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「第十三話」


「第十三話」


「あれ、と、父さん……何で帰ってきてるの?」

風呂から上がって寝巻きのスウェットに着替えた屯野琢磨とんのたくまはリビングに父、屯野雅仁とんのまさひとの姿がいるのに驚いた。

雅仁テレビから目線をはずし、険しい眼差しで後ろから入ってきた屯野の方を座っていた椅子ごと体を移動させ、睨む。

傍にあったチャンネルでテレビの電源を切るなり、

「それはこっちの台詞だ!」

雅仁はテーブルの上を拳でドンと叩き、ぽかんと口を開けた屯野に叱責する。

テーブルの立てた大きな音と、雅仁の気迫に圧倒され屯野の体はびくっとなる。

「退院した時、何故すぐに父さんの携帯に連絡を入れなかった! お陰で父さんが病院に行った時はお前はもう退院した後で――」

「……はぁ」

屯野は雅仁の言葉を聞き流しながら、冷蔵庫の方へずかずかと歩く。これが、彼ら親子二人にとっては近頃繰り返されている光景で、屯野はこのやり取り自体がわずらわしかった。

「うるせえな……姉ちゃんには連絡したからいいだろ。仕事先のあんたら夫婦に連絡したところで何、出来んだよ」

屯野は冷蔵庫の中から冷たい麦茶の入った容器を取り出して、近くにあった使用した後のあった三つの内一つのコップへ注ぐ。

雅仁の怒りはまだ収まらないようだった。

「それでも、そういう時でも父さんか母さんにも連絡しろと言ってあるだろう!? 今回の事だってお前が父さんに連絡を入れなかったせいで、今日みたいに病院で入れ違いになったんだ」

「あー、はいはい。どーせ、自分が俺と病院で入れ違いになったからイラついてんだろ? 結局アンタは自分の事ばっかで、俺の心配なんかしてないっていうのが今日よーく解ったよ」

「…………お前がそう思うのなら勝手にそう思っていろ。人の気も知らないで……」

雅仁はそれきり黙ってしまった。

屯野はそんなうなだれる父親の後姿を尻目にコップにいれた麦茶を飲み干した。

(ったく、俺だって好きで入院なんかしたくねえっての)

「じゃ、俺二階の部屋行って寝てるわ」

屯野はリビングを出た廊下沿いにある、自分の部屋のある二階へ続く階段へ足をかける。

すると、リビングに居たはずの雅仁がいつの間にか屯野のすぐ後ろまで来ていた。

雅仁は階段を登りかけた屯野に感情を押し殺した静かな声で言う。

「……ついさっき、お前の学校の友達が訪ねてきてな。今、雪沙せつさと一緒に上のお前の部屋で待ってもらってる。なんでもどうしてもお前に話したい事があるそうだ。行ってあげなさい」

「? 解った」

(学校の友達って市ヶいちがやか?)

屯野は友達と聞いて、とっさに昨日学校で話したばかりの黒髪短髪の爽やかなスポーツマン風の男、友人である同じクラスの市ヶ谷渉いちがやわたるの姿を思い浮かべた。

どうしてもその市ヶ谷がわざわざ家に来てまで話したい事というと中々思い浮かばず、屯野は昨日の市ヶ谷との会話を思い出す。

(アイツとは昨日学校で、一緒にプールに行こうって話してたけど……)

尚、市ヶ谷がプールに行きたい理由としては六月下旬のその時期のプールでは購入したばかりの水着(主にセパレートらしい)に身を包んだ女子が流れ込んでくるからだという。

(市ヶ谷が俺とどうしても話したい事って、昨日の流れからだとそれ位しかないな……)

市ヶ谷が今までそのような女の子がらみの理由で訪ねて来た事は一度あった。

屯野が入学当初、市ヶ谷とある出来事をキッカケに知り合って間もない四月上旬。

思春期真っ只中にある市ヶ谷は彼の家から隣町にある最近共学になったばかりのお嬢様学校へ新入生のふりをして一緒に潜入しようとわざわざ数駅離れた屯野の家まで来てその話を持ちかけて来たことがあった。――しかし、その話は隣で盗み聞きしていた姉の雪沙によって市ヶ谷や屯野まで鉄拳制裁を喰らった後、めでたく未遂となった訳だが――

屯野はその事を思い出し、溜息をつく。

(クソ、今はそれどころじゃないのによ……)

屯野はそう考える内に自分の部屋の扉の前に辿り着き、自分の部屋の扉を開ける

「おい市ヶ谷ー、悪いけど今日はもう帰って――え?」

見慣れた自分の部屋の中には床にクッションを敷いてその上に座った姉ともう一人、信じられない人物がいて、彼女達は扉を開け入ってきた屯野の方を見る。

自分の部屋にいる姉と一緒にいた、もう一人の人物それは制服のセーラー服に身を包んでいる黒髪の美少女、烏城麗那だった。


「――――」


屯野は彼女らが何か言おうと口を開く瞬間。そのまま黙って扉を閉じ、身を翻し扉に背を預け、もたれた。

酸欠する金魚のように意思に反して屯野の口がパクパク開く。

「は? は? は?」

屯野はこれは夢だと信じたかった。

自分の部屋に昨日会ったばかりの見紛う事無い美少女、烏城麗那うじょうれいながいる。

今、自分の部屋で烏城がいる事は昨日の帰り道で牛頭人身の怪人に会うことよりも更に現実離れしているように思えた。

血の繋がった姉や母以外の『女性』は踏み越えることが無かった筈の屯野の部屋に今、屯野のもたれている扉一枚後ろで、烏城麗那がその部屋の中にうやうやしく正座し、ちょこんと座っている。

屯野にとってそれは本物の神に初めて遭遇した無神論者のような、信じられない気持ちだった。

「琢磨ー、あんた何、こんなカワイイ女の子をこんなむさ苦しいトコで待たせてんのよ。早く入ってきなさーい」

気持ちの整理が追いつかず、屯野が頭を抱える中、扉の向こうの姉の雪沙は容赦なく糾弾きゅうだんする。

「う、う……うるせえよ! 俺、今上下紺一色のスウェットなんだぞ!!? んなお気楽なカッコで女の子の前出て行けるかぁー!!」

屯野は昨日知り合ったばかりの高嶺の花だった烏城に部屋着の自分の姿を見られ、その恥ずかしさのあまり死にそうだった。

(ああああああ…………昨日の怪人騒ぎといい、どうなってんだよマジで……)

その時、屯野がもたれた扉がコンコンと音を立てる。

「あの屯野君? 大丈夫ですか?」

扉を向こう側からノックしたのは烏城で、その声には烏城が屯野に心底気を遣うような親切な響きがあった。――全くどこかの姉とは大違いだ。

「あ――ありが、うわっ……!!」

突然扉が向こうから開けられ、支えを失った屯野の体は部屋の中に倒れこむような形になる。

屯野が腰の痛みに呻き、起き上がりかけ、仰向けになった屯野の大きな腹にズン、と既に部屋から出て行く雪沙の脚が容赦なく食い込む。

お陰で屯野は「ぎう」と、カエルのような呻き声を出してしまう。

すかさず烏城は倒れたままの屯野の身を案じ、急いで駆け寄り、「屯野君!? 屯野君!!?」と出す声は涙声になり、烏城は半狂乱になりながら屯野の頬をばしばし叩く。

弟である屯野琢磨をまるでゴミのように踏みつけ、雪沙は部屋から出て行く直前、二人の方を振り返って何事も無かったかのような明るい調子で声をかける。

「それじゃ、後はお二人でどうぞー。麗那ちゃん、そのままゆっくりしてていいからねー」


言い終わると雪沙はドアを閉めると同時に、部屋から出て行ったが、動揺しきった烏城には届いていなかった。

「とっ、屯野君!? 大丈夫ですか!!? わ、私が解りますか!?」

「あ……ああ、天使が……見える」

「……じっ、冗談でもそんな事言うのやめてください! ……さ、起きれますか?」

思わずか、感情を露にして屯野に怒った烏城は仰向けになった屯野の肩を掴んで、屯野を起き上がらせようとする。

が、屯野の体が重たいせいか、うーんうーんとうなるばかりで、屯野の体は一向に持ち上がらない。

「うん……。自分で起きれるから大丈夫……だ」

屯野は傍にいる非力な女の子に言いようの無い罪悪感を抱き、こんな事があるのならもう少し痩せておくべきだったと後悔した。

腰を起こした屯野は目の前に居る烏城を改めて見る。

烏城は屯野の視線に気付いて、口を結んだままニコリと微笑んだ。

「良かったです」

「え?」

烏城の言葉の意味が解らず、屯野は言って首をかしげる。

「……屯野君が思ったより元気そうで。私、入院していたって事を屯野君のクラスの人から偶然聞いてとっても心配してたんです」

「あ、あー。いや……その……そ、その事ならもう大丈夫だよ。何でか知んないけど昨日、病院に運ばれてからは俺、元気だったって言うし……その、診てもらったお医者さんがそう言ってたんだよ」

慣れない女の子との会話のせいか、屯野の話す言葉はたどたどしい。

やがて、烏城の浮かべた笑顔に途端に影が差して、すぐに深刻そうな面持ちになる。

「……」

屯野の背中にかいた嫌な脂汗はいつまでもひかなかった。

ここは話題を変えてみる。

「え、えと……その、俺が来るまでウチの姉ちゃんとか父さんとかに烏城さん変な事言われてない?」

「いえ。特には……それにしても」

「?」

「私、屯野君が羨ましいです。あんな優しいお姉さまやお父様がいて」

「何でだよ……!」

「え?」

「あの姉ちゃんは乱暴でおせっかいなだけだし、父さんなんか、俺が入院したっていうのに俺のこと全く気にしてなくて自分の都合ばっかりで……!! どこがいいんだよ!! ……あ」

言い終わって、屯野は自分が心の中の鬱憤うっぷんを烏城に吐き出したことに気付いて慌てて口を閉じた。

「……ごめん」

「……屯野君は随分、自分を卑下したり、物事を悪い方向に考えてるんですね。そんなんじゃ、屯野君も楽しくないですよ?」

「楽しくって……たぶんそれは解らないよ。俺には」

「どうしてですか?」

「……小学校の頃さ、隣の席に座ってた女の子にすっげー酷い事言われちゃってさ。暫く立ち直れなかったんだよ。次の日、学校に行ってそいつと目を合わせるのも怖くてさ。結局、後で席を替えてもらったんだけど。俺はそれくらいでビビッちまうような……臆病者なんだよ」

「……」

烏城は何も言わず屯野の話を聞いている。

自分がまだよく知らない烏城にどうしようもないような愚痴を言っているのは屯野も解ってはいたが、それでも一度口に出してしまうともう止まらなかった。

「だからそれ以来、自分が傷つかないように常に悪い事を想定するようにして、それが高校生になった今じゃあ、どの女の子とも話さないでいるビビリになってさ。……しかもその自分を守るマイナス思考の考えが今ではもう癖になってるんだよ」

そう言って、屯野は俯いて口をつぐんだ。

(馬鹿……どうして、こんな情けねえ事を昨日今日知り合ったような、しかも女の子に言うんだよ……クソ)

屯野は、昨日の一日で牛の怪人に殺されかけたり、姿を自在に変化させる老人に会ったり、つい先ほどのリビングでの父とのいさかいもあって、今、屯野の精神は相当に衰弱していたのだ。

屯野はそのまま何も言えず、情けない姿を晒している自分への烏城の反応が怖くて、俯いた顔を上げることが出来なかった。

すぐ近くで烏城が黙り込んだ屯野に代わって静かに口を開く。


「……解りました。屯野君は自分に自信がないんですね。――じゃあ、そんなネガティブな屯野君は今日でおさらばしましょう」


がさがさ、と俯いた屯野の前のほうでなにやら物を漁る音がする。

「さあ。屯野君。顔を上げてください」

「え……何、あああぁっ!!!」

屯野の目の前には縦長クッションをぎゅうと抱えた烏城が上目遣いで屯野を見つめている。

そしてその烏城を取り囲むようにして、辺りには屯野が家族(おもに姉の雪沙)に見つからないよう巧妙に隠していたはずの中学の頃から営々と集め続けてきたバーチャルアイドル『夢野れむ』のその数百を越えるグッズ各種がいつの間にか烏城のいる床一面を覆っていた。

その様子はさながら『夢野れむ』グッズの展覧会だ。

(な、なな、何で……!! 何で俺がいつも完璧に隠してたはずの『夢野れむ』グッズが部屋一面にさらけ出されてるんだよ―――!?)

まともな人間ならばそれらを見て、二秒で胃の内容物をリバースしそうになるほど痛々しい物たちが陳列していたが、グッズに囲まれた烏城は吐くどころか、その中で恍惚とした笑みすら浮かべて、辺りのグッズへ目を行き渡させ、そして屯野の方にゆっくりと視線を戻す。

「もう……屯野君もれむちゃんのグッズこんなに沢山持ってるんだったら昨日、私に教えてくれても良かったじゃないですかー」

そう言いながら烏城は先ほどから両手で腹に抱えていた、千個限定生産の『夢野れむver2.8』のイラストがプリントされた縦長クッション――いわゆる抱き枕である――を腹に抱えたまま左右に振る。

「な、何で……見つからないようにしてた……のに」

「あ、これはさっき屯野君がここに来るまでに雪沙さんが私の為にこの部屋の中を一生懸命探してくれて、いっぱいここに出してくれたんです。雪沙さんってとっても親切ですね? 嫌な顔一つしないで喜びながらやってくれましたよ?」

(あ、……あんのクソ姉がぁあぁぁ!!!)

屯野には姉の雪沙が自らの弟の恥部である『夢野れむ』のグッズを屯野の友達、更には女の子に晒してやる事に喜びを感じていたに違いない思った。――よく見れば強盗にでもあったような変わり果てた自分の部屋の惨状を見て容易に察しがついた。

事実、烏城の足元にあるグッズたちの中で屯野が見当たらない物は一つもなかった。

「と……屯野君! 今日は私といっぱいお話しましょう!」

「え……?」

「屯野君の思う『女の子』が私のような者でよかったら幾らでも屯野君とお話させて頂きます。だから、今日は女の子と話せるという自信をつけて、少しでもネガティブな屯野君からおさらばしようじゃないですか」

そう顔を屯野の方へ寄せ、目をらんらんと輝かせる烏城に屯野は勢いに負け、たじろいだ。――屯野はそんな烏城の態度に納得が出来なかった。

「な、何で昨日知り合ったばかりの俺にそこまでしてくれるんだよ?」

烏城は抱き枕を抱いていた腕の力を抜いて、先ほどと同じような冷静な顔になる。

「それは、屯野君が『夢野れむ』が好きで、私も『夢野れむ』が大好きだからです」

「だからそれとどう関係が……」

「屯野君は私の大事な友達です」

「――――」 

突如、烏城の顔が屯野の顔の間近まで迫り、屯野は言葉を失った。

烏城は子を諭すような柔らかな笑みを浮かべ、その微笑んだ口元がゆっくりと言葉を紡ぐ。

「……昨日、言いましたよね。私は屯野君みたいに『夢野れむ』について話せる人が居てくれて嬉しいって。屯野君は今まで私だけの趣味だった『夢野れむ』を知ってくれていて、今まで自分の中でしか喜べないと思っていたものは決してそうじゃないって事を私に解らせてくれた――私にとって屯野君は趣味を語り合える大事な人なんです」

「……ほ、本当に?」

否定される事に怯える声で屯野は言う。烏城は晴れやかに笑って見せた。

「ええ。嘘じゃないですよ?」

「……そんな事、今まで言われたこと無かった。烏城さん……ありがとう」

麗那れいなでいいですよ。私もこれからは琢磨君って呼びますから」

「……うん……ありがとう。麗那さん」

屯野の声は知らず内に涙声になって震えていた。

「さて」

烏城は気を取り直したように、不意に明るい声で言う。

「琢磨君。私、今日は徹底的に『夢野れむ』について話すつもりでいますから、そのつもりで」

「でも、うじょ……いや、麗那さんは家に帰らなくてもいいの? もう大分遅い時間だけど……」

壁の掛け時計に目線をやる前に、屯野は足元に置いてある、――ベッドのクッションの中に屯野が巧妙に隠していたはずの――『夢野れむ』目覚まし時計の文字盤を見ると、時刻は夜の九時過ぎだった。

「いえ、今日はもう泊まるつもりで来ました。先ほど琢磨君のお父様から電話を借りて、今日泊まる事を家に連絡しておきましたので外泊の許可は取っています」

烏城の目に輝きが戻り始める。それは昨日、帰りの列車で烏城が『夢野れむ』について屯野に三十分以上熱く語った時と同じ生気に満ちた目だった。その目を見て何となく、屯野は嫌な予感がした。

烏城は期待に満ち溢れている満面の笑みを浮かべる。

「さあ、今日は眠らせませんよ。声が出なくなればお茶を飲めばいいし、死ぬほど眠くなったらコーヒーをがぶがぶ飲めばいいんです。あ、話のネタが尽きる心配はありませんよ。……私には琢磨君と意見交換を交えながら話したいことが山ほどあるんですからね。ここには話の種になりそうなグッズが山ほどあるんですから……。うふふふふふっ」

「あ、あの、麗那さん? 俺に自信をつけてくれるとか言って、いつの間にか自分が楽しくなっちゃってない?」

「そんなこと……うーん、あるかも」

「み、認めた!!? 自分からあっさりと――わぷっ」

屯野が言い終わらない内に烏城は屯野の口元にさっきまで烏城が抱いていた『夢野れむ』の抱き枕が押し付けられる。

「これは会話のバトンです。この抱き枕を今から交互に渡しあっていくんです。抱き枕を持ってる人が自分の意見を話せる、という事で。――こうしてルールがあった方が話しやすいと思いません? これ、私が考えたんですけどね、一度誰かとこうしてやってみたかったんです!」

その心の底から楽しそうな表情で烏城は正座したまま器用に床の上をぴょんぴょん跳ねて、はしゃぐ。

その仕草はお嬢様とはかけ離れていて、傍から見れば背の大きな小学生のようだった。

「……」

屯野はそんな奔放さを晒す烏城に驚き、呆けていた。

烏城はそんな呆けている屯野などおかまいなしに話を進める。

「じゃ、まずテーマは『夢野れむ黎明期れいめいき』、で初めて行きましょう。魔女っ娘路線だった頃ですね。琢磨君の意見も沢山聞かせてくださいよ。じゃ、私からー」

そう言って、烏城は自分で屯野に渡した筈の抱き枕を早くも遠慮なく奪ってゆく。

え? と屯野が烏城のとっさの行動に声をあげる間もなく、烏城は立て板に水の如く話し始める。

「私は正直、昔の魔女っ娘路線には疑問があったんですよね。だって、露出も少ないあんな衣装では集客力は見込めないし、だからこそ、製作陣は半年後にボンテージ風の衣装でセクシー路線に踏み切ったんですよね。いや、あれは今でも英断だったと思うんですよ」

「えっ……いや、でもそれは当時その……エロカッコイイ路線がまた定着しだしたから仕方なく――

烏城の中では今、抱き枕を持っていない屯野に発言権はないらしく、その言葉を無視しかまわず続ける。

「やっぱり魔女っ娘の当時のれむちゃんも魔法少女っていうジャンルに縛られてたから曲も代わり映えしないのが多かったですよねー。……琢磨君はどう思いますか?」

再び烏城から屯野にこの場の発言権である抱き枕が渡される。

屯野は、烏城の抱いていた体温の残った抱き枕をドキドキしながら手だけでつかみ、口を開く。

「そ、その……代わり映えしないとかって言うけど実際には今でもたまにその頃のリメイクとかで曲が配信されてたりするし、実際良い曲が多いし、後に与えた影響も多いんだと思――」

屯野の掴んでいた抱き枕がシュッ、とものすごい速さで烏城に奪い取られる。

「――あ、れ?」

抱き枕を奪った烏城は得意げな顔で、さっきまで抱き枕を握っていた屯野の顔をにやけながら見る。

「でも、メロディラインはどれもこれも単調で同じようなものですよー。やっぱり曲はいろんなジャンルを抑えて欲しいですよ」

「ぐ、くっ……」

烏城の言葉に屯野はたまらず、烏城の持った抱き枕の裾の部分を握り自分の方へ引き寄せ、発言権を取り戻す。

「あ、あれ……?」

文字通り、発言権を屯野に奪い取られ、烏城は何も言えず呆然としているが、屯野にはそれがたまらなく快感だった。

調子に乗った屯野は思わず語気を荒げて言う。屯野にも烏城と同じで、今まで『夢野れむ』の事で人に言えず溜め込んでいた事は多かった。

「し、正直なぁ、メロディラインなんてオマケなんだよ。大事なのはどんな服着てどんな振り付けで踊るかに集約されて――うわぁっ!!」

屯野が言い終わらない内に烏城がなんと頭から体全体でタックルするように屯野を押し倒し、抱き枕を奪いとってそれを大事そうに抱きかかえる。

「しんっじられないです!! それこそただのオマケじゃないですか!! 私たち『夢野れむ』ファンは同士としてあの歌声に酔いしれ、それを明日への糧にするのでしょう!!? 何考えてんですか!!? ――ぃひゃぁっ」

「へ、変な声出すなよ!! 足にちょっと手が触れちゃっただけだろ!! おい、この際ハッキリ言っておくぞ麗那、俺はなぁ――!!」

――『夢野れむ』そのものが可愛ければいいんだよ! そう屯野が長年秘めていた常人にとってはただ気持ち悪いだけのみっともない意志を今まさに声高らかに言おうとした途端、


―――――がちゃ。


突如、閉じていたこの部屋と廊下を隔てる扉が開いた。


「へ――?」

抱き枕をつかみとって、意気揚々と立ち上がった屯野の顔がたちまち無表情になり、それはすぐ傍にいた烏城も同様だった。

「……アンタら何やってんの?」

扉を開けてきたのは姉の雪沙だった。声の調子から怒っているのは明らかだった。

烏城は赤面し、俯き正座したまま人形のように動かない。

代わりに屯野が雪沙にぽつりと言う。

「お、お話してました」

屯野は消え入りそうな声で言って、掴んでいた抱き枕を力なく床にぽす、と落とした。

「…………ふーん、あ、麗那ちゃん?」

「ひゃ、ひゃひい!」

突然名を呼ばれ、烏城も雪沙の態度には危険なものを感じて、答える声は裏返っていた。

しかし、雪沙は烏城の目が自分を向いた瞬間に、来客用のニッコリ微笑む優しい女性の表情へと変貌していた。

「あなた、お風呂まだだったでしょ? お湯新しく入れ替えといたし、皆もう入ったから、気にせず入ってらっしゃい」

「わ、解りました! すみません、そ、それじゃあ、――――お風呂お借りします」

言うが早く、沈没する船から逃げるネズミよろしく、烏城はそそくさと部屋から出て行った。

雪沙はその慌てて去る烏城の後ろ姿に声をかける。

「バスタオルとかパジャマは纏めて脱衣所の見える所に畳んでおいてあるからねー。洗面台のドライヤーとかも勝手に使っていいからー。場所解るー?」

既に階下にいる烏城はだ、大丈夫ですー、と声で曖昧に雪沙に返事する。

「さて、と」

そう言って、雪沙は身を翻し、屯野の方を睨む。その表情から笑みが完全に消える。

「何でしょうか」

世界の終末を告げられたような表情で、そう力なく言った屯野は指図されたわけでもなく床に正座していた。

このように姉が怒っていて、非が明らかに自分にある場合にはそうするように屯野の体にすりこまれているのだ。

「何よ、まだ私が怒ってるか言ってないでしょ?」

雪沙が怒っている理由など聞くまでも無いと、屯野は理解していた。

屯野と烏城の抱き枕争奪戦でのやり取りを言葉だけで聞くと、雪沙を怒らせるには十分すぎる理由があったからだ。

屯野は決して男である自分はか弱い女子である烏城を襲ったつもりではないと声を大にして言いたかったが、女尊男卑・・・・の価値観がある雪沙に屯野の言い分を聞く耳があるかといえば決してそうではないのだ。

「私はね、アンタが女の子に乱暴したとか思ってないわよ。さっきのも遊びでじゃれあってたんでしょ。そりゃ、足くらい触れるわよね」

「え?」

予想外の答えに自らの運命に光明を見出し、屯野の表情が少し明るくなる。

「俺が何もしてないって信じてくれる……の?」

「信じるも何も、アンタみたいなデブでビビリがそんな責任負いかねないようなコトに踏み切る訳無いもの。あんたの恋人の女の子はずっと二次元でしょ? 怒ってないから安心しなさい」

「ぐくく……」

当たっているだけに言い返せない悔しさを感じ、屯野は歯を食いしばる。体型の事を改めて姉の口から言われたのはいささか不愉快ではあったが。

「そーいえば、今気付いたけど、麗那ちゃんお昼からご飯何にも食べてないんじゃない? あの子ここに泊まるって自分の家にさっき電話してたし、きっと家に帰ってないわよきっと。お腹すいてると思うわ」

「そういえば……」

「困ったわね……冷蔵庫今、何にも無いのよ。私がさっきあんたのご飯作るので材料みんな使っちゃったから」

「……コンビニでなんかお惣菜そうざいでも買えばいいんじゃない? 俺、行ってこようか?」

雪沙が急に険しい顔になる。

「――駄目よ。今、昨日の事件があったばかりで夜中は危ないんだから。あんたもちょっとは危機感持ちなさい。何かあったらどうすんの」

「…………あ……ぁ、そ、そうか。…………ごめん」

「はぁ、しょうがないわね。インスタント食品であの子には我慢してもらいましょう。あーぁ。あの位の美人さんにこの時間に脂っこいもの食べさせるのは同じ女として気が引けるわー……」

雪沙はそう言いながら屯野の部屋から出て行って、階下へ続く階段を下りてゆく。

部屋には屯野だけが残され、屯野は立ち上がって誰もいなくなったその部屋を見回す。しばらくして、

「………………な、何でだよ」

屯野は突如、頭を抱え、その場に膝から崩れ落ちた。

全身が突然訪れた恐怖にこらえ切れないのか、膝が思った通りに動かない。

屯野は恐怖のあまり目を見開き、その場で叫びだしたかった。


「何で……あれだけの事を俺は平気で忘れられんだよ……おい。……お、俺は……俺はこの町で一人しかいない正義の味方ってさっき自分で言ってたばかりだろ……!! しっかりしろよ……!!」


今、屯野は、雪沙に容易に「コンビニまで行く」と言った自分に激しく苛立った。

今、夜になった外が危険という事は屯野がこの町の誰よりもよく知っている筈だからだ。

屯野は烏城に慰められ、心の底で安心しきって自分の中にあった不快の元となるあらゆるものを記憶から断ち切っていた。

そしてそれは人を食い殺す牛の怪人がこの町にいて、それはこの騒ぎの元凶である鵠沼曰く昨晩の時点で怪物は屯野を襲った牛の怪人含め二人になったという恐ろしい事実も断ち切ってしまっていた。

屯野はそんな情けない自分を激しく憎み、そして恐れた。

屯野琢磨は自分自身が信じられなくなっていた。

頭を抱える屯野の腕は屯野の脳内で制御された体内のTファージの働きによって、人のものではない、ひづめのついた奇怪な形に変化していた。

「俺はこの町の化け物共をやっつけるんだろっ……!!」

屯野は不安に歪んだ心の中で再び戦う事を決意した。



その頃、烏城はその人形のように無駄な肉の一切無い白く細い体を屯野家の湯気の立つ大きな浴槽に沈めて、屯野が烏城に向けて言った言葉について先ほどからずっと考えていた。

「――――天使が見える……か」

烏城は湯に浸けていた左腕を出して、その白く穢れない肌を持った腕をぼんやりと見つめる。

ふと、烏城がその左腕を見る両目の瞼が本人のみ解るくらいに、僅かにぴく、と動く。

その途端、その合図に従うように、烏城の左腕の肘から手首にかけての皮膚が変化を始めた。

初めは白い肌が桃色に、そして、最後には腕の中から吹き出るように水ぶくれが幾つも出来、烏城の左腕には古い火傷の痕が浮かび上がった。

それは烏城が生まれ、記憶の殆ど無い年齢からほんの数日前までの間あった、彼女にとって見慣れた自分の腕だった。

その一秒足らずの変化を見届けた烏城は目をしかめると、やがてゆっくりとその目を閉じた。

「……」

その時、烏城は目をつぶっていて真っ暗で視覚は無かったが、ただその中で『腕が変わってゆく』感覚だけは鮮明にあった。

烏城がゆっくりと目を開けると、そこには烏城の左腕部全てが翼長三メートルほどの大きな白い翼に変わっていた。

「――――っ!!」

烏城は慌てて、その左肩から発現させた白く翼を人の腕にし、殆ど揺れず静かだった浴槽の表面が不意に波打った。

烏城が戻した左腕は火傷の痕一つない絹のように白い肌だった。

その体を変化させる『不思議な力』を得たと気付いた数日前のあの日から、烏城はその力を使って腕の火傷の痕を消していたのだ。

(こんな……腕を自分の意志で翼や元の肌へ変えれるって、わかっていても不気味だな……)

烏城はとっさにさっきまでは服で覆われていた首の後ろへ右の手で触れ、滑らかな首筋を伝う指の腹が確かに虫刺されの痕のような突起を捉える。


烏城麗那は二日前、遺伝学者・鵠沼玄宗くげぬまげんそうの放った特殊なミツバチに首を刺され、鶏のDNA情報を組み込まれたTファージに感染し、その力を得ていた。



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