あの日君がいたから、僕はこうして生きている
ジャブ、ジャブ、ジャブ…
水に足を踏み込む音だけが鼓膜を震わす。
すぐに楽になれるはずだ
何も怖くない
そう自分に言い聞かせながら歩みを進める。
今日こそ死んでやろう。
「死ぬんだ」
突然後ろから声がした。涼しく澄んだ声だ。
「誰」
振り向かずにぼそっと言う。
「溺死って、相当苦しいらしいね。覚悟は決まったの」
女の子だ。
こんなふうに普通に話しかけられると、さっきまで肌身はなさず持っていたはずの自殺願望はしゅんとしぼんでしまった。彼女の言う「覚悟」はまだ決まっていなかったということか。これで何回目だろう。
「今日はもういいや」
遥希は振り返り、来た道を戻る。
目の前に立っている女の子は、遥希と同じ制服を着ていた。
通っている高校では、入学時にズボンかスカートを選択できる。その時彼女はズボンを選択したのだろう。ショートカットの黒髪と相まって、一見すると男の子のようだった。
全く見覚えのない子だったが、いつも俯きがちで歩く遥希にとっては、顔の知らない子がいてもそれは何ら珍しいことではない。
それからは二人でまっすぐな河川敷を歩いていた。
彼女は比較的無口で、別に一緒に帰ろうという会話があったわけではなかったが、成り行きでそうなったのだ。
どこまでも見通せるような開けたこの道では、時折強めの風が吹く。
今は冬の始めとはいえ、さっき川に浸かったせいで濡れた両足の感覚がない。
ふと隣を見た。
「なに」
彼女はこちらも見ずに言う。
「いや…その…、前にもこんなことがあったな…って」
遥希はこの道を歩いている間、ずっとあの時のことを考えていた。
あの女の子のことを。
「前って言ってもこの間とかの話じゃなくて…僕が小学校低学年の時のことだけどね」
遥希は小学生の頃まではここから少し離れた田舎町に住んでいた。その頃から人見知りであまり同級生と馴染めず、挙動不審な変人だとよくからかわれていた。毎日が辛くて、この世から消えてしまえればどんなに楽だろうと思わずにはいられなかった。
そんなある日、学校の帰り道にある小さな川の畔に、自分と同じくらいの一人の女の子が立っているのが見えた。どこか遠くを見つめてぼんやりとしているようだった。何をしているんだろうと様子を見ていると、女の子は川に向かって歩き始めた。
死ぬかもしれない―
そう頭に考えがよぎると、居ても立ってもいられずに遥希は全速力で走り出していた。そして女の子の腕を掴むと川から引きずり出した。
「それからは一緒。今みたいにこんな一直線な道を二人で歩いて帰ったんだ。…あのときは助けた側だったくせに、今日は助けられる側だなんて、シャレになんないよ」
ははっと笑って隣を見ると、彼女は立ち止まった。
「…」
目を伏せがちに何かつぶやく。何と言ったのかは聞き取れなかった。それから彼女は右腕を真横に伸ばし、その方向を指さした。
「こっちだから」
そこにも道が続いており、どうやら自分の家はこちらの方角だ、ということを言いたいらしい。彼女はさよならも言わずにすぐ立ち去ろうとする。
「待って」
遥希は思わず彼女の肩に触れてしまい、慌てて手をどける。
「ごめんっ…、その…、僕は遥希っていうんだけど、君は」
彼女は一瞬戸惑いの表情を見せたあと、遥希の顔を見て答えた。
「あさひ」
確かに彼女の胸ポケットの部分には、天宮朝陽という刺繍が施されていた。遥希がはっとしたのも束の間、朝陽は足早にその場を立ち去ってしまった。
一面橙色に染まった綺麗な夕焼け空の下、一人ぽつんと残されたまま、幼い子供の声が脳裏で語りかけてきた。
「私、あさひっていうの。あまみやあさひ」
* * *
こんなことってあるのだろうか。
遥希は朝に目が覚めた瞬間からそんなことを考えていた。昔自分が助けた少女と偶然再会し、今度は自分がその子に助けられるなんて。なんだか必然のようにも感じる。考えすぎだろうか。
パジャマ代わりのジャージを脱ぐと、全身痣だらけの身体を一秒でも早く隠すように着替えを済ませる。
ああ、今日も長い一日が始まる。
遥希は家を出ると、いつもの通学路を憂鬱な気持ちで歩いた。
昨日朝陽と二人で歩いた道で一度立ち止まると、少し振り向いてみた。やはり、そんな偶然なんて連続では起こらない。何を期待しているのだろう。
教室へ上がると、寄り道せずに自分の席へと向かう。するとその途中、ガタンッと大きな音を立てて派手に転んだ。手をついて上半身を起こすと、いつものメンバーが人をゴミでも見るような目つきをして見下ろしていた。どうやら足を出して引っ掛けたらしい。
「大丈夫?一人でコケるとか、相変わらずどんくせえな」
ほら、と言って無理やり遥希を立たせ膝の埃をはたくと、太い腕を肩に回す。リーダーの藤崎だ。
「なあ、昨日約束しなかったっけ。一万円持ってくるってさ。お前俺たちのこと馬鹿にしてんの」
「ば、馬鹿になんて…」
じゃあさ、と遥希の耳元に口を近づける。
「プラス二万な。放課後あの小屋で待ってるぜ」
そう言うとゲラゲラ笑って遥希から離れていった。
遥希は自分の席に着くと、乱れた呼吸を整えた。
昨日はどうせ死ぬつもりだったからあいつらの所へは行かなかった。しかし結局死ねずにふらっと登校してしまったのだ。少し考えればどうなるか分かるものを。遥希は自分の頭の悪さに顔をしかめる。
どうしよう
周りを見渡してみる。
青ざめた遥希には目もくれず、みんなが平和に過ごしていた。
またこれだ。
クラス全員、見て見ぬふり。
学校が終わり、絶望のまま帰路を辿って家に着くと、その足で父の部屋へ行き書物机の引き出しを開ける。積み重なった書類の一番底に封筒があった。前に金を要求された際、必死になって見つけた父のへそくりだった。
父は金額が減っていることに気付いているだろうか。
封筒から三万円を抜き取ると無造作にポケットへ突っ込み、指定された小屋へと向かった。
しばらく歩いて、学校近くの小さな林へ重たい足を踏み入れる。何に使われていたかは不明だが、八畳ほどの広さがあり、元は立派であっただろうその小屋は、長い年月の中で朽ち果て、今は誰も使っていない。
軋むドアを開けると、かび臭く薄暗い空間が目の前に広がる。
静かに中へ入ると、横から腰辺りに強い衝撃を受けた。遥希は短い悲鳴を上げて倒れ、地面に叩きつけられた。誰かが横に来て、遥希のポケットをまさぐる。藤崎だ。
「お疲れさん。それにしても遅かったなあ」
「急いだつもり…」
言い終わらない内に腹に蹴りが飛んできた。一瞬目の前が真っ暗になったかと思うと、徐々に胃液がせり上がってきて目に涙が浮かぶ。遥希は体をくの字に曲げて腹を押さえると激しく咳き込んだ。
「言い訳?」
その一言が合図だったかのように、他の奴らも思う存分に遥希を殴りつけた。
頭を守るのに精一杯で身体は痛めつけられ、思うように呼吸も出来ないまま、遥希の意識は少しずつ薄れていった。
どのくらい時間が経ったのだろう
遥希はうっすらと目を開いた。焦点が定まらず何もかもがはっきりしなかったが、どうやら仰向けになっているらしいという事だけは分かった。
だんだんと意識がはっきりとしてきて感覚が戻ってくると、全身の皮膚や内臓の痛みにうめき声を上げた。
「痛む?」
見覚えのある顔が遥希の顔を覗き込む。驚きのあまり、身体の痛みを忘れて勢いよく起き上がった。案の定、額同士が漫画のようにクリーンヒットする。「うっ」と声が聞こえた。
「何にするんだよ」
朝陽は尻もちをついて、痛そうに額に手を当てていた。今日は制服ではなく、黒のズボンに白のパーカーというモノクロトーンのシンプルな出で立ちだった。
「脳震とうでも起きてたら治療費請求するから」
「えっ…!ご、ごめん!わざとじゃないんだよ、お金以外なら何でもするから」
遥希も額を擦りながら必死に謝った。
その様子が可笑しかったのか、朝陽は無表情な顔に少しだけ笑みを浮かべた。
「冗談だよ」
「じょ、冗談…?」
「そう、冗談」
遥希は朝陽から視線をそらし、ため息をついた。
「さっきお金取られたんだ。今の冗談全然面白くない」
朝陽は申し訳なさそうに肩をすくめる。
「冗談って初めて言ったんだ。もっと腕を磨いておくよ」
そこじゃないだろ、と遥希は思わず笑ってしまった。
殴られた箇所が少し痛んだが、気分は良くなった。リラックスして状況把握ができるようになると、顔や腕に貼られた絆創膏に気が付いた。ガーゼの部分から少量の血が滲んでいる。
「手当てしてくれたんだ。ありがとう」
朝陽は分かりやすくその言葉を無視した。
「お金、何回も取られてるんでしょ」
「悪い?」
「悪いのはあいつらだよ」
朝陽は立ち上がると、行こう、といって遥希の方に手を差し伸べた。その手を握って立ち上がると、視界がくらっとして倒れそうになり、すかさず朝陽がそれを受け止めてくれた。
小屋を出るともう日が落ち、昼間よりも寒さが際立っていた。一気に体の芯から冷え、体温が奪われてゆく。
二人で寒さに震えながら林を出て一本道を進む。一人だと心細いこの道も、朝陽と一緒ならずっと歩けるような気がした。だが少しすると朝陽は立ち止まり、右側に続く道を指さす。
「こっちだから」
そうだった、と遥希は残念に思った。もっと話をしたい。
「今日はありがとう」
そして声を絞り出す。
「その…、また…会える?」
数秒の沈黙。
「明日の放課後、昨日会った場所にいる」
朝陽はそれだけ言うとまたもや足早に立ち去って行った。
遥希は後ろ姿が見えなくなるまでその場から動けずにいた。朝陽の言い方は無駄に遠回しだったが、その意味は強く心に刺さった。
フワフワしたものがだんだんと形作られていく。それはある言葉になった。
―「友達」―
嬉しくなってつい微笑んだ。
そういえば、笑えてる。こんなに笑えてるのはいつぶりだろう。
いつの間にか、身体の痛みなどすっかり忘れていた。
翌朝を迎えた。いつもは重いまぶたも、今日はすぐに開いた。
遥希は支度を済ませ、朝食を食べると家を出た。やはり登校中に朝陽と会うことはなかったが、授業中も昼休みも掃除の時間も、頭は朝陽のことでいっぱいだった。
一日のつまらない学校が終わると、急いであの川へ向かった。
到着すると、川辺の方に人影が見えた。すぐに朝陽だと分かった。今日は制服を着ている。
遥希は急いで彼女のもとへ駆け寄った。
「はあ、はあ、来るの早いね」
「そうでもないよ、今さっき来たばかりだから」
膝に手をつき、息を切らしている遥希に涼しい顔で答える。
もう日が傾き始めていて、彼女の色白の肌が暖かい光に照らされていた。静かに流れる水の音色と相まって、穏やかな雰囲気に包まれている。
「今会ったばっかなのに、もう今日が終わっちゃうね」
「夜が来る。夜はいいよ。座ろう」
朝陽に促されて砂利の上に腰掛けた。
朝陽が「夜はいいよ」と言ったのは正しかった。人通りは少なくなり、日中の忙しない人間社会とはまるで別世界だ。彼女と話すのは他愛のないものばかりで、それが遥希にとっては心地よかった。
「今日は大丈夫だったの」
朝陽が遥希の腕を見ながら問いかけてきた。その時に遥希は、自分が無意識のうちに昨日貼ってもらった絆創膏をさすっているいることに気が付いた。
「あぁ」
手を止め、あぐらをかく。
「昨日大金を渡したから、あいつらは遊ぶのに夢中なんだ」
「大金?」
「三万。親のお金、盗んできちゃった」
「よく要求されるの」
「たまにね。四か月前…くらいからかな」
はあ、と息を吐くと、かすかに口元の空気が白く色づいた。
「最初の二か月は自分の小遣いから出してたんだけど、それでは間に合わなくなってさ。前に一回…」
そこまで言って俯いた。
恥ずかしくて、余計なことを言ってしまったと後悔した。
朝陽は何も言わない。それが逆に、言わなければという気持ちにさせた。
静かに息を吸い、言葉を繋ぐ。
「一回だけ…、この先にある駅で、他人のカバンの中から財布を盗んだ。あの時はすごく追い詰められていて、これしかないって。盗ったら、すぐ駅の階段を急いで上った。上ったあとどうするかなんて考えてなかった。とにかくその場から離れたい一心で。その途中で後ろから腕を掴まれたけど、それも振りほどいて、とにかく逃げたんだ」
一気にまくし立てたあと、隣を見ることができなかった。
今の話でどう思われたのか、知りたくなかった。
「腕を掴んだ人は、それから追いかけてきた?」
朝陽の声が低くなった。
「…来なかったよ」
「じゃあ成功したわけだ。初めての盗み」
「してない。財布は交番に届けた」
「…どうして?」
どうして…。どうしてだろう。多分…
「だめだよ、って聞こえたんだ。腕を掴まれたときに。それで、我に返ったのかも。これはだめなことだって」
横でふっと笑う音がした。見やると、朝陽が歯を見せて笑っていた。こんなふうに笑う人だと思っていなかったため、正直驚いた。
「なんで笑うの、面白くないだろ」
「面白いからじゃない」
そしてすっと立ち上がると、軽く伸びをした。
「寒いね、そろそろ帰ろう」
そう言って朝陽は手を差し伸べた。
その日以降も、放課後に例の川で朝陽に会うことが度々あった。約束をしている訳ではなく、川へ行っても会えないこともあったが、遥希は毎日のように通った。
彼女と会ったとしても、どこかへ遊びに行く訳でもなく、ただおしゃべりをした。
こんな日が来るとは思いもしなかった。
辛い現実から目を背けるために、自分で生み出した想像や幻覚ではないか、と疑ったのは一度や二度ではない。
人生最後の景色になるはずだった川は、秘密の友達との特別な場所となっていた。
この日も、帰りに朝陽と会うことだけを楽しみに自分を奮い立たせ、学校へ登校した。移動教室ばかりの時間割で、ほとんどの休み時間を校舎内の移動に費やした。
午後の授業の移動中、あるものに目が留まった。複数の写真が張り付けられた大きなパネルだ。校内のコンテストで入賞した作品らしい。青春っぽいタイトルと被写体が並ぶ中で、一枚の写真に釘付けになった。撮影者は―
「あ」
「天宮朝陽」の名前と学年、クラスが写真の下に記載されていた。朝陽は一学年下の一年二組。何度も会っているというのに学年を今知った。友達の基本情報も知らないなんて、今まで友達と呼べる人が一人もいなかった自分のコミュ力の低さに、少し呆れてしまった。
帰りのホームルームが終わったあと、早速朝陽の教室へ行って中を覗いてみた。まだホームルームは終わっておらず、生徒は皆席に着き、帰りたそうな素振りを見せながらも担任の話を聞いていた。
遥希は彼女を探してみる。だが、いくら探しても姿が見当たらない。
教室の隅の方に、一つ空席があるのが見えた。
今日は学校を休んでいるのだろうか。
先生の話が終わり、あいさつをすると教室から生徒が一斉に出てきた。
「すみません…今日、朝陽さんはお休み?」
比較的話しかけやすそうな女子三人組に声をかけると、そのうちの一人が遥希を睨みつけた。
「悪ふざけはやめてください!」
そう言って、戸惑っている他の二人を引っ張り乱暴な足どりでこの場から離れていった。
遥希は訳が分からずに廊下で呆然と立ちつくした。
悪ふざけとはどういう意味なのか。
何か聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。
「どうした?」
横からいきなり声をかけられ、心臓が跳び跳ねた。このクラスの担任だった。片付けを終えたった今教室から出てきたようだ。
「誰か待ってる?」
「えっと…」
先程の女子たちの反応が頭にこびりついて離れず、言葉が思うように出てこない。
「あ…朝陽さんは…」
やっとの思いで彼女の名前を出すと、気さくに話し掛けてくれた先生の顔がみるみるうちに曇っていった。「こっちに来なさい」と言って端の方にある談話室へ遥希を連れて入った。
再び先生の顔に目をやると、曇っているというよりかは悲しそうに見えた。
重い空気の中、先に口を開いたのは先生の方だった。
「朝陽の友達かい」
その問いに遥希は頷いた。「そうか」と言って先生は下を向く。
遥希にはまだ分からない。なぜ朝陽の名前を出すと怒ったり悲しんだりするのだろう。
「あの…」
「本当に残念だった」
先生はぽかんとしている遥希を置いて話し続ける。
「あの子はとても良い子だった。人を思いやる心を持った、優しい子だったよ。それに…」
「ちょ、ちょっと待ってください。さっきから、だったって…どういう…」
我慢できずに話を遮ると、あからさまに怪訝な顔をされた。
「どういう…って、クラスでのあの子のことを聞きに来たんじゃないのかい」
「それにしても、だった、なんて…今はいないみたいに言うので…」
「…いないじゃないか」
先生は憐れむような眼差しで遥希のことを見つめていた。
「…彼は二か月前に、駅の階段から落ちて亡くなったじゃないか」
* * *
二か月前
「今日、皆さんに伝えなければいけないことがあります」
全校生徒が注目する中、校長が舞台の上でマイクで話し始めた。
「昨日の午後六時頃…、一年二組の天宮朝陽くんが…亡くなりました。…事故です…」
天宮…朝陽…?
* * *
思い出した。
遥希は先生をおいて走り出していた。
あの時の「だめだよ」と言う声は…
掴まれた腕を振りほどいたあとの、あの大きな音…
何か重いものが転がり落ちるような音。
それから悲鳴。
あの時、天宮朝陽は死んだ。
自分が殺した。
昔命を救った女の子を、今度はこの手で殺した。
待てよ、
そうだ、女の子だ。
小学生だった遥希が会った朝陽は女の子だった。
それに、昨日も当の本人と会っているではないか。
では、自分が殺した「天宮朝陽」は、同姓同名の別人なのか?
でもあの写真は…
『私、あさひっていうの。あまみやあさひ』
遥希は走るのを止め、立ち止まった。
目の前にはどこまでも真っ直ぐな道が続いている。
呼吸が乱れ、頭痛がする。
たまらず両手で頭を抱え込んだ。
あの日。
女の子の自殺を止めた日
『私ね、女の子じゃないんだよね』
そうか。
涙が溢れる。
息が苦しい。
沈みかけの太陽が眩しくて、目を細めて空を仰ぐ。
あの日もこんな静かな夕焼けの空だった。
『男の子がこんなふうに女の子の格好してたら、気持ち悪いんだって』
そう言って足元の石ころを蹴飛ばしていた。
『そんなことないよ』
首をかしげて遥希を見つめる目は少し奥二重で、優しくて、澄んでいた。
短い髪が風で柔らかくなびいていた。
全部思い出せる。
「可愛いよ」と言えたこと、「ありがとう」と言われたこと。
すべての会話が、頭の中でまるで映画のように再生される。
あの時のあの子を、僕は―
朝陽に会わなきゃ
遥希はまた走り出し、しばらくするといつもの河川敷が見えてきた。
川の方を向いて人が座っている。その人物は、こちらの足音が聞こえたのか、振り向いて立ち上がった。
今日は制服姿だ。胸元には天宮朝陽の刺繍がある。
遥希の顔を見ると、すべてを悟ったかのような表情を見せ、視線をそらした。
お互い無言で向かい合い、時間が過ぎる。
遥希は、襲ってくる罪悪感と喪失感に耐えきれずに、その場に膝から崩れ落ちた。
「朝陽を…」
涙でぐしょぐしょに濡れた顔を歪ませながら、喉の奥につっかえた言葉をしゃくり声と共に絞り出す。
「僕が、朝陽を…」
「遥希、聞いてくれる?」
そう言って彼女は元いた場所に腰掛けると、遥希に隣に座るよう促した。
遥希は少し離れて座った。
「本当の名前は、陽菜っていうんだ。朝陽は、ぼくの双子の兄だよ」
昨日まで朝陽だと思っていた彼女が、話し始めた。
―ぼくたちは、腹の中で身体と心を入れ違えてしまったらしい。
小さい頃は何事も「可愛い」で済まされたけど、小学校に上がるとそうはいかない。言葉遣いや仕草が、朝陽は女の子っぽく、ぼくは男の子っぽくなっていくと、いじめが始まった。いじめられたのは、朝陽だった。男らしい女の子よりも、女らしい男の子のほうが彼らにとっては不自然で、からかいやすかったんだろう。
明るくて優しかった兄は、だんだんと心を閉ざしていった。
ある日、朝陽はスカートから水を滴らせて震えながら家に帰ってきた。そのスカートは、いつも自分をからかっている奴らを見返してやるんだ、と久しぶりに笑顔を見せて着ていったお気に入りのものだった。
ぼくは、やっぱり止めるべきだったと後悔した。
朝陽をこんなふうにした奴らに仕返しに行こうとしたとき、「違うよ」と笑って朝陽に引き留められた。「私を助けてくれたんだ」と。
それ以降、朝陽は何度もこの話を持ち出しては嬉しそうにしていた。
大勢の心ない言葉よりも、一人の温かい言葉のほうが胸に刻まれたんだ。
それから、ぼくたちは高校生になった。…いや、高校生の年齢になった。ぼくは受験しなかったから。
朝陽はぼくと違ってまじめで、努力家だから、本当の自分を抑えながらも学校生活に慣れていった。
そんなときに、朝陽は死んだ。―
「ごめんなさい…ごめん…」
「違うんだよ」
陽菜は遥希の背中を優しくさすった。
「…違う?」
「事故だった」
「…事故って…」
その言葉通りだよ、と陽菜はそのまま寝転がる。
「あの日の防犯カメラを見せてもらった。階段で遥希に振りほどかれたあと、一秒はそこに立ってた。そしてまた追いかけようとして、足を踏み外したんだ」
そんなことは、遥希にとっては重要じゃなかった。
あの時立ち止まっていれば
階段を上らなければ
財布を盗まなければ
そこにいなければ
きりがなかった。
いっそのこともっと責めてほしかった。
お前のせいで朝陽が死んだんだって。
お前さえいなければって。
「遥希」
名前を呼ばれてビクッとする。
顔を見れない。
陽菜は体を起こした。
「あの日、朝陽を助けてくれてありがとう。あれから高校生まで、ちゃんと生きれたよ」
遥希は、今日初めて陽菜の目を見れた。
怒ってなどいない。
恨んでもいなかった。
止まりかけた涙がまた溢れてきた。
そんな遥希を彼女は両腕で包みこんだ。
遥希は記憶にあるかぎり、生まれて初めて声を上げて泣いた。
太陽は沈み、真っ暗になった。
「もういい?」
目を開けると、陽菜の顔が近かった。
泣いている間ずっと抱きしめられていたのだ。
「ご、ごめん」
遥希は慌てて離れ、袖で涙をぬぐう。
「気にしないでよ、ぼくは男の子だからね。はたから見ると男女の熱烈なハグに見えなくもないけど…」
「や、やめてよ!!」
顔を真っ赤にして否定する。
少し二人で笑ったあと、陽菜が口を開いた。
「ずっと騙しててごめん」
遥希は首を振って答えた。
「謝らないでよ、君も僕の命の恩人なんだから」
陽菜はふふっと笑って上を向いた。
「星が綺麗だよ」
見上げた夜空には、薄いながらもたくさんの星が輝き、今日の忙しなく揺れ動いていた気持ちを穏やかにさせた。
人は死んだら空から見守っているというけど、朝陽もこの星空からこちらを見ているんだろうか。
「そういえばさ」
遥希は星を見ながら問う。
「僕が昔朝陽を助けた子だって、いつから気づいてたの?」
「気づいたも何も、君が自分から言ったんじゃないか」
えっ!と遥希は目を丸くして陽菜の方を向いた。
「あの時初めて知ったの?じゃあなんであの日ちょうど朝陽の制服を着てたの?ていうか、何のために僕に近づいたのさ」
「何のためにって…そんな、人を世界征服でも企んでる悪役みたいに言うなよ。ぼくは、朝陽が最後に追いかけようとした人がどんなやつか知りたくて、でも学校で待ち伏せするなら同じ学校の制服が一番だし―」
「待ち伏せ!?」
「うるさいな、それで何度か後をつけてたら―」
「何度か!?」
「あーもう、鼓膜が破れそうだよ。自殺が未遂で終わったからよかったじゃない。ぼくが追っかけ回してなかったら今ごろ海の底にお釈迦だぞ」
陽菜は立ち上がって耳をほぐす仕草をした。
「…朝陽とのこと、知らなかったんなら僕が話したときにもう少し驚きなよ」
「驚いたさ。…もう帰ろうか」
いつものように手を差し出す。
そして遥希もいつものように握り返した。
今日は一段と冷え込む夜で、さらに静かな暗さがいつもの道とは違うように感じさせたが、それが全く不快ではなかった。
二人で並んでゆっくり歩く。
「ぼくがこんな言葉遣いなの、気にならない?」
「うん…こっちのほうが自然…だから」
そっか、と言って陽菜は前を向く。
そして、聞こえるぎりぎりの声でつぶやいた。
「遥希のそういうところに、朝陽は恋してたのかな」
「こ、恋!?」
衝撃の発言に思わず出した声が裏返る。
寒さを忘れて体がかっと燃えるように熱くなった。
「そ、そんな…!僕は…、その―」
「冗談」
「え…」
慌てた自分に恥ずかしくなり、体が別の熱を持つのが分かった。
「な、なんて冗談だよ」
「上手くなっただろ」
「人の心を弄ぶんじゃないよ」
あ、と遥希は立ち止まる。
「いつもの分かれ道、通り過ぎたよね、戻ろう」
話に夢中で、いつも別れる場所を見落としてしまったのだ。だが、陽菜は戻ろうとしない。
「いや、真っ直ぐで当たってる」
「え、でもいつもあそこで別れてたでしょ」
遥希が後ろの方を指差しながら言うと、陽菜は少し照れたように俯いた。
「言っただろ。あの話を聞いて驚いたって」
なるほど、そういうことか。
気が動転して…
「曲がる道、間違えたんだ?」
「やっと遠回りせずに帰れるよ」
陽菜は照れ隠しのつもりか、少し早足になった。
数十メートル歩くと、急に立ち止まって右腕を真横に伸ばした。
「こっちだから」
うん、と言ってさよならを言いかけたとき、ぼくね、と陽菜が続けた。
「色々考えてさ、高校、受験することにした。通信制だけど、朝陽が見つけてくれたんだ」
すごい、と声に出す前に、陽菜は「じゃあまた」と行ってしまった。
小さくなっていく陽菜の背中を見つめながら、同じように、再会を前提とした別れのあいさつをする。
「じゃあ、また」
* * *
ドボドボドボ…
遥希の頭の上から冷たい水が滝のように降りかかる。
「あ、手ぇ滑っちゃった。あーあ、水筒が空っぽじゃん」
藤崎が空になった水筒の中身をを遥希に向ける。
「…水、入れてこようか」
「お、気が利くねぇ、俺ファンタ。お前らも何か頼めよ」
遥希は小さいハンカチで顔と頭を拭いながら、飲み物を買いに校外の自販機を目指し歩いた。
だが、足どりはさほど重くはない。なぜなら、明日この学校を去るからだ。悩んだ末、両親にいじめのことを打ち明け、転校することになったのだ。転校することは藤崎を始めいじめのメンバー、そしてクラスの誰にも知られてはいない。
廊下の途中で足を止めた。
そこのパネルにはあの写真がある。
題 :「あの日君がいたから、僕はこうして生きている」
撮影者 : 天宮 朝陽
沈みかけの赤い夕日に染まった、小学生の頃のあの川をバックに、手を繋いだ二人の姿が収められている。逆光となり顔は見えないが、僕と朝陽をモデルにした、朝陽と陽菜だろう。
遥希は写真に優しく触れると、微笑んだ。
逃げるんじゃない。
前に進んでいく。
僕も、精一杯生きてみるよ。朝陽。




