凪いだ水面に揺らす心
人と喋りたいと思った。
休日の昼だった。
昨日の夜から特に予定を入れていなかった。意図してそうしたわけではなく、ただそうなっていた。起きたのは十時を過ぎた頃で、顔を洗って、冷蔵庫にあったものでなんとなく昼ごはんを作って食べた。それだけだった。
朝霧栞は、食べ終わってから、ベッドに寝転んでスマートフォンを開いた。SNSをスクロールした。誰かの旅行の写真、誰かの愚痴、誰かのおすすめの映画。流れてくる文字たちを目で追いながら、一抹の眠気を感じていた。眠ってしまってもよかった。でも、なんとなく勿体ない気がした。
今日は天気が良く、気温もちょうどよかったので、換気がてら窓を開けていた。舞い込んでくる涼しい風が心地よかった。スマートフォンを見る視界の端に、ベランダに干した洗濯物がゆっくりと揺れているのが見えた。白いタオルと、薄い青のシャツ。
電気を消していたから、窓から流れてくる日光だけが部屋を照らしていた。優しい光だった。埃がゆっくりと空中を漂っているのが、その光の中に見えた。普段は気にしたこともなかったのに、今日はなぜかそれが目に入った。小さな粒が、光の中で静かに動いていた。どこへ向かうでもなく、ただ漂っていた。
そんな中で、ふっと思った。
人と喋りたい。
なぜそう思ったのか、わからなかった。ただ漠然と、そう思った。
理由もなく人と喋りたくなることは、これまでにもあった。
たとえば、おいしいものを食べたとき。理不尽なことがあって腹が立ったとき。そういうときは、誰かに話したいと思う気持ちの形がはっきりしていた。「これを伝えたい」という内側からの圧力のようなものがあって、それが自分を動かした。
でも今日は違った。特に何かをしていたわけでもなかった。ただ部屋でだらだらしていただけだった。誰かに話せるようなことは、何もなかった。
寂しいのだろうか、と考えた。それとも悲しいのか。違う気がした。そういったマイナスの感情があったわけではなかった。胸の中は、凪いでいた。
かといって、楽しいとか、嬉しいとか、そういうプラスの感情があったわけでもなかった。強いて言うなら、ぼーっとしていた。午後の光の中で、栞は、ただそこにいた。
海の底に溜まっていた空気が、ふわっと水面に向かって上がってくるように。そんなふうに、前触れもなく、透明な何かが胸の中に浮かんできた。感情と呼ぶには曖昧すぎて、衝動と呼ぶには静かすぎた。名前も、形もないそれが、凪いだ水面を揺らした。
スマートフォンを置いた。
胸に手を当てて、目を閉じた。
部屋は静かだった。風がカーテンを揺らす音がした。洗濯物も、ゆっくりと揺れているのだろう。
目を閉じたまま、その透明な何かの輪郭を探した。触れようとすると、霧のようにふわりと形を変えた。でも確かに、そこにあった。
しばらくして、気づいた。
自分は今、ここにいる。部屋の中に、一人でいる。風が入ってきて、光がある。昨日食べたものの記憶があって、明日のことはまだ何も決まっていない。
ただ、それだけのことだった。
そしてそれだけのことが、今日の午後、誰かに触れたいと思わせた。共有すべき出来事があるからではなく、こんなふうに存在していることを、誰かに知っていてほしかったのかもしれない。声に出さなくていい。話の内容なんてなくてもいい。ただ、誰かの声を聞いて、自分の声を聞いてもらう。それだけでよかった。
目を開けると、部屋は変わらず静かだった。
スマートフォンに手を伸ばした。SNSではなく、連絡先を開いた。友人の名前を探した。
少し迷って、電話をかけた。
冬野渚は、本を読んでいた。
特に予定のない休日だった。午前中に部屋の片付けを済ませて、買い物に行こうかとも思ったが、外に出るほどの気持ちにもなれなかった。結局、ソファに落ち着いて、先週から読みかけていた文庫本を開いた。
静かだった。
静かな休日は、嫌いではなかった。やるべきことをやって、読みたいものを読んで、眠くなったら眠る。それだけで、十分だった。部屋を照らすLEDのライトが文字を照らしていた。
読んでいるうちに、少しずつ眠気が来た。
逆らわずに、目を閉じた。うとうとしながら、文字の続きを頭の中で辿っていた。どこかで話が夢に混ざり始めた頃、スマートフォンが振動した。
画面を見ると、栞からの着信だった。
渚は少し目を細めて、出た。
「もしもし」
自分でも、少し眠そうな声だと思った。
「起こした?」
「ちょっとうとうとしてただけ。どうしたの?」
栞からの電話は、珍しくはなかった。でも昼間にかかってくることは、あまりなかった。何かあったのだろうか、と少し体を起こした。
「えっと……」
少し間があった。
それから、栞が笑った。電話越しでも、笑ったのがわかった。
「ううん、なんでもない。ただ……電話したかっただけ」
渚は、それを聞いて少し黙った。
電話したかっただけ。理由は、それだけ。
渚には、その感覚がすぐにはわからなかった。誰かに電話をかけるときは、大抵、用件がある。確認したいことや、伝えなければならないことや、決めなければならないことがある。ただ電話したかったから、という理由で電話をかけたことは、あまりなかった。
でも栞がそう言うことの意味は、なんとなく、理解できた。
「わかった」と渚は言った。
「じゃあ話そっか」
窓の外で、風が吹いた。
栞の部屋でも、渚の部屋でも、同じように風が吹いているのだろう。同じ午後の光が、それぞれの部屋に差し込んでいるのだろう。
栞の洗濯物が揺れた。
渚のページが、少しめくれた。
「ねえ渚」と栞が言った。
「うん」
「今日、何してた?」
「本読んでた。さっきまで」
「何の本?」
「まだ途中だけど」渚は手元の文庫本を少し見た。
「遠い異国に旅をする話」
少し間があった。
「……それ」と栞が言った。「私が前に話した本じゃない?」
「そう。面白そうだったから」
「読んでたんだ」
「読んでた」
栞が、また笑った。今度は少し、さっきより温かい笑い方だった。
「どう?」
「まだわからない。でも悪くない」
「そっか」
それから二人は、とりとめのない話をした。
昼ごはんに何を食べたか。最近気になっていること。来週の天気が良ければどこかに行こうかという、まだ決まっていない話。
どれも、大したことではなかった。
でも栞はそれを話しながら、胸の中にあった透明な何かが、少しずつ、形になっていく気がした。名前はまだわからなかった。でも、輪郭が見えてきた気がした。
誰かの声を聞いて、自分の声を聞いてもらう。
それだけで、十分だった。
電話を切ったのは、三十分ほど経ってからだった。
栞はスマートフォンを胸の上に置いて、天井を見た。部屋は静かになった。洗濯物はまだ揺れているのだろう。光は変わらず、優しかった。
さっきとは、少しだけ違う静かさだった。
渚の声が、まだ耳の中に残っていた。それだけで、部屋の温度が少し違う気がした。




