「第十二話」
「第十二話」
「ね、ホントにそれで全部なの?」
天見町のとある一軒家で、その屋根の下では二人の人物が夕食を囲んで話をしている。
その中では先ほどから険悪な雰囲気が漂っていた。
屯野の九歳上の姉、屯野雪沙は椅子の上で身を乗り出し、晩御飯を並べてあるリビングのテーブルの前に座っている自らの弟である屯野琢磨に再び尋ねた。
リビングのテーブルには屯野と姉の雪沙以外おらず、父は大手自動車メーカーに勤務しており、会社からの帰りはいつも遅く、母は結婚式のカメラ撮影の仕事で出先から帰っていない。
屯野と雪沙の隣の席はそれぞれ今日も空席だった。
「やめろよ姉ちゃん、そんな風に問い詰めるの。――俺も昨日の事は殆ど覚えてないんだってば」
そう言いながら屯野はテーブルの上の雪沙が作った鶏の唐揚げ乗った皿へ箸を運ばせ、食べた。
口の中に広がった味に、屯野は思わず目を見開いた。
「そういえば姉ちゃんまた料理上手くなったよね。これ美味いわ」
屯野は正直に姉に対し素直な気持ちで賞賛を送る。
目の前の雪沙は長い溜息をついて目の前の屯野に吐き捨てるように言う。
「褒めてくれるのは嬉しいけど、アンタそれで五個目よ。いい加減食べすぎ」
「うっ…………はい」
屯野がもう一度唐揚げの乗った皿へ伸ばしかけた手がピタッと止まる。
「もう。昨日、仕事から私が帰ってきたら病院から留守電入ってるし。折り返し病院にかけたらアンタがどっかで倒れてて入院したって聞くしさ。心臓止まるかと思ったわよ本当に。心配かけないでよね」
「姉ちゃんの口癖だよな、それ。忘れてるかも知んないけど姉ちゃん、俺、もう高校生なんだぜ。いつまでも子供じゃ――――いて」
額をデコピンされ、痛がる屯野の目の前には雪沙の怒った顔があった。
「うっさいわね。忘れてないわよ。アンタ先月で十五でしょ。弟の誕生日くらい知らないとでも思ってんの?」
「じゃ、何でその時プレゼントくれねーんだよ」
「姉ちゃんからのプレゼントなんてもう恥ずかしい、なーんて去年言ったのアンタじゃない。欲しかったら自分でバイトなり何なりすればいいじゃない――……私からしたらアンタみたいな男の子なんかまだガキンチョよ」
「あーはいはい、解ったよ。ったく……」
そう不満を込めて言いながら屯野は黙々と食事する雪沙を見る。
雪沙は母親にと近所の人たちからよく言われるように、ほっそりとしたモデル体系で長いこげ茶色の髪を後ろで纏めており、それが雪沙に活動的な印象を与えている。おしゃれや身だしなみに人一倍気を配っているためか、屯野自身認めたくないが姉の雪沙は美人に分類されると認識していた。
事実、そんな美人な姉は短大を出てすぐにその短大で一緒だった二歳年上の先輩と結婚した。
屯野は当初驚いたが、顔やスタイルのいい姉ならば無理ないことだと改めて実感し、半年後の結婚式では二人の幸せを祈った。
だが、そんな二人の幸せは長くは続かず、まもなく二人は離婚した。
二人の結婚生活は実質四ヵ月ほどだったらしい。
互いの両親が彼らに離婚の理由を聞いても、彼らはその事に関しては口をつぐんだ。
屯野自身も勿論気にかけ、誰もいないときを見計らって雪沙に理由を聞くと、雪沙は震えながら口を開いた。
「結婚してからの付き合いってね、私があの人と付き合ってた時に想像してたのと全く違ってて私、あの人とどうしたら、どう過ごしたらいいのか解らなくなったの」
屯野はその時の雪沙が自分自身を責めるような悲痛な声を未だに忘れる事ができない。
今では家の近くの駅にある美容院で美容師として働いており、こうして仕事の都合でたまたま母がいない時に屯野の食事を作ってやる事があったのだ。
屯野はテーブルを挟んだ目の前で黙々と皿の上の三つ目の唐揚げを口に運ぶ雪沙の心境を察した。
高校生の男子である自分など姉の前では子供同然で、更に言えばあの雪沙の付き合っていた先輩もおそらく子供だった所があったのだろう。
昔からずっと誰かの世話焼きで、両親の手がかからない、しっかり者だった姉の雪沙の後姿を見てきた屯野には食卓での姉の言葉からなんとなくその事が解った。
(姉ちゃんも、男には色々苦労したんだろうからな。俺があんまり甘えた事言うと、また怒られそうだし……)
屯野もこれ以上は何も言わず、黙って手を合わせ、食器を片付けて流しへ持っていく。
すると、席を立った屯野の後ろから不意に声がかけられる。
「ねえ琢磨。お母さんとお父さんがどうしてたのか……私に聞かないの?」
「……いいよ別に。どうせ俺が入院したーとか言っても心配してなかったんだろ。朝、見舞いに来たのだって結局、服持って来た姉ちゃんだけだしよ」
「そうやってすぐに卑屈になってそう言う所もガキっぽいのよ。アンタは。――私がアンタが入院した事、伝えたらアンタを心配してたわ。でも、二人とも電車が遅れたり事情があったのよ」
「あぁ、そう。俺もう寝るから」
屯野は苛立ち紛れにそう言ってリビングを後にする。屯野は今これ以上、雪沙とは何も話したくなかった。
しかし、雪沙は出て行った屯野に向けて声をかける。
「ちょっと、琢磨ー!? 寝る前にお風呂くらい入りなさい! 今日、外で汗かいたんでしょー!? 人に臭いって言われる前に入っときなさい!!」
「あー、もう解ったよ……はいはい! 解りました!!」
屯野は雪沙の居るリビングに向かってそう言うと、がりがりと、頭の後ろをかきながら風呂場へ向かう。
すると、屯野が何気なく首の後ろに回した手が貼ってあった絆創膏に触れ、屯野の手はその位置で凍りついたように静止した。やがて屯野はそのままゆっくりと口を開く。
「…………な、なぁ、姉ちゃんってさ、最近、ハチとかに刺された、とか……ない?」
屯野の手は知らず内に震えていた。
「え? 何よ急に? ないけどどうしたの?」
「いや……うん。ごめん何でも、ない」
屯野は不意に息切れを感じ、急いで、風呂場へ向かう。
その脱衣所にある洗面台で屯野は自分の姿を見る。
そこには見たことも無いような表情で恐怖で狼狽する自分の姿があった。
屯野は片方の手を洗面台につけ、もたれかかり、もう片方の手で胸の部分の服の生地をあらん限りの力で握り締め、内から湧き上がった恐怖を押さえつける。
屯野は姉の前で昨日の生き物を人工的に変化させるウィルス、Tファージの事や、牛頭人身の怪物に殺されかけた事などについては、警察にもそうした通りで、姉にもその事は一切話さなかった。
今、頼れるのは自分だけでこれ以上感染者を増やさない為、力を得た感染者による殺人の犠牲者を無くす為、この町で戦えるのは自分だけなのだ。と、屯野は鏡の前に居る自分へ言い聞かせる。
「俺が……この町でただ一人の正義の味方がビビッてどうすんだよ……」
屯野は鼻に意識を集中させ、自身の体内のTファージを発動させる。
その瞬間屯野の鼻は豚の発達した嗅覚を得る。同時に、かなり遠くまでの臭いが解り、それらは屯野の鼻腔に飛び込んできた。
今のところTファージの臭いは検出できない。
しかし、Tファージの力を得た『怪人』達が動き出すのは恐らく昨日と同じで夜の間だろう。
怪人が昨日人を襲ったばかりと思うかもしれないが、だからといって今日は動きださないという保障はどこにも無いのだ。
「……はぁ。……とにかく今は風呂に入ろう」
屯野は集中していた意識を解き、体内のTファージを鎮めた。――ひとまず風呂に入って、体から噴き出た嫌な汗を流すべきだ。
雪沙は一人、流し台に立って皿を洗っていた。
物思いにふけるような表情を浮かべながら、心ここにあらずといった風で雪沙は泡のついたスポンジを力なく皿の上で動かす。
「……ホントに、ウチのお母さんもお父さんも……越野先輩も……皆、私に頼りすぎなのよ。私だって何でも出来る訳じゃないのに……はぁ」
雪沙は不満をこうして、誰も居ない時に一人、口に出して言う事があった。
「でも、琢磨は……あいつは最近、妙に私に気を遣ってか頼らなくなったわね。あーあ、見た目や趣味が良ければ、あいつも少しはいい男なのにねー。あいつもどうしてモテないか、とか自分で考えたりしないのかしら……」
その時、流しの水の音を掻き消すように、家の中にインターホンの電子音が鳴り響いた。
「はいはい……今出ます、今出ます……」
雪沙はとっさに蛇口のお湯で手を洗い、洗い物を中断し、ぱたぱたと玄関口へ向かう。
ドアの前に立った雪沙は、小さな覗き窓でドアの向こうに居る人物の姿を認める。
雪沙はその人物に驚いて小さく、えっ?、と声を漏らした。
「お父さん?」
雪沙は、内心驚きながらもドアを開ける。
「お父さん、どうしてここに――」
答えを聞かず、雪沙や琢磨の父である、会社員風の背広を着たその人物、屯野雅仁は口を開く。
「雪沙、琢磨はどうしたんだ。今、家か?」
「え……う、うん。今、お風呂入ってるけど……あれ?」
雪沙は父の雅仁の後ろにもう一人居るのに気づく。
雅仁は後ろに居たその人を家へ入るようにと手で導き、その人はおずおずと落ち着かない様子で入ってくる。
雪沙は父に仕えるように後ろにいるその人物を見た時、二重の驚きで、開いた口が塞がらなかった。
「あ、あなたは……」
雪沙は自分の見ているものが間違いだと信じたかった。
もじもじと入ってきたのは、弟・琢磨と同じ高校、名皇高校の紺のセーラー服に身を包んだ黒髪の美少女だったのだ。
「今晩は」
律儀にお辞儀をし、雪沙に挨拶する女の子の礼儀正しい立ち振る舞いに面食らい、雪沙は何もいえないまま、それでもぎこちなくお辞儀を返した。
雪沙は靴を脱ぎだす父に動揺を隠しきれないまま、掴みかかった。
「お父さんっ!! 何、この子!! み、みみ、道で拾ったとか言うんじゃないでしょうね!!? そうじゃないとおかしいでしょ!! た、琢磨に同い年の女の子の知り合いなんか天地がひっくり返ってもいる訳が――」
「馬鹿言え……。この子は家の前で偶然会ったんだ。琢磨の同級生で――」
傍にいたセーラー服の女の子が雪沙と雅仁の間に入り、女の子はぱっちりと人形のような大きな目で雪沙の方を真っ直ぐ見つめた。
「こんな夜分に申し訳ありません。――私、烏城麗那と申します。その、今日は屯野君、いえ――琢磨君とどうしてもお話したい事があって。あの、琢磨君のお母様でしょうか……?」
「いや、私は、あいつの姉だけど……え? 何? あなたあの子の友達なの……?」
「お姉様……それは大変失礼致しました。――はい。今日の夕方ごろ、琢磨君が入院されていた病院へお見舞いもかねて覗ったのですが、既に琢磨君は退院されてお家に帰られたようでしたので……」
「あ……あ、そ、そう……なの? でも琢磨今、風呂入ってるから、待っててもらわないと……」
言い終わるや、雅仁がまた割り込むようにして、ずいと烏城の前に出て、雪沙の肩を掴む。
「その前にまず、雪沙。烏城さんをこんなとこでいつまでも立たせてないで、リビングでお茶くらい出してあげなさい――ほら、烏城さん。慣れない場所だとは思うが、遠慮せずどうぞお上がりなさい」
雅仁は傍にあった客用のスリッパを一組とって、それを烏城の足元へおいてやった。
その場で立ち尽くし、口を半開きにしたままの雪沙を無視し、雅仁と烏城はリビングへ続く廊下へ踏み出してゆく。
雪沙は目をごしごしこすって、家の中へ入って行く二人の後姿を見る。前を歩く雅仁のすぐ隣にいるのは紛れも無い、琢磨と歳の近い女の子だ。
「……嘘でしょ」
雪沙は弟、琢磨への今までの認識を改めることにした。