虫の声
「命をなんだと思ってるの!!!」
わびしい山間を鋭い怒声が走る。
一瞬の沈黙の後、闇の中でじゃばじゃばと川を下る水音が戻る。
暗い里山の夜にぽつんと灯る明かりは、どことなく優しい安心感を醸し、温かさに油断した蛾やカゲロウは惹かれ惑わされ吸い込まれるように常夜灯に集う。それを散らすように勢いよく引き戸が開け放たれ若い女性が飛び出す。踵を返し叩きつけるように閉じた引き戸に思い切り札束を投げつけて、家の前の車に飛び乗りドアを強く閉めて急発進する。
右へ左へはらはらと散るお札は、剥がれ落ちた花びらのように儚く土に還る。引き戸を閉めた反動で開いた1センチほどの隙間から飴色の光とともに幼児の泣き声が漏れる。
薄い月明かりを花びらで転がす梅。冷たい風に煽られ翻る木の葉。ため池に水滴が触れて脈打つような波紋。カエルが水底に引き込まれる音。その悲鳴を皮切りに、雨がざあっと闇を貫く。そこにある全てから逃げるように、水色の軽自動車は真っ暗な細道を煌々と照らし、轟く雨音に追い立てられて闇に消える。散らばった札は雨に撃たれて形を崩す。明るい部屋から誰かの影がゆらりと動き、それに気付きもせず少し開いた引き戸を閉める。夜の山間には、雨音に混ざっていっそう苛烈な幼児の声が響く。
さらさらと風が吹く、とある公園。
僕の目線の先には踊るように飛ぶちょうちょ。
黄色い色は青空によく映えて鮮やかだ。
「ねえ、なに見てるの?」「えっ?」
横を見るといつの間にか横に座っていたらしい女の子。
「ちょうちょを見てるんだ。ってあれ、いなくなっちゃった」「ふーん。ねえ、わたしと遊ぼ?」
そう言って少女は僕の手を強く引きくるくると嬉しそうに回った。
「じゃあねえ、花摘みしよう?」「花?」「うん。楽しいよ!見て、これがほとけのざ!」「ふーん」「これおいしいよ。蜜があるの。」「そうなの?どこに?」「ここだよ。ないのもあるけどね。」少女はホトケノザの花の根元をちゅぱちゅぱと吸ってみせた。「ふーん、じゃあ僕も吸ってみようかな…甘い、お花のにおいがするね!」「お花だからね。君もいいにおいするね。なにか持ってるの?」「え、そうかな。なにももってないよ。」ポケットを探ると昨日食べたお菓子のゴミが指に触ったが、そのまま奥へ突っ込んだ。「へー、へんなの。君お花みたい。」「んー、そう?」「うん。」「ほめてんのかほめてないのか分かんないや」「ほめてない」「ほめてないんかい」
少女は花に詳しく、雑草を次から次へ指さして紹介してくれた。今まで草は緑だけだと思っていたのが、しゃがんで近くによると花が無くても意外にカラフルだったことに気付いた。
「そういえばさ、君ってなんのお名前なの?」僕はついに花の名前よりも気になっていたことを聞いた。少しの沈黙に、聞かないほうが良かったのかなとも思ったが、明るい声で少女は問い返した。「なんのお名前がいい?」「へ?だから君のお名前は…」「うん。なんのお名前がいい?」つまりあだ名で呼んでほしいということなのか。考えるまもなく口をついた言葉は「はなちゃんでいい?」
あまりに安直だったかと言った矢先後悔しそうになるが、少女は笑って「おっけー。あたし花ちゃん。よろしくね〜。」と返した。「うん、よろしくね」
僕らはその後も公園の花をひとしきり見て回った。しゃがんだままずりずりと進みながら見て回ったので、公園にはイモムシでも這ったような跡がついており、二人で顔を見合わせて笑った。次にまた会うのがいつかわからないけど、会えたらまた遊ぼうねと約束し、日が落ちる前に解散した。僕がこの街ではじめて作った友達は、黒目が大きいかわいい女の子だった。
キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴ると同時に、学校中からいろんな声が漏れる。一緒に帰ろう、今日は暑い、先生話長すぎ。廊下から雪崩れるいろんな音を聞きながら、僕は転校して初めての小学校でまだ緊張が解けずにいた。
「前はどこ小?」「なんのゲームしてるん?てかゲームもっとる?」「誕生日っていつなの!」
こちらも雪崩れるように詰め寄る同級生は悪気こそないものの、僕の心をさらに硬く閉じさせる。
「ちょいちょいそんなに一気に行ったら話せないって。ねえ?」真面目そうな印象の男の子が優しくみんなを諭す。「えーつまんね。陸帰ろ!一緒にサッカーしようや!」「え今日俺スイミング」「男子うるさいー。若葉っちさっさと帰ろう。」鶴の一声で蜘蛛の子を散らすように元気よく外へ駆けていくみんなを横目で見つつ、先程の少年に声を掛ける。「あの、ありがとな。」「ん?別になにもしてないけど。」「いや正直困ってたから。」周りに聞かれていないのを確認してぼそっとぼやく。「はは、元気すぎるだけさ。そのうち慣れるよ。それならお礼に一つ、俺に教えてくれない?」「なに?」「君はさ、もう友達できた?」脳裏に浮かぶのは花ちゃん一人。1度会っただけだが、いないというのも癪なので友達に数えることにした。「うんできたよ。女の子だけど。」「そっかあ。早いね。じゃあ俺と、初めての男友達にならない?」優しく微笑む表情はどこか寂しげな色をにじませていた。「え、いいよ。」「ほんとうに!ありがとう。」断るメリットがないので了承した。笑うとクシャッとシワが寄って、素敵な笑顔だなと思った。少年の名前が学年名簿の一番下に書いてあったのを、記憶の隅から引き出す。「よろしくね、えーと、四辻くん」「おう、よろしくな。」
いくらか雑談した後四辻は自分の家族のことを話してくれた。彼には妹が一人いて、2つ下の学年なんだそう。ピアノ教室に通っており友達も多く、そして何より可愛いらしい。茶色い髪はどう結んでも似合うし、ほっぺはもちもちしていて、いつもは意地悪なのに寝るときは布団に入ってくるのがもうと惚気話をする彼の顔は兄そのものだった。僕は妹を語る四辻の剣幕に引きつつ、これがいわゆるシスコンかと納得した。そしてかわいい妹がいる四辻にも、かわいがってくれる兄がいるその妹にも少し嫉妬した。
放課後、四辻は習い事があるから車が来てるんだと言って駐車場に向かった。僕と同じ方角に帰る人はあまりいないらしく、加えてみんな早々に帰ってしまったので、今日は一人で帰路についた。帰りながら、僕は4人で温かい食卓を囲む四辻の家庭を想像して、足取りが重くなった。来た道が短く感じることはあっても、遠く感じることは逆に珍しいのではないか。ようやく公園をすぎると、げんなりするようなボロアパートが見えてくる。錆びて茶色く汚れた鉄骨階段をできるだけ静かに登り、木造の扉の前に立つ。昼の明るさでも中和しきれない、暗く淀んだ部屋からかすかに聞こえる唸り声。僕はもう一度階段を降りて少し歩き、公園に行った。誰もいない公園でも独り占めできる喜びなど湧くはずもなく、僕はベンチに腰掛けて宿題をはじめた。それからここで宿題をするのが僕の日課になった。
学校も慣れてそこそこ、俺は四辻以外にもたくさん友だちができた。今まで辺境のド田舎にあるおばあちゃんの家で育ち、同級生と話すことが一切なかったので、無邪気で純粋な彼らは僕の目にはそれはそれは美しく映った。もちろん四辻とも学校ではいつも一緒で、休憩時間には前後の席なのをいいことに、椅子ごと振り返って授業の愚痴や最近の漫画など他愛ない話をした。しかし学校終わりの空手にピアノに塾に陸上と立て込んだ習い事は、四辻が子供らしくいられる時間を喰い物にした。いっしょに帰ったり遊んだりする下校時間だけでなく休日はなおさら、僕は四辻と会うことすらできなかった。
そんなわけで僕は例によって公園に入り浸っていた。たまに花ちゃんも顔を見せ、僕の宿題を見てはつまらなそうだの無駄なことだの口を挟む。そして今日は花ちゃんは姿を見せなかった代わりに、初めて見るかっこいい男の子がベンチで寝転んでいた。お世辞抜きにかっこいいと思える人はこの男の子が初めてかもしれない。いや、前に一度…いつも通り宿題を済ませてしまいたかったが、ベンチがないのでは仕方がない。ランドセルを花壇の横に下ろし、ブランコに向かおうとすると、「おいお前」と声をかけられた。
「ぼっ僕?」寝ているものだと思っていたので、声をかけられると肩も声もビクンと跳ね上がってしまった。「暇なら一緒に遊ぼーぜ。」「遊ぼうったって、なにで?」「別になんでも。」そう言って気だるげに起き上がり僕の目を射止める。見れば見るほどかっこいいのは、そのスタイルのせいなのか。小さな顔にスラリと長い手足。大きなツリ目は三白眼で、僕を逃さない危険な凄みを帯びている。
「かくれんぼでも鬼ごっこでも、なんでもいいぜ。」「じゃあ、かくれんぼしよう。」「了解。じゃあおれ隠れてるから10秒数えろよ」「うんおっけー。」半分脅されるような緊張感を抱きながら目を瞑って10秒数える。というか突然現れるなり遊ぼうだなんてどういう了見だ。「もういいかい?」僕のかくれんぼでは返事がないのは同意とみなす。いくよー、と振り向いた瞬間、ぶわっという衝撃が頬に走り、風が木の葉を揺らして土の匂いを巻き上げながら吹き抜ける。少年の隠れられる場所などたかが知れているはずなのにどこにも気配を感じない。まるで振り向いた瞬間に世界から人が消えてしまったかのような静けさだ。
「どこかなー…」この世界にはもう自分しかいないのではないかという不安をかき消すように声を出しながら植栽を探る。しかしいない。滑り台の裏を覗いても傷ついた落書きがあるだけ、倉庫の裏では猫じゃらしが風をあやし、木の上にはよく見ると鳥の巣がある。シーソーの下、砂場の中、ジャングルジムの中、ブランコの裏。どこにもいない。
「あれ、帰っちゃったのかな…いるなら降参!もうわかんないよー!」流石にこれ以上一人でいると本当に違う次元にでも迷い込んだような錯覚に陥りそうになってきたので、潔く負けを認めた。
すると「お前、探すのも下手なら粘りグセもないのかよ。」「…?!そこさっき探したのに!」木の後ろから、さも当たり前のように少年が現れるがおかしい。木の大きさはいくら細身の少年でも隠れきれるほど太くはないはずだ。「なんで?どうやって隠れてたの?」「お前が見つけてなかっただけだよ。」「すごいよ、忍者みたい!」「まあほんとは忍者かも知れねえな」さして威張らず澄ましたその顔は粋な色気を漂わせていた。「すげえ。おれもコツ教えてよ、えっと、なんて呼べばいい?」「しらね。好きに呼べば?」「んー、じゃあ忍者のしのぶで!」「忍者なのにしのぶなのか。」「忍者の忍は、しのぶって読むからね」僕が誇らしげに言うとしのぶはへえと口を尖らせた。一枚上手だったようで少し嬉しくなった。
「うっ、ううっ、うあっ…」「ああきれいな声、もっと聞かせてっ」男は女性の髪の毛を乱暴に掴んで彼女の細い腰に自分の腰を打ち付ける。暗い部屋にカーテンの隙間から漏れる夕日が眩しく差し込み、二人の肌を暖かく照らす。「こっち向いて。見たいな、藤子の顔。」女性は無理矢理にひっくり返され、振り乱した黒髪の間から覗いた目で男を見る。男はその目尻から頬をなんとも愛おしそうに手のひらで包み、すっと手を離すと思い切りビンタする。「ゔぁっ」歪んだ唇から漏れるその苦痛を自分の唇で封じ込めるように押さえつけ、彼女の内部に熱を吐き出す。その熱さえ漏らさないようにそのまま強く抱きしめる。「愛してるよ。君はすごく素敵だ。僕だけだからね。君には僕しかいないから。」バシバシと男の背中を叩くがなお一層抱擁は強くなり、息を吸えなくなった女性は呆然とした表情で暗くなる視界の中、天井に映る夕日の線を追いかけていた。男が優しく手を離すと、女性はベッドに倒れ込む。過呼吸で痙攣する細い体を微笑んで撫で、足先から優しくキスを落としていく。
「ただいま。」のどが渇いた僕は部屋が静まったのを見計らい、鍵を開けて扉を開く。熟れた果実が腐ったような、蒸しかえるような淀んだ空気が溢れ出る。やっぱり公園の水で我慢すればよかったと後悔しかけたが、玄関の扉を閉めて僕は静かに廊下を歩く。靴下の跡が白く残って消えていく。この狭い1LDKにはリビングの扉を開けるとキッチンと食卓がある。ご飯まではその食卓でテレビを見たりお絵かきをしたりする。今日もそこへ向かおうとリビングの扉に手をかける。
ドアノブをそっと下ろしてただいま、と呟く。母は寝室にいるのだろう。リビングに入ってすぐ左にある引き戸を引くと僕と母の寝室がある。そっと扉を閉めると、寝室からかすかに音が聞こえる。ちゅ、ちゅとなにかを吸うような音。聞きたくない。僕はそのままキッチンで手をあらい、冷蔵庫から水を出して一気に飲む。バタン、と冷蔵庫を閉める音が静かな部屋の緊張を解く。ランドセルをどかんと机の上において、テレビのボタンを押してチャンネルを変える。特に面白そうな番組はなかったが、なんでもいいから音が欲しかったので、適当に選んだバラエティーを垂れ流す。ぼけっと眺めていたが、虚しい作り笑いをテロップで彩った1メートルほどの映像では一人きりの部屋の孤独は埋められないし、笑い声よりも不快に響く寝室からの音もかき消せない。
おもむろにランドセルから自由帳を取り出し、なにを描くでもなくぐるぐると鉛筆を回す。そうしているとだんだん車のタイヤに見えてきて、今日の帰り道で見た大きな車を思い出して線を付け足して組み立てていく。
しばらくすると引き戸ががらっと開き、「やあ、帰ってたんだね。これ、今日の分だよ。」と男が甘ったるい匂いを纏ってテーブルの上にお札を1枚置いて去る。リビングの扉をバタンと閉めて家を出る。開いた寝室から忘れていた匂いが溢れてたまらなくなり、僕は窓を開け放った。カーテンとともに空気は外に吹き出し、爽やかな風と入れ違う。しばらく僕が窓から外を見ていると、母が引き戸に捕まりながら弱々しく「おかえり。ごめんねバタバタしてて。」と後ろから声を掛ける。僕は黙って外を見ていた。母は風呂場へ向かったようで、気配がなくなってから振り向くと、部屋は涼しい匂いで満たされていた。ふう、と息を吐き、机に向かうと男が置いた札が地面に落ちていた。僕はそれを踏みつけ地面に擦るように蹴り上げた。
今日は予定決行の日だ。夕方に僕が一人で山にバナナを仕掛ける。そして明日朝4時、四辻とカブトムシを取りに行くんだ。四辻の親は厳しいみたいで、朝早くに家を出ることは了承してくれないだろうから、こっそり黙って行くことにした。
僕は明日迷わないようにするためにも早めに下見をしておこうと思って、学校帰りにランドセルだけ家の中に投げ捨てて近くの木を物色しに行った。まず目をつけるのはクヌギやコナラ、そして樹液が出ている場所。とはいえ今まで花の種類は教えてもらっても木の種類を見分けるようなことはなかったので、どれがどれだかわからない。とりあえず一番木が多そうなお寺に行ってみることにした。
このお寺ではたまにおじいさんが散歩がてら掃除に来ることがあるが、それ以外に参拝客や管理人はいない。石段は坂のように急勾配で、無心で登っていると自分がどこまで上がったかわからなくなりそうだ。ふと後ろを振り返るとそこまで登っていなかったのと階段の下に大柄な少女が立っていたのとで驚いた。「何しにいくの」その純粋な瞳は四辻を無断で連れて早朝に出歩く僕を咎めるようで少し罪悪感が湧いたが、見ず知らずの少女にそんな詳細まで話す義務はないだろう。「カブトムシのいそうな木を探すんだ」僕がそう言うと少女はたたたっと軽快に階段を登り、僕の前に立つ。「あたし知ってる。ついてきて」そう言ってまた軽快に階段を登り始める。「え!どこどこ」一人で探すのは少し不安だったのもあり、息を切らして階段を駆け上がる。
僕が階段を登りきった頃には半分腐ったような本殿の横で僕を待っている。細い鳥居をくぐりながらこくりと首だけで礼をして、草の伸びた敷地をまたぐように歩く。少女とともにさらに奥へ進むと、僕は今まで見たことのない、お寺の新たな一面を見ることになった。本殿の裏には苔むしたお墓がずらりと並んでいた。そしてそこには2人男の子がいた。倒木に腰掛けていた小さい男の子は僕の姿を見るなり駆け寄って「だれ?」と聞いた。「カブトムシのいそうな木を探してるんだって。」大柄な少女がそう言うと「へえ。私知ってる。いっぱい樹液あるからいっぱい来るよ。」と嬉しそうに跳ねる。男の子かと思ったが女の子だったか。「そうなんだ、その場所を教えてくれると嬉しいな。」そう言って僕が女の子に相手している間に大柄な少女はすたすたともう一人の男の子の元へ向かい声をかけ、二人で僕に近づいてくる。気難しい顔をした男の子は「このへん蜂が出るけど大丈夫?」と僕に聞いてきた。正直蜂は怖いが、それ以上に四辻とせっかく取り付けた約束がおじゃんになるほうが怖かった。「大丈夫。教えてくれる?」「あんまり言うなよ。」そう言って背中を向けて墓の間を進む。僕が後をつける間も、小さい女の子は「私のおにいとおねえ。いっつもね、ここで遊ぶんよ。なんもないから暇だったん。」と話しかけてくれる。
ただでさえ薄暗い墓地からさらに奥へ入り、手で木を押しのけながら山というのにふさわしい山を登る。一応獣道のような地面の色が違う道があるが、周りに木が増えると迷ってしまいそうで少し怖くなる。もっと近くの木を教えてくれればいいのにと内心ぼやきながら細い木に手を伸ばすと、目が少しの違和感を捉えて、2度見するとカメムシが木に擬態していた。思わず「うわっっ」と情けない声を上げる。「なんだ!」と少年が振り返り、横を歩いていた女の子は話すのを辞める。「いや虫が…」もう少しで触って、いや握りつぶし…そこまで考えるだけでぞわっと鳥肌が駆け上がる。「何だそんなことか。蜂に触らないようにしろよ」そう言ってまた登り始める。それから僕はしっかり確認してから木を触るようにした。女の子はまた話を続ける。「そんでねー、きんそくち?やから誰もこんのんだって。」「なんだって?」話半分で相槌を打っていたが、なにやら聞き捨てならない話をしているようだ。
「やからきんそくち!」「禁足地って、ここが?」「おじいさん言っとったもん。ここは人食いアブが出るんやって。」「ここが?!そんな怖いとこだったのか...!」僕はカメムシの衝撃を上回る衝撃で一周回って感心してしまった。「人食いアブってなんなの?」僕が聞くと女の子は意気揚々と語り始めた。「おじいさんがなあ、たまに喋っとるんやけど、戦争があったときになあ、めっちゃ飢饉になって、ここにみんな来たんやって。お腹空いてなんもなかったから、助けてもらおうとしたんと。それでも住職さんもなんも持っとらんし、困ってどうしようもなかって。そしたらおじいさんのお姉さんがおったらしいんやけど、その人がな、見つけたんやって。」
そこまで言うと大きな岩に手をかけてよじ登ろうともぞもぞしているので、腰を持ち上げて岩の上に運んでやった。僕も岩に手をかけよいしょ、と上がると、「なにを?」と尋ねた。「アブだよ。アブ。亡くなった人にたかるアブを見つけて、それを食べたんだって。」「えっ」「お腹空いてたら食べるやろな。飲み込むときなんか首でもまだアブが動いとるのが見えたって。喉の奥でカサカサ、飛ぼうとしてるん。考えたくないなあー。」そう言われると喉に違和感を感じるような気がしてその想像もろともつばで飲み込む。「そんでな、それをみたみんなが、糸が切れたように虫を食い始めたらしいんよ。アブでも蜂でも蜘蛛でもな。せやからおじいさんもとにかくなんか食べな、いよいよなんもないなるって虫でもなんでも探したらしいんやけど、やっぱキモいやん。触りたくなくて、飲み込むなんてまっぴらごめん。意気地のないおじいさんは石とか舐めて空腹をしのんだんだって。」「過酷だね…」おじいさんに意気地がないかと言っても実際自分が虫を口に入れられるかといえば入れられない気がする。「せやろ?そんでな、虫食ったやつはやっぱちょっと元気なんやって。お腹がいっぱいで幸せやって。そんで他にも虫おりそうな山とかどんどん突っ込んでいって。せやから墓地んとこまだ森やったらしいけどそこにみんな集まって、おじいさんもしょうがないから一緒に根っこの下とか枯れ木の中とか探っとったらしいん。したらね、姉さん言うんやって。おなか痛いって。」「虫食べたらそりゃあ下すよね。」次の木に手をかけながら反応する。「でな、みんなもなんか痛い痛い言って、そこで動けんなったらしいん。おじいさんも含め何人かはお腹空いててもまあ元気やったから、動けん人らを森から広いとこに出してやってそれぞれの家族に付き添っとったらしいん。そんでそのまま動けんまま何日か経ってな、何人かぎゃあぎゃあ叫んでのたうち回ってたんやって。お腹が熱いって。おじいさんのお姉さんも涙も出ない脱水症状の中でみんなの声に引かれるようにわあっと叫びだしたんやって。おじいさん可哀想になってお腹に冷たいもの乗したげようって服めくったらな。」
そこでまた大きな木をまたぐのを手伝い、僕も転けそうになりながらまたぐ。「めくったら?」なんだか嫌な予感がしたが聞かずにはいられなかった。「お腹だけ動いとるんやって。なんか波みたいに、もぞもぞ。そもそもお腹空いてあんなに細かった姉さんがお腹だけ異常に膨らんでるんやって。そんでおじいさんびっくりして後退りした瞬間に、お腹がバンッッて割れたんと。」「ひっ」少し想像していたが抑揚のあるその語り口で、さらに気持ち悪い寒気が走る。「そんでな、割れたお腹から、口から鼻から、黒いのがぶわわわわって飛んでいくんやって。見てた人は正気を失って、倒れる人もおったんやって。でもな、おじいさん一目散に逃げたん。何でって、怖かったからだけじゃないで?吹き出した無数のアブたちは、気絶して倒れた人やら死体やらに群がってたからや。なんでかわかる?」「…次の、苗床を探すため?」一番言いたくないところを言わせてくるあたりも、この女の子は話の才能があると思った。「そうよ。次の苗床。それでおじいさんは逃げて逃げて、もうこの街から出たかったらしいんやけど、でもお姉ちゃんしか身寄りがおらんからどうしようもなくて、申し訳ないって泣きながら死んだであろう人たちの家の食料でなんとか終戦まで持ちこたえて、そこからこんなふうにいっぱい家ができるのを見てきたんやって。」なんとも恐ろしい話だが、戦時中を思えば作り話とも言えない。戦争の残酷さを改めて感じる。「んでな、おじいさん最後に言ってたんよ。」「なにを?」
「あのとき姉さんが食べたアブは、姉さんが食べたんやなくて、姉さんを食べるために自ら口に飛び込んだんやろうなって。」
「着いたぞ」ちょうど少女の話が終わったとき、少年が振り向いて言った。
太陽はもう沈んで、残光が指すのは逢魔が刻。太陽が沈んだ今散らばる視界の端に魔物が現れてもおかしくない。一歩進むと急坂が終わり、少し開けた場所がある。その真ん中にそびえるのは、しめ縄を巻かれた巨木。こんな場所があったとは。引かれるように近づくと、少ない空の明かりを受けててらてらと艶めく樹液が見える。大柄な少女が後ろから、「ここにカブトムシとか集まるの。」と声を掛ける。女の子が「わかった?もう戻らないと暗くなるよー」といって山を下り始める。もう少し見ておきたい気持ちもあったが、少年や少女に続いて僕もその場を後にする。
最後に少し振り返ると、暮れ残った日の中で巨木は闇に埋もれていた。魔物を払ってくれそうな安心感と、払わなければならないなにかが本当にあったのではないかという一抹の不安が胸をよぎる。僕は少女たちの後に続いて足を滑らせないように慎重に歩を進める。なんだか登ったときよりも怖い気がするのはその暗さも相まってか。木の根は絡んだ人の足に、掴んでいいよとばかりに伸びる枝は人の腕にも見えてくる。来る途中は女の子の話に夢中で気にならなかったが、目印のまったくない細道は先導がいなければすぐ見失ってしまいそうだ。疲れた女の子をおぶった男の子とその後をぴょんぴょんと飛ぶように降りる少女を追うのは大変だったが、ようやく麓の墓地まで降りることができた。
静かな墓地と不穏な空気から逃げるように、「教えてくれてありがとう。じゃあ暗くなるから僕は帰るよ。君たちも早く帰るんだよー」と言って立ち尽くす3人に走りながら手を振る。明日の早朝、さっきの獣道を登れるか。そして、あの話を聞いてなお、ここに来たいと思えるか。しかしせっかく取り付けた約束は守るべきだ。なにがあっても四辻と一緒にいられる時間が長ければそれでいい。
僕は家まで走り、ただいまと扉を開ける。ふわりと夕食の香りが広がる。「おかえり、遅かったね。お風呂入りんさい。」母が僕に言う。その優しい笑顔は罪悪感と胸の奥に溜まっていた恐怖を全部ごちゃまぜにして、僕はなにも言わずに風呂場へ向かった。
目覚ましも鳴らないうちに、僕は目が覚めた。まだ3時だ。昨日は早く寝たが、それ以上に楽しみな気持ちが高ぶって眠りは浅かった。もうすっかり目が冴えた僕は、こっそりベッドを這い出て母のベッドの横を通り過ぎる。からからと引き戸をゆっくり開け、その後は踊るように支度を始めた。これもいるか、あれもいるかと詰め込んだリュックサックはパンパンで、少しよろめきながら懐中電灯をつけて家を後にする。まだ時間よりは早いので、集合場所の公園を過ぎて四辻の家の近くまで行くことにした。今まで一度も行ったことのない四辻の家はどんなところなのだろう。誰もいない夜の街を闊歩するのはこの世を独り占めしたみたいでいい気分だったが、一人しかいないという孤独と月も見えない夜闇の中足元を這い回る恐怖に飲まれそうでもあった。
20分ほど歩いただろうか。確かこの辺だったと表札に懐中電灯を照らしながら歩くと、四辻と書かれたものは確かにあった。筆で書いたような堂々とした字体の表札が観音開きの門の横に掛けてある。塀の上まで伸びた庭木が茂る奥には、ザ日本邸宅といった立派な家があった。四辻がこんなにお金持ちだったなんて。無意識に自分の家と比べてしまい、虚しい気持ちになる。家の中に入るわけにはいかないので、その立派な門構えの前の階段に腰掛ける。ひんやり冷たい石の感覚がおしりから伝わってくる。
少し体勢を変えようと腰を上げたとき、ぱっと邸宅が明るくなった。「どこ行くの!!今何時だと思ってるの?!」ああー。自然と顔が歪み、耳が熱くなる。バレたか…!僕もここにいるのがバレたらとばっちりを喰らいかねない。急いで静かに近くの交差点に移動し、夜の沈黙の中で四辻の家から聞こえる音に耳を済ませる。
「…はあ?!…でしょ!!」深夜早朝にあるまじき大声で叫ぶ女性の声。続いてパチンとなにかが裂けるような音、どんと倒れるような音。「四辻?」僕はまた家の前に駆け寄るが、僕が割って入ったところでどうなるわけでもないだろうし、むしろ火に油を注ぐかも知れない。そもそもこんな時間に連れ出そうとしたのは僕だ。行こうと思えば行ける距離だが、何をすればいいのか分からない。でも四辻が…悶々と揺れる心のなかで、カブトムシのことはもうすっかりどうでも良くなって、ただただ四辻が心配だった。そうしていつまでか足踏みした後、どんっと響く鈍い音と叫び声を尻目に僕は決断して、自分のアパートに走って戻った。
黒から紺色に変わり始めた空の下、光の一つも灯らないボロアパートははるかな包容力と安心感があった。静かに階段を登り、そっとドアをひねる。両手でドアを閉め、忍び足でベッドに向かう。リュックを下ろして寝室の引き戸を開くと、母の寝息だけが響いていた。僕はそのまま母の横に潜り込んだ。寝息が止まり、母はそっと僕の背中に手を回した。その優しい温もりで、深い眠りに落ちた。
今日から1週間、おばあちゃんの家に行く。夏休みが始まって四辻や友達と会えない毎日は、僕にとって暇以外のなにものでもなかった。1年に1度行けるか行けないかなので少し気恥ずかしくもあるが、何にせよ久しぶりのおばあちゃんの家は楽しみだ。バスを乗り継いで行かなければならないので時間に遅れないようにと念押しされて、お母さんに書いてもらった地図とお金を肩掛けカバンに大事にしまう。手土産にと預かったおまんじゅうを片手に宿題リュックサックを背負い直す。行ってきますと言った矢先に酔い止めドリンクを飲まされ、再度行ってきますと母に手を振る。ニコニコした顔で気をつけてねと手を振る母に大きく頷いて踵を返し、階段を駆け下りる。アパートや家が密集するこの場所は1キロほど歩くとすっかり田んぼ道で、蜃気楼がもうもうと地をうねっている。
「よお」後ろから聞き覚えのある声にとんと背中を押されて無意識に返事を返す。「池田?」「おう」そこにはいつもつるんでいる奴らの中で一番喧嘩っ早い池田がいた。「どこ行くんや」池田は乗っていた自転車を降り、押しながら横に並ぶ。「いまからおばあちゃんちに泊まりに行くんよ。」「バスで?」「そうそう。池田はなにしてるん?」「おれ魚釣り行く」「いいなあ!楽しそう〜。」そんな少しの会話だけでも学校で馬鹿騒ぎする毎日が思い起こされ、懐かしいような寂しいような気持ちになった。バス停まで来ると、池田は自転車にまたがって「んじゃまた」と片手を上げて漕ぎ出した。「ばいばーい」僕も大きく手を振りながら、嬉しい余韻に浸ってバスを待った。
1時間に1本、一日全部で10本しか運転しないバスには思いの外人が多かった。とはいえおばあさんが2人とおじいさんが1人の、僕を合わせて4人だけだが。おばあちゃんの家はここから64個先にあるらしい。時間にしておよそ2時間半。暫くの間は流れる景色をみながらおばあちゃんの家でなにをするか想像してにやにやしたり、運転手のおじさんの角を曲がる腕の良さに感嘆したりとバスでの旅を楽しんでいたが、だんだんそれも飽きてきて、眠気が襲ってくる。しかしここで寝てしまえば乗り継ぎがどうなるかわからない。どこで降りるんだっけ。地図を出すより先にまぶたが落ちて、とうとう僕は眠ってしまった。
「きみきみ、終点だよ」僕がはっと目を覚ますと、運転手のおじさんがにこにこと僕の顔を覗き込んでいた。僕は少し垂れたよだれをゴシゴシと拭き、寝違えた首を左右に振って辺りを見回すと、そこは一面の田んぼを明るい緑が敷き詰める小さな終点の駅だった。「ここなに駅ですか」焦って僕が聞くと、僕の膝の上の地図を見て「ここからはバスの代わりに小さいワゴン車が出てるから、それに乗るといいよ。」と教えてくれる。「ありがとうございます!あ、お金…」僕は肩掛けカバンからお金の入った巾着を取り出し、そこから1000円札3枚、入っているお金を全部出す。「これで足りますか」「1枚と、400円分両替してくれるかな。」僕は慌てて両替機に手を伸ばすが1000円札はうまく入らず、おじさんが僕の手に手を重ねてお札を投入し、でてきた小銭からいくらか取って余ったお金を僕の手に握らせて返してくれた。僕はとなりに置いていたリュックサックを片肩にかけて席を立ち、「ありがとうございました!」とぺこりと腰から頭を下げてバスを出る。むわっとした暑さに混じって清涼な草の香りが鼻を抜ける。小さな停留所に腰かけるとバスはどこかに走っていった。まだ少しぼんやりとした頭に大きく息を吸って酸素を送り込み、口の中の違和感を麦茶で流し込む。地図をよく見ると終点で乗り換え、30分待つと小さな文字で書いてあった。なんだ、焦らなくてよかったのか。僕は地図や巾着をきちんとカバンに入れ直し、ずれたズボンを引き上げてシワの寄った服をパンパンと叩く。僕の住んでいる場所よりいくらか涼しいこの田舎の匂いは、おばあちゃんの家が近くなるのを予期しているようでワクワクが増してきた。
その後程なくして到着したワゴン車に乗って30分ほど田舎道を揺られ、お金を渡して降りるとおばあちゃんが迎えに来ていた。「おばあちゃん!」そのシワの増えた顔を見て嬉しさが込み上げ、思わず抱きついた。「暑い中遠くからお疲れ様だねぇ。家に帰ってゆっくりしようね。」とんとんと背中を撫でるおばあちゃんのその体は、思いの外頼りなくそのまま砕けそうなほど弱々しい。すべすべとした手を握って、2人田舎道を歩く。「僕さ、寝過ごしたかと思ったんだよ。」「あらまあ、どうしたの?」「なんだか眠くてバスの中で寝てたら、終点だよって起こされて。でもちょうど乗り継ぎの駅だったからセーフだよ。」「それならよかった。やっぱり電話持ってないと心配だねぇ。」「大丈夫、結局着いたし。」土の散らばった凸凹の道を、おばあちゃんはか細い割にシャキシャキと歩く。僕は大股で腕を振りながら横に並ぶ。「影がないね」「そうだねぇ」しばらく歩くと、見慣れた家が見えてきた。「わあ、ひさしぶり!」そう言って僕は家に向かって走り出す。おばあちゃんは少し早足でついてくる。家の近くには畑があり、そこには真っ赤なトマトやきゅうりなどの夏野菜が植わっていた。「野菜できてる!」ようやく追いついたおばあちゃんに畑を指さして言う。「そうだよ。新鮮なうちに採って食べようね。」「うん!」
おばあちゃんの家は相変わらず古い木造で、縁側の開け放たれた障子から中の様子も丸見えだった。「ただいま」と引き戸を開けて中に入ると、懐かしい匂いが広がって、思い切り息を吸う。木の匂いやご飯の匂い、そして少しのお線香。僕は脱いだ靴を揃えて、滑るように廊下を歩き、2つ目の部屋で荷物を下ろし仏壇の前に正座する。「ただいま。」とつぶやきながらろうそくにマッチで火を灯す。小さな炎は暗い仏壇でふらふらと揺れ、おじいちゃんの遺影についたほこりまで照らす。線香を半分に折って火をつけ灰に刺す。手を合わせて目をつぶり、この1年のことをぼそぼそと報告する。「これからも見守っててください」と締めてぱっと立ち上がり、僕はおばあちゃんの所に戻ろうと廊下を滑ってサンダルをつっかけ、小さな背中の見える畑に向かう。
「一緒にとっていい?」僕は声をかけながら坂道を下りる。「ほんと、助かるねえ。じゃあ茄子と胡瓜を1つづつ採ってきてね。」「うん」おばあちゃんに言われた通り、茄子を採る。しかし繊維は思いのほか固く、ぐるぐるひねるようにしてようやくちぎれる。きゅうりも同じようにねじるようにすると、すぐに採れた。少し手がチクチクする。「採れた!」とおばあちゃんに手渡すと、ニコニコと微笑んでざるを差し出す。トマトにピーマン、なす、きゅうり。彩り豊かな野菜を見て、満たされた気分になった。
そのあと山間のこの家はすぐに日が陰り、外に出るにはもう暗そうなので、明日探索することにした。おばあちゃんに呼ばれるまで僕は縁側に小さな机を出して風に当たりながら宿題をしていた。
晩御飯は、夏野菜をふんだんに使ったカレーライスだった。ピーマンやトマトを嫌がるみんなのことが、美味しい野菜を食べて育った僕には少しかわいそうに思える。僕はカレーをあっという間にかき込んでしまった。「おかわりも食べていいからね。」「うん!」僕はジャーの中からまだ湯気の上がるご飯をよそい、鍋の蓋をあけてカレーを注ぐ。「おばあちゃんもおかわりする?」「いやいや、おばあちゃんはいいよ。全部食べてもいいからね。」「ほんと!」ぼくは少し残ったカレーも注いで、1杯目よりも大盛りになったお皿からカレーをこぼさないように席につく。「そんなに食べれるの?元気だねえ。」「だっておいしいんだもん!」口いっぱいにご飯を頬張りながら笑顔を返すとなんとも嬉しそうな顔でおばあちゃんもニコニコする。やっぱり給食やお母さんのご飯よりも、おばあちゃんのご飯の方が懐かしくて美味しい気がする。僕は2杯めもあっという間に平らげ、おばあちゃんを驚かせた。
掛け布団はおばあちゃんの匂いと、お日様の匂いというのだろうか、カラッとして温かい匂いに包まれて吸い込まれるように眠りに入った。
視界が明るくなってきて、鳥のさえずりで目を覚ます。掛けておいた目覚ましを切って横を見ると、おばあちゃんはもういなかった。「ん…」布団を跳ね除けてぐっと伸びをする。夏なのに少し寒いくらいに涼しいのがまた心地よい。立ち上がって、眠たそうなオレンジ色の朝日を仁王立ちで睨み、裸足でひたひたと廊下を歩く。夜にあれだけ食べたのに、お味噌汁の匂いだろうか、おばあちゃんのご飯の匂いでまたお腹が空いてくる。「おはよ」「もう起きたのかい、おはよう」ひと声かけて洗面所の蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。しゃきっと目が覚めて、今日はとてもいい日になる気がしてきた。「ちょっとだけ散歩行ってくる!」「あんま遠くへ行かんのんよ。」僕はサンダルを履いて、少し白んできた空のもと朝の空気をたっぷり吸い込んだ。誰もなにもいない、僕だけの朝。葉の裏できらきら輝く露の玉は、ダイヤモンドなんかとは比べ物にならない光を宿している。ぐるぐると回るトンボに誘われるように、堪らず走り出す。すぐに田んぼの方に逃げるかと思ったが、並走するように飛ぶトンボにさらに嬉しくなって、笑いながらまた走る。空に青が戻り、次の日が始まったとようやく実感するころ、いつの間にかトンボも消えていた。僕はおばあちゃんの待つ家にまた走って帰る。10分ほど走ると差してきた僕は服で汗を拭って「ただいま」と声を掛ける。「おかえり。汗かいたのね、服着替えてご飯食べよう。」としまってあった僕の服を出してくれる。袖を通すとたんすの匂いが鼻をつき、僕はすっかり昔に戻ったような気持ちになった。
朝ごはんを食べ歯を磨き、僕はまた外に出た。今度は虫かごと虫網を持って、自転車に乗ることにした。自転車は空気が抜けていたので、なんとか空気入れで膨らませて栓を締め、燦々と照る太陽のもと澄み切った田舎道の静寂を切り裂くようにペダルを漕ぐ。前カゴに入れた水筒と虫かごがガツンガツンとぶつかる。どこへ行く宛もないので、僕は涼しそうな川沿いに行くことにした。川の音が近くなるにつれて蒸し暑さが和らぎ、日陰にはいるととても涼しい。自転車を止めて川に降りると上流の方に人影が見える。「池田ー?」僕は大声で叫びながらその人影に近づくと、短く結んだ髪が揺れてこちらを振り返る。頭上のゴーグルが青緑にきらめく。「ん?」「池田だよね、こんなところでなにしてるの?」「俺ぇ?魚取ってるけど」そう言ってそばにあるバケツを指差す。そこにはまあまあ大きな魚に混じって小さなメダカまで6匹ほど入っていた。「すごい!ほんとに捕まえてる!」「こんなの朝飯前よ。お前もやるか?いい網持ってるし。」そう言って僕の持っている虫網を指差す。「これ虫取り網だよ?」「虫?いいよ何でも。たぶんそれでも取れるぞ。」「ほんと?やってみようかな」池田は川の中にじゃぶじゃぶと入って、岩の前で止まる。「この岩ん中になんかいそうだから、お前その網で出口塞いでてくれよ。俺が出すからさ。」僕はそっと冷たい川に足を踏み入れすべらないようにゆっくり歩いて、池田がいる岩の少し遠くから隙間なくぴたりと網を当てて逃さないように集中する。池田は上から片手を突っ込んでガサガサと探る。くるか。くるか。「ここいねえや。」池田が腕を引き上げて言う。「なあんだ」「次のとこ探そう。」「おう」僕らはそうして何度か岩の隙間を狙ったが、運悪くなにも収穫は得られなかった。「しゃあねえなあ。俺の魚やるよ。」「いいの?」僕らは池田のバケツまで川の流れに逆らって歩く。僕はダメ元で網を振り回しながら歩いていた。すると何か網に触れたような気がして声が出るより早くその感覚を掬うに網を動かし引き上げると、その中でびちびちと魚が暴れていた。「捕れた!」「すげえ!」僕らは思いもよらぬ収穫に目を丸くする池田と顔を見合わせてゲラゲラ笑った。「めっちゃタイミングいいじゃん!」「なにか触ったと思ったんよ」僕らはその奇跡の瞬間をしばらく味わって、お腹も空いてきたので家に戻ることにした。「池田は昼どうすんの?」「俺この魚食うわ。」「ははっ、じゃあ俺はばあちゃんち戻るから、またあとでな」池田のジョークを聞き流して僕は自転車まで戻り、網の中で跳ねる力もなくなった魚をおばあちゃんに見せるのを想像してニマニマしながら家に戻った。
「おばあちゃんただいま!見てこれ!」縁側で座っていたおばあちゃんに返事も待たずに魚の入った網を突き出す。「まあ、お魚が捕れたの?しかも大きいねえ!」「でしょ!」びっくりした顔のおばあちゃんにまたニマニマしながら「池田がいたから一緒に獲ったんだよ!でも捕れなくて最後に網適当に振ってたら入った!」とまくしたてる。「その池田って?」驚いた表情のままおばあちゃんは僕を遮るように尋ねる。「小学校の友達!魚とるって言ってたから。ねえこれなんだと思う?」僕は魚を網から出して手づかみでおばあちゃんに見せると、おばあちゃんは難しい顔をしてしばらく考えて、思い出したように言った。「オイカワっていう魚だよ。天ぷらにでもしようかね。」そう言って動かなくなったおいかわを両手で受け取り、台所に消えていった。僕はあの興奮を忘れられないまま、自転車と虫かごを片付けて、虫網は後で洗おうと網を上にして玄関に立てかけた。ふと網を見ると小さなヒルがくっついていた。「きも」
1週間のお泊りは、あっという間といえばあっという間だったが、長いといえば長かった。池田はあの時以来姿を表さなかった。僕は川は危ないからあまり行かないでとおばあちゃんに忠告されてから、田んぼの間や森の入口に虫取りに行ったが昼はあまりに暑く、また夜はさいきんイノシシが出るからと一緒に御飯を作ったりして過ごした。おばあちゃんのあのご飯が食べられなくなるのは名残惜しいが、今度来るなら涼しい時がいいと思った。おばあちゃんはビニール袋にカラフルな夏野菜を千切れそうなほど詰め込んでくれて、ワゴン車に乗る前にお母さんによろしくと言って頭を撫でてくれた。そして病院もたまには行くのよとも言っていた。僕は黙ってワゴン車の一番うしろに乗り込み、暗い窓からおばあちゃんに手を振った。おばあちゃんも手を振り返して、車が走り出すと道路の真ん中にでても手を振り続けていた。僕は誰もいないワゴン車で、ぼけっと外を眺めていた。変わらず緑の田んぼは来たときと全く同じ。車を降りるとすぐに乗り換えのバスが来て、ふとミラーで顔を見ると1週間前と同じ運転手だった。ミラー越しに目が合い、おじさんはにこっと微笑む。僕は軽く頭を下げて今度は後ろの方に座った。一番前にはおばあさんが一人いたが後ろは誰もいなかったので、独り占めした気分で隣の席に荷物を広げた。ちぎれそうなビニール袋からいくつか野菜を取り出して開いたリュックサックに入れ直す。半分ほど移し替えると野菜の間から手のひらより少し小さいサイズの封筒がでてきた。僕はその宛先のない封筒をすっと取り出し、あまり大きな跡が残らないように丁寧に開けた。中には折りたたまれた便箋が入っている。少し震えたその筆跡に目を通すと元の通り折りたたんで封筒に戻し、野菜でいっぱいのリュックサックの隙間にねじ込んだ。
行きしに見た景色が逆行する。窓の外を見ながら考え事をしていたら思ったよりも早く近くの停留所までついた。僕はバスが停まってから立ち上がり、荷物を持って人の増えた車内を小走りで移動する。来たときと同じだけお金を入れるとおじさんは「どうもありがとうね」と言ってニコニコ微笑んだ。バスを降りると曇り空。湿った空気に今更吐き気がする。早くアパートに戻りたい。なかなか発車しないバスのサイドミラー越しの視線から逃れるように僕は走った。。
僕はいよいよ中学生になった。新品の制服はブカブカで、関節と位置があってない気がする。小学校のすぐ隣りにある中学校なので、引っ越した女子以外の小学校の友達はほとんどみんな同じだ、四辻を除いて。四辻はどうやら中学受験をしたようで、頭の良い中学に電車で通うことになったらしい。塾にピアノ、英会話など、習い事を掛け持ちして忙しそうだったあいつが少し心配だ。それにあのお母さん…いや、四辻が決めたことで僕には関係ない。今度また教えてくれた番号に電話でもかけてみよう。そう考えながら教室の自分の席につく。外部から入ってきた人もそこそこいるようで、半分くらいは知らない顔だった。後ろに並ぶ保護者は薄いピンクやベージュのスーツで各々着飾って、花束のようだった。一番端の方でひっそり立っているお母さんは、カラフルな切り花とは違い、山林にひっそりと咲く白百合のような気品があってきれいだった。しかし大きめのマスクとサングラスのせいで大いに目立っており、初めて人前に出てくれた母だったが少し心配になった。
「母さん」「お疲れ様、お話長かったね。」先生からの説明が終わると各自知った子同士は友達のところへ向かい、友達のいない子は親の元へ向かった。僕はとにかく急いで帰りたかったので、荷物を持って「帰ろう」と母の背中を押した。「ごめんね、目立ってたかな。」「ははっ、だいぶね。でもなんか、馬子にも衣装とはよく言うよねー」思春期の僕は母を純粋にきれいだと言う言葉が思いつかなかった。「ふふっ。」それでも母が嬉しそうに笑うのは、マスク越しでもよく分かった。僕らは水色の車に乗り込み、みんなが後者からでてくる頃にはもう校門へ車を走らせていた。
いつも通りの連中とつるんでいると、小学校も中学校も本当になにも変わらないような気がする。ただ授業がめんどくさくなって、女の話が増えただけだ。池田は早速彼女ができたらしく、今日は一緒に家で遊ぶんだと豪語していた。羨ましがる男どもを冷めた目で見ながら、次の授業の教科書をパラパラとめくっていた。開いた窓から吹き込む風は、新緑の緑色をしている。まだ5月なのに日の当たった机は熱く、窓際の行く末が危ぶまれる。「失礼します、1年B組の小町京子です。鈴木さんいますか。」賑やかな教室の中にりんとした声が響く。「りつこー、呼ばれてるよー。」と他の女子が大声を出す。その子を横目で見ながら生物の教科書をパタンと閉じる。表紙には拡大された葉っぱにハチドリと花、キリンの親子。その上に止まった小さなハエ。「うわあハエだ!きも!」「えっどこ?!」だらしなく騒ぐ男等を一瞥し、教科書に止まったままのハエを開いた窓から教科書を振って逃がす。「もういない?逃げた?」そう怯えた声で聞いてくる。「うん」僕は自分の席に戻って元の位置に教科書を置く。ふと前を向くと先程入ってきた女の子と目があった。その子はぱっと目を逸らし、友達から教科書を受け取ってそそくさと出ていった。
玄関掃除の担当になって、落ち葉の多さにげんなりする季節になった。玄関前くらい常緑のものを植えてくれと心のなかでぼやく。こうして掃除していると思いのほか下駄箱の数は多い。1年で3クラス、3年で9クラスと職員の分。なんだか世界がどんどん広くなるのを今更ながら実感する。
「ゴミいれて?」そう言って違うクラスの女子がちりとりを傾ける。「さんきゅ」僕は靴にかからないようにゴミを履きいれる。女の子の足はズボンの男より日に当たっているはずなのになぜそんなに白いのか。不思議だ。「おっけ、もういいよね。」声をかけられてはっと我に返る。「うん、ありがとう」「じゃかいさーん。」僕ら4人は各々の教室に荷物を取りに帰る。僕は一番最後にほうきをロッカーにしまって、ようやく帰れる、と頭を掻きながら振り返る。
しかしすぐに足を止めた。思わず声が漏れそうなのをつばを飲んで抑える。ちょうど玄関におりてきたところであろうその女の子は、今までの人生で見たことないほど、ほんとうに綺麗だった。振り向いた瞬間に目を奪われる漆黒のつややかな黒髪と女子ならではの太めの触覚、濡れたまつ毛が影を落とすのはそのまま吸い込まれそうなほど深い瞳の黒。「あっ、あの」なにを言うでもなく口が先に動いていた。「?」首をコクンと右に傾けると、それに伴って髪の毛がさらりと流れる。その子供らしいあどけなさに、「名前、なんて言うんですか」と思わず聞いてしまった。初対面でこれは気持ち悪いか。やっちまったか。早くもネガティブになりかけた僕に、その女神は手を差し伸べてくれた。
「麗子。」放課後の学校にはありえない静けさの中、胸が苦しくなるような弱くそれでいて強い声。「麗子さん」彼女の言葉の温もりを逃さないように自分の声で復唱する。なんて美しい響き。麗子。麗子。「また会ったら、少しお話してくれませんか」僕は彼女に一歩近づいて言った。「また。」麗子はそう言って長い黒靴下の足で下駄箱に向かう。僕はもうなにがなんだかわからなくなって、階段を駆け上がって教室に飛び込む。そこにはまだ誰かいたが誰でも構わない。ああ麗子さん。なんて美しい人なんだ。今更玄関から出るところまで見送らなかったことを後悔し、弾かれるように窓から外を覗くが、それらしい人影は見当たらない。「くっ…」思わず頭を抱えて机に突っ伏す。女子の冷たい目線でもまだ足りないほど僕の体は熱かった。どうすればいいのかわからない。机と至近距離で見つめ合うがその目の奥にはあの人間離れした美人が焼き付いて離れない。僕が初めて知ったこの感情は、恋というものとは少し違う気がした。
「おはよう。」「おはよ」次の日僕はいつもより早く学校に来て、教室にはいるなり机に荷物を放おってまた廊下に飛び出す。友達が不思議そうな顔で見ていたが、今は話しかけられたくなかった。僕は昨日から頭に張り付いたままの麗子の面影が、だんだん崩れていくのが怖くて、その姿を探して小走りで廊下を練り歩く。廊下には人一人もいない7時半すぎ、まだ朝礼まで1時間もあるのに出会えるわけがないのは分かっていたが、それでもいても立ってもいられなかった。
教室を一つ一つ覗いていると、理科室だけ閉まったカーテンの隙間からうっすら明かりが漏れている。しかし麗子はそこにいないような気がして、元の道を引き返す。こうしてみると案外行ったことのない部屋もまだ多く、入学してだいぶ経つが迷子になりそうだった。1人2人とすれ違う人が増えて、学校にいつもの朝が来る。ざわめきが広がってくると、今はもう会えないと確信して仕方なく教室に戻る。「あごめん!」「いいよ」席替えして廊下側の席になった僕の椅子は、周りの女子や男子によく使われる。今日も隣のクラスの女子が座っていて、僕が戻るとぱっと立ち上がって机に入れ直す。今から座るんだってと思いながら椅子を引いてまだ温もりの残る座面に腰掛ける。得も言われぬ気持ち悪さを噛み締めながら机の上に放おっていたカバンを整理する。
「…ほら…」「もううるさい!」クスクスと笑う女子の声は毛羽立っていた僕の心をさらに逆撫でする。うるさいのはそっちだと思いながら軽く睨む。いつも僕の椅子に座っている京子と目が合う。ニコッと微笑まれて仕方なく目をそらし、英単語帳を開く。それも集中できなかったので、シャーペンを握ると手は自然にその余白に麗子の残像を映し出す。こんな顔だったか?思い出せないのがまた苦しく、その人影をぐしゃぐしゃと塗りつぶす。
昼休み。いつもは友達と学食に行っているが、今日は授業の間も脳裏にちらつく麗子の姿を探してまた校内を歩き回った。売店で買っておいたデニッシュの袋の端を持って、別棟に向かう。麗子はそういう静かなところにいる気がした。僕は4階の踊り場まで上がり、そこで腹ごしらえをしてから歩くことにした。少しくぼんで周りからは見えにくいこの場所は、なんだか秘密基地のようでわくわくした。真ん中からバッと袋を開け、デニッシュを頬張る。パサパサする。水も持ってくればよかった。そう思いながらも2口目を頬張ると「ちょうだい」と声が降る。
その声の重力に押されてゆっくりと視線を移す。目の前には長い黒靴下に折り目が揺れるスカート、薄い腰、自然光で繊細にきらめく黒髪。浮いたセーラーの下から少し見えるピンと伸びたブラウス、高く張った胸がそうさせる所以か。僕の口元を指差す白い指、少し赤い爪。ついにその瞳を捉えると、ぱちっと何かが当てはまるように僕らは見つめ合っていた。
「い、いいよ」彼女がその腕を後ろで組み直すと同時に僕の意識は引き戻され、今度は僕が彼女の目の前に食べかけのデニッシュを突きつけていた。「あ、ごめ」自分が口をつけたところを反対に回そうと腕を引こうとした瞬間彼女は薄い唇を大きく開き、僕の持っていたデニッシュにかぶりつく。強い振動で揺れる腕をそのままに、僕は餌付けでもするように彼女が食べ終わるのを見ていた。
「ごちそさま」口の周りについたパイ生地の欠片を舐め取って、満足そうに微笑む。「少し話さない?」「いいよ。」僕が踊り場の階段に腰掛けると彼女は一段上にストンと腰掛ける。「麗子さんは、何年生なの?」「きみは?」「えっと僕は、2年生だけど」「ふーん、私も。」「そうなの?じゃあ麗子って呼んでいい?」「いーよ。」極度の緊張や衝撃に充てられると、人間は一周回って冷静になるらしい。僕の脳はすっかり麻痺して働かなかったが、喉からはすらすらと言葉が出てきた。「ご飯食べてなかったの?」「うん、ある日とない日があるからね。」「じゃあまた持ってきてあげるよ」「ほんと?やったあ。」淡々とした口調だったが、麗子は僕の話に付き合ってくれた。「麗子の次の授業は何?」「わかんない。」「僕も覚えてない」「ふふっ、だめじゃん!」「だめだね、ははっ」僕の乾いた笑い声に比べて、麗子は本当に楽しそうに笑った。
「うわっ」声がして前に向き直ると、メガネを掛けたぽっちゃりした男子生徒が僕を見て驚く。「もう授業始まるのかな、行こっか。」僕は弄り回してくしゃくしゃになったデニッシュの袋を掴んで立ち上がり、麗子と別れて自分の教室に戻った。
春麗らかに、桜道。中学最後の年は思いの外早くやってきた。入学式の準備を手伝った帰り、僕は自転車を押しながらゆったりと桜道を歩いていた。川土手に敷き詰められた淡桃の絨毯は、少し遠回りしてでも見る価値は十分にある。早く帰ったところでやることもないので、僕は自転車を止めて荷台に腰掛け、風が花びらや波と戯れるのを見ていた。
右手に伸びた枝から一枚花びらをちぎる。その反動で他の枝からも桜がはらはらと散る。僕はちぎったそれに少し罪悪感を抱きながら、太陽の明かりにかざす。眩しいばかりの春空は、しっとりとベルベットのような手触りの花びらを通して、繊細なパールの艶めきを映す。その隣に同じ桜の花びらが並ぶ。
「あれ、花ちゃん」「へへ。きれいだね。」横を向くと、化粧のせいか、いつもより華やかな顔でにぱっと笑う花ちゃん。いつものおかっぱは随分伸びて、昔の垂髪のようだった。「散り時が見頃だね」「うん。でもやっぱり、たんぽぽとかの方が好き。」花ちゃんは足元にしゃがみ込んで、桜の花びらに埋もれたたんぽぽをそっと撫でる。僕も隣にしゃがんでたんぽぽの繊細な花びらに触れると、桜の花びらは意外と大きいことに築いた。「すみれ。ホトケノザ。」「これはオドリコソウ、カタバミだね」昔花ちゃんとこうしてしゃがんで花の蜜を吸ったりその匂いを嗅いだりしていたのを思い出し、どこか物悲しい気分になる。「桜は全部隠して、目線も全部持っていっちゃうでしょ。匂いもしないし。だからあんまり好きじゃない。」「そうなんだね」「梅とかのほうがいい匂いもして好き!」相変わらず眉上で一文字に切り揃えられた前髪を見て、花ちゃんには梅のほうが似合っているかも知れないと思った。
桜は散り果て新緑は萌え出でやがて夏木立に成り果てた川土手で、僕は今日も自転車を押していた。それは景色を愛でるためではなく、どうしようもない暑さの暴力に自転車を漕ぐ気力すら無くなったからであった。僕は草丈の伸びた土手の草花を横目で流し、川の水音に耳を澄ませ、とろとろと体にまとわりつく風を浴びながら歩を進める。「あつーい…」「あちいねえ。」ふと漏れた独り言に返事が返ってきた。
「あ、また花ちゃんだ」「あちいねえ。」なんだか急に背丈も伸びてふっくらした花ちゃんは、手を広げてできる限りの風を浴びていた。「最近どんどん暑くなるね。このままだと夏休みはどうなることやら」「あちいもんね。いっぱい食べなきゃ。」「僕はもう夏バテしそうだよ。花ちゃんなんか急に大きくなったね。」「でしょ。私赤ちゃん産むの。」「え?」「赤ちゃんだよ。大事な赤ちゃん。」
「え、ちょっとまって、ほんとに?誰の?」僕は歩みを止めて花ちゃんの右肩を片手で掴んで揺する。「やめてよー、赤ちゃんびっくりしちゃう。」確かにふっくらしていると思ったが、中学生で?でも実際にないとも言い切れない事実に、なんとかしなきゃ、でも僕には関係ないしともどかしい思いで胸が詰まる。「花ちゃん、無理したらだめだよ」「ありがとうー。あちいねー。」僕はそれだけ言って、自転車に乗り漕ぎ出す。今の花ちゃんとは一緒にいたくないような気がした。ぬるい風の間を縫って走らせる自転車はいつの間にアパートの前に着いていた。駐車場に黒いベンツが止まっているのを確認すると、自転車を降りるまもなく公園へ直行する。
ベンチにはしのぶが座っていた。木陰に自転車を止めて、僕はしのぶの横に倒れるように座る。カバンの中から水筒を取り出して、限界を3割ほど超えて全部飲み干す。気管に入った麦茶にげほげほとむせる。蝉の声が急にうるさくなり、風が止まる。「しのぶ、花ちゃんが」なにも言わないしのぶに助けを求めるように詰め寄ると、ただそっと背中を撫でてくれた。「うああ、ああああ」嗚咽に飲まれてただ漏れるだけの僕の声を聞きながら、しのぶは静かに夕暮れを眺めていた。
「誰も悪くないんだ。」ひとしきり吐き出して、鼻水をすする僕にしのぶは言った。「変わっていく環境に戻らない時間。そんなものに囚われる人間って」しのぶは少し痛む僕の目元を優しく拭って言う。「尊いな。」
いつの間に日は眠り、夜が目覚める。僕はカバンと水筒を自転車の前カゴに入れて、アパートの前まで押して帰る。階段を上がってドアノブをひねる。「おや、おかえり。」ちょうど誠司が帰るところだったらしい。「目が赤いよ、大丈夫?」薬指の光る左手を僕の顔に伸ばす。「死ね」僕は靴を脱ぎ捨ててリビングへ向かう。「ふっ。」誠司は鼻を鳴らして出ていく。
僕はリビングに入ると荷物を投げ出して寝室の引き戸を開ける。「お、おかえり。」僕はシーツを手繰り寄せるお母さんを無言で抱きしめる。また涙が溢れそうなのを歯を噛んで飲み込み、「なんかあった?」と優しい声で尋ねる母から手を離す。乱れた黒髪が張り付いた、ケロイドで原型の崩れた頬に手を当て、いつ見ても慣れないその顔から目線を外して呟いた。「…いつもありがとう」
日々温度が上がって、今日なんてもう40度だ。半ばふらつきながらも僕は自転車を漕いでいた。コンビニに行ってアイスを買うためなら、いまの暑さもいくらか和らぐような気がする。一番近いコンビニは中学校の下にある。学校終わりの買い食いは禁止とされているが、こんなところにコンビニがあって行かない生徒のほうが少ない。もう夏休みに入って、部活終わりの奴らがたまに使うだけなので売上は大きく減っているだろう。僕が貢献してやるよと目的地にようやくたどり着いて前カゴから財布を掴む。
「いらっしゃいませー。」店員の声と同時にすうっと涼しい風が体に染みる。ああなんて涼しいんだ!僕はアイス売り場に向かって、いつものカップアイスをとるためショーケースの取っ手を引く。さらに冷たい冷気がぶわっと押し寄せて、思わずニヤついてしまう。こんなに涼しかったら入りたくなることもあるのかも知れない。そう思いながらクッキーアンドクリームのカップを選ぶ。ひんやりと吸い付くようなそのカップに愛しさすら覚える。レジで会計してスプーンをもらい、僕は景色の良いところで食べようと例の桜の夏木立に向かう。前カゴで暴れるアイスが溶ける前に、急いで自転車を走らせる。
この道にはベンチがないので仕方なく適当な木陰に自転車を止めてその荷台に腰掛ける。アイスはまだ冷たい。少し溶けてきているのがカップ越しにも伝わる。「これくらいが一番美味しいんだよな」僕はニヤニヤしながら木のスプーンを噛んで取り出し、「いただきます!」とアイスに刺す。少し溶けたアイスは口の中で一瞬で液状にもどり、口の隅々まで冷たく美味しい幸せをもたらす。その香りを吸い込むように一杯に深呼吸すると夏の草の蒸れた匂いが入ってきてすぐに息を吐き出す。2口、3口とスプーンを運ぶ手は作業のように止まらない。景色を楽しむつもりがアイス以外に全く見向きもできない。視界の端にゆらりと人影が近づく。少し嫌な予感がして、顔を上げると花ちゃんが立っていた。すっと背中が冷えてスプーンを持った手が止まる。
「おいしそう!」「いる?」僕がアイスのカップを差し出すと、「うん!」と大きく返事をして長い髪をふわっと揺らす。花ちゃんは僕のカップを受け取ると、飲み干すように傾けて「ぷは、おいしかった!」と空の容器を突き出す。「それはよかった。最近暑いね」さらに大きくなった腹部に目をやらないようにして、僕は花ちゃんに笑顔で返す。「うん。もうすぐ生まれるんだ。」「そっか。女の子?男の子?」この話はあまり広げたくなかったが逃げ道が見つからず聞いてしまった。「お」川に目線をやった僕の横で、声が消える。
「花ち」横を見るとそこに花ちゃんはいなかった。しのぶはその腕で女を羽交い締めにして首元にかぶりつく。本気か馴れ合いか一瞬迷ったが、ごろりと落ちた生首がその答えだった。
僕が地面から見上げる花ちゃんのその目と見つめあっているうちも、じゃりじゃりとその体が砕ける音が聞こえる。花ちゃんの目は大きくて、黒くて、左右に伸びた触覚は昔と変わらず長いままで、微笑んだような唇の周りにはさっき食べたアイスのクリームが白く残っている。脱力した腕からその顔の上にカップが落ちる。残ったアイスを黒髪や頬に飛び散らせながら、カップはひっくり返って長い髪の上に伏せる。どれほどそれを見ていただろうか。いや、見ているようで見ていなかったのかも知れない。見開いた目をそのまま上げると、しのぶが彼女の手首を持っていた。「いる?」僕は後ろを向いたまま自転車に飛び乗り、何度もフェンスにぶつかりながらそのペダルを死ぬ気で漕いだ。
ようやく暑さも和らぐ10月。僕らは最後の文化祭に向けて出し物を作っていた。僕らは今年は最年長ということで、食べ物の出店を任されている。僕のクラスではチュロスを作るらしい。女子がきゃあきゃあ騒いだ結果そうなっていた。僕はチュロスをあまり良く知らなかったので、別に賛成も反対もしなかった。食べ物なら準備も前日までは暇だろうと思っていたが、毎日残って看板の飾り付けをしたりチュロスを入れる袋にデコレーションをしたり、今日なんて作って試食をすると言うんでいつにも増して大忙しだった。
「ちょっと男子、早く油から出して!」「うまく出てこない〜」「うわ汚ねっ、つけるなよ!」僕は騒がしそうな油周りから一歩引いて、できたチュロスにパウダーをかけたりアイシングをしたりしていた。「わあすごい!めっちゃおいしそう!」「ほんとだあ、女子力高いね!」女子がこちらに近づいてチュロスを絞り出す作業が止まる。「こっちやる?」「え、いいの!じゃあこれ代わって!」手渡された絞り袋はしわしわで外まで中身が溢れてベタベタする。無意識に苦い顔になる。「このくらいの大きさでいいかな?」絞る作業をしていた京子が声をかける。彼女は席が隣になったのをきっかけに、よく僕に話しかけてくる。「いいんじゃね」ぼくは同じくらいに揃えて絞り出す。「初めてなのに上手いね!センスある!」「ありがと」手を動かせよと内心ぼやきながら無心で絞っていく。「私なんて最初は細いのしかできなくてぇ!」「あはは、そうなんだ」「意外と量多いよね、食べ切れるのかな?」「ね」
いつまでやるんだこれ。まだ明るいなと外を見るとそれは校庭の白いライトで、空はすっかり暗くなっていた。「いつまでやんのこれ」「わかんない〜。でも楽しいね!」楽しくねえわと思いながら微笑み返す。僕は絞り袋がちょうど空になったのを見計らって、「僕帰るわ」と京子に伝えてそばにおいていた荷物に腕を通す。「え?そうなの。じゃあね!気をつけてね!」手がカバンに触れないようにうまく肩に掛けて、手を振る京子に頷いてトイレに向かう。
教室の喧騒から離れて、誰もいないトイレで備え付けの洗剤を何度も手のひらに出す。泡にまみれた手に少しホッとして、水で洗い流すとその濡れた手ではねたアホ毛を整える。しっかりカバンを背負い直して階段を降りる。3階から滑るように駆け下りて、裏出口から駐輪場へ向かう。真っ暗な外、暗順応が追いつかない僕の目に嫌なものが入り込んだ。
忘れた気になっていた真夏のそれが脳裏に大きく映し出されて体がフリーズする。駐輪場の反応式ライトが消え、真っ暗な夜闇の中、デジャブに襲われる。駐輪場から程ない距離の校舎裏、2つの影が単調な動きを繰り返す。ただ一つ違うのは、彼女は母よりも幸せそうだったということ。僕は自転車に鍵を差し込み、それに目をやらないようにしてまたがり、逆方向に向きを変える。
「お前」糸が張ったように僕の体は硬直し、重心を失った自転車は僕もろとも地面に倒れた。「いつになったら大人になるんだよ。」女性の声が小さく揺れる中、彼の声は一切のブレもなく僕に問いかける。昔から変わらない声の調子に走馬灯が渦巻いて、僕は返事を返せない。「そんなんじゃ、喰われるぞ」月も見えない静かな夜。そんな事言わないでくれよ。女性の小さな息遣いが僕の全てを停止する。真っ黒い地面に瞬きを止めた目からぽたぽたと涙が落ちる。ただ研ぎ澄まされた聴覚に、ジャリッと嫌な音が刺さる。「ぎゃああああああああああ!!!!!!!!!」僕は絶叫しながら自転車を引っ掴んで転げるように走り出す。自転車に引っ張られるように暗い夜を押しのけて逃げる。
どうして。
どうしてどうしてどうしてどうして。
どうしてしのぶ。
君まで。
僕は地元の高校に入学した。友達はだいぶ散らかって、遠くの高校に電車通学するやつのほうが多いみたいだった。学力も中の中、部活も特にやっていない僕にはちょうどいい高校だ。
入学式も終わり、自分のクラスを一望すると、知った顔が一つもないことに軽く絶望する。僕は学校が終わると早々に教室を出て、校舎を探検して回った。中学よりもさらに広い高校は、今度こそ本当に迷子になりそうだった。A棟、B棟、C棟、体育館、学食、部室棟。しかも棟内は代わり映えのしない教室ばかり。移動教室や空き教室なのだろうか。見て回るだけで15分ほど掛かった。
帰りに学食に寄るとぽつぽつと何人かがうどんやラーメンを啜っていた。僕はなんだか気まずくて、その裏にあるカップの自販機でなにか飲むことにした。
「やっほー」「わっ、麗子!」後ろからにゅっと顔を寄せる彼女に驚きと喜びがごちゃまぜになる。「え、麗子もこの学校だったの?!」「一緒だよ。」「そうなんだ!知ってる奴が全然いなかったから!嬉しいなあ!!」僕は思わず笑いだしてしまった。通りすがりのサッカー部に変な目で見られたが、構わない。麗子と同じ学校だなんて。こんな嬉しいことがあるだろうか。「そうだ麗子、なんか飲む?」「え、いいの!やったあ」喜ぶ麗子はいつ見ても本当に美しくて、可能なことなら自販機ごと買ってあげたかった。「なにがいい?」「じゃあねえ、桃!」高校生向けかサイダーなどの炭酸飲料が半数を占める中、あえて選ぶ桃。僕はまたニヤニヤしてしまった。「分かった、これね」僕はお金を投入して桃のボタンを押す。下の方で機械音がして、カップにジュースが注がれる。「すごい!見てこれ!」「ほんとだ、文明の利器だね」麗子がはしゃいでいる間に蓋が開き、中から桃の香りが漂う。「わあ〜。」両手でカップを持って匂いをかぎ、コクコクと飲むその姿はやはりいつ見ても美しい。「ごちそうさま!」一気飲みしたそのコップを僕に渡す。「自分で捨てろよな〜」といいながらも僕はそれを代わりにゴミ箱へ入れる。「えへへ。」
「そういえば麗子、部活とかって決めてる?」「んーん、まだだよ。」「僕もねえ、まだなんだよ。たくさんあるけどどれもそんなに興味ないしなあ。」「じゃあやらなかったらいいじゃん。」「確かに」僕は冷めた麗子の答えになんだか納得してしまった。「部活はいらなかったらさあ、麗子一緒に話しててくれる?」「ジュースくれるならね。」「策士め!」クラスに友達がいなくても、部活でなにかに熱中できなくても、こうして麗子と話せるだけでも1年生の僕は3年分の青い春を見た気がした。
麗子と別れ、僕は教室に戻る。麗子の余韻がまだ残って、ニヤニヤしながらリズミカルに階段を上がる。美麗な顔、透き通る声、そして桃の香り。まだ電気のついた教室のドアを開けると、女子が二人残っていた。僕が自分の席で荷物を選りすぐっていると、一人は帰ってしまい、僕ともう一人の2人きりになってしまった。なんだか気まずくて教科書を手早くカバンに詰め込むと、「ねえ。」と話しかけてきた。それは髪型をガラリと変えた京子だった。「あれ、小町さん」「高校デビューしてみたんだよね。気づかなかったの?」「うん、ごめん」膝より遥かに短いスカート、大きめの制服、きつく結い上げたお団子。メイクは顔にお絵かきしたみたいに派手で正直似合わない。「だいぶ印象違うね」「でしょ?友達もいっぱいできたんだ。」「へえ」僕はカバンのチャックを閉めながら微笑む。「でね、あの…もし私で良ければなんだけど…」一瞬手が止まる。まずい。京子の顔を見上げると、気まずそうに口をとがらせて言った。「付き合ってくれない?」
「え?」まずいまずい。どうしよう。ただでさえ友達の少ない僕がギャルの友達がたくさんいる小町さんを振ったとなれば僕の行く末危ぶまれる。しかし僕は前の小町さんならまだしもここまで変わり果ててしまった女に興味もクソもあったもんじゃない。「ご、ごめん」僕は俯いてそれだけ絞り出し、荷物を掴んで教室を飛び出す。飛び出したかったのは小町さんのほうかも知れないが、僕には知ったこっちゃない。
最悪だ。どっちに転んでも最悪だ。というか麗子とのあの夢のような時間の余韻を一瞬で覚まされた事自体が最悪だ。もう近づきたくない。あんなのテロだ。
蓋をしなければ吹き出しそうな優越感を押し込めて、僕は無意識にスピードを上げて自転車を漕ぐ。
休日。寝室から覗く晴れ上がった空。気持ちの良い五月晴れ。僕は昼までぐっすり眠って、ようやくベッドの呪縛から逃れられる。
「おはよう。いや、おそよう?」「はよ」母さんは昼ご飯を作っていた。
「何それ」「今日は、うどん食べようかなって。いる?」「ちょーだい」僕は母がよそってくれたうどんを両手で受取りテーブルに運ぶ。お茶と箸を取りに再度キッチンへ向かうと、母さんは引き出しの取っ手に捕まってしゃがみ込んでいた。「母さん?」何も言わないでしゃがんでいる母に、なにか拾っているのか、いやそうではなさそうなのでベッドに運ぼうか、どうしようかと立ちつくしていると、母は急に立ち上がって「ごめんごめん、大丈夫。」と笑顔を見せた。「ほんとに?」「うん、ちょっとめまいがしたの。」「それなら、いいけど」僕は視線を母に向けたまま机に戻って手を合わせ、うどんを啜る。いつもより味が薄い気がした。
それからというもの、母は何度もしゃがんだり逆にうろうろ歩き回ったりすることが増えた。僕は心配だったがなんの病気かなんてわかるはずもなく、次第に勉強に手がつかなくなった。その様子に気づいたのか、担任の先生が僕に声をかけてくれた。「なんかあった?」女性にならわかることもあるのかも知れない。僕は母の挙動について相談してみることにした。
「それは、もしかしたら妊娠してるのかもね。」少し嬉しそうに告げる先生は、僕の顔を見て驚いたような顔になり、気まずそうに目をそらす。「とにかく、検査薬を買って調べるか、病院に行ったらいいんじゃない?」僕は色んな感情に巻かれて、重い足取りで階段を降りた。僕に弟か妹ができるのか。しかしその父は?そもそも出産費用は、養育費は?バイト、就職、だからといって中絶?…僕の人生は。
気づいたらアパートに戻っていた。黒いベンツ。僕は焦燥と怒りが混ざったままの感情でドアを開けリビングを開け、閉じられた寝室をバンと開け放つ。
ベッドの上では母が寄り添うように誠司のシャツを脱がせていた。「あれ、帰ってきたんだね。でもちょっと待ってね。」にこやかな誠司に近寄り思い切り頬を殴る。「お前か、母さんを」そこまで言うと言葉が詰まる。「俺が母さんを、どうしたんだ?」へらへらと僕を見上げる誠司に、何故か涙が込み上げてくる。「反抗期なのかな。ねえ藤子。お父さん悲しいな。」誠司の煽るような顔を見つめながら涙はぼろぼろ地面に落ちる。「誠司さん、今日はもう。」母さんはそう言って外していた誠司のボタンを閉じていく。「ああ、なんか気分萎えちゃったな。また明日来るよ。」そう言って誠司がスーツを翻すように着ると、泥のように甘い香りが薄く広がる。
その姿が去っていくのを黙って見つめる。母さんが立ち上がり、僕の肩にそっと薄いバスタオルを掛ける。僕はベッドに力なく座り、そのバスタオルの素朴な匂いにようやく涙が止まる。母が僕の横に腰掛けて言った。
「気づいちゃったかな。母さん妊娠してるんだって。検査したら、びっくりだよ。」柔らかい声色にいくらか気持ちが落ち着いて、ぐちゃぐちゃに絡まった頭から1本ずつ言葉の糸を解く。「産むの?」「そうね、そうしようかなって思ってる。」「やっぱり、誠司が?」「うん。」少し声のトーンが落ちる。「大丈夫?」「ありがとう。大丈夫だよ、今のところ。」母はにこっと微笑む。
当分雑談もしていなかったので、気を紛らわすためにも僕は高校の話をした。「麗子が同じ高校だった。クラスは違うけど、たまに合ったら話すんだ」「よかったね、麗子ちゃんってあの、可愛いって言ってた子よね?」「うん」「そっかあ。仲良くしてるなら良かった。」「来月もう試験がある。」「もう試験か、早いね。」心の糸がだいぶ解けて、その芯が姿を晒しだす。最後の糸をほどくと、ついにその核の正体を詰める時が来た。「僕の父さんって、誰なの?」今まで近寄りすらできなかったタブーに、意図して触れたのは初めてだった。しばらく沈黙して、ふと母が立ち上がる。久しぶりに見たその背中はあまりにも小さく細かった。
いつも通りの学校、いつも通りの授業、いつも通りの昼の喧騒。相変わらずな毎日に、退屈さを覚えつつも自分の居場所が必ずあるここに愛着が湧いてきた17歳春の出来事。受験に向けてみんながそわそわし始める頃、僕はなんの目標もないまま日が過ぎるのを見ていた。持ってきた弁当の蓋を開け、いただきますと呟いて箸をつける。昨日の残りの野菜炒めに白ご飯、それとサラダチキン。
「お前ダイエットでも始めんのか?」「あ、確かに」僕はほとんど毎日別棟の空き部屋で麗子と昼食を取っていたが、今日はこの後担任から進路のことで呼び出されていたので教室で昼食を済ませることにしていた。友人が3人、椅子をガタガタと引きながら僕の周りに集まる。「今日は珍しく教室なんだな。彼女にでも振られたのか?」山田が言う。「お前らと一緒にすんなよ」「…」「元気出せって。京子なんてどーせクソ女だよ」本田はヤンキーみたいで少し苦手だったが、最近思ったより馬鹿なんだと気づいて接しやすくなった。「それがそうでもないんだよ…」しょぼくれる山田を冷笑する月野。友達連中はみんないい奴らばかりだ。文理選択が同じだったので2年間クラスも一緒、正直クラス替えなんてしないほうがいいなと思った。ついでにいうと京子は僕が振った後すぐ他の男と付き合ってすぐ別れてを何度も繰り返して、校内では軽い女として一躍有名になっていた。山田は今回の犠牲者だったみたいだ。「明るくて、優しくて、頭は…ちょっと馬鹿なくらいで可愛いじゃねえかよぉ。」山田は僕の机に突っ伏して嘆いている。僕はその頭をわしわしと撫でてやった。「なにすんだよぉ。うう、京子ちゃーん…」山田が僕の手を掴んで頬に擦り寄せるので「うわっ」とそのまま反射的にビンタしてしまった。「あ、ごめんな、ごめん」「ぶははは、お前男にも振られてやんの」「どいつもこいつも俺の魅力が分かってねえな…」「ていうかお前、あと10分で面談だろ。」月野の言葉に僕は置いていた箸を掴み、弁当をかき込む。残ったご飯粒を集めていると、「うわああああっっっ」と情けない声を上げて山田が椅子から滑り落ちる。
「どうしたんだよ山田。」「あ、あああれ…」その指さした方を3人で一斉に振り向く。そこには山田も驚く絶世の美女が立っていた。「麗子!なにしにき」「うげっ、きもっ。」「見たくなかった…」2人の反応が気に食わなかったのか、にこにこと微笑んで手を振っていた麗子はムスッとして廊下を走り去ってしまった。「あ、ちょっと…」「お前もう面談だろ。遅れたら怒られるぞ、俺みたいに。」本田の声に麗子を追う足が止まり、「そうだな、行ってくる」と机から筆箱を引っ張り出し職員室に向かう。「いてら〜。」「てかどうすんのあれ、あんなのがいるとこで勉強とかできねえし。」「おれもご…」「言うな言うな言うなもー飯食えねえよお…」3人のそんな会話がだんだん遠くなり、階段を降りながら他の教室の時計を見ると約束ちょうど。僕は職員室に駆け込んだ。
「ふう…」面談は思いの外早く終わり、残り少ない昼休憩で麗子を探そうかと筆箱を教室に置きに入ると、なんだか騒がしい。「どうすんのこれー。」「本田お前責任取れよ。」「はぁ?俺がやったんだから後はお前らでやれよ!」「どうしたの」僕は教室の後ろを向いてざわざわ騒ぐ生徒の間を縫って、山田や本田のもとに向かう。
「これさっき本田が仕留めたんだけどよ、誰が処理するかって…てあれ?聞いてる?」「きもすぎてフリーズしちゃった?」「もーなんならやらないほうが良かったのでは?」「はぁ?!今更なんだよ俺はもう知らねえからな。」「お前、大丈夫?」「いやまじ無理なら座ってろって。」「おーい?あれ?」「え、逆にこういうの好きとか?」「え?なにそれ新しいフェチ?」「いや普通に好きな人もいるかもじゃん?」「だったら悪いことしたか〜?すまんすまん。」「授業始めるぞー。席つけよー。小テストあるぞー。」「やべ、全然見てねえ!」「どこからどこまで?」「てか先生、これどうにかしてよー。」「なんだ?」「これさっき本田が…」「おぉ、これは派手にやったなあ。」「誰も片付けてくんねえっていうんだよ。俺せっかく勇気出してやったのに。」「てかお前ほんと大丈夫?」「全然動かねえじゃん。」「どうしたんだよ、おい!ってうわあああっっっ」「やべちょっとなにやってんだよ!!!」「手汚れてない?!おい、きたねえぞマジで。」
どうしてこうも、僕の周りは、忘れた頃に騒がしい。
僕は深く目を閉じて、その薄い唇に唇を重ねた。
そしてその腰と膝に手を回してそっと抱き上げ、絶叫しながら道を開けるクラスメイトを尻目に教室を出る。僕はそのまま軽い体を抱き寄せながら、歩いて学校を出た。
僕はいつのまにか公園に来ていた。彼女を強く抱き寄せながら、僕はなにかに憑かれたように公園の中を巡っていた。こっちに来て初めてできた友達、花ちゃん。公園の角に咲く花を、食べれるものから種の形まで全部解説してくれた。ちょっと飽きそうなときもあったけど、一緒に蜜を吸ったり匂いを嗅いだりしたその感覚が鮮明に蘇り、一段と視界が滲む。
この木は、かくれんぼしたときにしのぶが隠れていた木だ。色んな場所を探し回っても、全く見つけられなかったはずなのに。木の後ろに実はチャックが付いていて、中の四次元空間に隠れていたんだと想像していた自分が愛おしくなる。今ならそのわけがわかる気がする。
べンチでばかり宿題をするのはつまらないからと、このブランコで勉強しようとして酔ったことがあったっけ。久しぶりに座ったブランコは手すりがすっかり錆びていた。ゆりかごにでも揺られるように、しばらく空を見ていた。
僕はおばあちゃんの家で育ち、いろんな友だちができた。
おばあちゃんはそれがおかしいと言って、僕を病院に連れて行った。
白衣の誠司は僕に優しく微笑んで、同じだねと言ってくれた。かっこいい人だなと思っていた。
お母さんの火傷したその顔に驚かなかったのも、僕の持病のせいだろう。羽があったり腕が多くて目も異常な大きさの彼らは人と大して違わない。むしろ彼らに惹かれていただけのことかも知れない。
たくさんできた友達が、目を開けたらみんな消えてしまう。
それでもいい。僕は気づいてしまったんだ。
僕はゆっくりまぶたを開けて、膝の上に置かれたそれを見る。僕は落ち着いた気持ちで、それを手のひらですくい取り、公園の植栽に隠して上から葉っぱや小枝を被せる。スッキリしたような、やるせない気持ちで僕は立ち上がる。ふっと息を吐き、全部が小さく見えるその公園を後にした。
さらさらと風が吹く、とある公園。
僕の目線の先には踊るように飛ぶちょうちょ。
黄色い色は青空によく映えて鮮やかだ。
誰の声も聞こえない、静かな世界で僕は一筋涙を落とした。
(終)
皆さんは虫は好きですか。わたしは嫌いです。嫌いではなくてもあんまり得意じゃないです。
でも、その不気味さや怖さは避ける対象ではなくて、美しさに十分昇華できるものだと思っています。
ちょっと忘れがちな自然の香りや友達との距離感なんかを、感じていただけると幸いです。
書きたいが先走って筆が至らない所も多かったと思いますが、これからも私なりの世界観を描いていきたいです。




