最強の共犯者
「検索履歴が、お前が犯人だと言っている。もういい加減あきらめたらどうだ?」
取調室の冷たい蛍光灯の下、刑事の松永は分厚いプリントアウトを机に叩きつけた。
小説家志望の男、織田摩利夫(28歳)は、手錠をはめられた両手を震わせながら、目の前の紙束を見つめた。
そこに並んでいたのは、彼がここ数ヶ月間、自宅のパソコンで血眼になって検索し続けていた文字の羅列だった。
• 『即死する 毒物 手に入りやすい』
• 『首を絞める 力 加減 気絶』
• 『血痕 掃除 ルミノール 反応 消す』
「ち、違うんです……!」摩利夫は枯れた声を振り絞った。「これは、小説のネタなんです! ミステリー小説を書いていて、リアルなトリックを考えるために調べていただけなんです! 松本清張みたいに、実在する日用品や街の風景をトリックに昇華させたくて、散歩しながらネタを探していたんです!」
松永刑事は鼻で笑った。
「小説? 最近捕まるホシは、毎度毎度そう言い訳するんだよ。いいか、織田。昨日、市内の廃ビルで若い女性の遺体が発見された。死因は窒息死。現場の首筋には、正確に気絶を狙ったと思われる特異な圧迫痕があった。お前は一週間前にそれを検索している。それだけじゃない。被害者が拉致された時刻、お前のスマホのGPSはなぜか現場の廃ビル周辺を綺麗にトレースしているんだよ」
「そんなはずはない! 俺はその時間、別の通りを歩いてロケハンしていました! その証拠に、俺が立ち止まった薬局の斜め向かいには、銀行の防犯カメラが設置されていた。当て逃げ事件があったはずです。調べてください」
「……おい、予備の班を動かせ。防犯カメラのデータを至急押さえろ」
松永はインカムに向かって指示を出し、部屋を出て行った。
一人残された摩利夫は、うつむいたまま、心の中で安堵していた。
(そうだ。防犯カメラを確認するがいい……)
しかし、そこに摩利夫の姿すら映っていないはずだ。なぜなら彼はあらかじめ、あの通りの防犯カメラの画角を完璧に調べ上げ、小説の検証でカメラに一切映らないルート(死角)だけを歩いていたのだから。
摩利夫は本当に無実だった。しかし、彼がロケハンし、データを集めていたその「死角」を完璧に利用し、彼に罪を擦り付けた「本物の真犯人」が、この世界のどこかに潜んでいるのだ。真犯人は摩利夫の端末にマルウェアを仕込み、彼のGPSデータを偽装し、検索履歴を盗み見て犯行を完全にトレースしたに違いない、彼はそう思った。
現代の警察は、デジタルデータという“確証”に頼れば頼るほど、その裏にある『死角』を認めない。
俺にはその場にいなければ知り得ない情報がある。勝った。これで俺は釈放される。摩利夫はそう確信していた。
しかし、一時間後に戻ってきた松永刑事の目は、血走り、獣のように濁っていた。
「当て逃げ事件はあった。しかし……当て逃げ現場にも、犯行現場近くの防犯カメラにお前の姿は映っていなかった。織田、お前を釈放するわけにはいかない。むしろ、容疑は完全に固まった」
「え……? どうしてですか! 俺は映っていなかった、つまり現場近くに立ち寄れるはずがないと証明されたはずだ!」
「往生際が悪いぞ!」松永は机を激しく叩いた。「防犯カメラの死角を完璧に調べ上げ、一切映らないルートを選んで犯行に及んだ。これ以上の『計画性の証拠』がどこにある? すでに上層部がマスコミに『ネット検索と徹底的な死角ルートで犯行を計画した、冷酷な知能犯を逮捕』と大々的にリークしたんだよ。今さら『実は濡れ衣でした』なんて発表してみろ。警察の威信は丸潰れ、首がいくつ飛ぶと思っている?」
「そんな……っ、逆だ! 俺は小説の架空の犯人の気持ちをトレースするために……!」
「お前が犯人なんだよ、織田。上層部もマスコミもインターネット掲示板もお前が犯人だと言っている!事実も真実もあるもんか!もう決まったことだ!お前が書いた検索履歴の通りに、お前が死刑台に上るんだ!誰が犯人かなんて小説でもあるまいし最初からわかるわけないんだよ。そんなことミステリー作家志望ならわかるだろ?いい加減手間かけさせるな。犯人役が回ってきた、ただそれだけのことだ」
◇
公判は信じられないほどのスピードで進み、警察が精巧に組み立てた有罪のシナリオの前に、摩利夫の叫びはすべて黙殺された。最高裁の判決は、無期懲役。
――数ヶ月後。薄暗い面会室のガラス越しに、摩利夫は刑務官から手渡された長方形の桐の箱を見つめた。中に入っていたのは、老舗和菓子店の美しい焼き饅頭だった。
「織田、差し入れだ。検査は済んでいる。ここで食っていいぞ」
刑務官が箱の蓋を開けると、そこには、大小様々な形の饅頭が並んでいた。
2×2の巨大な饅頭が1個。2×1の長方形の饅頭が1個。1×2の長方形の饅頭が4個。1×1の小さな饅頭が4個。
そして、下部にあるわずかな「2マス分の隙間」。
摩利夫の頭に、雷が落ちたような衝撃が走った。
(これは……スライドパズル『箱入り娘』だ……!)
2×2の最も大きな赤い饅頭を「娘」に見立て、狭い箱の中でスライドさせて一番下の隙間から脱出させる古典パズル。
そしてこの仕掛けこそ、かつて摩利夫がウェブ小説サイトの片隅に投稿し、アクセス数が一桁のまま削除した未完のミステリー『箱の中の令嬢』のトリックそのものだった。
「……あ、ああ……っ!」
摩利夫はガタガタと震える手で、木箱の中の饅頭をスライドさせ始めた。
かつて自分が書いた最短手順なんて覚えていない。形が崩れないよう細心の注意を払いながら、必死に自力で、泥臭く饅頭を動かしていく。
数十手もの苦闘の末、ついに最も大きな饅頭を最下部へと脱出させた。
摩利夫は息を止め、10個の饅頭を、その位置を崩さないように慎重に裏返した。
底面の「焦げ目」で描かれた文字を見た瞬間、摩利夫は凍りついた。
『歪曲。最高。安全地帯。招待。君を。警察は。事実を。私を。共犯者。おめでとう』
文字がバラバラで、意味が通らない。失敗したのか——?
いや、違う。摩利夫の脳裏に、かつて自分が小説で設定した仕様がフラッシュバックした。
(そうだ……『箱入り娘』には同じ大きさの駒が複数ある。最短手順で解かないと、同じ形の駒同士が途中で入れ違い、文面がおかしくなってしまうんだ!)
箱の中には、同じ長方形が4個、正方形が4個ある。それらが最短手順を踏まなかったことで、入れ替わっているのだ。
小説の中では名探偵が最短手順でスマートに解いたのに……。
摩利夫は台の上で、同じ形の饅頭同士を物理的に、文脈を頼りに入れ替え始めた。
「『歪曲』の前に来る主語は警察だ、だからこの長方形を入れ替える。『最高』の後に続くのは『共犯者』か……!」
パズルの駒を、文脈という名の糊で繋ぎ合わせていく。同じ形の饅頭を一つ、また一つと手動で入れ替えていくたびに、バラバラだった文字列が、不気味なほど綺麗な一本の線へと収束していった。
完成したメッセージが、机の上に浮かび上がる。
『有罪おめでとう。警察は事実を歪曲し君を犯人にした。彼らこそ私の最高の共犯者。私を安全地帯へ招待してくれて感謝する』
「織田、何をやっている。食べないなら片付けるぞ」
刑務官の冷たい声が響いた。
その瞬間、摩利夫の絶望に震えていた顔に、奇妙な、歪んだ「悦び」の笑みが浮かび上がった。
アクセス数はいつも一桁。
誰にも読まれず、評価もされず、ただひっそりと削除した、自分だけの「箱入り娘」のローカルルール。
真犯人は、そのすべてを完璧に理解していた。理解した上で、この10個の饅頭という芸術的なファンレターを完成させたのだ。
「読んで、くれていたんだ……」
涙がボロボロと溢れ、机の上の饅頭に落ちる。
無実の罪で人生を破滅させられた。自分は二十年は社会に戻れない。
けれど、この世界のどこかに、自分の書いた物語を、トリックを、これ以上ないほど熱狂的に読み込み、理解し、 shadow(影)となって「現実」という最高のステージで完璧に再現してくれた『熱心な読者』が、たった一人だけ存在していた。
「……いただきます」
摩利夫は愛おしそうに最初の饅頭を口に運んだ。
ボロボロとこぼれる生地。喉を詰まらせる甘いあんこ。
それは、彼が作家として生まれて初めて得た、至高の報酬の味だった。
(俺の勝ちだ。俺のプロットは、世界で一番歪んだ形で、完璧に認められたんだ——)
ククク、と喉を鳴らして笑いながら、摩利夫は涙と鼻水で顔を汚し、至福の表情で饅頭を次々と口へ押し込んでいく。真犯人が残した唯一の証拠を、自らの血肉へと変えて消していく。
ガラスの向こうで、監視の刑務官が「頭がおかしくなったか」と気味悪そうに身を引いた。
警察という巨大な組織のプライドを操り人形の糸のように操る本物の怪物が笑い、そして刑務所の奥深くで、一人の狂った作家が、世界で最も孤独な幸福に浸りながら笑っていた。
完全犯罪こそがミステリー小説の忠実な実写化。
特等席で全てを味わった俺は巨匠にも警察にも勝ってしまったのかもしれない。
摩利夫は勝利感で満たされていた。
(終わり)




