7 困惑
燐は走り出しそうになるのを抑え、必死に本家の廊下を歩いていた。
何故、どうして、と叫び出しそうになるのも堪え、ただ、主の部屋を目指す。
怒りに近い感情を抱いていても、足音が響いていないところは、さすが如月家の人間であると言うべきか。
廊下を曲がり、襖が開き切った広間を横目で見つつ通り過ぎようとすると、探し人の姿があった。
「弓月様!」
自らの名を呼ぶ声に、弓月は燐を一瞥する。
「…………何だ」
「影にいくつかの命令をしたと聞きました」
面倒そうに息を吐き出し答えた弓月のその姿に、燐の声は知らずと震えた。
「それが何だ」
「私は何の命令も承っておりません。何故ですか」
「今回お前は何もしなくていい」
「……………ッ」
脳内も視界も、何もかもが真っ白になった気がした。
『何もしなくていい』という弓月の言葉は、燐の問いかけに対する答えでもなんでもない。
燐の、契約相手となった燐の存在そのものを真っ向から否定するものである。命令がなくとも、好きなように動けと言われた方がどれだけましだったか。
如月家は朱雀院家の指示・命令の下で臨機応変に動くのが通常である。これを異にする場合、両家が共に存続の危機にあるか、または如月家の者が無能の烙印を押されたことを示す。
燐は弓月の契約相手であるため、燐に命令を下すことができるのは緊急事態を除けば弓月のみである。唯一の主から無能者だと、言われたようなものだった。
弓月と再会してからの、彼の言葉がすべて脳内によみがえってきた。
加えて、先ほどの無能と言わんばかりの発言。
如月家の者として、弓月の契約相手として、抑え込んできた感情が決壊し、あふれ出た。
「………それは、私が、無能だからでしょうか」
「何を言っている? 今回の件には」
「無能だと思っているなら何で契約相手にしたんですか!!」
弓月の言葉を遮り、燐は叫ぶ。
「私は、貴方の契約相手なのに、貴方が何をしようとしているのか判らない……!!」
だんだん視界がぼやけてくる。でも、言葉を止めることはできなかった。
「これじゃ、契約者なんて言えない……っ」
言葉とともに溢れ出す感情は、涙を伴い、それは頬を幾度も滑り落ちていく。
それらをどうしようもできず、かといって燐は弓月にそれ以上感情をぶつけることもできなかった。
燐はその場から逃げだした。
「燐…………」
突然、感情を爆発させた燐を呼び止めようとしたものの、動揺してすぐに動けず、その間に燐は部屋から出て行ってしまった。
燐を思っての行動だったはずが、彼女自身にあんな風に思わせてまっていたとは。
「いつもながら、僕は………」
「昔っから下手ですよねぇ、燐様と関わりあうの」
からかうようなその声と言葉に、弓月は苦虫を噛み潰したような顔をする。
そして、突如として部屋に現れた全身黒ずくめの男を、弓月は睨み付けた。
「燐様が迷子になったときだとか、父君に怒られて泣いていたときとか、ぜーんぶ失敗してましたもんねぇ?」
「………ッ」
「まー、面白かったなぁ。小さい頃から次期当主としての教育を受けてきた弓月ぼっちゃんが、泣いてる女の子を前になーんにもできなくてわたわたしてる姿といったら」
「……何をしに来た、夏目。お前には任務を与えていたはずだが?」
夏目と呼ばれた男は、にやけていた表情を一変させた。
「勿論、奴さんの情報を集めた上で、確証を得たから報告に上がったんですよ。弓月ぼっちゃん」
「ぼっちゃんはやめろ。…………それで?」
「動きますよ。近日中に」
「確かなんだな?」
「この俺がそんな曖昧な情報をぼっちゃんに持ってくるとでも?」
認めるのは不本意であるが、おちゃらけていても仕事は早く正確だ。だからこそ、この男に任せたのだが。
「ご苦労だった。奴らの撃退準備に取り掛かる」
「久々の大仕事、腕が鳴るなぁ。で、ぼっちゃん」
「だからぼっちゃんはやめろ」
「俺にとってぼっちゃんはぼっちゃんですよ。……燐様はそのままで良いんですか?」
「…………」
「聡明なぼっちゃんなら分かっていると思いますが、奴さんの本当の目的がぼっちゃんの想定通りなら、燐様に傍にいてもらわないとまずいでしょう」
「分かっている」
「……ぼっちゃんは失敗しないでくださいよ」
夏目は言うだけ言うと、姿を消した。
「失敗なんかしない」
一人呟いて、弓月は手を握り締めた。
話の展開、速足な感が否めない。
せっかち、なんですよね………。
後々の修正ありきで。