不安げな表情をしている。

屯野はすぐに鵠沼と烏城との間に割って入る。

「おい爺さん。もういいだろ。……麗那さん」

言い終わって屯野は後ろを振り返る。――振り返った時、烏城は屯野の顔を見て僅かに身を強張こわばらせた。

屯野はそんな怯えた烏城を見て、思わず自責の念に駆られた。

「…………その、ゴメン。俺、麗那さんに、その……酷い事言って……。その俺が言ったのは勘違いで……その……」

「…………いいえ、もういいんです。屯野君・・・。お願いですから、もう、もう……その事は言わないで下さい」

見ず知らずの他人に話すような、感情の無い烏城の声に思わず屯野は自分が烏城に言い放った言葉を思い出して胸が締め付けられたが、それでもどうにか口を開く。

「解ったよ。……その本当にごめん」

その言葉に烏城からの返事はなかった。

代わりに鵠沼の調子はずれな明るい声が後ろからかけられる。

「屯野、そこをどいてくれるか。烏城さん。この姿なら見覚えがあるんじゃないのかい? ほら」

「え――あ……」

途端に屯野の前に立った人物の声色が変わり、同時に姿形が数秒の内に変化する。

烏城の前にはこれまでいなかった筈の四十過ぎの男性が立っていた。

整髪料で塗り固めた光沢のある短く黒い髪、色黒で目元に怒っているような皺のある強面こわもての顔――――名皇大学医学部付属病院の院長、嘉田良助かだりょうすけの姿だった。その嘉田本人は先日鵠沼の使役した無数の蜂によって殺されていた。


「色々と感染者である君に話しておきたいルールが幾つかあるんだが――――


嘉田の体に変身した鵠沼は、言い終わると素早く元の老人の姿へと再び姿を変え、チンパンジーのように突き出た口元を歪めて笑う。

「いいだろうか」

変身を見せて得意げなのか、そう烏城に問う鵠沼の声はこれまで以上に弾んでいた。



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