「回る世界」
その時世界は一変した。
クルリと上がったボクの体は、一つ上にいて、
見えた世界が高くなった。
その視線の先にはまだ小学2年生のボクでは感じえないもの。
いや、言語化出来ないものが確かにあったのだ。
そうして一回りした鉄棒をストンと降りたボクは、振り返る。
すると祖母は嬉しそうにボクを抱きしめた。
「コウタなら出来るって信じてたよ!」
祖母はボクに気づかれまいと、抱き寄せたが、
ボクは気づいていたよ。
祖母の頬から伝う、涙の軌跡を
そうだ、昔話をしよう。
ボクはまだ小学生2年生の頃の話。
「みんな!逆上がりをしましょう!」
先生が鉄棒を前にまだ小さな体を持て余す子供達を前に宣言した。
その宣言には体育のカリキュラムに含まれた、なんてことのないことだった。
でもボクにはその宣言には大きな意味があった。
ボクには逆上がりは出来ない。
鉄棒に捕まり、足を蹴り上げて一回転する。
単純なことだが、幼い頃からこの鉄棒に慣れ親しむことなどなかったボクはその一連の動作に成功したことがなかった。
同級生達が、次々と逆上がりをしていく中で、ボクの番が来た。
見よう見まねで足を蹴り上げて鉄棒を回ろうと試みる。
しかし、上がれない。
何度もやっているうちに、腕が疲れそのまま腰から落ちてしまった。
それを見ていた同級生達は笑った。
ボクは酷く情けなかった。
涙がいっぱいになって溢れそうになる。
先生は
「コウタさん大丈夫。次の子と代わろうか。」
何がダメだったんだろうか。
慰めの言葉をかける先生には、ボクが出来ない子だと思ったんだろうか。
そう思うたびにボクはボク自身が嫌になる。
ボクは家に帰った。
家に帰っても、誰もいない。
いない所に、ランドセルを置いて、公園に出向く。
すると、見知った顔がいた。
ボクは思わず、公園を素通りして、もっと小さな公園を目指した。
けれどもそこには鉄棒はなかった。
ただボクはベンチに座ってぼんやりしていた。
じきに夕焼けに染まる公園に、たまたま祖母が来た。
「コウタ。もう帰ろう。」
「うん。」
「コウタ、あの公園で何してたの?」
「実はね、逆上がりの練習が出来ないかと思ったんだけど、鉄棒がある公園は知り合いがいるから恥ずかしくて。」
「そうかい。コウタは人前で練習するの恥ずかしいのかい?」
「うん。だって人前で失敗すると恥ずかしいし、また鉄棒から落ちたら嫌だもん。」
「あらあら、学校で落ちたのかい?怪我はなかったのかい?」
そう言って心配してくれる祖母はいつもボクを気にかけてくれた。
「大丈夫だよ。でもね、また体育があるんだ。それまでにどうしても逆上がりが出来るようになりたいんだけど‥」
俯くボクの手を握ってくれた祖母は言った。
「そしたらね、土曜日にはおばあちゃんの家に来ない?近くの公園ならお友達がいるかもしれないけど、おばあちゃんの家の近くなら安心でしょ?」
そう言って笑顔で話しかけてくれる祖母に、ボクは大きく頷いた。
そうして土曜日にはおばあちゃんの住む団地の公園で、逆上がりの練習をした。
必死に足を蹴り上げて一回転!
そうやって何度もやるけど、ボクは全然ダメだ。
そのまま一時間経って、二時間経って。
すると見兼ねた祖母がボクの腰を支えて回転するのを補助してくれる。
そうすると、何とか不恰好ながらも一回転出来た。
「うーん。でもこれじゃ全然ダメだよ。みんな一人で逆上がり出来るのに‥。」
赤錆の付いた手を見ながら、悔しさからまた涙がいっぱい溢れそうになるボクを見て祖母は肩に手をやる。
「大丈夫!コウタなら出来るよ!そうだな、手を、胸を鉄棒に引き寄せるのさ。ほら!」
そう言って祖母は華麗に逆上がりして見せた。
「でも何度もやってるけど‥。」
「うーん。そうだな、コウタは鉄棒を引く力がまだ弱いから、順手じゃなくて、逆手でやってみたら?」
祖母はボクの持ち方を変えると、また補助をして一回転させる。
「そうそう!今の感じ!そしたらもう一度、一人でやってみて!」
ボクは半信半疑だった。
手の持ち方を変えただけで出来るのだろうか?
それでも何度もやって出来なかったんだ、
いいや!エイ!
半ば投げやりな気持ちで足を蹴り、鉄棒を腕で胸の近くまで引き寄せる!
すると、不思議と足が空中をクルッと回り、次の瞬間には自分の背丈よりも高い視線がそこにはあった。
「スゴイ!やったね!コウタ!」
後ろから聞こえる声にボクはとても嬉しかった。
逆上がりが出来たこと以上に、祖母が親身に付き合ってくれた結果が、その祖母の気持ちに応えられたことがとても嬉しかったのだ。
「出来た!出来たよ!おばあちゃん!」
祖母が見せてくれた世界は一つ高くなった世界。
一つ回った世界では、難しいことにも意味があったのだと教えてくれた。
そして何よりあなた自身が、人生を通して教えてくれた、人生で大切な事とは、
笑顔の大切さと、諦めない心。
それを知ったボクだから、ボクはボクでいられるんだ。
だからボクはきっと鉄棒を見るたびにあなたを思い出す。
そうやって今度はボクが鉄棒を教える時が来たら、その子にこう言うんだ。
「君なら出来るよ!」
そうして声をかけたその子の背中にボクの姿を重ねる。
クルリと回った君を見て、ボクははっとする。
そして喜ぶ君を強く、強く、抱きしめて、ボクは静かに涙を流す。
悲しみではないよ。
ここに確かに、あなたがいる事を
ボクは知っているから。