3 刻印
前半、燐視点。
後半、龍源様視点。
ゆらゆらと、意識がはっきりしないまま、どこかを彷徨っている。
どこにいるのか分からないけれど、とても心地いい。
水に包まれているような感じがする―――と思った時、思い出した。弓月様に“水”を与えられたことを。
嫌だった。どうしても契約したくなかった。
弓月様が嫌いなわけではなかった。素晴らしい能力を持つ方で、次期当主として申し分ないと言われているのだ。燐自身も、龍源様に引けを取らないどころか、軽く超えてしまえるくらい素晴らしい当主になるだろうと思っている。
ただ、燐の中で燻っているあるもののせいで、契約だけはしたくなかった。
だから契約依頼が打診されたとき、脳内は真っ白になったのだ。どうやって断ろうかと、悩んで。
必死に考えた。「女だから」と言ったのも、正当に聞こえる理由を言えば断れると思ったからなのに。
どうして、弓月様は如月燐を契約相手に選んだのだろう。他の如月家の者なら、喜び勇んで引き受けただろうに。
強制的に契約を結ばされた瞬間、脳内は絶望で真っ白になってしまった。
けれど体を巡る如月家の血は異様に歓喜していた。それも当然か。何せ、朱雀院家次期当主の“水”を直接体内に与えられたのだ。契約の儀式を経るよりもよっぽど体に馴染むだろう。
口に流し込まれた“水”が喉を通り、器官を通り、全身に染みていくのを感じた時は、あんなに拒絶したかったにも関わらず、喜びを感じた。
やはり、如月家の血を引く者なのだと再認識させられる。
本当は自分自身のために契約依頼を断ろうとしたものの、如月家の者としては全身の血が沸き立った。朱雀院家の方のために、自分が働けるのだと。
(………莫迦みたい)
結局は如月燐としての喜びと、ただの燐としての絶望を味わいたくなかっただけのことだ。なんて、矛盾した感情なのか。
燐の中で変わらないのは、あの時のような思いは二度としたくないという感情だけだった。
「…………ん…」
目を開けると、見慣れぬ天井がそこにあった。
体を起こし部屋を見回すと、“水”を与えられた部屋だった。どうやら、“水”を与えられた直後に気を失っていたようだ。
弓月の姿は既に無かった。恐らく、龍源様に報告に向かったのだろう。
「………?」
不意に右の首筋に僅かな違和感があり、手で触れる。虫刺されかとも思ったが、腫れたような感触は無かった。
この時は気のせいかと思い、そのまま気にも留めなかった。
本意ではないけれど、契約を結んでしまったことに変わりはない。如月家の者として恥じない働きをしなければ。
燐は立ち上がると、龍源の部屋に向かう。弓月を探すためと、契約してしまったことを龍源に報告するためであった。
弓月が簡単に報告を済ませて部屋に戻っているかもしれないとは思わなかった。あの方は自分が龍源様の部屋に向かうまで、絶対にそこにいると確信があった。
自分のこういった感を燐は今まで疑ったことは無かった。良いことであれ、悪いことであれ、不意に確信をもったことは絶対に当たっているのだから。
龍源の部屋の前に着くと、廊下に膝をついた。
「失礼してよろしいでしょうか?」
予測通り、室内では龍源と弓月が会話していた。障子を閉めていないため、大して重要な話ではないのだろう。
「入れ」
「失礼いたします、龍源様」
部屋に入ると龍源と弓月より少し離れたところに正座する。
何故か龍源は苦々しげな表情で燐を見ていた。いや、燐を、というよりは燐の首元をと言った方が正しい。
燐本人は全く気が付いていないが、首元に蒼い月下美人を模った刻印が浮かび上がっていた。
この刻印は、朱雀院家の異能の力を直接かつ多量に取り込んだ場合に浮かび上がるとされていた。色は能力を、紋様は能力者を表す。燐の場合、朱雀院家の異能の力が“水”であるため蒼色に発色しており、紋様は朱雀院家では弓月を表す月下美人だ。
知る人が見れば、誰と契約しているのかが一目瞭然で分かるのである。
龍源の目の前で、蒼色がだんだん薄くなっていく。もうすぐこの刻印は見えなくなるのだ。
通常、刻印は見えない状態になる。しかし、戦闘時になるとくっきりとその姿を見せるのだ。与えられた“水”の力が反応し、攻撃の助けとなる為に。
きっと燐がこの刻印に気付くことはないのだろうと、龍源は思った。
ちら、とすぐそばに座る長男に視線を向ける。息子は視線に気付くと、なんでしょう、と目で答えた。なんでもないと首を軽く横に振った。
まさか刻印を刻むほど、弓月が燐に執着しているとは考えていなかった。何を考えているのか把握しきれない優秀な息子ではあるが。
(燐が不幸にならない選択であることを願いたい)
あの時はあんなにも悲しんだのだ。これ以上、燐が悲しい思いをすることはない。
これからの日々が平穏であれと、龍源は祈った。
なんとゆーか、刻印って………所有印っぽいかも?