「第九話」
「第九話」
短い入院生活だった。
病院の自動ドアを出て、外に出た屯野の表情はすっかり疲労で滅入っていた。
朝、面会時間とほぼ同時にやって来た警察の人に屯野は取調べのような質問攻めに遭った。
警察の人には昨日の出来事、牛頭人身の怪人と争い、自らも豚頭人身へ変化してしまった、信じられないような出来事は当然屯野は話さなかった。
この怪人騒動の元となったTファージの生みの親である鵠沼から昨日その事については秘密にするようにと言われたばかりであったし、屯野自身、昨日の出来事をそのまま伝えたところで警察の人に解ってもらえないと思っていた。
屯野は警察にはとにかく、恐怖で辺りも暗く何も解らなかったと言った。
警察側も被害者である屯野のことを察してかそれ以上の追及はしてこなかったが、それで質問の数が減る訳ではなかったらしい。
その後、十五歳の屯野の九歳上で今年二十四歳の姉である雪沙が急いで病室に駆けつけてきたと思ったら、この後仕事があるからと屯野の衣服の入った大きな紙袋を一つ置いて行くだけで、すたこらと出て行ってしまった。
そんなせわしない姉が出て行って数分、屯野はよく解らない内に病院から退院を言い渡されたのである。
「はぁ……」
屯野は溜息をついて空を見上げる。
空は昼だというのに曇りかけていて薄暗く、辺りの湿度は高い。
温暖湿潤気候特有の高い湿度が精神的に疲労した屯野を肉体面からも襲う。
屯野は空の紙袋に、持っていた肩に下げる学生鞄とを持って病院から近くの駅へ向かっていた。
屯野は腹立たしげに着ていた服の胸の方の生地を指で摘む。
「姉ちゃん……何でこんな俺の昔の服をわざわざ持って来るんだよ……」
今、屯野の着ているTシャツは一年前に体が大きくなって既に着れなくなって、屯野が放置していたものだった。
それを屯野の姉の雪沙は屯野の部屋の引き出しの中のTシャツ類から、適当に引っつかんで持ってきてしまったのだ。
下に着ているジーパンはどうにか最近のもので、腰周りには不安は無かったが太った屯野の上半身は既に水を上から浴びせられたように汗が滲んでいた。
「……あっちいなーもー……」
外を歩く屯野の心の不快指数は上昇するばかりで、駅に着いたころには屯野は死にそうになってプラットホームのベンチに倒れこんでいた。
「どうしよっかなー……これから」
屯野は鞄の前ポケットからおもむろに携帯をとりだして操作する。
数回のコールの後、相手が出た。
「もしもし、姉ちゃん? 今大丈夫?」
電話の相手は屯野の姉の雪沙だった。
『うん。今日、お店行ったら店長からお仕事特別に休んでもいいって事になったわ。今、家に向かう電車に乗ってるとこ。病院から出たら連絡しろってメールしたけど、無事に出れたのね?』
「そ。俺、いま病院出て近くの駅にいるんだけど」
『ああ、そうなの? ……もう、あんたもよりによってお母さんがいない時に面倒起こさないでよ。いい? そのまま真っ直ぐ帰ってきなさい』
「面倒起こしたのは俺の責任じゃねえよ」
『とにかく。すぐに帰ってくる事。聞きたい事もあるし。私も心配してたんだから』
電話は切れ、屯野は小さく毒づいて携帯をしまった。
屯野はベンチに座りなおし、膝の上で手を組んで駅の構内にいる人間を見渡す。
背広を着た社会人、年老いた老人、ベビーカーを押す女性。
普段どおりの日常がそこには繰り広げられていた。
電車のアナウンスが構内を響かし、あわただしい人の動きを見ているうちに屯野は昨日の出来事が幻だったのではないかという思いが湧いてきた。
「…………」
屯野は目をつぶって鼻で辺りの臭いを嗅いでみた。
昨夜、病室で鵠沼のさせていたTファージの臭いは無く、代わりに何百という人間や大気の混じった悪臭が屯野の鼻腔へ入ってきた。
(…………あ、頭痛ぇ)
襲ってきた臭いに耐え切れず、屯野はとっさに頭に手をやって、俯いた。
(そうだよな。……あれはやっぱり現実だったんだよな)
やがて屯野は確信を得る。昨日の嘘のような出来事は現実で、屯野は自らの体を豚へ変化させるウィルス、Tファージに感染していたのだ。
屯野は辺りの臭いを嗅ぐ事を意識しないでいると、やがてその悪臭は収まった。
嗅覚は人間の時と同じに戻っていた。
(成程。Tファージの力はある程度自分で制御出来るってか)
屯野はベンチに腰掛けたまま、ふと自分の手の平を見つめる。
そこには普段から見慣れた手の平があって、それは自分の意思に従って指を握ったり、開いたり、屯野の意志のままに動いた。
「俺が怪人……か」
ベンチから立って呟いた屯野の声を遮るように、屯野の目の前に電車が停車した。
アナウンスが響く中、屯野はゆっくりそれに乗り込んだ。
屯野の乗り込んだ列車には平日火曜の昼間という事もあって、人は殆ど乗っていなかった。
何駅か過ぎ、いつしか、乗客は屯野一人となった。
走行する静かな車内には開かれた窓からはいってくる風の音以外、何の音もしなかった。
ふと、屯野の目の前の流れる景色から割り込むように一匹の虫が飛び込んだ。
屯野はその時は気付かなかったが、やがて車内の中でその聞き覚えのある羽音を耳にし、音源をたどる内、屯野は床に這っているその虫の姿を認めた。スズメバチだ。
それは鵠沼玄宗が監視の為に数時間前、屯野へ差し向けられたものだった。
(これが、爺さんの言ってた監視ってやつ……なのか?)
屯野は冷房の利いていない車内で一人、言いようの無い恐怖に包まれ、体を抱えて身震いした。
その日以後、天見町には忙しなく空を飛び交う多くのスズメバチが見受けられるようになったが、それらは不思議な位、人を襲わずただ飛び回っていた。