―零―
『赤い花をあげましょう』
……歌が聞こえる
『この花をあげましょう』
その声は少女の声だった。無邪気でうれしそうに歌うその声。
あたりを見渡すと、そこは森の中だった。ああ、そうだ。私は森にいたんだ。愛しい誰かを待って、草の上に座っていた。
『あの人にあげましょう』
なおも聞こえるその歌。それは本当に『声』なのか、わからない。もしかしたら私だけの幻聴なのかもしれない。
それでもその歌は懐かしく、心地よい響きがあった。
「『――』!」
自分がよく知っている、この世で最も愛しい者の声に私は振り返った。
そこには少女がいた。亜麻色の長髪をなびかせた、可憐な娘。しかし、その瞳は強い光を放っていた。姿とは裏腹の芯の通った碧と金色の双眸。深海を思わせるような静かな碧と、太陽の暖かな陽だまりの金色。その瞳に見つめられて、私は胸の奥が灯がともったようにじわりと温かくなる。
なのにひどく、愛おしくて切ない心の疼きが走る。
「なんでしょうか、葉瑠」
私はそのままこちらに来る少女を見上げた。
と、思ったら目の前が見えなくなった。ひやりとした彼女の柔らかな肌の感触が伝わる。
瞬間、狂おしいほど愛しい気持ちが私の胸のうちを満ち溢れた。彼女に触れられて心臓が打ち震える。歓喜とも呼べる気持ち。
きっとそんなの胸のうちを彼女は気づいていないだろう。
そんな素振りを見せないように表面上は落ち着いて見せると、そっと彼女の手に触れ、くすりと私は笑った。
「いかがされました?」
「あ、今子どもっぽいみたいなこと思ったでしょ。見た目は子どもだからいいのよ」
勘違いしたらしい。少し意地になって言う彼女が微笑ましかった。そしてまるで子どものような行動に、私は可愛らしいと思った。お互い、子どもという範疇をとうに超えた年月を過ごした。なのにこの変わらぬあどけなさ。だから余計おかしかった。
前は何も見えない。彼女の手が私の視界を奪っているからだ。
けれどその分彼女の声、吐息、気配、彼女の存在が鮮明に私には感じられた。心地よいほど冷たい彼女の感触が手のうちに伝わる。
『髪にさしてあげましょう』
もっと触れていたい。彼女を感じていたい。
そんな強い衝動にかられた。
「そうですか」
彼女の手を握り、後ろにいる彼女の片腕に手を伸ばしながらそう答えた。
すると、自分で言ってなんだか微妙な気分になったらしい、葉瑠は複雑な表情をした。私がそう言う意味で言ったのではないと気づいたのだろう。そして自分の言葉は彼女が子どもだと自身で認めてしまったようなもの。そのことが少し恥ずかしくなったらしい。
顔は見えていないのにそういった感情が読み取れてしまう正直な彼女。懐かしさと共に息苦しいほど愛おしく感じた。胸が締め付けられる、悲鳴を上げるように。
気を取り直すと彼女は私の顔から手をどけた。同時に片手からするりと彼女の腕も抜けていく。彼女のぬくもりが離れていく。
今度は喪失感で胸が締め付けられた。
「で、ちょっと目瞑ってくれるかな」
後ろから前に回るとしゃがみこみ、彼女は私の顔を覗き込んだ。
透き通った碧と金色の瞳が私を映す。私だけを見る、可愛い人。
快悦が再び私の胸を支配した。
私はそっと彼女の手に手を伸ばした。白い綺麗でなめらかな肌。細くて強く握ると壊れてしまいそうな精細な指。それに私が自分の指を絡ませると空いたほうの手で彼女の顔に触れ、そのまま亜麻色の髪に手を滑らせた。
……さらさらと心地よい肌触りの髪。
「私はこのままでもとても幸せなのですが」
とびきり柔らかく甘い微笑を彼女に向けた。彼女の髪を一房指に絡めると私はそれに口を寄せる。するといつものように瞬間見る見るうちに彼女の顔は赤らんできた。
それを強がって我慢している彼女。必死で恥ずかしさを堪えようとして震えている姿はとても愛おしい。そうしているとますます苛めたくなる。
「……惚気なくていいから。恥ずかしくなる」
「わざとですよ」
かろうじて声を絞り出すことができた彼女にくすりと、笑いながら手でもてあそんでいた彼女の髪を離し、今度は彼女の額に口付けた。
それには我慢ができなくなったらしい。手を振り払い立ち上がると彼女は大声で言った。
「ああ、知ってるよっこの腹黒――っ!」
ああ、怒らせてしまった。
少し申し訳ない気持ちと共に頬を緩ませて彼女の顔を見た――そして私は後悔した。
その顔は怒った声とは裏腹に、怒りとは違う少し困ったような表情だったのだ。
それは彼女が実は嬉しいと思っている証。
『太陽のように咲くから』
その瞳が幸せだと、私に言っていた。
「……っ」
「な、なに?」
更に顔を近づけてきた彼女に私は即座に目を瞑って顔を背けた。
「はい、目をつむりましたよ」
可愛らしすぎてもう見てられなくなってしまった。こちらが今度は顔を赤くしてしまう羽目になるとは。
私は目を瞑り、胸のうちに湧き上がった強烈な感情を押さえ込んだ。
焼け付くような息が止まってしまうような、狂ってしまいそうなほどの愛しさ。
『白い花をあげましょう』
そう、この胸の疼きを私はよく知っていた。
『この花をあげましょう』
そして再びあの歌が聞こえた。その途端、頭に軽いなにかが乗せられた感じがあった。
「……はいっ」
少し嬉しそうな声と共に彼女が離れた。その言葉にすぐに目を開く。早く彼女の顔が見たかった。
そこには笑いを堪えた彼女の顔。不思議に思いながら、頭に感じた軽い重りに手を触れた。柔らかい植物の感触がしたけれど見えない。
私は手を宙に掲げ、指をくいっと曲げると近くの池から水を呼び寄せた。仙術で球体になった水に自分の姿が映っていた。
「……これは……深見草か?」
頭の上には、白くて丸い可愛らしい花がのっていた。まるで乙女の髪飾りのように。
「あはっあははははっ」
ついに耐えきれなくなったのか、彼女は噴き出した。
「『――』、娘みたいっ」
おかしそうに笑う彼女。
「……」
……娘、ね。
心の奥が急速に冷えて固まった。
私はこの長髪と顔、表面の性格の所以か、よく女らしいと言われることがあった。まだ故郷にいた頃は宦官みたいだと囃したてられたこともなかったわけでない。特に体つきが柔なのではないのだ。しかし、服に隠れれば女々しく見えるのかもしれない。
だが私はまわりがどうこう言おうと、気にする性格ではなかった。今までは特に問題にしていなかったのだ。私は自分を恥じるような生き方はしていない。
そう、葉瑠に会うまでは思っていた。
彼女に、恋に落ちるまでは。
私は自分を男として見てもらいたいと、思うようになった。彼女に見合う支えとなり、頼れるような存在でありたいと。そして、彼女が求める男は自分のみでありたい。そう、願った。女友達みたいな存在だと思われるのは、嫌だった。
しかし。
『娘みたいっ』
胸の奥が冷える。
彼女にとって、やはり私は男らしくないのだろうか。
彼女の様子を見るとまだ、笑っていた。
「………………………………」
自分に自信がない。葉瑠のこととなると、私は駄目だ。
ふっとため息をついた。どうも、弱い。誰に言われても、彼女の言うこととなると一々振り回されてしまう。そう、いつも私は振り回されて、でもそれを本当は心地よくも思っていたのだ。
狂おしい彼女の存在が、笑顔がとてもつもなくこの世で一番愛おしいから。
「――、『―――』?」
すると長いこと黙ったままの私に気づいた葉瑠が、おろおろと私の名を呼んだ。少しやりすぎたかなと罪悪感を顔に張り付けたように慌てていた。
そんな彼女に、私は見ているだけで胸が熱くて、動悸がした。
彼女が私の名を呼ぶだけでどうしてこんなにも、気が可笑しくなるほど胸が苦しいのだろう。
「ちょ、そ、そんなつもりでかざったんじゃなくてっ。で、出来心というか面白いかなぁって……。あの、その」
「……はい?」
言葉がうまく出てこない彼女が可愛らしくて少し笑うと、勘違いしたのか葉瑠はますます慌てた。
「ほ、ほら。いつも――って余裕な顔してるし、滅多に動揺しないでしょ? だ、だからさ深見草とか飾ったら……えーっとその、普段とは違った新鮮な感じが出て……面白いかなと」
最後の方は小さくなりながらしまいには彼女も黙り込んでしまった。その場が静かになる。その空気に青ざめた顔になる葉瑠。そんな彼女が可愛くて仕方がなくて、抱きしめたい情動にかられた。
くすりと笑う。
その一挙一動が私にとって、どんなに大切で、どんなに私が心動かされているかはたして彼女にはわかっていたのだろうか。